2015年に突然の病死をして世間を驚かせた俳優の阿藤快さんですが、死後にバツ2であったことが発覚するなど、ゴシップ方面でも注目を集めました。
この記事では、阿藤快さんの若い頃と嫁や息子など家族情報の他、孤独死前の背中の痛みと死因「大動脈瘤破裂」の原因はラーメンなどについてまとめてみました。
この記事の目次
阿藤快のプロフィール
阿藤快(あとう かい)
本名:阿藤公一(あとう こういち)
生年月日:1946年11月14日
出身地:神奈川県小田原市
身長:183cm
阿藤快、俳優座出身の本格派俳優としてデビュー
生前は「ぶらり途中下車の旅」の旅人役やグルメリポーターとしてお馴染みだった阿藤快さんですが、元々は「俳優座」に所属していた本格派の俳優だったそうですね。
とはいえ、1971年に起こった「俳優座」の分裂騒動の際に、親しくしていた俳優の原田芳雄さんらに同調して退団してしまったため、所属期間はほんの数年程度でした。
「俳優座」退団後の阿藤さんに関しては、NHKで裏方のアルバイトをしながら俳優業を続けていましたが、生計を立てられるようなレベルではなかったそうで、生活費はもっぱら妻が負担していたと言われております。
コワモテな見た目のせいで、若手時代から悪役や犯人役の仕事しか来なかった阿藤さんがブレイクを果たしたのは、41歳の時に出演したドラマ「教師びんびん物語」となっており、新劇系の役者の中でもかなりの遅咲きとなりました。
阿藤快の若い頃~有名ドラマにも多数出演する個性派俳優だった
阿藤快、長嶋茂雄に憧れる野球少年だった
阿藤快さんの少年時代については、当時の大スターだった読売ジャイアンツの長嶋茂雄さんに憧れる野球少年だったそうで、中学時代はチームを小田原地区大会決勝まで導くようなエース投手でした。
当然ながら将来は甲子園出場を目指していた阿藤さんでしたが、進学先の県立西湘高校には野球部が存在しないといったアクシデントがあり、泣く泣くバスケに入部する羽目になってしまいました。
とはいえ、甲子園出場の夢が諦められなかった阿藤さんは、高校2年時に名門野球部のある学校への編入試験まで受けることとなりますが、学力不足が祟り不合格の憂き目となってしまったようですね。
青春の挫折を思い切り経験することとなった阿藤さんですが、かといって母校愛がないわけではなく、同窓会などにも積極的に参加していた結果、同級生たちからは「6回生の一番星」と呼ばれていたとか。
阿藤快、弁護士を目指すも学生運動にのめり込みすぎて断念
甲子園出場の夢を諦めて以降の阿藤快さんですが、弁護士を目指して勉強に励むようになり、学年3位の成績を取ったこともある優等生に変身したようですね。
しかしながら、高校3年時に父親が胃がんで病死したこともあり、学費の安い国立大学以外は進学出来ない経済状況に追い込まれてしまった阿藤さんは、大学浪人を経験。県立西湘高校を卒業後は、アジの干物屋でアルバイトをしながら夜間の予備校に通っていました。
その後、無事に東京都立大学法学部法律学科(2部)に合格することとなった阿藤さんでしたが、いざ大学に進学してみると学生運動の方にのめり込んでしまい、勉強どころではなくなってしまったため、弁護士の夢は断念することになりました。
ちなみに、学生時代の阿藤さんは、横須賀港にアメリカの原子力潜水艦が入港することに反対し、デモに向かったとの武勇伝まで持っているとか。
阿藤快、俳優として『太陽にほえろ』に出演【若い頃の画像あり】
阿藤快さんといえば、バラエティ番組で活躍する「なんだかな~」が口癖の面白いおじさんの印象が強いですが、若い頃は野性味あふれる個性派俳優として大活躍していました。
阿藤快の若い頃①
大人気ドラマ『太陽にほえろ』シリーズ3作品に出演
阿藤快の若い頃②
31歳頃の画像
映画『無宿人御子神の大吉』『女囚さそり』
『野性の証明』などにも出演
阿藤快の若い頃③
強面の個性派俳優でした
阿藤快の若い頃④
田原俊彦主演の『教師びんびん物語』出演で脚光を浴びる
阿藤快の結婚~売れない時代を支えた家族を捨て再婚するも熟年離婚
阿藤快、「糟糠の妻」と1993年に離婚
阿藤さんは、27歳の時に、大学時代からの付き合いだった女子美術短大出身の雅恵さんと結婚していますが、売れない役者だったため、生活費などは妻が工面していたと言われております。
その後、2人の間には長男も誕生しますが、阿藤さんが「教師びんびん物語」でブレイクを果たし売れっ子俳優となると、夫婦仲はかえって悪くなってしまったようで、1993年に離婚することになりました。
ちなみに、結婚時からアートフラワーの世界に魅入られており、布花作家・山上るいさんの門下生となっていた雅恵さんは、現在は東京・両国にて「阿藤雅恵布花Studio PRIMAVERA」という布花教室を主宰。アートフラワー展も頻繁に開催するほどの一廉の布花作家となっています。
阿藤快、7歳年下女性と再婚するも離婚
阿藤快さんは、1995年になると、7歳年下の一般女性・Aさんと再婚しています。阿藤さんは、再婚をきっかけに前妻たちと疎遠になるといったパターンに陥ってしまったようで、当時中学生だった長男と顔を合わせる機会もほとんどなくなってしまったとか。
前妻一家との不仲については、阿藤さんも人知れず悩んでいたようで、再婚以降は身近な人間の前ですら家庭の話をすることを嫌がっていたと言われております。
そのため、再婚後の夫婦仲がどのようなものであったのかは不明となっていますが、結局は2010代前半頃に熟年離婚の憂き目となってしまったようですね。
阿藤快、15歳年下の愛人もいた
阿藤快さんには、東京・曙橋に住む15歳年下の愛人・Bさんもいました。
2人が熱愛関係に陥ったのは阿藤さんの再婚後のことだったようで、当時50代になっていた阿藤さんの年齢上、愛人といってもプラトニックな飲み仲間的な関係だったとか。
知人たちからは、結婚してもおかしくないほど蜜月に映っていた2人でしたが、阿藤さんがAさんとの婚姻生活をズルズルと続けている最中に、Bさんは病死してしまったそうですね。
ちなみに、Bさんの治療費などは阿藤さんが工面したのではないかという話になっています。
阿藤快に子供は息子が1人~再婚後に20年以上父子関係が断絶していた
阿藤快、長男・阿藤基は町工場勤務
阿藤快さんには、1982年頃になると、1人目の妻である雅恵さんとの間に長男の阿藤基(もとい)さんが生まれています。
小学5年時に両親が離婚するといった陰鬱な少年時代を過ごした基さんでしたが、道を踏み外すこともなく、高校を卒業後はトラック運転手を経て、現在は東京・江戸川区にある町工場で働いているようですね。
既婚者である基さんですが、2004年に第一子・光樹くんが亡くなってしまうなど、悲しい出来事も経験しているとか。
阿藤快、長男・阿藤基と20年近く断絶関係にあった
生前の阿藤快さんと長男・阿藤基さんの関係については、不仲を通り越して断絶状態にあったと言われております。
元々、パチンコ店に入り浸る父親の記憶しかなかった基さんは、両親の離婚後は母親と一緒に暮らすことを選択したそうですね。
幼い時は近所のパチンコ屋にいる快さんを探して「時間だよ」と仕事に向かう時間の連絡をするぐらいの会話しかなかったといい、「ちょっとしか会ってないから父親の思い出はない」と振り返った。
その後再婚した阿藤さんが、月に1度の食事会の約束すら反故にするようになったため、基さんは、父親に対して苛立ちすら感じるようになっていたとか。
2人の間に決定的な軋轢が生まれたのは、基さんが思春期の頃に、酔っ払って電話をかけて来た阿藤さんに対して「どのつら下げて電話してきてんだ。いい加減にしろよ」と、怒鳴りつけたことがきっかけだったようですね。
以降の2人は、20年以上顔を合わせることもなく死に別れとなってしまいました。
阿藤快と名取裕子の関係~親密すぎる関係も恋愛感情はなかった
阿藤快さんは、女優の名取裕子さんと数十年に渡る交流があったことでも知られています。
名取さんの父親が亡くなった際には、動揺する名取さんのために舞台での共演を買って出てくれたこともあったという阿藤さんですが、2人が男女の仲になったことは一度もなかったとか。
近年も、旅番組のロケ先から名産品を贈ってくる阿藤さんに対して、名取さんが浴衣を贈り返すなど、良い関係が続いていたようですね。
阿藤快が69歳で死亡~死因は大動脈瘤破裂でラーメン原因説も浮上
阿藤快、69歳の誕生日の日に急死
阿藤快さんは、69歳の誕生日となる2015年11月14日に大動脈瘤破裂胸腔内出血で急死しています。
誕生日の祝福メールを送信しても返事がないことを不審に思った事務所スタッフが、親族に連絡をして自宅マンションを訪問して貰ったところ、ベッドの上で亡くなっている阿藤さんの姿を発見したそうです。
阿藤さんは、前述の通りバツ2の婚姻歴なうえ子供とも疎遠な仲だったため、ここ数年は1人暮らし状態が続いていたようで、形式上は孤独死となりました。
阿藤快、死の前月より背中の痛みに悩んでいた
大動脈瘤破裂胸腔内出血にて急死してしまった阿藤快さんですが、死の前月となる2015年9月頃より背中の痛みを覚えていたそうで、心配した共演者からマッサージなどをして貰ったことまでありました。
その後も、背中の痛みが続いたうえに食欲不振などの体調不良が起こっていた阿藤さんは、10月に入ると2度ほど病院に通っていたとか。
とはいえ、自身の体調不良を神経痛の類と勘違いしていたためか、内科や心臓外科での診察は受けていなかったようで、せっかくの通院も無駄足に終わってしまいました。
ちなみに、背中の痛みは大動脈瘤破裂の典型的な症状らしく、早期に病院で適切な治療を受けていれば助かっていた可能性もあったようですね。
◆冨名腰文人・高野ビルクリニック院長 「阿藤さんの場合、背中の痛みは相当、ひどかったはず。マッサージなどではなく、一刻も早く医者にかかっていれば、人工血管で治る可能性もあった。
阿藤快、ラーメンが原因で「大動脈瘤破裂」で死亡?
阿藤さんに関しては、芸能界きってのラーメン好きと知られていた手前、「ラーメンのせいで早死にした」との説もネット上に流れています。
やっぱラーメンって死の食い物なのかな。ラーメン業界人の早死率とか。西城秀樹もサウナとラーメンと酒であんな感じなったというし。阿藤快も死ぬほどラーメン食ってたら死んだらしいし。
— 方世玉 (@rasutoenpera) 2019年11月16日
実際の話、毎日食べるレベルのマニアの領域になって来ると、ラーメンが健康に悪いことは確かなようですね。
山野医療専門学校副校長で医学博士の中原英臣氏は、「ラーメンは野菜も少なく、ほとんどが糖分で栄養が偏っている。スープには脂肪と塩分が多く含まれており、脂肪を取りすぎれば動脈硬化や脂質異常症につながる。塩分も過摂取は高血圧を引き起こす。動脈硬化で破れやすくなっている血管に高い血圧がかかれば、大動脈瘤(りゅう)破裂などを起こすことがある」と指摘する。
とはいえ、タバコこそ2000年代前半頃に辞めていた阿藤さんでしたが、お酒などは相変わらず酒豪レベルで飲む無頼派だったそうで、何が大動脈瘤破裂胸腔内出血の原因となったのかは断定出来ない状況と言えます。
阿藤快葬儀の喪主は断絶状態だった長男が務めていた
生前の阿藤快さんとは、20年以上疎遠だった阿藤基さんですが、2015年に阿藤さんが病死した際には葬儀の喪主を務めるなど、長男の責務を立派に果たすことになりました。
基さんの父親に対する対応が変わった理由については、自身が社会人として働き家庭を持ったことの他にも、離れて暮らすうちに、芸能人として活躍する父親のことを知りたいという感情が芽生えたことが大きかったようですね。
旅番組のリポーターとして人気だった父親のサインを街中で見かけ、父について知りたいという思いにかられるようになった。
阿藤快についてまとめると…
・阿藤快は売れない時代を支えた嫁と1993年に離婚、1995年に再婚するも熟年離婚している
・阿藤快と離婚した最初の嫁との間に息子が1人おり、離婚後20年以上断絶状態にあった
・阿藤快は69歳の誕生日に大動脈瘤破裂で死亡、毎日食べていたラーメンが原因と噂されている
死後にバツ2の過去が発覚したうえ孤独死をしてしまうなど、阿藤快さんのプライベイトが幸せとは言えないものであったことは確かなようです。
阿藤快さんのご冥福を祈りながら、この記事のまとめを終了させて頂きます。