MLB移籍後も活躍が続いているプロ野球選手の大谷翔平さんですが、実は両親共にアマチュアスポーツで活躍をしていたサラブレットの家系だったりします。
この記事では、大谷さんの生い立ちや家族情報に関してまとめてみました。
この記事の目次
大谷翔平のプロフィール
出典:https://www.excite.co.jp/
名前:大谷翔平(おおたに しょうへい)
出身地:岩手県奥州市
生年月日:1994年7月5日
学歴:花巻東高等学校卒業
身長:193cm
プロ入り時期:2012年ドラフト1位
所属球団:ロサンゼルス・ドジャース
大谷翔平、二刀流でNPBのスターに上り詰めメジャーリーグへ
大谷翔平さんといえば、二刀流選手として日本球界を代表するスターとなった若き天才アスリートです。
現在では日本における天才の代名詞となっている大谷さんですが、プロ入り1年目は打者として77試合に出場し「打率238 本塁打3本」、投手として13試合に登板して「3勝0敗 防御率4.23」と、高卒ルーキーにしては活躍した程度の成績に留まりました。
プロ入り2年目以降は投手として急激に成長し、プロ3年目となる2015年には最多勝や最優秀防御率、最優秀勝率のタイトルを獲得するなどしていた大谷さんでしたが、打者としてはブレイクには一歩及ばない状況が続いておりました。
そんな大谷さんが二刀流選手として完全に開花したのは、プロ入り4年目のことでした。
2016年の大谷さんは、打者として104試合に出場し「打率322 本塁打22」と活躍した他、投手としても21試合に登板して「10勝 防御率1.86」という1流の成績を残し、日本における二刀流を完成させました。
2017年にメジャーリーグのロサンゼルス・エンゼルスに移籍した大谷さんは、2018年に新人王を獲得、2021年と2023年には満票でシーズンMVPを受賞するなど日米のファンを熱狂させる活躍を見せてきました。
2023年には史上初となる2年連続の「2桁勝利&2桁本塁打」を達成し、メジャーリーグにおいても二刀流として様々な快挙を成し遂げてきた大谷さんですが、2023年9月に右肘の手術を行い2024年は打者に専念することになりました。
しかし、2023年12月には北米のプロスポーツ史上最高額となる10年総額7億ドル(約1015億円)という契約金でロサンゼルス・ドジャースに移籍しており、大谷さんのメジャーリーグでの活躍はまだまだ続いていくことになりそうです。
大谷翔平の家族情報~実家の両親と兄は全員スポーツ選手
大谷翔平の父親・大谷徹は元社会人野球選手
大谷翔平さんの父・大谷徹さんは、元社会人野球の選手でした。
息子である大谷さんと違い、割とコワモテな容姿の徹さんですが、身長も182cmと大柄な男性だったりします。
徹さんの母校である岩手県立黒沢尻工業高等学校は、スポーツが盛んな高校らしく、ボクシング元フライ級世界王者の八重樫東さんなど、著名なアスリートのOBが何人もいます。
徹さんの高校球児時代に関しては、母校を甲子園に出場させるまでの選手ではありませんでしたが、三菱重工の横浜製作所に社会人野球の選手としてスカウトされ、高校を卒業後はそちらに勤務することとなったようですね。
社会人野球選手としての徹さんは、腰を痛めた影響で24歳の時に引退しております。
徹さんはその年の12月に、三菱重工横浜製作所の同僚だった加代子さんという女性と知り合い、後に結婚しているため、社業に専念するには良いタイミングだったと言えますね。
大谷翔平の父親・大谷徹の現在は少年野球チームの監督
結婚後の徹さんに関しては、30歳の時に、地元岩手に自動車工場が新設されたタイミングで三菱重工を退職して、そちらに転職することになりました。
徹さんの転職先は、自動車のボディメーカーとしか情報が公開されていないものの、ネット上ではトヨタ自動車東日本ではないかと噂されております。
その後の徹さんですが、定年退職には少し早い2016年末に自動車工場を退職するという、アーリーリタイアを選択しています。
徹さんが社業から足を洗った理由に関しては、下記の記事を参考にしてください。
「徹さんが会社を辞めたのは事実。もちろん翔平くんのサポート体制充実のためではありますが、もうひとつの理由が地元の野球チーム『金ヶ崎リトルシニア』の監督業の活動に専念するためです」
「金ヶ崎リトルシニア」は、2014年に結成された中学生を対象とした少年野球チームとなりますが、創部3年目の2016年に全国大会出場を決めるなど、監督としての徹さんの手腕はかなり高いようですね。
大谷翔平の母親・大谷加代子は元バドミントン選手
大谷翔平さんの母・加代子さん(写真左)といえば、息子にそっくりな顔をしていることでも有名です。
身長170cmと、女性としてはかなり長身な加代子さんは、元実業団のバドミントン選手だったとか。
小学5年からバドミントンを始めたという加代子さんですが、中学3年時には、神奈川県代表として全国中学校バドミントン大会に出場し、団体戦で準優勝に輝いています。
中学卒業後は、神奈川県立横浜立野高校に進学した加代子さんは、在学中にインターハイに出場するなど大きな実積を残しております。
高校を卒業後の加代子さんは、三菱重工横浜製作所に実業団選手として就職を果たしていますが、こちらで徹さんと出会い、社内結婚をする形になりました。
ちなみに、加代子さんは横浜市旭区出身の浜っ子らしく、進学から就職までを地元横浜で全部賄ってしまったことになります。
その辺りは、さすが都会育ちだと言えるのかも知れませんね。
大谷翔平の兄・大谷龍太は社会人野球でコーチ
大谷翔平さんには、7歳年上の兄・大谷龍太さんもいます。
身長187cmと恵まれた体格をしている龍太さんは、大谷さん同様に少年時代から野球に打ち込んでおり、中学を卒業後は岩手県立前沢高等学校に進学をしております。
龍太さんは、甲子園にこそ出場出来なかったものの、高校卒業後は水沢駒形野球倶楽部という、東北を代表する名門社会人野球クラブへ入団します。
その後は、2009年11月に、四国アイランドリーグPlusの高知ファイティングドックスからドラフト2位指名を受けた龍太さんは、晴れてプロ野球選手という身の上となります。
独立リーグという位置づけの四国アイランドリーグPlusとなりますが、優秀な成績を残せばNPBからのドラフト指名もある登竜門リーグでもあります。
現在は千葉ロッテ所属であり、2012年と2016年に2度の首位打者に輝いている角中勝也さんも、高知ファイティングドックスを経由してNPB入団を果たした選手でした。
そのため、龍太さんの最終目標も当然ながらNPBへの入団だったことと思われますが、高知ファイティングドックスで2年間プレーをした後は、NPB入りを断念してトヨタ自動車東日本へ入社し、実業団チームの選手兼コーチとなりました。現在は選手は引退し、専任でコーチを務めているようです。
大谷翔平の兄・大谷龍太は既婚者!嫁は元ミス高知?
大谷翔平さんの兄・龍太さんは、トヨタ自動車東日本入社後の2013年12月に結婚しております。
龍太さんの結婚相手・Aさんに関しては、ネット上の噂の範疇の情報しかありませんが、元ミス高知の英語が堪能な女性だとか。
また、Aさんは、ローカルタレントとして高知の放送局でキャスター業などもしていたという話もあるため、所謂一般人の女性ではないようですね。
2人の馴れ初めは、高知時代に合コンで知り合ったらしく、結婚までの交際歴は数年程度はあったと言われております。
龍太さんがNPB入団の夢を諦めて、トヨタ自動車東日本に入社した理由に関しては、Aさんとの結婚を視野に入れて定職に就こうという考えでもあったのかもしれませんね。
大谷翔平の姉・大谷結香は看護師
大谷翔平さんには、2歳年上の姉・結香さん(写真中央右)もおります。
他の家族たち同様に168cmの長身である結香さんは、学生時代はバレーボールに打ち込んでいたようですね。
大谷家では珍しく一般就職をした結香さんは、高校を卒業は岩手県内の看護大学に通い、現在は母・加代子さんの実家のある神奈川県横浜市で看護師をしているとか。
大谷翔平の生い立ち~野球を始めたきっかけは兄弟の影響
大谷翔平の両親は子育て環境の為に岩手県奥州市に移住
上2人の兄弟は神奈川県横浜市生まれの大谷一家ですが、大谷翔平さんは岩手県奥州市で生まれ育っております。
大谷一家が横浜から岩手に住居を移した理由に関しては、子育て環境を考えた両親の決断だったようですね。
翔平には7歳上の兄、2歳上の姉がいるが、二人は父・徹さんの以前の勤務先である横浜市で生まれた。だが両親は子育ての環境を考え、新たに工場が稼働する岩手への異動を希望。加代子さんが言う。
「私の実家がある横浜にいれば何かと楽だったのですが、子供たちを伸び伸び育てるには、狭い家で暮らすより、自然に囲まれた広い環境の方がいいと思ったんです。親子さんの都合より、子育てを優先しました」
大谷翔平の出身小学校は奥州市立姉体小学校
大谷翔平さんの出身小学校に関しては、奥州市立姉体小学校となります。
幼少期から、体を動かすのが大好きで水泳やバドミントン、野球に明け暮れていたという大谷さんが、本格的に野球に打ち込み始めたのは小学2年の時でした。
兄・龍太さんたちと一緒に野球で遊んでいるうちに野球の魅力に取り憑かれてしまった大谷さんは、小学2年の時に父・徹さんに「水沢リトル」への入団を希望しております。
リトルリーグは本来は小学3年生以上が入団条件だったりするわけですが、息子の熱意に負けた徹さんは、「水沢リトル」関係者に頼み込み大谷さんの入団を許可して貰うことになりました。
大谷翔平、リトルリーグ時代から才能は際立っていた
小学2年の身で「水沢リトル」へ入団した大谷翔平さんでしたが、特例を頼み込んだ手前、父・徹さんも水沢リトルのコーチに就任し、チーム運営の手助けをすることになりました。
「水沢リトル」は岩手県下でも屈指の強豪チームであり、大谷さんが小学3年時には全国大会へも駒を進めているほどでした。
そのため、岩手のエリート野球少年たちが集まっているチームと言える「水沢リトル」ですが、そんな中に混じっても、大谷さんの才能は際立っていたそうですね。
具体的には、他のチームメイトが数時間かけてマスターするような動作も、大谷さんは一瞬で出来てしまうほどの器用さを見せていたと、父・徹さんが証言しております。
大谷さんは、現在の野球選手に多い右投げ左打ちの選手だったりしますが、左打ちにスイッチしたのも「水沢リトル」時代だったとか。
ちなみに、通常なら数年はかかる右打ちから左打ちへのスイッチを、大谷さんはわずか1年程度でマスターしてしまいました。
投手としてもリトルリーグ時代から才能を発揮していた大谷さんは、小学5年時には「水沢リトル」のエースとして君臨し、MAX110キロの速球を投げるほどでした。
リトルリーグの平均球速が90キロと言われている中、大谷さんがいかに豪腕投手だったかが伺えるエピソーだと言えますね。
大谷翔平の出身中学は奥州市立水沢南中学校
小学を卒業後の大谷さんは、奥州市立水沢南中学校に進学しております。
中学進学時には、既にMAX120キロの速球を投げるほどに成長していた大谷さんは、中学の野球部には入部せずに、中学1年の夏までは引き続き「水沢リトル」にてプレーすることになりました。
これはアメリカ発の少年野球組織であるリトルリーグは、国際大会などの都合上、アメリカの9月入学に基準を合わせてシーズンを設定しているためです。
そんな「水沢リトル」での最後のシーズンに、大谷さんはとんでもない記録を達成します。
2007年6月のリトルリーグ・東北大会準決勝の「水沢リトル」対「福島リトル」戦に先発した大谷さんは、規定6イニングの18個のアウト中17個を三振で奪うという偉業を達成することになりました。
2007年6月3日、リトルリーグ全国大会出場をかけた東北大会準決勝。大谷がエースで3番、キャプテンを務める「水沢リトル」は、「福島リトル」と対戦。当時大谷は中学に上がったばかりの12歳だった。この全国行きの切符をかけた試合で、大谷は、規定の6イニング全18個のアウトのうち、初回から9者連続を含む17個の三振を奪う離れ業をやってのけた。
大谷さんが、奪三振マシーンと化した要因には、MAX120キロの直球に加えて、縦に鋭く曲がる高速スライダーに打者がまったくついていけなかったからだとか。
大谷翔平、リトルシニア時代には伝説の川ポチャホームランを連発
中学1年の夏以降は、「一関リトルシニア」に所属することになった大谷翔平さんでしたが、父・徹さんもコーチとして「一関リトルシニア」に関わることになったそうですね。
「一関リトルシニア」の練習は週4日と、自動車工場で昼夜二交代制で働く徹さんにとってはかなり厳しいスケジュールだったようですが、睡眠時間を削ってまで息子の練習に付き合うこととなったとか。
「一関リトルシニア」時代の大谷さんですが、河川敷の練習グラウンドだったせいで、打撃練習中に川にポチャリと入るホームランを連発してしまったという伝説が残っております。
練習用の硬式野球ボールは、1個数百円と中々なお値段なため、大谷さんの打撃練習中に川底に消えてしまうボールを補填するだけでも結構な額になってしまう状況でした。
そのため、「一関リトルシニア」の監督から飛距離の出る引っ張り打ちを禁止されてしまった大谷さんでしたが、そのうち流し打ちでも川ポチャホームランを打てるほどの成長を見せて、周囲をさらに驚かすことになりました。
そんなスーパーすぎる大谷さんがいた「一関リトルシニア」は、大谷さんの代で当然のように全国大会に出場しているようですね。
大谷翔平のプロ野球までの道程~花巻東時代は成長痛に悩まされる
大谷翔平、高校野球の名門・花巻東高校に進学
中学を卒業後の大谷翔平さんは、高校野球の名門である花巻東高等学校へ進学します。
大谷さんが、進学先に花巻東を選んだ理由は、エースとして花巻東を甲子園準優勝に導いた菊池雄星さんに憧れていためだそう。
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花巻東入学後の大谷さんは、野球部監督である佐々木洋さんの指示により、将来の夢を叶えるために必要な行動や要素をまとめ上げた「目標達成シート」を作ることになりました。
高校球児の身でありながら、将来の目標が甲子園出場ではなく、ドラフト1位指名なところに、大谷さんの大物ぶりが現れていると言えます。
花巻東入学直後の大谷さんは、既に190cmの長身に育っておりましたが、体重がわずか65kgとヒョロヒョロとした体型だったため、まずは1日ご飯10杯を食べる食育からスタートすることになったそうですね。
「大谷は入学時、身長が190センチもあるのに65キロしかなくて、本当に細かったんです。体の使い方は上手。技術的にもしっかりしていた。あとは体を大きくして強くする、という課題が明確でした。
大谷翔平、成長痛に悩まされながらも超高校級投手へ
入学時に既に身長190cmだった大谷翔平さんでしたが、骨がまだまだ成長段階にあったため、高校時代を通して成長痛に悩まされることになりました。
そのため、入学から1年の秋までは打者に専念させるなど、監督である佐々木洋さんも試行錯誤しながら大谷さんの育成にあたることになります。
そんな状況下でも高校1年時にはMAX147キロを記録するなど、抜群の素材ぶりを発揮していた大谷さん。
高校2年の春には、MAX151キロのストレートを投げるほどに成長していた大谷さんは、プロのスカウトたちから「みちのくのダルビッシュ」との異名をつけられます。
大谷翔平、甲子園に2大会連続で出場するも共に1回戦で敗北
大谷翔平さんが、初めて甲子園に出場したのは、高校2年の夏のことでした。
本来ならば、ここで華々しい甲子園デビューを飾っていたはずの大谷さんでしたが、当時は左股関節の骨端線損傷という成長痛のいち症状に悩まされていたため、先発を回避して外野手として1回戦の帝京高校戦に挑むことになりました。
帝京戦は先発投手がKOされたため、大谷さんがリリーフ登板をすることになりましたが、序盤の大量失点が響き、7-8で花巻東は敗れております。
全国に大谷の名を知らしめたのが、昨夏の甲子園だった。1回戦の帝京戦で救援登板。5回2/3を3失点(自責1)で負けたものの、150キロをマーク。05年夏に駒大苫小牧の田中(楽天)が記録した2年生の甲子園最速に並んだ。それも、左太もも裏痛で「全力で投げられない」状態で。下半身を使わない「手投げ」で、驚かせた。
続く、高校3年春の「春の選抜大会」でも東北予選を勝ち抜いて甲子園出場を果たした花巻東ですが、今度は1回戦にて、この大会の優勝チームとなる大阪桐蔭高校と対戦するというくじ運の悪さに泣くことになります。
この試合は大谷さんが先発したものの、8回と3分の2を投げて9失点と、大阪桐蔭打線に打ちのめされることなり、花巻東は2-9で敗退しました。
大谷翔平、メジャー挑戦表明するもドラフト1位で日本ハムが強行指名
高校3年の夏時には、NPB球団どころかメジャー球団までもが注目をする逸材となっていた大谷翔平さんは、岩手県大会準決勝の一関学院高等学校戦でMAX160キロを記録するなど、全国メディアでも話題となります。
しかしながら、岩手県大会決勝の盛岡大学附属高校戦では、誤審3ランホームランに泣き、3-5で敗れることとなった花巻東。
3年夏の甲子園出場を逃した大谷さんに待っていたのは、日米各球団によるスカウト合戦でした。
そして高校生3年生の秋、ドラフトが近づいてくると大谷の進路が注目されるようになります。国内球団をはじめ、ドジャース、レンジャーズ、レッドソックスのメジャー3球団と面談を行い、高校の監督や両親と進路に関する話し合いを何度も重ねた結論がメジャー挑戦でした。
本来なら、このまま高卒後はアメリカへ渡米していたはずの大谷さんでしたが、2012年のドラフト会議で日本ハムファイターズが大谷さんを1位指名します。
指名された当初は、「一刻も早くアメリカに挑戦したい」という思いが強かった大谷さんですが、入団交渉を重ねていくうちに説得をされて、最終的には日本ハム入団を決意することになりました。
若年期のメジャー挑戦の不安を示した30ページに及ぶ「大谷翔平君 夢への道しるべ」には「自分の知らないことがあった」と言い、画期的な「エース兼4番」の二刀流育成プランと、具体的に示されていくうちに心変わりした。「自分の中でどちら(投手と打者)でやりたいのか…。やりたい方は投手なんですけれども、どちらで、というのが自分の中ではっきりしていない。どちらでもやってみたい。すごくうれしかった」と言葉を選んだ。
まとめ
・大谷翔平の家族は父が元社会人野球選手、母が元バドミントン選手、兄は社会人野球コーチ、姉は看護師である。
・大谷翔平は小学生の頃より野球の才能を開花し、小5の時にはMAX110キロの速球を投げていた。
ちなみに、大谷翔平さんの高校通算本塁打数は56本と、打者単体でもドラフト1位指名確実なスラッガーだったりしました。
高校時代には、成長痛などの逆境があったものの、挫折らしい挫折を知らずにNPBのスターとなり、23歳の若さでMLB移籍まで果たしてしまった大谷さん。
日本の野球ファンたちからは、華麗すぎる大谷さんの野球歴は漫画の主人公を超えているとも称されています。
大谷さんのさらなる活躍を期待しつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。