2022年8月に亡くなった実業家の稲盛和夫さんですが、財界だけでなく政界にも多大な影響力を持ち、自宅や資産も桁違いだと話題です。
今回は稲盛和夫さんの家系図や経歴、結婚した嫁や子供など家族、自宅や資産、激やせや病気、死因をまとめました。
この記事の目次
- 稲盛和夫はKDDIの創業者
- 稲盛和夫の家系図
- 稲盛和夫の経歴① 少年時代はガキ大将だった
- 稲盛和夫の経歴② 戦時中は病気で療養していた時期も
- 稲盛和夫の経歴③ 家計を助けるために、中学卒業後は就職の予定だった
- 稲盛和夫の経歴④ 放蕩ぶりを母親に叱られて改心・天才的な商才を発揮
- 稲盛和夫の経歴⑤ 大学時代は実家のためにアルバイトに励む
- 稲盛和夫の経歴⑥ 就活にも苦労していた
- 稲盛和夫の経歴⑦ 「アメーバ経営」を用いて京セラを一代で大企業に
- 稲盛和夫の経歴⑧ 小沢一郎のパトロンとして政界にも影響力を発揮
- 稲盛和夫の名言集
- 稲盛和夫はサッカーとの関係が深い実業家
- 稲盛和夫の家族:結婚した嫁は韓国系だった
- 稲盛和夫の家族:子供は娘が3人
- 稲盛和夫の家族:孫はいる?
- 稲盛和夫の資産・自宅情報
- 稲盛和夫は実は質素で倹約家
- 稲盛和夫は病気で激やせ?
- 稲盛和夫の死因は老衰
- 稲盛和夫のまとめ
稲盛和夫はKDDIの創業者
稲盛和夫(いなもり かずお)
生年月日:1932年1月21日
出身地:鹿児島県鹿児島市
稲盛和夫さんは、日本を代表する実業家であり、京セラや第二電電(現:KDDI)を創業しました。
また、当時2兆3000億円の有利子負債を背負っていたJALの経営を立て直したことなどでも有名です。
かっぱが尊敬している人の一人
— かっぱりん@とにかく熱いカッパ🔥 (@tuppariiiin_ism) September 24, 2020
稲盛和夫
京セラやKDDIを創業
倒産したJALの再建まで成し遂げた名経営者
彼はこう言っている
「人は何のために生きるのか」
せっかくこの世に生を受けたのですから、(中略)わずかでもいいから、世のため人のために尽くす生き方が人間として大変大事なのではないか。
今回は、そんな稲盛和夫さんのこれまでの経歴や家族情報、資産情報の他、闘病歴について紹介します。
稲盛和夫の家系図
戦後を代表する実業家の稲盛和夫さんですが、実家の稲盛家は、特に由緒ある家系ではないようです。
稲盛家のルーツは、鹿児島県鹿児島市小山田町で、稲盛さんの祖父・七郎さんの代までは、現地で農家をしていました。
しかし、農業だけで食べて行くことが困難だったため、七郎さんの代で鹿児島市西田町に移住し、行商人に転身。
行商人になっても家計は楽ではなかったようで、稲盛和夫さんの父・畩市さんは、尋常小学校を卒業後、市内の印刷屋に丁稚奉公に出ています。
ちなみに、生真面目で働き者だった畩市さんは、名刺印刷の内職などをしながら資金を貯めて独立し、「稲盛調進堂」を開業しています。
稲盛和夫の経歴① 少年時代はガキ大将だった
幼少期は気が弱かった
稲盛和夫さんが生まれた頃の稲盛家は、父親が事業に成功したこともあり、鹿児島市薬師町にある島津屋敷の一角を買い取って暮らしていました。
当時の薬師町は旧士族の住民が多く、稲盛家のような新参者に対しては壁があったと言われています。
そんな稲盛家の次男(7人兄弟の第2子)として生まれた稲盛和夫さんは、幼少期は気がとても弱く、一度泣き始めたら3時間は泣き止まないような手のかかるタイプの子供でした。
そのため、小学校に1人で登校することを嫌がり、学校に行かないと駄々をこねたことから、入学から1週間は母親が付き添って通学していたといいます。
しかし、稲盛和夫さんのコミュニケーション能力は高く、学校に通ううちに友達がたくさんできて、不登校児にはならなかったようです。
また、勉強は非常に得意で、オール甲の秀才だったため、母親が頭の良さを親戚中に自慢するなど、将来を有望視されていました。
ガキ大将になり、トラブルを起こしたことも
幼少期は気弱な子供だった稲盛和夫さんですが、小学2年生、3年生と進級するたびに、自然と子分のような取り巻きが増えていき、気が付くとガキ大将になっていたそう。
そして、小学校時代は喧嘩をしたり同級生とトラブルを起こしたりと、問題児な一面もあり、母親が学校に呼び出されたこともありました。
稲盛和夫さんが腕白な少年に成長した理由として、ご本人が分析したところによると、終戦時まで習慣として残っていた郷中教育が影響していたのではないか、と述懐しています。
郷中教育は、今から400年以上前に確立され薩摩藩独特の青少年教育のことです。郷中の「郷」とは方限(ほうぎり)とも呼ばれ、薩摩藩の地域を小単位に分けたいわば町内会のようなもので、郷に住む6歳以上の男子が郷中教育の対象となりました。
引用:郷中教育とは
ちなみに、学舎と呼ばれる施設で稲盛和夫さんが受けた郷中教育では、日本の歴史や中国の古典などの他、示現流のレッスンなども含まれていたそうです。
稲盛和夫の経歴② 戦時中は病気で療養していた時期も
ガキ大将として育った稲盛和夫さんですが、1944年頃になると状況が一変し、結核の初期症状である肺浸潤にかかっています。
稲盛和夫さんが肺浸潤にかかった原因は、満州で警察官をしていた叔父が一時帰国をした際に、シラミをうつされて感染したのでは?と言われています。
当時の結核は死の病だったうえに、親戚筋でも結核で死んだ人間が多かったことから、稲盛和夫さんも死の恐怖におびえながら療養生活を送ったそうです。
幸いにも、肺浸潤の症状は重くはならず、旧制中学に進学後は容態が回復した結果、元の腕白少年に戻ることができたとか。
受験に失敗していた
小学校時代の稲盛和夫さんは、1944年に鹿児島第一中学校の受験に失敗して尋常高等小学校へ進学するなど、大きな挫折を経験。
稲盛和夫さんが肺浸潤を患ったのは、受験失敗後の話だったそうで、翌年は療養生活をしながら鹿児島第一中学校への受験に再挑戦しますが、またしても不合格に。
稲盛和夫さんが受験に失敗した理由は、ガキ大将として暴れ過ぎたせいで内申点が悪かったからと言われています。
ただ、1945年はその他にも鹿児島中学校を受験し、こちらは合格していたため、旧制中学校に進学することができました。
実家が全焼する悲劇も味わった
戦中世代となる稲盛和夫さんは、戦禍にも巻き込まれています。
戦時中は、稲盛家が住む薬師町も空襲を受けたそうで、父親の実家のある小山田町へ疎開することになりました。
空襲による鹿児島市内の被害はかなり大きく、稲盛和夫さんの母校である市立西田小学校の校舎も焼け落ちてしまったそうです。
また、薬師町にある稲盛和夫さんの実家も全焼してしまったため、父・畩市さんは、仕事道具である印刷機まで失ったといいます。
稲盛和夫の経歴③ 家計を助けるために、中学卒業後は就職の予定だった
終戦直後の稲盛家は、空襲で家財一式や仕事道具を失っただけではなく、ハイパーインフレからの新円封鎖のせいで、銀行預金まで紙切れ同然となってしまったといいます。
そのため、稲盛和夫さんの父親・畩市さんも働く気力を失ってしまい、終戦からしばらくの間は無職の時期もありました。
また、着物や自家製の塩と引き換えに闇市で米を購入するなど、食料調達にも四苦八苦。
この頃の稲盛家は、闇市での食料調達のためにサツマイモの焼酎を密造までしていたそうです。
旧制中学を卒業後は就職する予定だった
戦前はそれなりに裕福だった稲盛家でしたが、空襲ですべてを失ってしまった後は、焼け落ちた実家を再建する資金力もなく、疎開先の小山田町で引き続き暮らしていたそうです。
また、実家の経済事情を熟知していた稲盛和夫さんも、旧制中学卒業後は就職する予定でした。
しかし、旧制中学3年時に学制改革の影響で現在の6・3・3制が導入され、同級生のほとんどが新制高校へ進学することになったため、稲盛和夫さんの心境にも変化が生じます。
そのため、高校卒業後の就職を条件に両親を説得し、鹿児島高校第三部へ進学することになりました。
稲盛和夫の経歴④ 放蕩ぶりを母親に叱られて改心・天才的な商才を発揮
高校進学後の稲盛和夫さんですが、「卒業後は、地元の鹿児島銀行にでも就職するつもりだった」といいます。
そんな決心もあったため、入学当初はモラトリアム期間を謳歌しようと考え、放課後は友達と一緒に草野球をする日々が続きました。
しかしながら、米の行商人をして一家を支えていた母親から「苦労して学校に行かせたのに遊び惚けている」と怒られたことをきっかけに改心。
その後は少しでも家計を助けるために、放課後は紙袋の行商人を開始します。
稲盛和夫さんが紙袋の行商人を始めたのは、戦前に父親が紙袋製造の副業をしていたためでした。自分が販路を開拓するからと、父親に紙袋製造を再開させていたのです。
ちなみに、戦前の稲盛家には自動製袋機があったそうですが、空襲で喪失してしまったため、事業再開直後は、近所のおばさんたちが手作業で糊付けをして紙袋を作っていました。
高校生にして天才的な商才を発揮していた
放課後に紙袋の行商人をすることになった稲盛和夫さんですが、商店に飛び込み営業をしてお得意先を開拓していきました。
また、当時鹿児島市内に複数存在していた闇市にも目を付け、顔役と顔見知りになることで、自家製の紙袋を取り扱ってもらうことに成功します。
稲盛和夫さんの敏腕営業マンぶりは、鹿児島市内の事業者の間でも話題になっていたそうで、お菓子問屋から直々に注文が来るように。
その結果、高校2年生の時には鹿児島市内の紙袋市場を独占するまで事業が急拡大したとか。
ちなみに、高校を卒業後は就職するつもりだった稲盛和夫さんですが、担任に説得された結果、当時国鉄職員をしていた兄に事業を譲り渡し、大学進学を目指します。
稲盛和夫の経歴⑤ 大学時代は実家のためにアルバイトに励む
大学受験に失敗
大学進学を決めた稲盛和夫さんですが、闘病経験の影響から薬学部を目指していました。
また、稲盛和夫さんの進学を承諾した父親からは、「目指すなら旧帝国大学を目指せ!」とハッパをかけられ、大阪大学医学部薬学科を第一志望に設定します。
しかし、本格的に受験勉強を始めたのが高校3年生だったこともあり、その年の大学受験は失敗。
浪人を許す家庭事情でもなかったため、鹿児島県立大学(現:鹿児島大学)の工学部応用化学科に進学し、有機化学を専攻しました。
大学時代は人並みの青春を謳歌
実家が紙袋製造で再起したとは言え、薄利多売の商売で、下に5人の弟妹がいたこともあり、稲盛家は相変わらず経済的な余裕はありませんでした。
そのため、大学時代の稲盛和夫さんは色々なアルバイトを掛け持ちし、生活費や学費を稼いでいました。
また、服を買うお金がなく、冬場もジャンパーや下駄で過ごしていた他、参考書代を節約するために、大学の図書館に入り浸って勉強していたようです。
そんな苦学生だった稲盛和夫さんも人並みに恋愛をしたようで、デパートで夜警のアルバイトをしていた頃に女子店員に一目ぼれし、デートに誘ったこともあったそうです。
稲盛和夫の経歴⑥ 就活にも苦労していた
大学卒業後、石油化学関連の企業への就職を希望していた稲盛和夫さんでしたが、1950年代中盤当時は、朝鮮戦争特需が終わり、日本全体が不景気に喘いでいた就職氷河期でした。
そのため、1949年に新設されたばかりで、企業とのコネクションも薄かった鹿児島県立大学出身の稲盛和夫さんの就活は、門前払いのような扱いだったといいます。
それでも、京都府長岡京市にある碍子(がいし)メーカーの松風工業に就職できました。
稲盛和夫の経歴⑦ 「アメーバ経営」を用いて京セラを一代で大企業に
松風工業に就職した稲盛和夫さんですが、業績が不調だったこともあり、1959年4月、知人からの出資を得て、京都セラミック株式会社(現:京セラ)を設立します。
一代でグローバル企業を作り上げた稲盛和夫さんだけに、独自の経営方式「アメーバ経営」がすごいと話題です。
企業の人員を6~7人の小集団(アメーバ)に組織する。アメーバごとに「時間当たり採算=(売り上げ-経費)÷労働時間」を算出し、時間当たり採算の最大化を図る。時間当たり採算の目標値を月次、年次で策定。労働時間短縮や売り上げ増加策を実行に移して目標達成を目指す。
引用:アメーバ経営
アメーバ経営は、計数管理能力を備えた人材の育成に適している他、社員の当事者意識を引き出しやすいメリットがあります。
また、採算評価指標がはっきりしているため、アメーバ間の競争意識を高める効果もあるとか。
一見すると合理主義の塊に見えますが、少年時代の郷中教育の影響で、郷土の英雄・西郷隆盛さんを尊敬していた稲盛和夫さんは、徳治主義思想も兼ね備えていました。
そのため、古き良き時代の伝統である「飲み二ケーション」も重視していたそうです。
また、JALの再建プロジェクトでは、勉強会の後にコンパを行うことで、幹部社員の心を掴むことに成功していたと言われています。
稲盛さんの講義の後には、コンパが始まる。そこでは、講義内容に関する質疑は3分の1ぐらい。残り時間は、缶ビールを片手にしてのよもやま話。最初こそぎくしゃくしていたものの、回を重ねるごとに雰囲気は良くなった。稲盛さんは自分の意見を率直に述べる幹部を評価した。なぜなら、そこに真のやり取りが生まれるからだ。
稲盛和夫の経歴⑧ 小沢一郎のパトロンとして政界にも影響力を発揮
大物財界人である稲盛和夫さんは、日本にも政権交代可能な成熟した民主主義が必要だと考え、政界とのつながりも重視していました。
「ベンチャー企業の創業者で、挑戦する立場に理解があった。京都の経営者だから東京の財界に対する対抗心もあったと思う。だから既存の自民党ではない政治勢力、政権交代可能な2大政党制の必要性を強く感じていたのではないか」
そのため、1990年代中盤頃より政治家の小沢一郎さんのパトロンとして暗躍していた時代もあったと言われています。
そして2003年に、自由党と旧民主党が合併する「民主党」誕生に一役買い、2009年の政権交代の立役者とも言われています。
ただし、その後に起きた民主党の内部分裂の際には「こういうことのために支援してきたのではなかった」と落胆し、以降は政界と距離を置くようになっていきました。
稲盛和夫の名言集
出典:https://diamond.jp/
伝説的経営者だった稲盛和夫さんは、数々の名言も残しています。
経営者としての哲学よりも、人としての生き方を説いた言葉が多く、すべての人に通ずるところがあります。
稲盛和夫さんの名言
— なおひこ@名言オタクの中小企業診断士⭐️愛知県東三河⭐️税理士法人経営支援部⭐️サラリーマン起業 (@naohikoshindan) September 26, 2022
「成功する人と、そうでない人の差は紙一重だ。違いは粘り強さと忍耐力だ。失敗する人は壁に当たったとき体裁のいい口実を見つけて努力をやめてしまう。」
口実を見つけるのが上手くなってきた今日この頃ですが、診断士受験してた時はこんな自分も粘り強くやってたんですよ😅
【稲盛和夫の名言】
— TETSU@BUYMA集客アドバイザー (@mbviento1) September 28, 2022
もし毎日を無駄に過ごしていれば、
いずれは耐え難いほど退屈してしまうでしょう。
働くことには、給料をもらう以上の何かがあるのです。
【稲盛和夫の名言】
— TETSU@BUYMA集客アドバイザー (@mbviento1) September 28, 2022
人生というのは魂の修行の場ではないかと考えている。
苦難は魂を純化、深化させるために与えられている試練であり、
成功もその人間がどこまで謙虚でいられるかを試すものでしかない。
稲盛和夫はサッカーとの関係が深い実業家
Jリーグ・京都サンガF.C.のオーナー企業は、稲盛和夫さんが創業した京セラであり、稲盛和夫さん自身もサッカーとの関わりが深い財界人としても有名です。
野球少年だった稲盛和夫さんがサッカーと関わったきっかけは、京セラ本社のある京都市民たちからの陳情からでした。
経済界トップを走る重鎮が、90年代に出会ったのがJリーグだった。京都にJクラブを求める約25万人の署名活動を受け、94年に稲盛さんが会長となり、運営会社が発足。これが京都というクラブ誕生の第1歩になった。メインスポンサーとなる京セラを中心に、任天堂やワコールなど地元の大手企業が集まった。
京都サンガは、1996年にはJリーグ記録の17連敗を喫したり、J2に度々降格したりなど、決して強豪とは言えない時代も長くありました。
しかし、「経営でもサッカーでも勝ちたい」との信念を持っていた稲盛和夫さんは、最後まで京都サンガへの愛情は薄れず、練習試合の見学にも訪れていたようです。
稲盛和夫の家族:結婚した嫁は韓国系だった
1958年に須永朝子さんと結婚
稲盛和夫さんは1958年、松風工業の同僚だった須永朝子さんと結婚しています。
松風工業時代の稲盛和夫さんは研究職で、会社に寝泊まりすることも当たり前だったそうです。
そんな稲盛和夫さんの机に、毎日こっそり手作り弁当を届けてくれたのが朝子さんでした。
そして、お弁当の届け主が朝子さんだと気が付いた時に、その奥ゆかしさにすっかり恋に落ちてしまったといいます。昔の恋愛ドラマのような展開ですよね。
ちなみに、朝子さんは結婚後も内助の功を発揮し、稲盛和夫さんの実業家人生を支え続けました。
〈妻は知り合ってから今までグチひとつこぼしたことがない。京セラ創業のころ、食べるもの、着るものも満足に買えなかったが、不満一つ言わなかった。それ以来、帰宅するのはいつも遅いのだが、必ず寝ずに待っていてくれた〉
嫁・須永朝子さんは韓国に縁のある人物
まさに大和撫子の鑑のような奥ゆかしさがある須永朝子さんですが、実は韓国にルーツのある人物だったようです。
父方の祖父であるウ・ボムソンさんは朝鮮王朝に仕える軍人で、1895年に李氏朝鮮で発生した乙未事変により日本へ亡命してきたといいます。
その後、日本人女性の酒井ナカさんと結婚し、朝子さんの父・長春さんが誕生。
しかし、祖父ボムソンさんは乙未事変の報復に遭い、長春さんが6歳の時に殺害されてしまったようです。
長春さんは、そんな不幸を乗り越えて東京帝国大学農学部に進学し、農業学者になっています。
そして、後に朝鮮人亡命者を支援していた須永家の養子に入り、日本人女性と結婚。朝子さんが生まれることになりました。
そのため、須永朝子さんは韓国クォーターということになります。
稲盛和夫の家族:子供は娘が3人
稲盛和夫さん・朝子さん夫妻の間には3人の子供が生まれていますが、全員娘さんで、息子さんはいません。
〇長女・しのぶ
〇次女・千春
〇三女・瑞穂
長女・しのぶさんはすでに結婚し、金澤姓になっているものの、現在は稲盛財団の理事長をしています。
公益財団法人稲盛財団は、稲盛和夫(京セラ創業者)が私財を投じて設立した公益財団法人。国際賞「京都賞」や研究助成、大学への寄付活動(京都大学、大阪大学、オックスフォード大学等)で知られる。
引用:稲盛財団
また、三女の瑞穂さんも稲盛財団の役員となっていますが、稲盛姓のままなため、婿養子をもらって稲盛家を継いだのではないかと言われています。
稲盛和夫の家族:孫はいる?
稲盛和夫さんの孫については、一般人のためか、特に公開されていないようです。
ただし、稲盛和夫さんは過去に「孫のご機嫌取りのために、一緒に寿司を食いに行った」というエピソードを披露したことがあります。
そのため、孫がいることは間違いありません。
稲盛和夫の資産・自宅情報
自宅は京都の豪邸&年収は10億円以上とも
稲盛和夫さんの自宅は、京都府京都市伏見区にあります。敷地面積など詳細は不明ですが、とんでもない豪邸です。
また、「フォーブス」が作成している日本長者番付の常連で、2017年には、資産総額840億円で49位にランクイン。
その他に、前述の稲盛財団(基本財産1056億円)を保有していますから、稲盛家の資産は単純計算しても2000億円近いと思われます。
そんな稲盛和夫さんは京せラ株を1021万株保有しており、配当金だけで18億円以上の年収を得ていたようです。
寄付もすごい
薩摩の英雄・西郷隆盛は、鹿児島に帰郷後、私費で私学校を作り、後進の育成に努めたことは有名です。
そのため、西郷隆盛を敬愛していた稲盛和夫さんも篤志家として知られており、2015年には、鹿児島県と鹿児島市に10億円ずつ寄付しています。
また、稲盛和夫さんの故郷への寄付はこれだけにとどまらず、2017年には、母校の鹿児島大学に京セラ株を100万株ほど寄付しました。
2022年9月現在の時価でいうと、約75億円相当の寄付になりますが、株ですから毎年1億数千万円もの配当金が入るという持続型寄付と言えます。
鹿児島大学は、2020年度の科研費の配分額が9億3000万円程度ですから、稲盛和夫さんからの半永久的な寄付により、本来の予算より一段上の研究を行えていることは確かでしょう。
稲盛和夫は実は質素で倹約家
大富豪である稲盛和夫さんですが、戦後の食糧難時代を経験しているせいか、食生活は質素倹約家で、さらに大のファストフード好きだったそうです。
マクドナルドなどの洋風ファストフードも好きなようですが、一番のお気に入りは吉野家の牛丼でした。
特に、有楽町店の常連となっており、VIPとの会談でも利用していたんだとか。
稲盛和夫は病気で激やせ?
65歳で胃がんに
若い頃に肺浸潤に苦しんだ稲盛和夫さんですが、1997年頃の65歳の時に、健康診断で進行性の胃がんが発覚しています。
症状はかなり重かったものの、胃の3分の2を削除する手術を受けた結果、見事回復されています。
激やせはがんの再発?
胃がんを乗り越えた稲盛和夫さんですが、約20年後の2019年頃になると、今度は激やせで話題になりました。
がん経験者が激やせとなると、再発が疑われる事案ですので、多くの人が心配しました。
しかし、その時は特に病気ではなく、加齢で体重が減り、頬がこけただけだったようです。
稲盛和夫の死因は老衰
戦後の日本経済界の生き字引的存在であった稲盛和夫さんですが、2022年8月24日に亡くなっています。死因は老衰でした。
享年90歳と大往生とも言える稲盛さんですが、あまりに偉大すぎる人物の訃報に対して、ネット上でも惜別の言葉が多数送られていました。
46ニューノーマルの名無しさん2022/08/30(火) 14:53:15.55ID:h0eXo27v0
稲盛さんも教祖みたいな所があったからな
まぁ稲盛信者によってブックオフが生まれたからな
77ニューノーマルの名無しさん2022/08/30(火) 14:56:10.03ID:pvteKc+P0
この人のほうが国葬にふさわしい153ニューノーマルの名無しさん2022/08/30(火) 15:04:47.36ID:GfzHgHFH0
新卒の時、「考え方」ていう本がかなりささりました
お陰で愚直に仕事頑張れたよ
お疲れ様でした
稲盛和夫のまとめ
稲盛和夫さんは、京セラやKDDIを創業した実業家であり、JALの経営を立て直したり、稲盛財団を設立したりするなど、自社にとどまらない活動で日本に貢献した人物でした。
稲盛さんのご冥福を祈りながら、この記事のまとめを終了させていただきます。