日本史上最高のストライカーとして、多くの人の記憶に残る伝説のサッカー選手・釜本邦茂さん。
今回は釜本邦茂さんのプロフィールや経歴、その凄さがわかるエピソードや引退試合動画、嫁や息子の有無、死去した現在までをまとめました。
この記事の目次
釜本邦茂のプロフィール
釜本邦茂
生年月日:1944年4月14日
出身:京都府京都市
身長:179cm
所属:元ヤンマーディーゼル
活動:元サッカー選手
釜本邦茂さんは、元日本代表も務めた伝説的なサッカー選手です。ポジションはFWで、右利きでした。
1968年に開催されたメキシコオリンピックでは7得点を挙げ、日本を銅メダルに導き、得点王にも輝いています。
右足からのキックは正確性が高く、特に右45度からのシュートは正確無比であり、世界からも絶賛されるほどでした。
ここで、釜本邦茂の個人成績を見ておきましょう。
・日本リーグ通算:251試合出場、202得点、79アシスト
・日本リーグ得点王:7階
・日本リーグ優勝:3回
・天皇杯優勝:2回
・国際Aマッチ:76試合出場、75得点(総通算231試合153得点)
・メキシコオリンピック:銅メダル獲得
・メキシコオリンピック:得点王獲得
・日本スポーツ大賞:1回(サッカー界で初受賞)
・日本年間最優秀選手賞:7回
・日本サッカー殿堂:2005年
この日本リーグ通算202得点というのは、日本歴代1位の記録です。
釜本邦茂さんが活躍していた時から40年以上経った今でも、その記録は破られていません。
釜本邦茂の経歴
釜本邦茂さんの経歴を簡単に見ていきましょう。
学生時代

京都府京都市出身の釜本邦茂さんは、小学校からサッカーを始めます。中学生の頃からメキメキと頭角を現し、高校生の時には国体で優勝を果たしました。
その時の目覚ましい活躍によって、釜本邦茂さんは大学生以上を対象とした講習会に特別参加することができました。
この講習会で日本サッカーの父と呼ばれ、サッカー日本代表や日本サッカーリーグの創設にも尽力したFIFAコーチのデットマール・クラマーに出会うことになります。
高校生の頃から日本代表ユースにも選ばれ、早稲田大学進学後は日本代表ユースの主将になり、天皇杯優勝を果たします。関東リーグでは4年連続得点王にも輝きました。
ヤンマーディーゼル時代

早稲田大学卒業後の1967年には、ヤンマーディーゼル(現在のセレッソ大阪)に入社します。
大学時代は4年連続の得点王に輝き、日本代表ユースでも活躍した釜本邦茂さんの注目度は非常に高く、ヤンマーディーゼルだけでなく、三菱重工からも熱心な勧誘を受けていました。
ヤンマーディーゼルでも目覚ましい活躍を見せていましたが、入社3年後の1970年、ウイルス性肝炎を患って入院生活を送る羽目になり、さらに完治までに3年間もかかりました。
完治後は第二の最盛期を迎え、1974年・1975年の日本リーグ連覇と1975年の天皇杯制覇に貢献し、1978年からは選手兼監督を務めるようになります。
日本代表

出典:jiji.com
高校時代から日本代表ユースに選ばれていた釜本邦茂さんは、大学2年の19歳の時に日本代表に選出され、20歳の時に1964年に東京オリンピックに出場しました。
当時は日本代表エースというわけではなく、名コンビと言われた杉山隆一さんが目立っていましたが、徐々にストライカーとしての才能を開花させ、日本代表エースとして活躍します。
そして、1968年にはFIFAコーチのクラマーに薦められて、西ドイツに3ヶ月間の短期留学した釜本邦茂さん。
1.FCザールブリュッケンで公式戦にも出場するなど、高いレベルでプレーし、世界レベルのトレーニングを経験することで、一気にトップストライカーに成長しました。
この留学経験を糧に、1968年のメキシコオリンピックでは地元メキシコを破って銅メダルに輝き、釜本邦茂さんは7得点を挙げて得点王に輝きました。
引退後

釜本邦茂さんが引退したのは1984年のことです。
自宅で椅子から立ち上がる時にテーブルに体をぶつけたことで、「止まっているものもよけられないなら、選手はおしまいだな」と考え、引退することを選択しました。
引退後はユース世代の育成に関わり、その後はJリーグ創世期にガンバ大阪の監督を務めました。
監督を辞任した後は、1995年に参議院議員選挙に出馬し、見事当選。
労働政務次官などを務めますが、2001年に選挙で落選後は政界を引退し、日本サッカー協会の副会長に就任するなど、日本サッカー協会の中で活躍していました。
釜本邦茂の凄さがわかるエピソード
釜本邦茂さんは何が凄いのか?それがよく分からない人のために、ここでは釜本邦茂さんの凄さがわかるエピソードをまとめました。
フィジカルエリート

出典:jp.quora.com
釜本邦茂さんはフィジカルエリートです。公称の身長は179cmとなっていましたが、実際の身長は181cmだったそうです。
180cm以上だと、当時は「大きい=鈍くさい」と思われるために、わざと逆サバを読んだのだとか。
当時の日本男性で身長181cm、体重79kgというのは、かなり体が大きいです。しかも、かなり筋肉が発達していて、大きな欧米人にも当たり負けしない体を持っていました。
世界的なストライカーの体格と比べてみましょう。
・ペレ:171cm、73kg
・エウゼビオ:175cm、75kg
・デニス・ロー:175cm、71kg
・ミュラー:175cm、77kg
・リーバ:180cm、78kg
・クライフ:176cm、67kg
世界的なストライカーと比べて、まったく引けを取っていません。
フィジカルトレーニングが現代のようには行われていない中で、これだけの体を作っていたのは本当にすごいですよね。
世界選抜に召集される

釜本邦茂さんの凄さを語る上で欠かせないのが、世界選抜への招集だと思います。メキシコオリンピック直後の1968年と1980年に、釜本邦茂は世界選抜チームに召集されました。
1968年は招集されたものの、チームメイトと一緒に日本へ帰国したので試合には出場しませんでしたが、1980年は世界選抜チームとしてプレーしています。
当時の日本はまだワールドカップに出場できていない時期です。その当時、世界選抜に召集されるということが、釜本邦茂さんがいかに突出したストライカーだったかを物語っています。
釜本邦茂は右足だけではない!

釜本邦茂さんと言えば、右足の強烈で正確なキックが特徴でしたが、釜本さんの武器は右足だけではありません。ヘディングも美しいですし、左足のシュートも正確だったんです。
釜本邦茂さん本人は、「5割は右足。左足が3割で、頭が2割」と自らのシュートを評していました。
つまり、釜本邦茂さんは右足だけでなく、どこからでもシュートを決めることができるストライカーだったんです。
ディフェンダーにとってはとても厄介な存在であり、驚異的なストライカーだったと言えるでしょう。
釜本邦茂の凄さがわかる動画
釜本邦茂さんはその強靭な肉体を持ちながら、タッチが柔らかく、シュートまでが流れるような美しさを持っていると評判でした。
この動画を見ると、釜本邦茂さんの凄さがわかると思います。やっぱり、釜本邦茂さんは突出したストライカーであり、日本史上最高のストライカーだったのです。
世界各国からオファーが相次ぐ

当時の日本人選手は、今のように海外でプレーするのが当たり前という状態ではありませんでした。
ワールドカップにも出場したことがありませんし、世界的に見てもサッカー後進国であったことは間違いありません。
そのような状態でありながら、釜本邦茂さんには外国からのオファーが相次いだんです。
メキシコオリンピックで得点王に輝いた後は、西ドイツ・フランス・メキシコ・エクアドルなどからオファーが届きました。
この当時の日本で、これほどオファーがあった選手は釜本邦茂さん以外にいないでしょう。今の日本人選手でさえ、世界各国のクラブからオファーがある人はごく少数のみだと思います。
トップ選手から語られる

出典:sankei.com
当時の日本はサッカー後進国です。でも、釜本邦茂さんは別格でした。
世界的なサッカー選手が釜本邦茂さんを知っていて、釜本邦茂さんのプレーを見て、「アマチュアの大会(当時)に、1人だけ欧州トッププロの選手が混じってるようだった」と述べているほどです。
これを聞くだけで、釜本邦茂さんの凄さがわかると思います。
釜本邦茂の引退試合も凄さが話題に 【動画あり】
釜本邦茂さんは1984年に引退しました。1984年8月25日に、釜本邦茂さんの引退試合が開かれましたが、この引退試合がまた凄かったんです。
釜本邦茂さんの引退試合は、所属していたヤンマーディーゼル VS 日本サッカーリーグ選抜で国立競技場で行われましたが、観衆はなんと6万人の超満員!
当時のサッカー人気を考えると、6万人が国立競技場に入るというのは、本当にすごいと思います。
しかも、引退試合にはペレとヴォルフガング・オヴェラートがゲストプレーヤーとして出場しました。

出典:jiji.com

出典:ameblo.jp
世界的なレジェンド選手の2人が、釜本邦茂さんの引退試合に駆け付ける…これは本当にすごいです。引退する時に、レジェンド選手が駆け付ける日本人選手が他にいるでしょうか。
引退試合で釜本邦茂さんはゴールを決め、6万人の「釜本コール」に送られながら、引退をしました。
釜本邦茂の嫁や子供について~息子はいる?

釜本邦茂さんは結婚し、嫁と子供がいました。
奥様は修子さんといい、子供に関する情報は少ないのですが、少なくとも息子が一人いるようです。息子は達生さんという名前だそうです。
釜本邦茂さんには梓さんと望さんという孫もおり、釜本さんは孫たちの成長をとても楽しみにしていたといいます。
釜本邦茂さんの家族はあまり表に出てくることはありません。
ただ、1998年に日本道路公団の関連会社で、高速道路用プリペイドカード「ハイウェイカード」販売に関する特別背任事件が発覚しました。
その時に、この特別背任事件に釜本邦茂さんの奥様が経営する会社が関与していたことが明らかになっています。
釜本邦茂の現在~2025年に肺炎のため死去

出典:asahi.com
釜本邦茂さんは2005年に日本のサッカー殿堂入りを果たし、2010年にはJFAの顧問になっています。
そして、2014年には旭日中綬章を受章しました。
サッカーニュースにコメントを出したり講演を行ったり、コラムの執筆、少年サッカー教室での指導といった活動も行っていました。
咽頭がんを患い闘病生活を送る
釜本邦茂さんは、70歳を迎えた2014年に喉頭がんであることが発覚しました。
孫に「声がおかしい」と言われ病院で検査を受けたところがんが発覚したとのことで、その後は仕事を続けながら治療を行っていたようです。
ただ、晩年は筋肉が衰えて車いすを使用するようになり、公の場に姿を見せることは減っていました。釜本邦茂さん本人も「人と会うのはおっくうや」と語っていたようです。
肺炎のため81歳で死去
2025年8月10日、釜本邦茂さんが肺炎のため大阪府内の病院で亡くなりました。81歳でした。
報道によると、釜本邦茂さんは2023年9月ごろに誤嚥性肺炎によって緊急入院し、2024年秋に手術を受けて一時体調が回復したものの、その後も療養生活を続けていたといいます。
2025年6月中旬に容体が悪化し以降は呼吸器をつけながらの生活が続き、8月10日に息を引き取ったということです。
日本サッカー界のスターである“世界の釜本”の訃報はサッカーファンに大きな衝撃を与え、各方面から多くの追悼コメントが寄せられました。
通夜では長男の達生さんが喪主を務め、喪主あいさつでは、「大会後に帰ってきて、家でお酒を飲みながら『教えた子供たちがたくさんいた。本当に良かった』と、今まで見たことのないような笑顔で喜んでいました」と釜本邦茂さんが代表チームの団長を務めた2006年W杯ドイツ大会のエピソードを涙ながらに紹介していたといいます。
葬儀・告別式には、日本サッカー協会の会長や親交の深かった歌手で俳優の松平健さんら約170人が参列し、釜本邦茂さんに最後の別れを告げたということです。
まとめ
釜本邦茂さんのプロフィールや経歴、凄さがわかるエピソード、引退試合、嫁や息子の有無、死去した現在までをまとめましたが、いかがでしたか?
・メキシコオリンピックで銅メダルを獲得し、得点王に輝く
・引退試合にはペレが来るほどのレジェンド的な選手
・嫁と息子がいる
・2025年に肺炎のため81歳で死去
日本サッカーはこれからも発展していくと思いますが、釜本邦茂さんを超える逸材はなかなか現れないかもしれませんね。釜本邦茂さんのご冥福をお祈りいたします。



















