長年第一線で活躍する実力派歌手・加藤登紀子さんの若い頃と現在が話題です。
この記事では加藤登紀子さんの現在の年齢や若い頃の経歴、夫の藤本敏夫さんとの獄中結婚の経緯、歌手として活躍する次女のYaeさんら3人の子供(娘)達、現在の活動などについてまとめました。
この記事の目次
加藤登紀子の現在の年齢などのプロフィール
加藤登紀子のプロフィール
生年月日:1943年12月27日
出身地 :旧満洲国ハルビン市
身長 :155cm
血液型 :O型
加藤登紀子さんは1960年代から長年活躍を続けているシンガーソングライターで、1970年にリリースしたシングル「知床旅情」の記録的な大ヒットや、ニューヨーク・カーネギーホールで、日本人女性として初めてコンサートを開催した事などで知られています。
1992年、スタジオジブリの大ヒット映画「紅の豚」では、主題歌とヒロイン役の声優を担当した事も話題を呼びました。
加藤登紀子さんの現在の年齢は「77歳」です。
加藤登紀子の若い頃① 戦争中に旧満洲国ハルビンで誕生
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加藤登紀子さんは太平洋戦争真っ只中の1943年12月に、当時日本が建国し統治していた旧満洲国のハルビン市に、兄と姉がいる3人兄妹の末っ子として生まれました。父親は南満州鉄道に勤務していた幸四郎さん、母親は京都の呉服商の娘の淑子さんでした。
加藤登紀子さんは、日本の敗戦後の引き揚げ事業で1946年に母の実家である京都府に戻りました。当時の年齢は3歳でした。
その後、加藤登紀子さんは中学1年生の夏まで京都府で過ごしましたが、帰国後に日本マーキュリーレコードに勤めていた父の幸四郎さんの仕事の関係で東京都世田谷区へと移住し、世田谷区立桜木中学校に転入しています。
父の幸四郎さんは、東京に移住後、加藤登紀子さんが中学2年生だった頃に、東京新橋にロシア料理店「スンガリー」を開店されています。父の幸四郎さんは自由人で、稼いだお金を飲み代などに使ってしまい、家族はずいぶん苦労されたようです。加藤登紀子さんは当時を振り返って、父の幸四郎さんが次々と色々なことを始めてしまい「家族を露頭に迷わせる」と冗談まじりに話されていました。
加藤登紀子さんが歌を始めたのもこの父親・幸四郎さんの影響でした。満洲時代にイタリアのバリトン歌手から指導を受けるほど歌好きだったという幸四郎さんは、帰国後に京都で歌謡学院を主宰し、加藤登紀子さんも小学生時代からそこで歌を学んだそうです。
加藤登紀子の若い頃② 高校時代に「60年安保闘争」に参加
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加藤登紀子さんは世田谷区立桜木中学校を卒業後、都内の公立校の中でも進学校として知られる、東京都立駒場高等学校へと進学しています。加藤登紀子さんはかなり学力優秀で、駒場高校の入学試験での成績はトップだったのだそうです。
高校では放送部に所属し、2年生からは部長を務めています。1年後輩の放送部員には当時新人女優として注目されていた吉永小百合さんがいて、加藤登紀子さんは放送部長として吉永小百合さんにもアナウンス指導をされたそうです。
加藤登紀子さんは高校の2年生だった1960年には、当時盛り上がっていた、日米安保条約に反対する運動「安保闘争」の学生運動にも参加しています。
60年安保は大学だけでなく、高校でも盛り上がりました。6月のゼネストの前日。私は放送部員に『デモに行こう』と呼び掛け、局長の佐藤さんら4人で初めてデモに参加した。
この安保闘争で、当時東大4年生の活動家の樺美智子さんが国会に突入しようとして機動隊と揉み合いになり圧死したニュースを見た加藤登紀子さんは、「樺さんの後を継ぐためにも東大に入ろう」と思うようになり、高校3年生の秋頃から受験勉強を始めて、見事、東大文学部に合格されています。
加藤登紀子の若い頃③ 東大在学中にデビューしレコード大賞新人賞に輝く
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東大文学部西洋史学科へと進学した加藤登紀子さんですが、当時はまだ女子学生が少なく、クラス50人中、女子は7人だけだったそうです。
当時は学生運動の只中でしたが、加藤登紀子さんは学生生活を謳歌されていたようで、クラスの男子が他の大学の女子大生と合コンをしたと聞くとクラスの他の女子学生と一緒に「次にやるときは私たちを誘いなさい」と猛抗議したというエピソードを語られています。
その後、男子と合コンをやることになったものの、他の女子に裏切られて実際に参加したのは加藤登紀子さんただ1人だけだったそうで、「あの時は怖かったなぁ」と苦笑まじりに話されていました。
その他、加藤登紀子さんは大学生時代には演劇活動にも夢中になっていたそうです。
そして、大学3年生だった1964年に、加藤登紀子さんは音楽好きの父・幸四郎さんが勝手に応募したアマチュアのシャンソンコンクールに出場する事になります。この年は結局、シャンソン界の大御所フランスのピアフの楽曲を選曲した事を審査員にダメ出しされてしまい4位になりますが、その翌1965年には作戦を変え、当時流行していたフレンチポップスを歌って見事優勝を果たします。
加藤登紀子さんはこのコンクール優勝をきっかけにプロの歌手としてデビューする事なり、1966年にデビューシングル「誰も誰も知らない」を発表。現役女子東大生の歌手デビューとして、当時は大きな話題になりました。
加藤登紀子さんは2枚目のシングル「赤い風船」で、第8回日本レコード大賞新人賞を受賞するなど、すぐに大人気歌手となりますが、歌手活動が多忙になった事で大学に通う時間を取れなくなって単位が取得できずに、結局大学を卒業できたのはプロデビューから2年後の1968年の事でした。
加藤登紀子の夫は獄中結婚した政治活動家・藤本敏夫
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加藤登紀子さんの結婚していた夫は、東京大学在学中に学生運動に関わった時に知り合った活動家の藤本敏夫さんです。
加藤登紀子の夫・藤本敏夫のプロフィール
生年月日:1944年1月23日
没年月日:2002年7月31日
出身地 :兵庫県西宮市甲子園
実は、加藤登紀子さんとこの夫・藤本敏夫さんの結婚はいわゆる「獄中結婚」でした。加藤登紀子さんと夫・藤本敏夫さんの獄中結婚の経緯についても見ていきます。
まず、高校時代には安保闘争にも参加した加藤登紀子さんでしたが、東大に入ってから学生運動とは距離を置いていました。
その後、大学在学中に人気歌手となった加藤登紀子さんは、1968年にようやく大学卒業にこぎつけるのですが、スター歌手であった加藤登紀子さんの卒業式に注目が集まり、マスコミからは「卒業式には振袖で行くんですか?」といった質問もされたそうです。
しかし、学生運動が盛り上がる中で、ちょうどその年の3月の東大の卒業式を阻止するという動きが出て、加藤登紀子さんはその動きに呼応する形で、ジーンズ姿で安田講堂の前に座り込むという行動に参加しています。
加藤登紀子さんが学生運動に参加した事は大きく報じられますが、当時、同志社大学の学生で学生運動の指導的立場にいた藤本敏夫さんがそれを見て、加藤登紀子さんに「学生運動の集まりに来て歌ってくれないか?」と共通の知人を通じて声をかけたのが2人の馴れ初めになりました。
この時、加藤登紀子さんは「歌と政治を絡めたくない」と断っていますが、これをきっかけにして2人は恋愛関係に発展。
当時、警察は学生運動への取り締まりを強めており、指導的立場にあった藤本敏夫さんもマークされていて、加藤登紀子さんと出会ったその年にも、何度も拘置所に入れられていました。
加藤登紀子さんとの交際も、拘置所からシャバに出てくるタイミングで会っては、また拘置所に戻るという関係性だったようです。
そうした中でも2人は関係を深めますが、藤本敏夫さんは1972年4月に公務執行妨害と凶器準備集合罪などで懲役3年8ヶ月の実刑判決を受けて、刑務所に入る事になります。加藤登紀子さんは、藤本敏夫さんに、刑務所に入る前に結婚しようとプロポーズしたという事ですが、藤本敏夫さんは「これから3年も(懲役で)不在にする男がとてもそんな事(結婚)をお願いできない」といって断っています。
しかし、藤本敏夫さんが刑務所に収監された後に、加藤登紀子さんの妊娠が判明。加藤登紀子さんは改めて「結婚したい」との決意の手紙を獄中の藤本敏夫さんに送り、2人は「獄中結婚」する事になりました。
加藤登紀子さんの周囲はこの獄中結婚に猛反対したそうですが、母親の淑子さんと、当時の所属事務所の社長だった石井好子さんだけは応援してくれたそうです。
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加藤登紀子さんの夫の藤本敏夫さんは出所後、環境問題に取り組み、有機農業の普及活動に力を注ぐようになり、1981年に千葉県鴨川に自然生態農場「鴨川自然王国」を設立。その後、環境政党「希望」を立ち上げて1992年の参議院選挙に出馬するなどしています。(惜しくも落選)
1999年には、農林水産省関東農政局の諮問委員に就任するなど、環境問題に力を注いだ藤本敏夫さんでしたが、2002年に肝臓がんで58歳という若さで他界されています。
最愛の夫の死に、加藤登紀子さんは強いショックを受け、しばらくの間は歌を歌えなかったそうです。
しばらく歌えなかった。ラブソングも全部、永訣(えいけつ)の歌になってしまいそうでね。彼との思い出がまとわりついてくるんですよ。3年たって、彼への思いをアルバムに託して出したときにやっと立ち直れたかな。「運命の人」だからしようがないわね。
加藤登紀子と夫・藤本敏夫との間の子供は娘が3人
加藤登紀子さんは、夫の藤本敏夫さんとの間に3人の子供を儲けています。
加藤登紀子さんと夫の藤本敏夫さんとの子供は3人とも娘さんです。
加藤登紀子の娘(長女)の畑中美亜子さん
加藤登紀子さんの長女の美亜子さんは、父・藤本敏夫さんが刑務所にいた1972年12月7日の生まれで、現在は結婚されて2人の娘を育てながら、千葉県鴨川市でカフェ「草so」を営まれています。
次女は1975年12月14日生まれの八恵さんで、「Yae」の名義でプロの歌手として活動されています。Yaeさんについては次の見出しで紹介します。
三女は1980年4月12日生まれの美穂さんで、結婚されていて子供もおり、家族で沖縄に住まわれているようです。
加藤登紀子の娘(次女)の八恵さんは「Yae」としてプロ歌手として活躍
加藤登紀子の娘で歌手のYaeのプロフィール
本名 :藤本八恵
生年月日:1975年12月14日
出身地 :東京都
血液型 :O型
加藤登紀子さんの次女の八恵さんは、「Yae」名義で歌手として活動されています。
1995年に音楽劇「コルチャック先生」に女優として参加して芸能活動をはじめ、1999年にシンガーソングライターとしての活動を本格的に開始。
2001年にリリースした初シングル「風のみち」は、テレビ朝日のドキュメンタリー番組「素敵な宇宙船地球号」のエンディングテーマに起用されました。
代表曲「名も知らぬ花のように」は、東日本大震災の応援メッセージCM「ハッピーバースデイ3.11」のCMソングや、2015年のドラマ「レッドクロス~女たちの赤紙」の挿入歌として起用されています。
また、2018年からは加藤登紀子さんがプロデュースする「未来への詩(うた)」というコンサートプロジェクトもスタートさせています。
結婚されていて3人の子供の母親でもあります。
加藤登紀子の現在① 今も歌手として絶大な人気
加藤登紀子さんは現在も歌手として第一線で活動中で、全国でコンサートを開催されており、2021年12月の誕生日で年齢「78歳」とはとても信じられないようなパワフルな歌声が健在です。
最近では、歌手としても定評がある女優の渡辺えりさんとのコラボレーションも話題になっています。
加藤登紀子の現在② YouTubeチャンネルも話題に
加藤登紀子さんは、2020年4月にYouTubeチャンネルも開設されていて、現在も積極的に動画を公開されています。
加藤登紀子さんの楽曲やライブ映像だけにとどまらず、貴重なプライベートの生活を紹介する動画なども公開されており、話題になっています。
まとめ
今回は、「知床旅情」などの大ヒット曲で知られる歌手の加藤登紀子さんについてまとめてみました。
若い頃から高い歌唱力を持っていた加藤登紀子さんは、東大在学中に歌手としてデビューし話題を集めました。
夫の藤本敏夫さんとは、学生運動をきっかけに知り合って、周囲の反対を押し切って獄中結婚しました。子供は娘が3人で、次女の八恵さんはYaeの名義でプロの歌手として活躍中です。
加藤登紀子さんは2021年12月の誕生日で年齢78歳を迎えますが、現在も第一線で歌手活動を続けていてその歌声は健在です。