元祖バラエティアナウンサーとも称される伝説的アナウンサー・逸見政孝さんの人気絶頂での死が話題です。
この記事では、逸見政孝さんの身長や兄弟、結婚した嫁や息子と娘の2人の子供、残された12億円豪邸やがんの誤診の噂と最期の様子や死因、家族の現在などについてまとめました。
この記事の目次
- 逸見政孝のプロフィール
- 逸見政孝の身長は176cmと言われている
- 逸見政孝の家族① 兄弟の2歳年下の弟・憲治さんはがんで若くして死去
- 逸見政孝の家族② 結婚した嫁はエッセイストの逸見晴恵
- 逸見政孝の家族③ 子供は息子と娘の2人
- 逸見政孝の子供① 息子はタレントの逸見太郎
- 逸見政孝の子供② 娘は元女優の逸見愛
- 逸見政孝は12億円の豪邸を建ててすぐ死去し家族に莫大な借金を残した
- 逸見政孝の死因はスキルス胃がんによるがん性悪液質
- 逸見政孝はがん発見時に誤診があった?
- 逸見政孝の最期の闘病生活の様子も注目された
- 逸見政孝の家族の現在① 豪邸には息子の逸見太郎が住んでいる
- 逸見政孝の家族の現在② 息子・逸見太郎には子供が誕生
- 逸見政孝の家族の現在③ 娘の逸見愛さんは芸能活動をしていない
- まとめ
逸見政孝のプロフィール
逸見政孝のプロフィール
生年月日:1945年02月16日
逸見政孝さんは、元フジテレビの人気アナウンサーで、その後フリーに転身しバラエティ番組の司会者などとして活躍して絶大な人気を獲得し、元祖バラエティアナウンサーとも呼ばれる存在でした。
現在も「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」、「たけし・逸見の平成教育委員会」など、当時の大人気番組での名司会が語り継がれています。
当時国民的人気を誇った、タモリ、ビートたけし、明石家さんまの「お笑いBIG3」を仕切る事ができた唯一無二の存在として当時のバラエティ界の盛り上がりを支えた立役者とも言える人物でしたが、人気絶頂期にスキルス性胃がんに罹患し、1年の闘病の末48歳でこの世を去りました。
今回はそんな伝説的フリーアナウンサーである逸見政孝さんについてまとめていきます。
逸見政孝の身長は176cmと言われている
逸見政孝さんは身長を公称されていませんでしたが、インターネット上では身長は「176cm」だと言われています。
息子の逸見太郎さんの公式プロフィールには、身長は175cm、あるいは174cmと記載されているので、父親の逸見政孝さんの身長もこれに近い可能性が高いので「176cm」という説の信憑性は高そうです。
上の画像は、逸見政孝さんとビートたけしさんが並んでいる画像ですが、ビートたけしさんの身長は「168cm」なので、それより数cm高いように見え、やはり逸見政孝さんの身長は176cmの可能性が高いようです。
逸見政孝の家族① 兄弟の2歳年下の弟・憲治さんはがんで若くして死去
逸見政孝さんの家族についてみていきます。
逸見政孝さんは元々は毛利姓の家族の生まれですが逸見家の養子に入ったという事ですが、元の家族の毛利家に2歳年下の実弟がいました。
この実弟は憲治さんという方で、同志社大学相撲部で全国大会準優勝の経験を持つスポーツマンでした。兄・逸見政孝さんと弟の憲治さんの兄弟仲はとても良かったそうです。
1978年に弟の憲治さんは結婚を決めた時には、兄の逸見政孝さんも我が事のように喜ばれたそうです。しかし、その結婚式のわずか2週間前にこの憲治さんにスキルス性の胃がんが見つかり、それから半年後に結婚式を挙げる事なく32歳という若さで亡くなられています。
逸見政孝さんは最愛の兄弟の早すぎる死にかなり悲しまれ、自叙伝「マジメまして逸見です」の中で「弟のぶんまで精一杯生きることが親孝行」と記されていました。
逸見政孝さんは逸見家に養子に入ったという事なので、兄弟には元の家を継いだ兄がいるはずとも噂されていますが真偽の程は不明です。
逸見政孝の家族② 結婚した嫁はエッセイストの逸見晴恵
逸見政孝の嫁・逸見晴恵のプロフィール
生年月日:1949年6月11日
没年月日:2010年10月21日
出身地 :東京都目黒区
逸見政孝さんは、1970年に、後にエッセイストとして活躍された逸見晴恵さんと結婚されています。
逸見政孝さんの嫁の逸見晴恵さんは結婚後は専業主婦として当時フジテレビの若手アナウンサーだった夫の活躍を支えました。
1988年10月に逸見政孝さんがフジテレビから独立してフリーになると、「オフィスいっつみい」を設立してその取締役社長に就任し、フリーアナとなった逸見政孝さんのマネジメントに力を注がれました。
1993年12月25日に逸見政孝さんが死去した後には、夫の残した豪邸を守るためにエッセイストになり、夫のがん闘病などをもとにした医学エッセイの執筆や、テレビ出演や講演活動など精力的に活動されました。
逸見政孝さんの死後もエネルギッシュに活躍されていた嫁の逸見晴恵さんでしたが、実は夫の死のすぐ後の1994年6月に受けた人間ドックで、初期の子宮がんが見つかっており、その後、血液細胞のがんの一種である骨髄異形成症候群を発症し、10年の闘病生活の末、2010年10月21日に61歳で亡くなられています。
死因は「肺胞蛋白症」と発表されています。
フリーアナウンサーとして活躍した故・逸見政孝さんの妻でエッセイストの逸見晴恵さんが21日、肺胞蛋白症で死去した。61歳だった。
逸見政孝の家族③ 子供は息子と娘の2人
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逸見政孝さんは嫁の逸見晴恵さんとの間に2人の子供を儲けています。
1人目の子供は結婚2年目の1972年12月に誕生した息子の逸見太朗さんです。逸見太郎さんは俳優やタレントとして活躍されています。
2人目の子供は1975年に生まれた娘の逸見愛さんで、留学先のイギリスから帰国後に女優やタレントとしてデビューし、ドラマや舞台に出演した他、スポーツ番組でのリポーターなどでも活躍しました。
逸見政孝さんの2人の子供については次の見出しからそれぞれ紹介します。
逸見政孝の子供① 息子はタレントの逸見太郎
逸見政孝の息子・逸見太郎のプロフィール
生年月日:1972年12月24日
出身地 :東京都
身長 :174cm、175cm(いずれも公式情報)
血液型 :O型
逸見政孝さんの息子の逸見太郎さんは、現在も俳優やタレントとして芸能界で活躍されています。
逸見太郎さんは15歳の時にイギリスに留学し、その後、アメリカ・ボストンのエマーソン大学に入学して卒業されています。
大学卒業後帰国し俳優としてデビューし、1998年に父・逸見政孝さんの親友である北野武(ビートたけし)さんの監督映画「HANA-BI」に永井刑事の役で出演しています。
その後は主にテレビドラマを中心に出演し、1999年に出演した「OUT〜妻たちの犯罪〜」では、妻に殺害されバラバラにされてしまうDV夫の役を熱演し話題になりました。その後はあまり目立った仕事がない時期が続き、俳優としてはあまり売れる事ができませんでした。
しかしその後、2009年にTOKYO MXの夕方帯番組「5時に夢中!」のメインMCに抜擢されたのをきっかけに司会者やバラエティタレントとしてブレイクし、バラエティ番組のリポーターとして多数出演した他、ファミリー劇場の「緊急検証!」の司会者としても活躍されています。
私生活では、一般女性と2013年1月23日に結婚されています。結婚した嫁については「アラフォーの女性」とのみ紹介されています。
逸見政孝の子供② 娘は元女優の逸見愛
逸見政孝の娘・逸見愛のプロフィール
生年月日:1975年3月10日
出身地 :東京都
身長 :167cm
血液型 :O型
逸見政孝の娘の逸見愛さんも兄の逸見太郎さんと同じく15歳の時にイギリスに留学しています。
逸見愛さんはそのままイギリスの大学でダンスや音楽、バレエの歴史、美術などを学び、帰国後に女優としてデビューしています。
女優としては1999年のドラマ「OUT〜妻たちの犯罪〜」で兄と共演している他、いくつかの舞台に出演しています。
また、「ズームイン!!SUPER」のスポーツコーナーやニュース番組でリポーターを務めています。
趣味は絵画で、過去に「第24回世田谷区民絵画展」で銅賞を獲得されています。
逸見政孝は12億円の豪邸を建ててすぐ死去し家族に莫大な借金を残した
逸見政孝さんは1993年12月25日に48歳という若さで亡くなりましたが、亡くなるわずか1年前の1992年11月に、東京世田谷区奥沢に建設費用12億円の、3階建7LDKの大豪邸をローンで建てたばかりでした。
逸見政孝さんが世田谷区奥沢に豪邸を建てたのは、嫁の逸見晴恵さんの出身地がこの場所だったからだったようです。逸見政孝さんは愛する家族に豪邸をプレゼントしようとこの家を購入されたそうです。
まさか、自分がその後すぐにがんで亡くなってしまうとは想像もしていなかったと思われます。
逸見政孝さんが亡くなった後の生命保険やかき集めた預貯金などで一部を返済したものの、それでも家族には約5億円もの借金が残されていたそうです。
周囲からは豪邸を売却して借金を返済すべきとの声も上がったようですが、嫁の逸見晴恵さんは夫が自分達家族を思って建てたこの豪邸を絶対に売ろうとはしなかったのだそうです。
逸見晴恵さんはこの夫が残した大豪邸を守るために、エッセイストとして活動し、逸見政孝さんとの闘病生活など医学系の書籍を何冊も出版、がん闘病をテーマにした講演会も年間100本以上こなし、テレビ番組にも積極的に出演するなど、まさに馬車馬の如く働き、2010年に亡くなるまでに5億円もの借金をほぼ全て返済されたそうです。
逸見晴恵さんは最期の病床で、家族達に「最後は自宅から送り出されたい…家をよろしくね」と伝え続けていたという事でした。
逸見政孝の死因はスキルス胃がんによるがん性悪液質
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逸見政孝さんは1993年12月25日に48歳という若さで亡くなりましたが、その死因はスキルス性胃がんによる「がん性悪液質」だと発表されています。
9月6日がん公表から111日、タレントで司会者の逸見政孝さんが25日午後0時47分、がん性悪液質のため東京・新宿区河田町の東京女子医大病院で死去した。48歳の若さだった。
逸見政孝さんの死因の「がん性悪液質」は、MSDマニュアルプロフェッショナル版で以下のように解説されています。
悪液質は,脂肪組織と骨格筋の両方が消耗する病態である。多くの病態で発生し,多くのがんで病勢制御が不成功に終わった場合によくみられる。一部のがん,特に膵癌および胃癌は,著明な悪液質を引き起こす。
逸見政孝はがん発見時に誤診があった?
逸見政孝さんは、1993年1月に胸に痛みを訴えて、東京都港区の前田外科病院(現在は赤坂見附前田病院)の診察を受け、その時に胃がんの診断を下されています。
この時、担当医は逸見政孝さんに「あくまでも初期の癌なので、手術すればすぐに完治しますよ」と伝えていました。しかし、実際には逸見政孝さんのがんはかなり進行していて深刻な状態でした。そのため、この時の前田外科病院の診断は誤診ではないかと言われてしまったのです。
しかしこれは、当時の担当医が、逸見政孝さんに精神的なショックを与えないように配慮して、真実を告知する事を避けたためで、噂されているように全くの誤診というわけではありませんでした。
すでに厳しい病状だったとされるが、当時本人への告知は一般的ではなく、主治医は治る可能性の高い「早期発見」だと説明していた。
逸見政孝さんはこの診断を信じて早期の回復を見込み、最初の手術の際には世間に向けては自分の病名を穿孔性十二指腸潰瘍だと説明されていました。
そしてその後も、前田外科病院の当時の院長は、病状が悪化していぶかしがる逸見政孝さんに病状の告知を一切しませんでした。逸見政孝さんの周囲の関係者は別の病院での診察を勧めていましたが、逸見政孝さんはそれに応じず、初期がんだと信じたままレビュラー番組を週に5本抱える多忙な日々を送っていました。
ところが、がんの再手術が決まり、逸見政孝さんが前田外科病院の院長に「執刀してくれますか?」と尋ねたところ、院長が「ちょうどその頃、僕は夏休みに入ってるんだよな」と答え、代わりに副院長が執刀する予定だと告げられ、さらに、前田院長から勧められていたアメリカでの民間療法が急遽中止になった事を受けて逸見政孝さんは不信感を抱き、ようやく東京女子医科大学病院でセカンドオピニオンを受ける事を決意しています。
この東京女子医科病院の医師団は逸見政孝さんを診察し「なぜここまで放って置いたのか」と怒られ、厳しい病状である事を本人に伝えています。このように本当の病状を最初の病院が本人に隠した結果治療が遅れたという経緯から、前田外科病院での診察は誤診だとする批判が起こったのでした。
逸見政孝の最期の闘病生活の様子も注目された
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逸見政孝さんは自分のがんが深刻な病状であるという告知を受け、自ら緊急記者会見を開いて自分の本当の病名ががんで、しかも深刻な進行胃癌(スキルス胃癌)である事を世間に公表しました。
会見場の報道陣から「生還してください」とエールが飛ぶと、逸見政孝さんは「闘いにいってきます」、「もう一回、いい形で生還しましたというふうに言えればいいなと思っています」と闘病への意気込みと、復帰への強い意志を語られました。
人気絶頂だった逸見政孝さんのがん公表は世間に衝撃を与え、その闘病生活や最期の様子も注目されました。
逸見政孝さんはその後再手術を受け、一時はリハビリの様子などもテレビで報じられましたが、手術から1ヶ月後に容態が急変しさらに2ヶ月後の1993年12月24日に意識不明の重篤状態になり、翌25日に入院先の病院で亡くなりました。
息子の逸見太朗さんによれば、最期の言葉は、夢の中でクイズの司会の仕事をしていたのか、「三番が正解です」だったそうです。
緊急会見後に全ての仕事を休止して入院。13時間にも及ぶ大手術を受けるも、結果的に根治することはできず、約3か月後の12月25日に48歳という若さで他界した。最期の言葉は朦朧(もうろう)とする意識の中で息子の太郎に言った「三番が正解です」だったといわれている。
逸見政孝さんの最期については、末期がんの状態だったにもかかわらず無理に手術を受けさせる必要があったのかという批判もありました。手術も抗がん剤投与も行わなければ、逸見政孝さんは苦しむ事なく1年以上は長く生存できたのではないかという意見も出ています。
逸見政孝さんが最初に診療を受けていた前田外科医院は誤診の噂もありましたが、2度目の手術の後にはこれ以上の手術は無意味だとして放射線治療を勧めていました。
しかし逸見政孝さんはこれに納得がいかずに、別の病院での3度目の手術を望んだという一部報道もありました。この事も、後に誤診とまで言われた最初の診断の時に正確な病状を逸見政孝さんに伝えていれば、逸見政孝さんはこんなに急激に病状を悪化させて早くに命を失う事にはならなかったのではないかという声もあるようです。
逸見政孝の家族の現在① 豪邸には息子の逸見太郎が住んでいる
逸見政孝さんが多額の借金と共に家族に残した豪邸は、嫁の逸見晴恵さんが借金を全額返済して守られました。
この豪邸は現在は息子の逸見太郎さんが家族と共に住んでいるという事です。
現在、その豪邸には長男の逸見太郎が住んでいる。
ただ、借金はないものの敷地面積140坪の大豪邸という事もあり、どうしても維持費が多額になってしまうという事で、逸見太郎さんは部分的に土地の売却も考えているそうです。
しかし、約140坪という広さだけあり、維持費だけでも大変だという。「広いので節約しても光熱費だけで月に10万円以上。固定資産税は年間で400万円以上かかるようで、建築から25年以上が経過し、今後は大規模な修繕費なども増えてくると思います。太郎さんもフリーとはいえ、現在のレギュラーは地方番組1本だけ。いよいよ維持が難しくなって、等価交換で部分的に土地の売却を本気で考えているようです」
逸見太郎さんのインスタグラムを見ると、豪邸を売却したという話題は出ていないため、2021年9月の現在もこの豪邸に家族で住われているようです。
逸見政孝の家族の現在② 息子・逸見太郎には子供が誕生
逸見政孝さんの残してた豪邸に家族と住んでいる息子・逸見太朗さんには、2019年4月に初めての子供となる息子が誕生しています。
昨日平成最後の昭和の日に我が家に待望の長男が誕生しました。
お陰さまで立ち会うこともでき、何より母子ともに健康です。
山あり谷ありで乗り越えてくれた妻には頭があがりません。
パパ一年生、喜びを噛みしめながら人の親として責任を持ち精進して参りたいと思います。
逸見太郎さんのインスタグラムにはこの子供との写真も多く投稿されていて、家族で幸せに過ごされているようです。逸見太郎さんの息子さんは2021年9月の現在は2歳になっています。
逸見政孝の家族の現在③ 娘の逸見愛さんは芸能活動をしていない
出典:https://cdn.getshifter.co/fpg
逸見政孝さんの娘の逸見愛さんは女優を中心に芸能活動をされていましたが、2012年頃を最後に芸能活動を休止されています。
ネット上では逸見愛さんが芸能活動を自粛中という情報もあるのですが、なぜ自粛しているのかなどの情報はなく真偽不明です。また現在は病気という噂なども出ていますが、これも根拠は示されておらず真偽不明です。
結婚されたといった情報や子供を出産したといった情報も見つからず、現在どのように過ごされているのかも不明です。
まとめ
今回は、元祖バラエティアナウンサーとして伝説的に語られている逸見政孝さんについてまとめてみました。
逸見政孝さんの身長は公称されていませんでしたが「176cm」だったと言われています。
逸見政孝さんの家族は1970年に結婚した嫁の逸見晴恵さんと、息子の逸見太郎さん、娘の逸見愛さんの2人の子供がいます。また、兄弟は2歳年下の弟がいたという事ですが、若くしてがんで亡くなっています。
逸見政孝さんは人気絶頂の1992年に12億円の豪邸を建てましたが、そのわずか1年後にがんを罹患し、1年の闘病生活を経て亡くなりました。最期の言葉は「三番が正解です」だったと言われています。死因はスキルス性胃がんによる「がん性悪液質」と発表されています。
家族には数億円の借金が残されましたが、嫁の晴恵さんがエッセイストや講演会などで働いて全額返済されています。
現在、この豪邸は息子の太朗さんが家族で住んでいるようですが、資産価値の高い豪邸のため維持費用がバカにならず、土地の一部売却も考えられているという事です。