天皇家の最長老であった三笠宮妃百合子さまが101歳で薨去されました。
この記事では三笠宮妃百合子さまの若い頃、実家と家系図、旦那(夫)の三笠宮崇仁親王や子供の寬仁親王のタバコの逸話や、孫などの家族、現在や死因、葬儀などについてまとめました。
この記事の目次
- 三笠宮妃百合子さまのプロフィール
- 三笠宮妃百合子さまの若い頃① 18歳で三笠宮崇仁親王とご結婚
- 三笠宮妃百合子さまの若い頃② 20代〜30代
- 三笠宮妃百合子さまの若い頃③ 40代〜50代
- 三笠宮妃百合子さまの実家は華族の高木家
- 三笠宮妃百合子さまの家系図
- 三笠宮妃百合子さまの家族① 祖父・高木正善
- 三笠宮妃百合子さまの家族② 父親・高木正得
- 三笠宮妃百合子さまの家族③ 旦那(夫)・三笠宮崇仁親王
- 三笠宮妃百合子さまの家族④ 子供(長女)・近衞甯子
- 三笠宮妃百合子さまの家族⑤ 子供(長男)・寬仁親王
- 三笠宮妃百合子さまの家族⑥ 子供(次男)・桂宮宜仁親王
- 三笠宮妃百合子さまの家族⑦ 子供(次女)・千容子
- 三笠宮妃百合子さまの家族⑧ 子供(三男)・高円宮憲仁親王
- 三笠宮妃百合子さまの家族⑨ 孫・近衛忠大
- 三笠宮妃百合子さまの家族⑩ 孫・彬子女王
- 三笠宮妃百合子さまの家族⑪ 孫・瑶子女王
- 三笠宮妃百合子さまの家族⑫ 孫・承子女王
- 三笠宮妃百合子さまの現在…2024年11月15日に薨去
- 三笠宮妃百合子さまの死因は老衰
- 三笠宮妃百合子さまの葬儀
- まとめ
三笠宮妃百合子さまのプロフィール
三笠宮妃百合子さまのプロフィール
旧名 :高木百合子
生年月日:1923年6月4日
没年月日:2024年11月15日(101歳没)
出身地 :東京府東京市赤坂区赤坂青山高樹町
三笠宮妃百合子(みかさのみやひ・ゆりこ)さまは、大正天皇の第4皇子である三笠宮崇仁親王の妃で、今上天皇の大叔母にあたるお方です。
夫(旦那)である三笠宮崇仁親王が2016年に薨御した後は三笠宮家の当主を務め、皇室内の信頼厚く宮家の大黒柱として国民からも敬愛された方でしたが、2024年11月15日に101歳で薨去し悲しみの声が広がっています。
三笠宮妃百合子さまの若い頃① 18歳で三笠宮崇仁親王とご結婚
三笠宮妃百合子さまは1923年6月4日に貴族院議員の高木正得子爵夫妻の次女として生まれ、女子学習院幼稚園、女子学習院本科(現在の学習院初等科・学習院女子中等科・高等科)を卒業後の1941年10月、18歳の時に三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひと・しんのう)とご結婚されました。
上は1941年10月22日に三笠宮崇仁親王とのご結婚のために実家の高木家をご出発する若い頃の百合子さまの画像です。
上は、1941年10月22日に皇居での結婚の儀を終えて御所に帰られる際の若い頃の三笠宮崇仁親王と三笠宮妃百合子さまです。
上は、神宮と山陵(天皇家のお墓)に結婚報告に伊勢、奈良、京都へと向かうために東京駅を歩く若い頃の三笠宮崇仁親王と三笠宮妃百合子さまです。
上は、結婚から1年後の1942年、明治神宮国民錬成大会夏期大会を観戦する若い頃の三笠宮妃百合子さまです。
三笠宮妃百合子さまの若い頃② 20代〜30代
上は、1950年、27歳の三笠宮妃百合子さまです。兵庫県西宮市で開かれたアメリカ博を訪問された際に撮影されたものです。
上は、1956年にセイロン(現在のスリランカ)の建国2500年祭式典に出席するため、羽田空港からオランダ航空機で出発する際の三笠宮崇仁親王と若い頃(33歳)の三笠宮妃百合子さまです。
上は、35歳当時の若い頃の三笠宮妃百合子さまで、1958年のブラジル日本人移住50年祭に出席するために羽田空港を出発する際に撮影されたものです。
上は、1962年、全国レクリエーション大会開会式に出席のため国鉄米子駅に到着した三笠宮崇仁親王と若い頃(39歳)の三笠宮妃百合子さまです。
三笠宮妃百合子さまの若い頃③ 40代〜50代
上は、1965年の宮内記者会との会見の際の42歳当時の三笠宮妃百合子さま(左)です。中央は長女の甯子さま、右は三笠宮崇仁親王です。
上は、1970年の大阪万博開会式での三笠宮崇仁親王と47歳当時の三笠宮妃百合子さまです。
三笠宮妃百合子さまの実家は華族の高木家
三笠宮妃百合子さまの実家の高木家は旧華族の名家です。先祖は徳川十六神将の高木清秀で、代々旧河内丹南藩主の家柄でした。
また、母の邦子さんの実家の入江家は歌道の家柄で、母方の祖父の入江為守は貞明皇后(大正天皇の妻)の側近トップを務めた人物で、叔父の入江相政は昭和天皇即位後の侍従長を務めた皇室と関わりの深い家柄です。
三笠宮妃百合子さまの家系図
三笠宮妃百合子さまの家系図です。
三笠宮妃百合子さまの夫である三笠宮崇仁親王は大正天皇の第4皇子で、昭和天皇の弟君にあたります。したがって三笠宮妃百合子さまは、上皇明仁さまの叔母、今上天皇の大叔母にあたります。
三笠宮妃百合子さまの家族① 祖父・高木正善
高木正善のプロフィール
生年月日:1853年10月28日
没年月日:1920年1月27日(68歳没)
三笠宮妃百合子さまの実家は旧河内丹南藩の藩主家で版籍奉還で華族となった高木家ですが、祖父はその旧河内丹南藩の最後の藩主だった高木正善(たかぎ・まさよし)です。
三笠宮妃百合子さまの祖父の高木正善は丹南藩分家である高木守庸の子供でしたが、先代藩主で主家筋の高木正坦に男子の子供がいなかったため養子になり丹南藩を継いで藩主(知藩事)になりました。
1871年の廃藩置県で免官された後、1884年に子爵を叙爵し、1897年に貴族院議員に選出され1911年まで務めました。
三笠宮妃百合子さまの家族② 父親・高木正得
高木正得のプロフィール
生年月日:1894年1月20日
没年月日:1948年11月1日(54歳没)
三笠宮妃百合子さまの父親は高木正善の長男である高木正得(たかぎ・まさなり)で、東京帝国大学理学部動物学科から同大学院へ進み昆虫学、寄生虫学を修めました。
1932年に貴族院議員に当選し1947年の貴族院廃止まで務めました。
終戦後は生活に窮し、経済難から失踪して1948年に奥多摩の雲取山中で白骨死体となって見つかりました。
三笠宮妃百合子さまの家族③ 旦那(夫)・三笠宮崇仁親王
三笠宮崇仁親王のプロフィール
生年月日:1915年12月2日
没年月日:2016年10月27日(100歳没)
出生地 :東京府東京市麹町区宮城内(現在の東京都千代田区)
三笠宮妃百合子さまは女子学習院本科を卒業した1941年、18歳の時に三笠宮崇仁親王と結婚しています。
三笠宮妃百合子さまの夫(旦那)である三笠宮崇仁親王は、大正天皇の第4皇子として生まれ、学習院初等科・中等科を経て陸軍士官学校、陸軍騎兵学校で学んで騎兵士官となり、騎兵第15連隊小隊長、中隊長を務めた後、陸軍大学校へ進みご卒業されました。
太平洋戦争開戦後、1943年から1944年にかけて陸軍大尉として南京市の支那派遣軍総司令部に勤務した後、大本営参謀を経て1944年9月より陸軍機構本部付となり、1945年8月の終戦を迎えています。
終戦後は1947年に東京大学文学部で研究生としてオリエント史を専攻してその道を究め、1955年に東京女子大学講師に就任したのをはじめとし、青山学院大学、専修大学、天理大学、拓殖大学などで講義を担当し、日本オリエント学会の会長を務められました。
晩年は、90歳の頃に心臓の僧帽弁の異常が見つかって入退院を繰り返すようになり、2016年10月27日に100歳で薨御なさいました。死因は「心不全」と発表され、葬儀にあたる斂葬の儀の喪主は三笠宮妃百合子さまが務められました。
三笠宮妃百合子さまの家族④ 子供(長女)・近衞甯子
近衞甯子さんのプロフィール
生年月日:1944年4月26日
出生地 :静岡県沼津市沼津御用邸
三笠宮妃百合子さまと夫(旦那)の三笠宮崇仁親王の間には3男2女の5人の子供が誕生しています。
第一子は1944年4月26日に生まれた長女の甯子(やすこ)さんで、学習院大学在学中だった1966年に日本赤十字社職員であった近衞忠煇氏(近衞家第32代当主)と結婚して皇籍を離脱して近衛甯子さんとなりました。
結婚後は、日本赤十字社副総裁、学習院女子部同窓会常磐会会長を務め、1998年の長野オリンピックでは選手村の名誉村長を務められました。
三笠宮妃百合子さまの家族⑤ 子供(長男)・寬仁親王
寬仁親王のプロフィール
生年月日:1946年1月5日
没年月日:2012年6月6日(66歳没)
出生地 :神奈川県三浦郡葉山町三笠宮御假寓所
三笠宮妃百合子さまの第二子は、1946年1月5日に生まれた寬仁親王(ともひと・しんのう)です。
1968年に学習院大学法学部政治学科を卒業し、同年4月から1970年8月までイギリス・オックスフォード大学に留学。
帰国後は北海道札幌市に居住して札幌オリンピック組織委員会事務局職員として1972年まで勤務し、1975年からは沖縄国際海洋博覧会世界海洋青少年大会事務局に勤務されました。
1980年11月、麻生信子(元首相の吉田茂の孫で自民党政治家の麻生太郎の末妹)さんと結婚し、子供2人(いずれも娘)が誕生しています。
自身もスポーツを好んで嗜む事もあり、スポーツ振興や障害者のスポーツへの取り組みに力を注がれた他、国際親善にも強い関心を持って諸外国との交流にも積極的に取り組まれました。
1990年代より癌やアルコール依存症などで入退院を繰り返すようになり、2012年6月6日、66歳で薨去なさいました。死因は「多臓器不全」と発表されています。
寬仁親王はタバコやお酒好きでヤンチャな一面でも話題に
出典:https://intojapanwaraku.com/
寬仁親王は、未成年の頃からタバコを吸い飲酒をしていたとテレビ出演時に話したり、スカイラインで交通事故を起こしたり、皇族としての制約の多さに疑問を抱いて「皇籍離脱発言」をするなど、皇族としては異例の奔放でヤンチャな言動で度々話題になった方でした。
そうしたヤンチャな側面が国民に愛されたところもあり、髭をたくわえたお姿から「ヒゲの殿下」の愛称で呼ばれて親しまれました。
愛称は「ひげの殿下」で、人柄も発言もざっくばらんだった。1977年4月1日、テレビ番組「徹子の部屋」に出演したことがある。黒柳徹子との対談で「高校生になってからは粋がるようになって、チンピラまがいのことをやっていた。タバコを吸うとかさ」
黒柳「おいくつのときから?」
寛仁「高校1年生くらい」
黒柳「お酒は?」
寛仁「お酒はもっと前から飲んでいたね」
三笠宮妃百合子さまの家族⑥ 子供(次男)・桂宮宜仁親王
桂宮宜仁親王のプロフィール
生年月日:1948年2月11日
没年月日:2014年6月8日(66歳没)
出生地 : 東京都品川区上大崎三笠宮邸
三笠宮妃百合子さまの第三子は、1948年2月11日に誕生した次男の桂宮宜仁親王(かつらのみやよしひと・しんのう)です。
桂宮宜仁親王は、1971年に学習院大学法学部政治学科を卒業し、オーストラリア国立大学大学院に2年間留学されました。
帰国後の1974年から1985年にかけてはNHKに嘱託で勤務し、一方で、日豪協会総裁、日本・ニュージランド協会総裁を務めました。
その後、伯父の高松宮宣仁親王の後を継いで、大日本農会、大日本山林会、日本工芸会、日本漆工協会の各総裁を務められました。
1988年、急性硬膜下血腫に倒れて意識不明となるも約2ヶ月半後に意識を回復。リハビリを行なって1991年より公務に復帰されました。しかし、右目の視力喪失、記憶障害、右半身麻痺などの後遺症を抱え、車椅子を使用して公務にあたられました。
2000年代終わり頃より敗血症や誤嚥性肺炎で入院や手術を繰り返し、2014年6月8日、66歳で薨去されました。死因は「急性心不全」と発表されています。
三笠宮妃百合子さまの家族⑦ 子供(次女)・千容子
千容子さんのプロフィール
生年月日:1951年10月23日
出生地 :東京都品川区上大崎三笠宮邸
三笠宮妃百合子さまの第四子は、1951年10月23日に生まれた次女の容子さんです。
容子さんは学習院大学法学部法学科3年の時にスイスの全寮制の学校へ編入学し、その後はフランス・パリのソルボンヌ大学でも学ばれています。
帰国後に学習院大学に復学して卒業され、兄の寬仁親王主宰の「柏朋会」のフランス語講師を務め、その語学力により皇室内の外国交際に貢献されました。
1983年に裏千家(茶道の名門)の15代家元・鵬雲斎千宗室の長男・坐忘斎千宗之(後の16代家元・千宗室)と結婚して皇籍を離脱し千容子さんとなりました。
三笠宮妃百合子さまの家族⑧ 子供(三男)・高円宮憲仁親王
高円宮憲仁親王のプロフィール
生年月日:1954年12月29日
没年月日:2002年11月21日(47歳没)
出身地 :東京都品川区上大崎三笠宮邸
三笠宮妃百合子さまの第五子は、1954年12月29日に誕生した高円宮憲仁親王(たかまどのみやのりひと・しんのう)です。
高円宮憲仁親王は1978年に学習院大学法学部を卒業後カナダ・クイーンズ大学に留学し、1981年に帰国して国際交流基金に嘱託で勤務されました。
1984年にカナダ大使館のレセプションパーティに出席された際に実業家の鳥取滋治郎の長女で、通訳をされていた鳥取久子さん(後の高円宮妃久子さま)と出会い、同年12月6日にご結婚されています。高円宮妃久子さまとの間には3人の子供(いずれも娘)が誕生しています。
2002年11月21日、カナダ大使館でスカッシュの練習をされている際に心室細動で倒れ、キュ旧搬送されましたがその日の22時52分に薨去が確認されました。47歳という若さでした。
三笠宮妃百合子さまの家族⑨ 孫・近衛忠大
三笠宮妃百合子さまの孫・近衛忠大のプロフィール
生年月日:1970年7月18日
出身地 :東京都港区
三笠宮妃百合子さまには孫が9人います。
三笠宮妃百合子さまの孫のうち2024年12月現在の時点で皇籍にあるのは3名ですが、民間人の孫のうち近衞忠大さんは映像、デザインの分野のクリエイターとして活躍する著名人です。
近衞忠大さんは、三笠宮妃百合子さまの第一女子である近衞甯子さんの子供で、1970年7月18日に誕生されています。
近衛忠大さんは学習院高等科を経て武蔵野美術大学造形学部映像学科で学び、卒業後はNHKで映像ディレクターを務めました。
その後、NHKを退職してフリーランスとなり、「GTパートナーズ株式会社」の立ち上げ、「株式会社Colours International」の取締役、「株式会社curioswitch」代表取締役などを務め、クリエイティブ・ディレクター、デザイナー、映像作家、ブランディング・アドバイザーとして活躍されています。
三笠宮妃百合子さまの家族⑩ 孫・彬子女王
三笠宮妃百合子さまの孫・彬子女王のプロフィール
生年月日:1981年12月20日
出生地 :東京都
三笠宮妃百合子さまの皇籍にある孫のうち、寬仁親王の第1女子にあたるのが彬子女王(あきこじょおう)です。
彬子女王は学習院大学文学部史学科を卒業後、イギリスのオックスフォード大学に留学し日本美術史を専攻し、2010年に博士号を取得されています。
研究者として、立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー、宗教法人慈照寺研修道場美術研究員、立命館大学衣笠総合研究機構の特別招聘准教授、法政大学国際日本学研究所客員所員、京都市立芸術大学芸術資源研究センター特別招聘研究員、千葉工業大学特別教授および千葉工業大学地球学研究センター主席研究員などを歴任されています。
三笠宮妃百合子さまの家族⑪ 孫・瑶子女王
三笠宮妃百合子さまの孫・瑶子女王のプロフィール
生年月日:1983年10月25日
出生地 :東京都渋谷区
三笠宮妃百合子さまの皇籍にある孫のうち、寬仁親王の第二女子にあたるのが瑶子女王(ようこ・じょうおう)です。
瑶子女王は学習院女子大学国際文化交流学部日本文化学科を卒業後、2006年から2012年まで日本赤十字社に常勤で勤務し、2013年より一般財団法人国際ユニヴァーサルデザイン協議会総裁、2014年より第3代社会福祉法人友愛十字会総裁、2021年よりNPO法人日本ユニバーサル・サウンドデザイン協会名誉総裁に就任されています。
三笠宮妃百合子さまの家族⑫ 孫・承子女王
三笠宮妃百合子さまの孫・承子女王のプロフィール
生年月日:1986年3月8日
出生地 :東京都港区
三笠宮妃百合子さまの皇籍にある孫のうち、高円宮憲仁親王の第一女子にあたるのが承子女王(つぐこ・じょうおう)です。
承子女王は学習院女子大学を中途退学し、2005年よりイギリスのエディンバラ大学人文科学・社会学部に編入学され、さらにエディンバラ大学を2008年に中途退学して帰国し2008年より改めて早稲田大学国際教養学部にご入学されています。
2013年に早稲田大学をご卒業され、同年4月より日本ユニセフ協会に常勤の嘱託職員として就職されました。
三笠宮妃百合子さまの現在…2024年11月15日に薨去
三笠宮妃百合子さまは2024年11月15日に101歳で薨去されました。
三笠宮崇仁(たかひと)親王妃百合子(ゆりこ)殿下が15日午前6時32分、東京都中央区の聖路加国際病院で薨去(こうきょ)された。101歳のご生涯だった。
発表によると、三笠宮妃百合子さまは2024年3月3日に聖路加国際病院で軽い脳梗塞の疑いと誤嚥性肺炎の診断を受けて入院。一時は症状が落ち着き一般病棟でリハビリに取り組みながら過ごされていたという事ですが、11月8日に容体が悪化している事が発表され、11月15日に薨去されたという事でした。
三笠宮妃百合子さまの死因は老衰
三笠宮妃百合子さまの死因は「老衰」と発表されています。
三笠宮妃百合子(ゆりこ)さまが15日午前6時32分、入院先の聖路加国際病院(東京都中央区)で老衰のため亡くなられた。101歳だった。宮内庁が同日、発表した。
三笠宮妃百合子さまの葬儀
三笠宮妃百合子さまの葬儀(斂葬の儀)は、2024年11月26日に東京の豊島岡墓地で行われました。喪主は孫の彬子女王が務められました。
11月15日に101歳で亡くなられた三笠宮妃百合子さまの本葬「斂葬(れんそう)の儀」が26日、豊島岡墓地(東京・文京)で営まれた。孫の彬子さまが喪主を務め、秋篠宮ご夫妻をはじめ皇族方、石破茂首相ら三権の長など481人が参列。長きにわたって皇室を支えてこられた百合子さまと最後のお別れをした。
天皇、皇后両陛下や上皇ご夫妻は慣例に従って参列せず、使者を派遣された。
まとめ
今回は、2024年11月15日に101歳で薨去された三笠宮妃百合子さまについてまとめてみました。
三笠宮妃百合子さまは若い頃は18歳の時に三笠宮崇仁親王と結婚され皇族として公務にあたられました。実家は旧河内丹南藩主の家柄で旧華族の高木で、母方の入江家が天皇家の側近を務めるなど、家系図で見ても天皇家と繋がりの深い家柄でした。
三笠宮妃百合子さまの家族は、夫(旦那)である三笠宮崇仁親王と子供が5人で、9人の孫も誕生しています。
三笠宮妃百合子さまの現在は、2024年11月15日に101歳で薨去され、死因は「老衰」と発表されています。一般の葬儀にあたる斂葬の儀は2024年11月26日に東京の豊島岡墓地で行われ、喪主は孫の彬子女王が務められました。