芸人の間寛平さんは、1978年に元吉本新喜劇団員の女性と結婚しています。
ここでは間寛平さんと結婚した奥さん・子供たちの情報、そして2010年に発覚した前立腺がんとその後の現在についてまとめています。
間寛平さんのプロフィール
芸名:間寛平(はざまかんぺい)
本名:間 重美 (はざま しげみ)
出身地:高知県宿毛市
生年月日:1949年7月20日
身長:164cm
学歴:私立柏原高等学校卒業
所属事務所:よしもとクリエイティブ・エージェンシー
間寛平さんは、「アヘアヘアヘアヘ…」や「かい〜の」のギャグが有名な芸人です。1970年に吉本興業に所属するようになり吉本新喜劇で人気を獲得。芸人としてだけではなく俳優や歌手などとしても活躍し、近年ではマラソンにおける活動も有名です。
借金問題:超お人よしで「歩くハンコ屋」というあだ名まで。
知り合いの連帯保証人になってしまったり、アメマバッジの失敗により6000万円の借金を背負ったことも…。
マラソン
趣味のマラソンでは、これまでに24時間テレビのマラソン(200km)やギリシャの「スパルタマラソン」(246km)などを完走するほどの実力を持ちます。
2008年〜2011年にかけては、アースマラソンにもチャレンジし完走。
そんな間寛平さんがそもそもマラソンを始めた理由は、心臓疾患の治療のためだったそうですが、それを始めた途端、アスリート並の心臓の強さになったといいます。
間寛平さんの結婚した嫁とは?
間寛平さんと妻・光代さん。
間寛平さんは、1978年に吉本新喜劇団員であった光代さんと結婚しています。
出会いはテレビ共演でしたが、やがて会社のすすめもあり結婚。
光代さんとの出会いは、テレビ番組「あっちこっち丁稚」で共演したこと。当時、奥さんの光代さんは、吉本新喜劇座員で、まだ17歳。「夜は危ないから…」と、稽古終わりに車で送っていったことがきっかけとなり、親しくなった。
妹のように、可愛がっていたのが、3~4年経ったら会社から「もう、結婚せえ」と、言われるままに結婚。「僕、こんな男だから、ちゃんとせなあかん」と、会社が結婚の日取りも全部してくれたそうだ。
また奥さんは大の萩本欽一さんのファンだったそうですが、当時キンちゃんが結婚してしまって傷心気味だったところを間寛平さんが慰めて交際に発展したという馴れ初めもあるそうです。
ただそんな奥さんは、その後の間寛平さんにとって「恩人」だといいます。
以前、大きな借金を背負ってしまった間寛平さんでしたが、奥さんは見限ったりせずに自ら金融業者に赴き、金額交渉してくれたそうです。
どん底にあった彼だが、助けてくれた2人の恩人を紹介している。1人は自身の妻。間が作ってしまった借金の負担を減らすため0歳の娘を連れて金融業者へ行き、わざと娘を泣かせて業者の同情を買って利子をまけてもらっていたという。
(※二人目の恩人は明石家さんまさんで、いろいろと仕事のきっかけを作ってくれた)
現在でも仲が良さそうですが、その円満の秘密は間寛平さんが”トレーニングをすること”だそうす!
「50代の時は10kmを37分ぐらいで走れたけど、最近は頑張っても1時間はかかる。年を取るとスピードが出なくなるね。それに、ちょっとサボったらすぐ鈍ってしまう。自分との闘いがなくなった時に、人は弱っていくんやなァと思うようになりました。トレーニングは夫婦円満の秘訣でもあるんですわ。定年して家にずっとおったら楽やとは思うけど、嫁はんと喧嘩ばっかりやろうね。加齢臭が臭いとか、俺だっていわれてるんやから。それやったら外に出て走ったり、公園の鯉に餌あげたりしてたほうが落ち着くし、気持ちええ。知り合いも増えるし、いいことづくめやで(笑い)」
いわゆる「亭主元気で留守がいい」という感じですね。
間寛平さんの子供は娘・息子が一人ずつ!
娘(第一子)
間寛平さんお第一子にあたるのは、娘さん。一般人のため、年齢・画像などの詳細は確認できませんでしたが、すでに結婚し子供が3人いるそうです。弟の間慎太郎さんが1981年生まれで、間寛平さんが結婚したのが1978年ですので、普通に考えると2017年現在37〜39歳程度と考えることができますね。
そんな娘さんですが、彼女がまだ幼い頃に間寛平さんが借金地獄に悩み思いつめていた際、ふと我に帰らせてくれた大切な存在でした。
26歳のころ、先輩芸人の借金530万円の保証人になった。ところが半年後に先輩芸人が蒸発。しかも借金は消費者金融からのもので毎月、利子だけで37万1000円にも及んだ。そんな時、新たな魔の手が。知人から「困ってるんならお金貸したろか」と誘われ、新たに借りた500万円の半分、250万円を持ち逃げされた。その後もその蒸発した知人に「子供が病気で今すぐお金がいるねん」と泣きつかれると、信じてしまう人の良さでいろんな誘いの“カモ”になり、とうとうその額は1億円に膨れ上がった。
途方に暮れる日々。悪いことは重なって交通事故を起こし、徳島まで謝罪に行った帰りのフェリーだった。「娘と海に飛び込んで死んでしまおうかなと、最低の親父でした」。追い詰められていた。そんな時、手をつないでいた幼い娘にギュッと握り返された。そのぬくもりにハッとし「逃げてどうするんだと、気持ちを奮い立たせた」
弟の間慎太郎さん曰く、面白い姉ちゃんとのこと。
久しぶりに姉と電話した。笑い過ぎて涙出るわ。面白い姉ちゃんやで〜。
— 間慎太郎 (@hazamashintaro) 2011年11月14日
また娘さんの子供(間寛平さんの孫にあたる)とは、2017年3月に行われた「第5回記念 淀川 寛平マラソン2017」に一緒に出場しています。
自身はファミリー3キロの部に孫の美佑ちゃん(8)と出場。自慢の孫は号砲の瞬間、他の健脚小学生に負けじとスタートダッシュを見せ、寛平を慌てさせた。
「『ゆっくり行け』って言うてんのに他につられて。心配やから追いかけて、3キロやのにクッタクタになったわ」。汗を滝のように流し、肩で息をしながら話した。
「走るより泳いだ方が楽。おじいちゃん、すごい」と話す美佑ちゃんは鉄人DNAを引き継ぐスイマーの卵。平日は4キロ、土曜は5キロを泳ぎ、日々鍛錬している。昨年も出場しており、寛平も「めっちゃ体力ついてますわ」。家族の成長を実感できるのがファミリーマラソンの魅力だ。
息子(第二子)
名前:間慎太郎(はざましんたろう)
出身地:兵庫県宝塚市
生年月日:1981年3月27日
出身高校:兵庫県立宝塚高等学校
最終学歴:東海大学卒業
所属事務所:よしもとアール・アンド・シー
職業:シンガーソングライター、俳優、タレント
超ソックリだけどイケメン?
シンガーソングライターとして活動する間慎太郎さん。2008年〜2011年にかけてアースマラソンをし日本に久々に帰ってきた父親への「いつかのボール」という歌を作ったことも。
(以下は、なぜ「いつかのボール」を書いたかについて語っているYouTube動画です。)
間寛平さんに発覚した前立腺がん
前立腺がんを患いながらも、アースマラソン完走!
アースマラソンは2008年12月に大阪のなんばグランド花月からスタートし、2011年1月に大阪城音楽堂でゴー。
期間中はさまざまな国々を走り続けた間寛平さんですが、2010年1月に訪れていたトルコで前立腺がんが発覚しています。
当時発表されたコメントによると、実はその前の春ぐらいからPSA(前立腺から分泌されるタンパク質)値が高い=前立腺にまつわる疾患の疑いということで定期的に検査を行っていたようですが、2009年12月の検査で思わしくない傾向が見られ再検査という流れになりました。
そして2010年1月に前立腺がんが発覚。
やはりがんというとマラソンなどの過酷に体を動かすものは大丈夫なのか心配になりますが、医者からOKが出てアースマラソンは続行されることに。
このままアースマラソンを続けれんのか、それともこの病気は治るのか、ひょっとしたら死ぬんかなぁとかいっぱい思いました。不安で寝られへん時もいっぱいありました。でも、精密検査したあとトルコの先生、アメリカの先生、日本の先生、いろいろ話合ってもらって、そして結果が出て、「寛平ちゃん、良かったな!まだ幸運や!注射をし、そして薬を飲みながら治しながら走れるで!」ということを聞きました。
もう、その時はめちゃめちゃ嬉しかったです。
ほんまに、ほんまに、ものすごく嬉しかったです。
この病気と、走るということは全く別もんや、ということを先生に聞きました。
以降ホルモン療法を選択してアースマラソンを続けました。
しかし2010年4月には放射線治療を行うためにアースマラソンを中断し、アメリカ・サンフランシスコに渡りました。そこでは悪性度の高いがんであったことも公表されています。
主治医のカリフォルニア大サンフランシスコ校の篠原克人教授は、寛平のガンの程度を「1から5までの悪性度のうち4にあたる。悪性度の高いガンで、治療をする時期だ」と語った。記者会見でもこんなやりとりが交わされた。
寛平「悪いんですか?」
教授「比較的悪い方です」
寛平「えー!」
教授「でも5じゃない」
医師も本人も笑顔だ。会場にも笑い声……。
すでに患部には純金の粒が埋め込まれていて、これに放射線を照射するのだという。寛平が「ちょっと痛かったけど、14金です」というと、医師が「24金です」と訂正。
上記のような書き方から間寛平さんのがんは「ステージ4」とするものもありますが、前立腺がんにおける病期分類法は少し複雑で、がんの大きさや進展度等、いろいろな要素でもって仕分けする方法があるようです。
(詳細:前立腺癌 病期・リスク分類・病理組織学的分類 Wikipedia)
また進行がゆっくりであるとも言われます。
前立腺がんは早期に発見すれば手術や放射線治療で治癒することが可能です。また、比較的進行がゆっくりであることが多いため、かなり進行した場合でも適切に対処すれば、通常の生活を長く続けることができます。
話を戻すと、間寛平さんは2010年6月に放射線治療を終えてアースマラソンを再開としました。
のちに間寛平さんが語ったところによると、副作用は辛かったといいますが、経過は順調そうで術後すぐにビール・トレーニングを再開していたそうです。
その最中、マラソン仲間から「サンフランシスコに名医がいる」と教えられ、間氏はトルクメニスタンでマラソンを一時中断。すぐにサンフランシスコに飛んで1か月半にわたる放射線治療を受けた。
「副作用の吐き気と腹痛は苦しかったけど、術後4日目にはビールを飲んでた(笑い)。トレーニングも5日後に再開。自分では病気やと思ってないから、医師の指導も聞く耳持たずで退院の10日後にはトルクメニスタンに戻りました」
間寛平さんの現在の体調は?
間寛平さんは2013年の出演イベントで語ったところによると、再発はなく問題はなし。
2010年1月に前立腺がんが発覚し現在も治療を続けている間は、先日から体調不良だったと明かすも、「きのう病院に行ったけれど、問題なかった」と、再発していないことを報告した。さらに、「がんになったら5年まで気をつけないといけないと言われている。あと2年は続けるけれど、自分が前向きな気持でやっているから、体も前向きになってきている」と順調ぶりをアピールした。
2017年現在ではすでに5年以上経っていますし、がんの再発といった大きなニュースもありませんので、経過は良好なのではないでしょうか。そして、その元気ぶりを物語るような最近の活躍もあります。
・2016年10月には、8年ぶりのフルマラソン完走。
間寛平 大阪マラソンで8年ぶりのフル完走「ギャグやりすぎて…」
・2017年5月には、ツイキャスでのイベント企画中に木登りしたところ、そこから落下し肋骨を9本おるなどの大怪我……ご自身のTwitterでは「猿も木から落ちた!」と報告。
皆さん、すいません。
— kanpei (@kanpeitter) 2017年5月1日
昨日の木のぼりツイキャスの際、木から転落しケガをしてしまいました。
その影響で、お仕事も少しの期間お休みさせて頂きます。
関係者の皆様、ファンの皆様、ご迷惑、ご心配をおかけし申し訳ございません。
猿も木から落ちた!
皆さん、木登りには十分気を付けて下さいね
2017年2月のインタビューでは、「がんになる前より元気」と話しています。
「僕ががんと上手く向き合えたのは、自分のことを病人やと認めなかったからかもしれませんね。最初は回復したことが奇跡と思って感謝してたけど、もうその感情を忘れてる(笑い)。今はがんになる前より元気なくらい。仕事がない日は、朝起きてゴルフの練習に行き、1時間走った後にビール。ゴロゴロ寝ながら夕方に起きて、散歩から帰ってきたらまたビールといった日々ですわ」
現在もアクティブに体を動かし続ける間寛平さん。がんの予後は良好そうですので、今後も頑張って欲しいですね。