戦後昭和に活躍した実業家・横井英樹が安藤組に襲撃された横井英樹襲撃事件が話題です。
この記事では横井英樹襲撃事件の詳細や犯人の安藤組とその動機、事件をテーマにした映画、その後の安藤秀樹のクズっぷりや現在の横井英樹の評価などについてまとめました。
この記事の目次
横井英樹は昭和の時代に活躍した実業家
横井英樹のプロフィール
生年月日:1913年7月1日
没年月日:1998年11月30日(享年85歳)
出身地 :愛知県中島郡平和村(現在の稲沢市)
横井英樹は戦後昭和の時代に活躍した実業家で、第二次世界大戦勃発による軍需用拡大に便乗して莫大な資産を築き(戦争成金)、その後、戦後史に残る敵対的買収事件となった「白木屋乗っ取り事件」、「富士屋ホテル事件」などを引き起こし「乗っ取り屋」の悪名で呼ばれました。
その後、1979年には赤字続きだった「ホテルニュージャパン」を買収し再建に乗り出しますが、過剰なコスト削減でまともな安全対策を取らないままでホテル経営を行い、1982年に宿泊客などから33人もの死者と34人もの負傷者を出した「ホテルニュージャパン火災事件」を引き起こしました。
横井英樹はこのホテルニュージャパン火災事件で、業務上過失致死傷罪で起訴され有罪判決を受けています。
そして、この横井英樹は、伝説的暴力団組織である安藤組の襲撃を受けた事でも知られています。今回はこの「横井英樹襲撃事件」を中心にまとめていきます。
横井英樹襲撃事件の詳細① 安藤組組員に襲撃され銃撃される
1958年6月11日19時10分頃、当時東洋郵船社長だった横井英樹が、銀座8丁目の第2千成ビル8階の東洋郵船本社の社長室で、暴力団安藤組の組員・千葉一弘の襲撃を受けて銃撃される事件が発生しました。
犯人の千葉一弘は、自動拳銃(FN ブローニングM1910)で銃撃後に逃走。横井英樹は、銃弾が右腕から左肺と肝臓右を貫通し右わき腹に達する大怪我を負い、一時意識不明の重体に陥りましたが、奇跡的に一命を取り留めています。
横井英樹襲撃事件の詳細② 襲撃の犯人は安藤組組員
横井英樹襲撃事件の犯人は、安藤組の赤坂支部に所属する当時25歳の組員の千葉一弘という男でしたが、後に住吉会住吉一家石井会相談役になっています。
この事件に関連する映画や作品などの一部では、この千葉一弘が独断で横井英樹襲撃を行ったように描かれているものがありますが、実際には、組長の安藤昇の指示によるものだったようです。
横井英樹襲撃事件の詳細③ 安藤組の犯行動機
横井英樹襲撃事件は、安藤組組長の安藤昇の指示によって引き起こされていますが、安藤組が横井英樹を襲撃した動機についても見ていきます。
横井英樹襲撃事件の背景
襲撃事件から見て遡ること6年の1952年、横井英樹は白木屋の株を買い占めるための資金集めに奔走していました。
横井英樹は、元侯爵の蜂須賀正氏が土地を数千万円で売却した事を聞きつけて「白木屋の株を買い占めて自分が社長になったら、1年のうちに借りた金の2倍の利益を約束する。3000万円貸してくれるのならば年2割の利息を支払う」などと言って数千万円を借り受けました。
しかしその後、横井英樹は白木屋をめぐる株取引で多額の損失を出すと、返済期日になっても元本どころか利息すらも支払わず、ようやく1000万円を返済したところで蜂須賀正氏が急死してしまいます。
すると、横井英樹はそのまま借金の残額を踏み倒そうとしたため、蜂須賀正氏の妻の智恵子が訴えを起こし、最高裁判所は横井英樹に残額の2000万円の支払いを命じる判決を下しますが、横井英樹はなおも借金を返済しようとはしませんでした。
当時、横井英樹は白木屋乗っ取り事件での失敗で多額の損失を被ったとはいえ、数十億円の財産を所有していました。裁判所は差し押さえに動きましたが、横井英樹の財産は名目上実弟など他人のものとなっており、差し押さえできたのは郵便貯金3万9000円のみでした。
そこで、蜂須賀正氏の妻の智恵子は、旧知の三栄物産代表取締役の元山富雄を通じて、安藤組に借金の取り立てを依頼したのでした。
襲撃事件発生の数時間前に安藤昇が横井英樹と直接交渉
借金取り立ての依頼を受けた安藤組組長・安藤昇は、横井英樹襲撃事件発生の数時間前にあたる1958年6月11日15時頃、元山富雄を伴って、東洋郵船本社を訪れ、横井英樹と直接交渉を行いました。
しかし、横井英樹は「その件はもう話がついている」などと嘯いて借金の支払いを拒否した挙句、「日本の法律は借りた方に便利にできている。なんなら君たちにも金を借りて返さない方法を教えてやろう」などと言い放ちました。
安藤昇はここで一旦引き下がり、東洋郵政本社を後にしています。
安藤組幹部を集めて横井英樹襲撃を指示
安藤昇は横井英樹のこうしたなめた態度に怒り、事務所に戻ってその日のうちに幹部を招集して、横井英樹の襲撃を指示しています。この時、安藤昇は横井英樹を殺害せずに怪我を負わせるだけに止めろという指示を出しています。
こうした経緯から、安藤組が横井英樹を襲撃した動機は、暴力団としてのメンツを保つというのが大きな目的だったようです。
また、これは建前上の事ですが、安藤組はその成り立ちなどから弱気を助け強気を挫くという理念が根本にあったため、正義を誇示するという側面も動機にあったようです。
横井英樹襲撃事件のその後① 安藤組は幹部が根こそぎ逮捕され解散
横井英樹襲撃事件のその後、警視庁は安藤昇を横井英樹に対する恐喝容疑で全国指名手配しています。
さらに、その後、花形敬をはじめとする安藤組幹部への逮捕状もだされ、警察は安藤組の幹部の根こそぎ逮捕に動きました。
1958年6月16日に花形敬が逮捕され、同年7月15日に安藤昇と幹部の島田宏が神奈川県葉山の別荘で逮捕されました。
さらにその後の同年7月22日には、実行犯の千葉一弘と東興業(安藤組の会社)専務の志賀日出也が山梨県内で逮捕。翌7月23日には幹部・小笠原郁夫が自首、同日、北海道旭川市内で、幹部の花田瑛一が逮捕されています。
その後の裁判で、安藤昇に懲役8年、志賀日出也に懲役7年、千葉一弘に懲役6年、島田宏に懲役2年、花形敬に懲役1年6か月、花田瑛一に懲役1年6か月、小笠原郁夫に懲役1年の実刑判決がそれぞれ下されています。
安藤は中野分類刑務所、志賀と島田は胸部疾患があったため八王子医療刑務所に、花形は宇都宮刑務所、花田は網走刑務所にそれぞれ収監されています。
安藤組はこの組長以下幹部の大量逮捕で一気に弱体化、先に出所した花形敬が組長代行を務めますが、1963年に暴力団東声会との抗争により刺殺されます。
安藤昇組長は、1964年9月15日に仮釈放で出所した後、安藤組の解散を決意し、同年12月に「安藤組解散式」を行い自主解散しています。これが史上初の暴力団の自主解散となりました。
横井英樹襲撃事件のその後② 横井英樹はその後も全く懲りていない
横井英樹襲撃事件が遠因となって安藤組は解散に追い込まれましたが、襲撃を受けて死にかけた後も横井英樹は全く懲りておらず、銃撃された怪我が回復するとすぐに当時跡目争いが起こっていた明治時代創業の由緒あるホテル「富士屋ホテル」に目をつけ、またしても強引な買収に乗り出しています。
横井英樹は6年をかけて富士屋ホテルの株を買い集め、1964年12月の株主総会で、当時の会長だった山口堅吉を経営陣から外す事に成功しています。
ところが、この山口堅吉が、国際興業グループ創業者で箱根の強羅ホテルの買収に成功していた小佐野賢治(ロッキード事件の「記憶にございません」の人)に「横井英樹だけは追い出してくれ」と泣きつき、小佐野が富士屋ホテル買収に乗り出しました。
すると、それまで横井英樹に味方していた創業者一族の山口家の親族らが小佐野側に寝返ってしまい、またしても横井は買収に失敗してしまいます。
その後の1979年には大日本製糖の社長・藤山寛一郎に懇願されて、赤字続きだったホテルニュージャパンを買収し社長の座につきますが、強引なコストカット経営を行なった事が原因で多数の死者を出した「ホテルニュージャパン火災」を引き起こしました。
横井英樹は火災によって営業停止になったホテルニュージャパンをそのまま解体せずに放置して、それを担保にして多額の融資を得る事もしています。また火災事故のあった1982年の国会では横井英樹が10年間税金を申告していない事なども追求されています。
ホテルニュージャパンの火災死亡事故により、横井英樹は業務上過失致死罪で起訴され1993年に禁錮3年の実刑判決が確定し、1996年に仮釈放され1997年に刑期を終えています。
横井英樹の莫大な財産はほとんどが安値で売却され、晩年はその資産のほとんどを失い、最後に残されたダイエー碑文谷店と池上のボウリング場だけでした。1998年11月30日に残された資産物件を巡回中に急に倒れて昏睡状態に陥りその日のうちに虚血性心疾患で死去しています。享年は85歳でした。
横井英樹襲撃事件のその後③ この事件をモチーフにした映画も多数公開
後年、「横井英樹襲撃事件」をモチーフにした映画も多数公開されています。
横井英樹襲撃事件を取り扱った代表的な映画作品としては、1960年公開の「非情都市」、1965年公開の「血と掟」、1973年公開の「実録安藤組 襲撃篇」と1974年公開の「安藤組外伝 人斬り舎弟」、1976年公開の「安藤昇のわが逃亡とSEXの記録」などがあります。
上記の映画のうち「非情都市」以外の4作品には、安藤組解散後に俳優に転身した安藤昇組長が本人役として出演しています。
また、1988年に公開された映画「疵(きず)」は安藤組の大物幹部・花形敬をメインに扱った作品ですが、この映画の中でも横井英樹襲撃事件をモデルにしたシーンが描かれています。
横井英樹の現在…ホテルニュージャパン火災などで批判的に見られている
横井英樹は既に死亡していますが、現在もバラエティ番組などで極悪人として紹介されるなど批判的に見られる事が多いようです。
1979年に横井英樹は、ホテルニュージャパンを買収して社長の座につきましたが、そのわずか3年後に発生し33名が死亡した「ホテルニュージャパン火災」は横井英樹の経営方針が原因の人災だとして現在も批判を受け続けています。
ホテルニュージャパンの社長に就任した横井英樹は、経営不振だったホテルニュージャパンの経営再建のために、法律を無視した強引なコストカットを徹底的に行いました。
横井英樹は、「カネに比べて人間は不確定要素、そんなものを取り入れるのは事業にマイナス」と言い放って従業員の半分をリストラしたのを皮切りに、安全対策に関わるコストは全て無駄だとして、火災報知器の定期点検を廃止し元電源を切る、スプリンクラーは撤去、設置する消化器を法律で定められた数の5分の1ほどに減らす、従業員の防災訓練も廃止、内装に耐火素材は使わないなど、コ宿泊客や従業員の安全には一切配慮しない施策を実行。
そして結果として、ホテルニュージャパン火災は、33名が死亡、34名が負傷する大惨事に拡大しました。
火災発生後も横井英樹のクズっぷりは凄まじく、最初に火災発生の一報を受けた横井英樹は、宿泊客や従業員の心配は一切せずに、ホテルの見栄えを良くするためだけに設置されていた高級家具や調度品を外に運び出せと指示を出しています。
ホテル従業員も横井英樹に恐れをなしてこの異常な指示に従い、まともな救助活動を行わず、最初に消防への通報を行なったのはホテル従業員ではなく火災に気がついた通行人という有様でした。
翌日の明け方になってようやく現場に現れた横井英樹は、被害者の遺体の収容活動が行われている中で「9、10階の一部で火災を止められたことは不幸中の幸い」などと発言。
さらには、火災事故からわずか3日後には、ホテル横の高級ブティックで愛人に贈るための20万円相当の高級婦人服を購入しています。
こうした非道な振る舞いによって、横井英樹は現在も「極悪人」、「クズ」といった評価を受けています。
横井英樹なんてクズ界の帝王だろ
— とぉ@黒シャツ (@kuro_shatty_t) June 5, 2020
三つの卵のある局のかつてあった番組やマンガ、”九死に一生”で飽きるぐらい見たけど、日本の史上最悪の大悪人横井英樹は、本当のクズ。#一番だけが知っている
— あ ね う ぃ ん (ワクワクチンチン2回終わり) (@anejump) June 24, 2019
※横井英樹は最後の最後までマジ人間のクズなので鎮火後もご注目ください#プロジェクトX
— agegomoku (@leoandboar) May 4, 2021
まとめ
今回は、戦後の時代に活躍した実業家の横井英樹を暴力団安藤組が襲撃した横井英樹襲撃事件を中心にまとめてみました。
横井英樹は、第二次世界大戦勃発による軍需拡大の波に乗って資産を築き、その後、不動産業に進出して、「白木屋乗っ取り事件」、「東洋精糖株買い占め事件」、「富士屋ホテル事件」などを引き起こしました。
横井英樹襲撃事件は、横井英樹が買収のために借りた多額の借金を踏み倒そうとし、その取り立てを依頼された安藤組によって引き起こされました。犯人は安藤組組員の千葉一弘という男でしたが、首謀者は安藤組組長の安藤昇で、事件後に逮捕されています。犯行の動機は安藤組の暴力団としてのメンツを保つためという部分が大きかったと思われます。
しかしその後、安藤昇をはじめ安藤組の幹部が根こそぎ逮捕されたため安藤組の組織力は弱体化し、安藤昇の出所後に安藤組は自主解散しています。
この横井英樹襲撃事件は、その後何度も映画化され、安藤組解散後に俳優に転身した安藤昇自らが本人役で出演した作品も多数作られています。
現在、横井英樹は既に死去していますが、生前の非人道的な振る舞いから、「極悪人」、「クズの帝王」などと呼ばれ、かなり批判的な評価を集めています。