日米でヒールレスラーとして活躍した伝説的プロレスラーのキラー・カーンさんが、2023年12月に76歳で亡くなりました。
この記事ではキラー・カーンさんの若い頃の活躍やその意外な性格、突然の引退理由やアメリカで結婚した現地の嫁や3人の子供、引退後の活動や死去した現在についてまとめました。
この記事の目次
- キラー・カーンのプロフィール
- キラー・カーンの若い頃の活躍① 力士を廃業しプロレスラーに転身
- キラー・カーンの若い頃の活躍② 新日本プロレスで頭角を現す
- キラー・カーンの若い頃の活躍③ 海外進出しモンゴル人レスラーに変身
- キラー・カーンの若い頃の活躍④ アメリカでヒール選手として成功
- キラー・カーンの性格は優しく正直者
- キラー・カーンの引退理由は当時の日本のプロレス界の人間関係の汚さ
- キラー・カーンの結婚した嫁はアメリカ人女性のシンディ・オザワ
- キラー・カーンの子供は娘2人と息子1人
- キラー・カーンの現在① 居酒屋などを経営
- キラー・カーンの現在② 自転車でひき逃げの容疑で書類送検
- キラー・カーンの現在③ 動脈破裂により死去
- まとめ
キラー・カーンのプロフィール
キラー・カーンのプロフィール
本名 :小澤正志
生年月日:1947年3月6日
出身地 :新潟県西蒲原郡吉田町(現在の燕市)
身長 :195cm
体重 :140kg(現役時代の全盛期)
1970年代後半から1980年代にかけてヒールレスラーとして活躍したキラー・カーンさん。現役時代は日本人離れした巨漢のヒールレスラーとして「新日本プロレス」やアメリカの「WWF(現在のWWE)」など日米のプロレス界で活躍し一時代を築きました。
アメリカに進出した日本人レスラーとしては、実績・人気共に歴代ナンバー1とも言われています。
しかし、キラー・カーンさんは、人気実力ともにピークを迎えていた1987年に突然引退し、プロレス界から姿を消しました。
キラー・カーンの若い頃の活躍① 力士を廃業しプロレスラーに転身
続けて、キラー・カーンさんの若い頃のプロレスラーとしての活躍について見ていきます。
キラー・カーンさんは、中学を卒業後、新潟市立白山高校体育科へ進学してバスケットボール部に所属しましたが1年で挫折して中退し、大相撲春日野部屋に入門して力士になりました。
「越錦」という四股名を与えられて幕下40枚目まで番付を上げますが、伸び悩んで1970年で廃業しています。
キラー・カーンさんは、力士廃業後、日本プロレスに入門してプロレスラーに転身しています。
プロレスラーに転身したのは、力士時代に通っていた整形外科で偶然知り合ったプロレスラーの北沢幹之さんに勧められたからだったそうです。
プロレスラーになると決めたキラー・カーンさんは、当時の春日野部屋親方に廃業したいと願い出たものの認められず、夜逃げしてプロレスラーになったそうです。
これは後日談ですが、キラー・カーンさんはプロレスラーとして成功後、春日野部屋親方の奥さんが亡くなった事を聞き、夜逃げして以来初めて春日野部屋に挨拶に訪れたそうなのですが、春日野部屋親方は怒る事なく、プロレスラーとして成功している事を褒め応援してくれたのだそうです。
キラー・カーンの若い頃の活躍② 新日本プロレスで頭角を現す
キラー・カーンさんは、1971年1月に日本プロレスに入門してプロレスラーとなりテスト生を経て同年11月に小沢正志のリングネームでデビュー。
1973年に、日本プロレスから追放されたアントニオ猪木さんが立ち上げた新日本プロレスに移籍しています。
この頃、ジャイアント馬場さんも日本プロレスから離れて全日本プロレスを設立しており、キラー・カーンさんは本心ではこちらについて行きたかったそうなのですが、当時付き人を務めていた坂口征二さんが新日本プロレスに行くことを決めたため、立場上これに付いていかざるを得なかったそうです。
本意の移籍ではなかったとはいえ、キラー・カーンさんは、新日本プロレス移籍後に日本人離れした巨漢選手として頭角を現し、1974年12月のカール・ゴッチ杯争奪リーグ戦では決勝に進出し、同じく若手有望レスラーだった藤波辰巳さんとの激戦を展開。敗れはしたもののプロレスファンの注目を集めました。
キラー・カーンの若い頃の活躍③ 海外進出しモンゴル人レスラーに変身
若い頃のキラー・カーンさんは、海外でも通用する巨漢の選手として期待され、1976年に初の海外遠征でドイツで、ホースト・ホフマンやクリス・テイラーといった当時の有力海外レスラーと対戦しています。
ドイツ遠征をきっかけに海外プロモーターからも注目されるようになったキラー・カーンさんは、1978年には海外武者修行としてメキシコへ渡っています。メキシコでは「テムヒン・エル・モンゴル」のリングネームでモンゴル人レスラーに扮してリングに上がり、日本でも人気の高かったメキシコ人レスラー、ミル・マスカラスの所持していたIWA世界ヘビー級王座にも挑戦しています。
キラー・カーンの若い頃の活躍④ アメリカでヒール選手として成功
1979年3月、かつて日本プロレスのコーチを務めていたカール・ゴッチさんの計らいで、キラー・カーンさんはアメリカへ進出。そのカール・ゴッチさんのアイデアで辮髪(べんぱつ)で髭を蓄え、モンゴル風衣装を身に纏ったモンゴリアンスタイルを確立し、この時初めて「キラー・カーン」のリングネームを名乗っています。
アメリカでは、その巨漢から繰り出される迫力の空中技でヒールレスラーとして人気を博し、フロリダ、ジョージア、タンパ、ルイジアナなどアメリカ各地を転戦し、メインイベントに欠かせぬヒールとしての地位を確立しました。
1981年5月には、当時のアメリカのスターレスラーだったアンドレ・ザ・ジャイアントさんと戦い、トップロープからのフライングニードロップでアンドレ・ザ・ジャイアントさんの足を骨折させた事で、「アンドレ・ザ・ジャイアントの足を折った男」として伝説的ヒールとなります。
以降、キラー・カーンさんとアンドレ・ザ・ジャイアントさんとの試合は因縁の一戦となり、全米各地の会場で満員となる大人気カードとなりました。
その後もキラー・カーンさんはアメリカを中心に活躍しつつ、日本での凱旋試合も戦うなど、日米のプロレスファンからの絶大な人気を集めましたが、1987年11月のジョージ・スティール戦を最後に突然プロレスラーを引退してしまいました。
人気絶頂の中でのキラー・カーンさんの突然の引退表明に、各地のプロモーターや当時のWWF世界王者ハルク・ホーガンさんら人気レスラー達も引退を撤回するように遺留したそうです。
キラー・カーンの性格は優しく正直者
ヒールレスラーとしてリング上では憎まれ役で凶悪なイメージのあるキラー・カーンさんですが、実際の性格はとても優しく、正直者であったようです。
キラー・カーンさんはプロレスラー引退後に飲食店を経営されていたのですが、その店を訪れた客は皆口を揃えてキラー・カーンさんはとても性格が優しいと言っていました。
現役時代もその優しい性格から相手に気を遣いすぎてしまい体重を増やし過ぎることに葛藤されたそうです。自分を応援するファンをとても大切にされた事で知られており、その誠実な性格はファンから愛され続けていました。
また、キラー・カーンさん本人は自分自身の性格を正直者で損をしやすい性格だと言っています。
事実、キラー・カーンさんは間違っていると思う事は、相手がどんな大物であろうと正面から批判していました。逆に恩義や尊敬の念を抱いている人に対しては、包み隠す事なくその気持ちを伝えていたようです。
こうした正直で優しい性格を持っていたキラー・カーンさんだったので、多くの人から愛される反面、あまりに真っ直ぐすぎるその性格のために、汚い事をしてでも利益を得ようとするような一部の人々からは疎まれる事もあったようです。
キラー・カーンの引退理由は当時の日本のプロレス界の人間関係の汚さ
キラー・カーンさんは、1987年に人気絶頂の中突然引退していますが、その引退理由にもまっすぐな性格が関係していたようです。
キラー・カーンさんは、後に引退理由を語っており、それによれば日本のプロレス界の人間関係に嫌気が差し、その世界に身を置いているのが嫌になったというのが大きかったようです。
キラー・カーンさんは、引退理由として特に、当時、長州力さんが新日本プロレスを裏切るような形で辞めてジャパンプロレスを旗揚げしたにも関わらず、その2年後に、新日本プロレスから提示された移籍金に目が眩んで、再び仲間を裏切って新日本プロレスに戻った事などをアメリカで耳にし、「こんな男と同じ職業をしている事が嫌だ」と思い、プロレス引退を決断したと話されていました。
新日を辞めたわずか2年後に、突然、長州は全日を離れ、新日へ戻る。猪木さんや坂口さんをさんざんと否定しておいて、また戻るんだ。長州は当時、ジャパンプロレスの社長だったはずだ。裏切った会社(新日本)に戻るなんて、俺には信じられなかった。
俺が(87年に)プロレスを離れた理由はいくつもあるけど、1つはこんなところだよ。
キラー・カーンの結婚した嫁はアメリカ人女性のシンディ・オザワ
キラー・カーンさんはアメリカで活躍されていた1975年に、現地のアメリカ人女性・シンディさんと知り合い結婚されています。嫁のシンディさんとの出会いはフロリダの酒場だったそうで、隣の席に偶然座ったシンディさんにキラー・カーンさんが一目惚れしたそうです。
キラー・カーンさんは1985年頃に一時日本に拠点を戻して活動していましたが、このときには嫁のシンディさんと子供達と一軒家に住んでいたそうです。しかし、嫁のシンディさんが日本での生活に馴染めずに、キラー・カーンさんを残して子供を連れてアメリカに戻ってしまいます。
その後、キラー・カーンさんは1987年に再びWWFと契約してアメリカに戻っていますが、その年に突然の引退をしてしまいます。
この引退の時に、嫁のシンディさんは「生活はどうするの?」と泣いたそうなのですが、キラー・カーンさんは考えを変えずに、そのまま嫁と子供をアメリカに残して日本に帰ってしまいました。
それから、キラー・カーンさんは嫁のシンディさんと子供達とは会っていないという事でした。
キラー・カーンの子供は娘2人と息子1人
キラー・カーンさんは、嫁のシンディさんとの間に娘2人と息子1人の3人の子供を儲けています。
娘さん2人の名前はヨシコさんとユキエさん。息子さんの名前はデイビット・マサトさんとの事。
この子供3人とも、キラー・カーンさんは長い間会っていなかったそうです。
2020年1月に受けたインタビューでは2020年5月に初孫が生まれる事も明かしており、子供達との交流自体は続いていたようです。
アメリカに残した妻子とも36年間会っていないという。今年5月には初孫ができるそうで「この曲でヒットを出して孫に会いに行きたい」と夢を語った。本気か、冗談か。優しい笑顔が印象に残った。
キラー・カーンの現在① 居酒屋などを経営
キラー・カーンさんはプロレスラーを引退後は、新宿で「スナック カンちゃん」や「ちゃんこ居酒屋 カンちゃん」など飲食店を何店舗も経営されていました。
2016年には「居酒屋カンちゃん」をオープンさせましたが、新型コロナの影響から経営難となり2021年に同店は閉店となっています。
ただ、キラー・カーンさんは「この町が嫌いになった」などと語っており、閉店理由はコロナだけではなかったようです。
店の前で若い人らが勝手に地べたに座って動かない。揚げ句、ウチの店のトイレだけ使いに入ってくるとか、店外でもゴミをポイ捨て。なんなんだ、この町は。とことんこの土地がいやになった。若い人らはそんなに悪くはない。この町の持つ雰囲気なんですかね。
「居酒屋カンちゃん」閉店後は生活が困窮し、知人に「家賃が払えない。ホームレスになるしかない。」と訴えたこともあったそうです。
しかし、キラー・カーンさんは2023年3月に西新宿に新たな店舗である「カンちゃんの人情酒場」を開店させ、心機一転、再スタートを切りました。
キラー・カーンの現在② 自転車でひき逃げの容疑で書類送検
2020年12月9日に、キラー・カーンさんは自転車で走行中に20代の女性に接触して約1ヶ月の怪我を負わせ、そのまま逃亡したとして道路交通法違反(ひき逃げ)と重過失傷害の容疑で警視庁に書類送検されました。
自転車で歩行者に接触してけがを負わせ、そのまま逃げたとして、警視庁新宿署は9日、東京都新宿区大久保、居酒屋経営小沢正志容疑者(73)を道路交通法違反(ひき逃げ)と重過失傷害容疑で東京地検に書類送検した。小沢容疑者は「キラー・カーン」のリングネームで活躍した元プロレスラー。
キラー・カーンさんはひき逃げの意識はなく、相手が金を取ろうとして事件にしただけでむしろ自分が被害者だと主張しています。
しかし一方では、自分の不注意から相手の女性に怪我を負わせて申し訳なかったとも謝罪しており、かなり混乱されている様子でした。
この事故報道があった後、ファンが心配して「居酒屋カンちゃん」を訪れたそうですが、キラー・カーンさんは元気な様子だったという事でした。
良かった、全然お元気でした
— Jumbobrody (@takatakasuplex) December 9, 2020
お店の宣伝になった!
と、超ポジティブ‼️
確かに満席
御馳走様でした、また来ますね#居酒屋カンちゃん#明日から即ダイエット pic.twitter.com/iB5bVyJ9VK
ただ、キラー・カーンさんは「一時はどうなってもいいや、もう死んでもいいやという気持ちになった」と事故後は相当落ち込んでいたことを明かしています。
事故から約半年が経った2021年6月にキラー・カーンさんは不起訴処分となり、「涙が出るくらい嬉しかった」と語っていました。
キラー・カーンの現在③ 動脈破裂により死去
出典:https://chiba.keizai.biz/
キラー・カーンさんは2022年3月にS状結腸がんを患っていることを公表。しかし、翌月に手術を行い、前述の通り2023年3月には「カンちゃんの人情酒場」をオープンさせました。
その後も「カンちゃんの人情酒場」で元気な姿を見せていたというキラー・カーンさんですが、2023年12月29日に動脈破裂で亡くなられました。
関係者によると、キラー・カーンさんは12月29日夜に営業中の「カンちゃんの人情酒場」で倒れ、救急搬送されたと言います。
そのまま意識は戻らず午後10時過ぎに息を引き取ったとの事です。76歳でした。
関係者によると29日の午後9時過ぎに東京・西新宿で経営する「カンちゃんの人情酒場」の接客中に容態が急変し救急搬送されたが、意識が戻らず午後10時4分に亡くなった。死因は「動脈破裂」。最近では「首が痛い。寒い」などと口にしていたという。
亡くなる当日はいつもより出勤時間が遅く、疲労感や首の痛みを訴えていたというキラー・カーンさんですが、営業前にはXに自身の画像と共にメッセージを投稿していました。
今年の #カンちゃんの人情酒場 もあと2日!今年最後の #柚子 追加しました。大人気生柚子サワーが飲めるのもあとわずかです。
— キラーカンの店 カンちゃんの人情酒場 (@khan_ninjo) December 29, 2023
17:00オープン!お待ちしております。
#キラーカン #キラーカーン #居酒屋 #西新宿 pic.twitter.com/N1fDhcacT6
2024年1月4日には家族葬が営まれ、アメリカから来日した長女が喪主を務めたとの事です。
キラーカーンさんの訃報には、ファンや関係者から多くの追悼コメントが寄せられました。
キラーカーンさんのご冥福をお祈りします。色々あったと思いますがお疲れ様でした。天国で馬場さんと越後タッグを組んで下さい。 pic.twitter.com/qqgbnnsC2d
— nobu3016 (@nobu3016) December 30, 2023
【追悼セレモニー】
— 全日本プロレス/alljapan (@alljapan_pw) December 31, 2023
会場ではキラー・カーンさんへの追悼セレモニーを行いました。#ajpw #大晦日代々木決戦 pic.twitter.com/DwY87UWUBW
まとめ
今回は、1970年代から1980年代にかけて日米のプロレス界で活躍したキラー・カーンさんについてまとめてみました。
キラー・カーンさんは元大相撲力士の経歴を持ち、日本人離れした巨体を武器にアメリカでもヒールレスラーとして活躍し大成功を収めました。
しかし、そのまっすぐすぎる性格から、日本のプロレス界に嫌気が差し、人気絶頂だった1987年に突然引退してしまいました。
引退後は、経営者としての手腕を発揮していましたが、2020年に自転車での事故を起こしたり、2021年には経営する居酒屋が閉店、2022年にはS状結腸がんにより手術を受けたりと憂き目にもあっていました。
困難を乗り越え2023年3月に新たなお店をオープンさせましたが、同年12月にそのお店で動脈破裂により倒れ、救急搬送されるも息を引き取りました。キラーカーンさんのご冥福をお祈り申し上げます。