西武ライオンズに所属した元プロ野球選手で清原和博さんとの甲子園での対戦でも知られる渡辺智男さんが話題です。
この記事では、渡辺智男さんの現役時代の成績と年俸推移、清原和博さんとの甲子園での対戦、パワプロや引退理由、結婚や自宅、現在などについてまとめました。
この記事の目次
渡辺智男のプロフィール
渡辺智男のプロフィール
生年月日:1967年6月23日
出身地 :高知県高岡郡佐川町
身長 :178cm
渡辺智男(わたなべ・とみお)さんは、西武ライオンズやダイエーホークス(現在のソフトバンクホークス)で投手として活躍した元プロ野球選手です。
球速150km/h超の伸びのあるストレートや縦のカーブとキレのあるスライダーを武器に活躍し、プロ入りから3年連続で二桁勝利と100個以上の奪三振を記録するなど、新人時代から圧倒的なポテンシャルを示しました。
しかし、中学の野球部の時代から肘に怪我を抱えており、プロ入り後もその怪我の影響で5年目以降は満足な成績を挙げることができなくなり、ずば抜けた才能を持ちながら実働わずか8年で現役を引退されています。
渡辺智男さんは伊野商業高校3年生時にエース投手としてチームを甲子園大会(選抜高校野球大会)優勝へと導きました。特に準決勝ではあの「KKコンビ」を擁する最強時代のPL学園高校と対戦し、当時の高校生最強打者であった清原和博さんを3三振に抑え込む圧巻の投球を見せ、当時の国内の野球ファンの度肝を抜きました。
こうした清原和博さんとの伝説的なエピソードなどもあり、プロ入り後も渡辺智男さんは非常に高い人気を集めました。現在でも当時の活躍が往年のファンによってインターネット上で熱く語られる事があります。
今回はこの渡辺智男さんについてまとめていきます。
渡辺智男の現役時代の成績と年俸推移
渡辺智男さんの現役時代の成績と年俸推移は以下の通りです。
年度 | 所属 | 登板 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 奪三振 | 投球回 | 防御率 | 推定年俸 |
1989年 | 西武 | 19 | 10 | 7 | 0 | 101 | 138 | 3.52 | 860万円 |
1990年 | 西武 | 24 | 13 | 7 | 1 | 130 | 176 | 3.38 | 2000万円 |
1991年 | 西武 | 22 | 11 | 6 | 1 | 119 | 157 | 2.35 | 4200万円 |
1992年 | 西武 | 20 | 7 | 5 | 0 | 58 | 85 | 4.87 | 6200万円 |
1994年 | ダイエー | 16 | 4 | 9 | 0 | 47 | 93 2/3 | 4.23 | 5400万円 |
1995年 | ダイエー | 14 | 0 | 5 | 0 | 42 | 69 1/3 | 5.19 | 5600万円 |
1996年 | ダイエー | 2 | 0 | 1 | 0 | 4 | 4 1/3 | 14.54 | 4480万円 |
1997年 | ダイエー | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 1/3 | 11.57 | 3300万円 |
通算 | – | 123 | 45 | 40 | 2 | 502 | 725 1/3 | 3.73 | 3億2240万円 |
渡辺智男さんは1989年にドラフト1位で西武ライオンズに入団し、新人年から3年連続で二桁勝利を上げ、特に1991年シーズンには最優秀防御率のタイトルを獲得しています。
その翌1992年の年俸はプロ入り後最高額の6200万円でしたが、この年の後半から腰痛が原因でフォームを崩し、イップスのような状態になってまともな投球ができなくなり、翌1993年1軍で1試合も登板することができませんでした。
その翌1994年シーズンからはトレードでダイエーホークスに移籍しています。1993年に1度も登板がありませんでしたが、このトレード時の契約で年俸は200万円アップとなっています。
ダイエー移籍後1年目の1994年5月には、無四球完封勝利(1年11ヶ月振りの勝利だった)を飾って復活の期待が高まりましたが、その後は怪我の影響もあって際立った成績を上げる事ができませんでした。
1995年以降は怪我の影響もあって本来の力を発揮する事ができず、1勝もあげる事ができないまま1997年のオフに古巣の西武ライオンズに金銭トレードで戻っています。
その後、1998年に現役引退となりました。
渡辺智男は清原和博との伝説的なエピソードでも話題
出典:https://image.middle-edge.jp/
渡辺智男さんといえば、やはり高校時代の清原和博さんとの伝説的なエピソードが有名なので紹介していきます。
渡辺智男さんは中学時代に肘を剥離骨折し、一度は野球の道を諦めかけましたが、投手はしないという条件で地元高知県の県立伊野商業高校へと進学しています。しかし、2年生の春から再び投手としてプレーする事を選択し、すぐにエースとして活躍するようになりました。
高校3年生だった1985年に、渡辺智男さんはチームを春の選抜高校野球大会(第57回大会)へと導きました。これは伊野商業高校野球部にとって初めての全国大会出場という快挙でした。
そして、この年のセンバツ甲子園には、清原和博さんと桑田真澄さんのKKコンビを要し、圧倒的な強さを誇っていた大阪の名門・PL学園高校も出場して順調に勝ち進んでおり、伊野商業高校と準決勝でぶつかる事になりました。
渡辺智男さんはこの試合っで圧倒的なパフォーマンスを発揮し、4番の清原和博さんを3三振に切ってとり、強打のPL打線を完全に抑えんで見せました。試合も3-1で伊野商業高校の勝利に終わり、この勝利でさらに勢いに乗った伊野商業高校は決勝で強豪・帝京高校を破り、初出場で全国優勝の快挙を成し遂げています。
清原和博さんはこの試合後に、ベンチ裏で涙を流しました。その日の夜には学校の室内練習場で黙々とバットを振る清原和博さんを当時の中村監督が目撃しています。
清原和博さんはその後、渡辺智男さんへのメッセージを記者に託しました。その内容は「次は打ったるから、絶対に甲子園(夏の大会)に出てこい」という、いわば”果たし状”でした。
この伝言を聞いた渡辺智男さんは、肘の状態が思わしくなかった事や、照れ隠しの気持ちもあって咄嗟に「夏は暑いから。もういいですよ」と答えてしまいます。
実は、渡辺智男さんも清原和博さんの果たし状を受けて、内心では熱い気持ちが込み上げており、この発言は本心ではなかったようなのですが、この発言が翌日のスポーツ新聞にデカデカと掲載されてしまいます。
そして、渡辺智男さんはこの発言が本心ではなかった事を清原和博さんに伝えるために、絶対に甲子園に出場するという強い気持ちを持って夏の高知大会へと臨んだそうです。
ところが、この高知大会の初戦、相手打者の放ったライナーが事もあろうに渡辺智男さんの右肩を直撃、渡辺智男さんはマウンドに崩れ落ちました。
当時の伊野商業高校の監督の山中直人さんは、腕を上げられない状態の渡辺智男さんを見て「おそらく降板を申し出てくるだろう」と思い、その時点で敗戦を覚悟したといいます。
ところが、清原和博さんと甲子園で再び対戦したいという強い気持ちのためか、渡辺智男さんは「いくしかないっしょ」とだけいうと、なんとアンダースローにフォームを変えて続投したのでした。(本来はオーバースローの本格派)
この時の渡辺智男さんの球速は100km/hにも満たないスローボールでしたが、相手打線を執念で押さえ込み勝利し、さらには、渡辺智男さんはその後も決勝戦まで投げ続けています。
しかし、ついに決勝の高知商業との対戦で力尽きて敗戦、夏の甲子園で再び対戦するという清原和博さんとの約束を果たすことはできませんでした。
この後、清原和博さんは高校卒業後に西武ライオンズにドラフト1位で入団し、渡辺智男さんはNTT四国に入社して社会人野球の道へと進みました。
そしてそれから3年後の1989年に渡辺智男さんも西武ライオンズからの1位指名を受けてプロ入りしています。
プロ入り後の清原和博さんとの再戦にも期待が集まりましたが、渡辺智男さんがエース級の活躍をしてたプロ入りから5年間は同じ西武ライオンズに所属していたため対戦はなく、ダイエーへ移籍した以降も対戦の機会はありませんでした。
渡辺智男さんは引退後のインタビューで「清原和博さんと対戦したかったのでは?」と質問され「やっぱり勝ち逃げがいいでしょう」と笑いながら答えられています。
また、清原和博さんはプロ入り後も、高校時代の渡辺智男さんとの対戦について「生まれて初めて力と力の勝負で負けた」といい続けていました。
そんな清原和博さんは、2021年3月、自身のTwitterでセンバツ甲子園が始まった事に触れ、自分のセンバツ甲子園で一番悔しかった思い出として、渡辺智男さんに3三振を奪われた事をあげて、往年の野球ファンの間でも大きな話題になりました。
今日も☀️
— 清原和博 (@kiyohara3_5_114) March 19, 2021
春はセンバツから⚾️
今年は開催されて本当に本当に嬉しいし良かった😃
自分のセンバツ、一番のいい思い出は初めて甲子園のマウンドで投げたこと❗️
一番悔しかったのは伊野商業高校の渡辺智男から3三振、バットにかすりもしなかった💦
高校球児達にとっていい思い出になる事を願ってます‼️ pic.twitter.com/PB32nHKjOr
渡辺智男のパワプロのサクセス選手データも多数公開
渡辺智男さんは清原和博さんとの伝説的エピソードや、プロ入り後の3年間の圧巻の活躍などで現在も野球ファンの間で人気が高い選手です。
人気野球ゲームのパワプロ「実況パワフルプロ野球」でも、全盛期の渡辺智男さんをサクセスモード(選手をプレイヤーが育成するモード)で作成したものが、ネット上に多数公開されています。
出典:https://cdn-ak.f.st-hatena.com/
出典:https://cdn-ak.f.st-hatena.com/
渡辺智男さんのパワプロでのOB選手としての公式データは現在のところ出ていないので、全盛期の渡辺智男さんをパワプロで使ってみたいという方は、一般ユーザーがサクセスモードで作成しパスワードがネットで公開されているものを利用してみると良いでしょう。
渡辺智男の引退理由は怪我による成績低迷
出典:https://column.sp.baseball.findfriends.jp/
成績と年俸の見出しでも触れていますが、渡辺智男さんはプロ入りから3年間はエース級の活躍を示したものの、4年目以降は怪我の影響などから調子を崩し成績は次第に低迷しました。
渡辺富雄さんの引退の理由は、この怪我による成績の低迷でした。
渡辺智男の結婚
渡辺智男さんは西武ライオンズに入団後に西武球場のマスコットガールだった智子さんという女性と結婚されています。
結婚されたのは全盛期の頃で、スポーツ紙に「智男結婚!」と大きな見出しが掲載されました。
この渡辺智男さんの結婚した嫁の智子さんですが、当時、ファンの間ではかなりの美人だと話題になっていました。
渡辺智男さんはこの嫁の智子さんとの間に娘2人を儲けています。
渡辺智男の自宅は地元の高知県
渡辺智男さんの自宅は地元の高知県にあるようです。
2018年、文春オンラインの中川充四郎さんの野球コラムで西武ライオンズの春季キャンプの記事が配信されていますが、その中に渡辺智男さんはキャンプ地である高知県に自宅を構えているとする内容が書かれていました。
高知に自宅を構える渡辺智男スカウトはB班担当からスタートしたが「一カ月も自宅通勤。気分転換が必要ですよ」と渋い表情で話していた。でも、選手たちは自宅に帰りたくても帰れないので、これは贅沢というもの。
渡辺智男の現在…スカウトとして活躍
出典:https://lh3.googleusercontent.com/
渡辺智男さんは1998年に現役を引退し、西武ライオンズのスカウトに就任しました。
現在も渡辺智男さんは西武ライオンズのスカウトを務めており、チーフ補佐及び、四国方面の育成ドラフトで指名するアマチュアのスカウティングを担当されています。
2020年の育成ドラフト5位で指名された水上由伸投手は渡辺智男さんが担当した選手で、2021年5月に支配下登録を勝ち取っています。
なお、渡辺智男さんは現在は54歳を迎えられています。
まとめ
今回は、西武ライオンズの黄金時代に先発投手として活躍した元プロ野球選手の渡辺智男さんについてまとめてみました。
渡辺智男さんは1989年にドラフト1位で西武ライオンズに入団し、ルーキーイヤーから3年連続二桁勝利を挙げるなど素晴らしい成績を残しましたが、その後は肘や腰の怪我に悩まされ、満足な成績を上げる事ができないまま1998年に現役を引退されています。
また、渡辺智男さんは高校時代にセンバツ甲子園で優勝投手になっていますが、その準決勝でPL学園と対戦し、高校最強打者だった清原和博さんを3奪三振に切ってとったエピソードは現在も伝説的に語られています。
渡辺智男さんは、西武ライオンズ時代に西武球場のマスコットガールだった智子さんという女性と結婚し2人の娘にも恵まれています。また、現在の自宅は出身地の高知県に構えているそうです。
現役引退後は西武ライオンズのスカウトに就任し、現在も四国方面のアマチュア選手のスカウティングを担当されています。