小1女児強姦殺人事件「飯塚事件」の犯人として死刑執行された久間三千年の家族が2度目の再審請求を行い注目されています。
この記事では久間三千年の生い立ちや息子などの家族、飯塚事件の概要、冤罪説と真犯人の存在、死刑執行時の最後の言葉などについてまとめました。
この記事の目次
久間三千年は小1女児2人が殺害された「飯塚事件」の犯人で元死刑囚
久間三千年(くま・みちとし)元死刑囚は、1992年2月20日に福岡県飯塚市で発生した「飯塚事件」で、当時小学1年生の女児2名を殺害した容疑で逮捕され、その後の裁判で死刑判決が確定し、2008年10月28日に死刑が執行されて死亡した人物です。
この飯塚事件の犯人とされる久間三千年は警察による取り調べ、裁判中から一貫して無罪を主張しており、当時のDNA鑑定の信用度の低さなどが明確になった事もあって冤罪だった疑いが浮上しており、真犯人は別にいるのではないかとの議論が現在まで続いています。
久間三千年の家族は死刑執行後の2009年10月28日に、久間三千年は冤罪であると主張して再審請求を行いましたが、2014年3月に福岡地裁が、2018年2月に福岡高裁が、2021年4月に最高裁判所がそれぞれ再審請求を棄却する決定を下しました。
そして、2021年7月9日、久間三千年の家族は、2度目の再審、裁判をやり直す請求を福岡地裁に対して行い、現在、世間からの注目が集まっています。
今回はこの「飯塚事件」の犯人として死刑が執行された、久間三千年元死刑囚についてまとめていきます。
久間三千年が死刑判決を受けた「飯塚事件」の概要
最初に、久間三千年元死刑囚が犯人だとされている「飯塚事件」の概要を改めてみていきます。
1992年2月、行方不明だった小1女児2名が遺体で発見される
1992年2月20日の朝、福岡県飯塚市の同じ小学校(飯塚市立潤野小学校)に通う、当時小学校1年生の女児2人が、登校のために家を出たまま学校に現れず、行方不明になりました。
女児の家族はその日のうちに警察に捜索願いを出し、警察による捜索が開始されました。
翌21日の昼12時10分頃、行方不明になった場所から約20キロ離れた、福岡県甘木市(現在の朝倉市)と嘉穂郡を結ぶ国道沿い、道路から約10メートル離れた崖下の雑木林の中から行方不明になっていた女児2名の遺体が発見されます。なお、この遺体遺棄現場は通称で八丁峠と呼ばれる山中で、当時は、車を利用しなければ立ち入れない場所でした。
その日の21時頃、福岡県警甘木署にて、女児2名それぞれの両親が遺体を本人と確認。女児2名の遺体には乱暴された痕跡と、何者かに殺害された痕跡が残されていたため、警察は殺人事件と断定する発表を出しています。
事件発生5日後に警察は久間三千年を被疑者として事情聴取している
この「飯塚事件」の発生した福岡県飯塚市では、事件の3年前の1988年12月4日にも、当時7歳の小学1年生(飯塚事件被害女児と同じ飯塚市立潤野小学校に通っていた)の女児が行方不明になる事件が発生し、未解決のままとなっていました。
この時の被害女児の弟が久間三千年の息子と幼稚園の友人同士で、行方不明になった当日に、自宅から約100メートル離れた久間三千年の自宅に(久間三千年の息子を訪ねて)遊びに訪れていました。
そして、この女児が行方不明になる前の最後の目撃者が久間三千年であったため、この事件時に警察は久間三千年を参考人として捜査対象としていました。
こうした経緯から、福岡県警は新たに発生したこの女児行方不明事件の被疑者として、久間三千年(当時54歳)に目星をつけ、「飯塚事件」発生から5日後の1992年2月25日に久間三千年自宅を訪れて事情聴取し、事件当日のアリバイなどを聞いています。
当時のDNA検査で犯人と久間三千年のDNA型が一致するも逮捕に至らず
さらに、同年3月20日には、福岡県警は久間三千年を重要参考人として任意同行を求め、警察署で取り調べを行っています。この時警察は久間三千年にポリグラフ検査(ウソ発見機)を実施し、指紋と毛髪の提出を任意で求め、その毛髪を利用して、当時導入されたばかりであったDNA検査を行いました。
DNA検査の結果、被害者女児の遺体などから検出された真犯人のDNA型と、久間三千年のDNA型がほぼ一致するという鑑定結果が得られましたが、なぜか警察はこのタイミングでは久間三千年を逮捕せず、その後2年以上にわたって久間三千年を泳がせています。
1994年、複数の状況証拠から久間三千年を殺人や死体遺棄、略取誘拐などで逮捕
飯塚事件発生から2年以上が経過した1994年9月23日、福岡県警は死体遺棄容疑で久間三千年を逮捕しています。
そして、同年10月14日に殺人の容疑で再逮捕。その日のうちに久間三千年は死体遺棄容疑で福岡地検によって起訴され、さらに同年11月5日には殺人・略取誘拐の容疑で追起訴されました。
この逮捕起訴の根拠となったのは、久間三千年が犯人である事を示す複数の状況証拠でした。
この時に検察側が示し、その後の裁判でも有罪の根拠とされた、久間三千年が飯塚事件の犯人である事を示す複数の状況証拠については次の見出しで改めてまとめていきます。
2006年9月に死刑が確定し、2008年10月に死刑執行
久間三千年はこの事件で裁判を受け、1999年9月29日に、福岡地方裁判所から死刑判決を下されています。
久間三千年はこの判決不服として控訴しますが、福岡高裁は2001年10月10日に、一審判決を支持し、被告側の控訴を棄却して死刑判決を維持しています。
久間三千年はこれも不服として最高裁に上告しますが、最高裁も2006年9月8日に被告側の上告を棄却する決定を下し、これによって死刑判決が確定しました。
それから2年後の2008年10月28日に、福岡拘置所で久間三千年の死刑が執行されました。死亡時の年齢は「70歳」でした。
なお、当時、一部のメディアが、死刑確定から約2年後の死刑執行に「異例の早さ」などと報じましたが、当時の政権では、確定から概ね2~3年で執行されており、特段、「異例の早さ」というわけではありませんでした。
久間三千年が飯塚事件の犯人だとして検察側が示した状況証拠
久間三千年が飯塚事件の犯人として逮捕され、その後の有罪判決を受ける根拠にもなった状況証拠を順番に書いていきます。
久間三千年の車のシートの繊維と被害女児の衣服に付着していた繊維が一致
飯塚事件発生後に押収されていた当時久間三千年が乗っていた自動車(紺色のワンボックスタイプのマツダ車)のシートの繊維片と、被害女児が事件当時着ていた衣服に付着していた繊維片が一致しています。
この繊維片の一致を理由に、福岡県警は久間三千年の死体遺棄容疑での逮捕に踏み切っています。
事件に関連する場所時刻に久間三千年のものと特徴が一致する車の目撃証言複数
警察による聞き込み捜査などで、飯塚事件で2名の女児が行方不明になったと思われる場所と時刻に、当時久間三千年が乗っていた自動車と特徴が一致する車(紺色で後輪ダブルタイヤのワンボックスタイプ、窓に色付きフィルム)がその場を車で通りがかった別の車の2人によって目撃されています。
また、被害者女児の遺留品(被害女児のランドセルや下着などが、遺体発見現場に向かう途上国道沿い崖下に遺棄されていた)が発見された現場付近でも、同じく車で偶然通りかかった別の人物によって同様の特徴を持つ車が目撃されています。
久間三千年の自動車後部座席から血痕と人尿痕が検出
警察の調べで、久間三千年の車の後部座席シートから、誰かが相当量の出血と、かなりの量の尿をもらしたことを示す血痕と人尿痕が検出されました。被害女児2人の遺体は出血と失禁をした状態で発見されており、血液型も一致したため、被害女児2名を後部座席に乗せた可能性を示す証拠とされました。
この血痕と人尿痕について、久間三千年が合理的な説明ができなかった事に加えて、久間三千年の妻や息子などの家族も、捜査段階では後部座席で出血や尿を漏らした記憶はないと証言していたにも関わらず、その後の裁判でこれが証拠として示されると、その捜査段階の供述が事実ではないとするように証言を変えたため、裁判所はこれらの証言を信用する事はできないと判じています。
被害女児膣内の血痕と久間三千年の陰茎からの出血
また、被害女児の遺体の膣内やその周辺から、犯人のものと思われる血痕が検出されていますが、当時、久間三千年は「亀頭包皮炎」という疾患によって、陰茎から容易に出血する症状がありました。
そして、被害女児の遺体の膣内とその周辺の血痕と、久間三千年の血液型とDNA型(MCT118法)が一致した事から、久間三千年が犯人だとする重要な証拠の一つとされました。
久間三千年には冤罪ではとの声も上がっていますが、これだけの状況証拠が示された上で死刑判決が下されています。冤罪説の根拠とされている当時のDNA鑑定の信用度が、久間三千年の死刑判決の根拠のうち重要な要素になっているわけではないため、冤罪説を支持する声はやや弱いようです。
久間三千年の生い立ち
飯塚事件の犯人だとされている久間三千年の生い立ちについての詳しい情報は出ていません。
一部サイトでは、久間三千年の生い立ちについて生年月日は1940年1月9日だと書いていますが、他にそうした情報を書いているメディアはネット以外も含めて存在せず、また、関連する報道時の久間三千年の年齢ともこの生年月日は矛盾するため、デマ情報の可能性が高そうです。
久間三千年は、2008年に手記に「今年の1月9日で70歳になった」と書いていたとの情報があるので、これが仮に正しい情報だとして、逆算すると生年月日は「1938年1月9日」だと思われます。
私は無実の罪で捕われてから、拘置所に十四年収監されている。今年の一月九日で七〇歳になった。本件は冤罪事件だけに、重大な人権侵害である
引用:冤罪処刑だったのか? 小1女児2人殺害「飯塚事件」久間三千年が獄中で訴え続けた「警察の捏造」! 妻も主張「夫は正義感の強い人間」
生い立ちではありませんが、経歴としては、久間三千年は過去に、福岡県山田市(現在の嘉麻市)の職員として働いていましたが1977年に退職し、飯塚事件が発生した当時は、定職には就いておらず、生活費は妻の収入と自身の年金で賄っていたという事で、現在でいうところの「主夫」であったという情報が出ています。
過去には公務員として働いたこともあったが、52歳だった当時は外で働かず、家庭では「主夫」のような立場で、外で働いていた妻の給料と自分の年金で生活していたという。
引用:冤罪処刑だったのか? 小1女児2人殺害「飯塚事件」久間三千年が獄中で訴え続けた「警察の捏造」! 妻も主張「夫は正義感の強い人間」
また、事件当時は町内会長を務めていたとの情報も裁判記録などから判明しています。
本件犯行後、被告人は、警察が有している情報を探り、自己が町内会長をしていたことから明星寺団地の住民全員から毛髪を提供させようなどと言って警察の捜査に協力するように見せかけており、捜査の攪乱を意図したものと認められ、犯行後の行動も狡猾である。
久間三千年の家族は妻と当時小学生の息子が1人
久間三千年の家族としては、妻と事件当時小学2年生だった息子1人の存在が判明しています。
久間は事件当時、現場近くの町で妻や小学生の息子と暮らしていた。
引用:冤罪処刑だったのか? 小1女児2人殺害「飯塚事件」久間三千年が獄中で訴え続けた「警察の捏造」! 妻も主張「夫は正義感の強い人間」
妻によれば、久間三千年は家族にとっては良き夫だったという事で、平日は毎日、外で働く妻を送り迎えし、休日には息子と3人で車に乗り、何処かへ遊びに行く事がよくあったという事です。
平日は毎日、妻を車で職場に送り迎えしていたそうだから、マメな性格だったのだろう。
引用:冤罪処刑だったのか? 小1女児2人殺害「飯塚事件」久間三千年が獄中で訴え続けた「警察の捏造」! 妻も主張「夫は正義感の強い人間」
私たち家族の幸せは、日々のなかにあり、夫の優しさ、思いやりは、生活の中に満ちあふれていました。子供の成長に合わせて、軽自動車のワンボックスから普通車のワンボックスに替えて、運転席に3人で座って出かけるのが楽しみでした。
引用:冤罪処刑だったのか? 小1女児2人殺害「飯塚事件」久間三千年が獄中で訴え続けた「警察の捏造」! 妻も主張「夫は正義感の強い人間」
妻によれば、自分が一度行ってみたいと言っていた富士山にも久間三千年が連れて行ってくれたという事です。
私が一度は行ってみたいと思っていた富士山にも連れていってくれました。富士山に向かって走る高速道路でトンネルを抜けると目の前に現れる富士山は美しくて素晴らしいものでした。深く心に残っています
引用:冤罪処刑だったのか? 小1女児2人殺害「飯塚事件」久間三千年が獄中で訴え続けた「警察の捏造」! 妻も主張「夫は正義感の強い人間」
久間三千年の息子は、飯塚事件の約3年前の1988年12月4日に行方不明になった当時7歳の女児の弟と幼稚園の友人関係で、この女児は行方不明になる当日に弟と2人で久間三千年の自宅へと遊びに来ていました。
この久間三千年の息子については、その後、飯塚市でタクシー運転手として働いていてとの情報もあるようですが、ネットの噂レベルで信憑性は高くありません。
この妻や息子などの久間三千年の家族は、現在も久間三千年の「飯塚事件」での冤罪を訴え続けています。
久間三千年の死刑執行時の最後の言葉は?
最後まで冤罪を訴え続けていた久間三千年の、死刑執行前の最後の言葉にも興味を持つ人が多いようです。
久間三千年は冤罪を訴え、死刑判決後に再審請求の準備をしていましたが、その再審請求が行われる前に死刑が執行されてしまいました。
久間三千年の弁護士の1人が最後の面会時に、「私より前に確定した死刑囚がこれだけいます。(再審請求を)急がなくて大丈夫」と久間三千年が話していた事を明かしています。
最後の面会で、久間元死刑囚は冤罪(えんざい)を扱う雑誌の情報を基に作ったリストを示しながら「私より前に確定した死刑囚がこれだけいます。(再審請求を)急がなくて大丈夫ですよ」と話したという。
引用:【検証飯塚事件・2.6高裁決定を前に】(下)死刑後の再審高い壁 前例なし刑事司法根幹に影響 可否判断「裁判官に重圧」
この事から、久間三千年は、自分の死刑執行はまだ先だと考えていたようです。本人にとっては予想外の死刑執行だったと思われますが、最後の言葉がどのような内容だったのかは残念ながら公開されていません。
別冊宝島編集の書籍「死刑囚200人最後の言葉」では、久間三千年の最後の言葉として、死刑執行の少し前に行われた市民団体のアンケートに「有罪の直接証拠がないまま、1人の人間に『死』を宣告してはばからないこの国の司法に対して、私は『否』を貫き通します」と書いていたことが紹介されています。
久間三千年の家族と弁護団が真犯人の可能性がある第三者のDNA型が見つかったと主張
久間三千年元死刑囚の家族と弁護団は、死刑が執行されてしまった後も冤罪を訴える声を上げ続けています。
2009年10月28日には、久間三千年の家族が当時のDNA型鑑定が証拠能力に欠ける事や、一部の目撃証言の信憑性が疑われる事などを理由に福岡地裁に再審請求を行っています。
さらに、2012年10月25日、久間三千年の弁護団は、警察庁科学警察研究所から取り寄せた犯人のDNA型を撮影したネガフィルムを分析し直した結果、真犯人の可能性がある第三者のDNA型が見つかったとして、福岡地裁に意見書を提出しています。
福岡県飯塚市で1992年、7歳の女児2人が殺害された「飯塚事件」の再審請求審で、死刑が執行された久間三千年元死刑囚(当時70)の弁護団は25日、被害者から採取した犯人とされるDNA型を撮影したネガフィルムを分析した結果、「久間元死刑囚とは一致しない、第三者のDNA型がみつかった」と発表した。弁護団は同日、「真犯人の可能性がある」として、福岡地裁に意見書を提出。
しかし、福岡地裁は、弁護側の新証拠によって当時の証拠の信用性が低下したと認めた上で、他の複数の証拠から犯人性は十分に証明されているとして、2014年3月31日に再審請求を棄却しています。久間三千年の家族は即時抗告しますが、2018年2月6日に福岡高裁はこの訴えも棄却。久間三千年の家族はこれも不服として特別抗告しましたが、2021年4月21日にこれも棄却されています。
久間三千年の真犯人を示す新たな証言を証拠に家族が2度目の再審請求
2021年7月9日、久間三千年の家族が2度目の再審請求を行いました。
久間三千年の弁護団は、事件当日に真犯人の可能性がある人物が運転する軽自動車の後部座席に、被害女児と思しき2人が乗っているのを目撃したとする70代男性の証言を新証拠として福岡地裁に提出しています。
弁護団は、事件当日に通学路付近で、久間元死刑囚と全く特徴が異なる人物が運転する軽自動車の後部座席に、女児2人が乗っているのを見たとする、県内の70代男性の証言を新証拠として提出。真犯人の可能性があるとしている。
飯塚事件が発生した当時、不審な「白い車」の目撃情報があり、それを運転していた人物が真犯人ではないかという声が冤罪を唱える人々の間で上がっていました。
今回の弁護団が新たに示した証言の内容は「30代から40代の色白の男性が運転する白いワンボックスタイプの軽自動車の後部座席に女児2人が乗っているのを目撃した」というものでした。
白色のワンボックスタイプの軽自動車に2人の女児が乗っており、30~40代の色白の男性が運転しているのを見たという。
この新証拠を裁判所がどのように判断するのかに注目が集まっています。
まとめ
今回は、1992年2月20日に福岡県飯塚市で発生した女児2人が乱暴された上殺害された「飯塚事件」の犯人として、2008年10月に死刑が執行され死亡した久間三千年元死刑囚についてまとめてみました。
久間三千年は、一貫して容疑を否認したものの、当時のDNA鑑定の結果や目撃証言、久間三千年の車の車内から発見された証拠など、複数の状況証拠によって死刑判決が下され、その後も冤罪を訴え続けたものの、再審請求が出される前に死刑が執行されてしまいました。
久間三千年の詳しい生い立ちは不明ですが、家族は嫁と当時小学生だった息子が1人いることがわかっています。家族によれば久間三千年は家族思いで正義感の強い人物であるということで、家族は飯塚事件での冤罪を現在も訴え続けています。
2021年7月9日には、久間三千年の家族により2度目となる再審請求が申し立てられており、弁護団から新たに提出された真犯人の可能性を示す証拠を裁判所がどのように判断するのかが注目されています。