2016年5月12日に演出家の蜷川幸雄さんが永眠されました。
ご冥福をお祈りするとともに、蜷川幸雄さんの生前の経歴や芸能界からのお悔やみの声などをまとめてご紹介します。
蜷川幸雄さんのプロフィール
名前:蜷川幸雄(にながわゆきお)
出身地:埼玉県川口市
生年月日:1935年10月15日
没年月日:2016年5月12日
血液型:A型
所属事務所:舞プロモーション
日本を代表する演出家の蜷川幸雄さんは、2016年5月12日に満80歳で逝去しました。
経歴
蜷川幸雄さんは高校卒業後、画家を目指し東京藝術大学美術学部を受験しますが失敗、たまたま観に行った「劇団青俳」の「制服」(安部公房)の公演に感銘を受け、1955年に入団します。
「劇団青俳」では最初俳優として活動していましたが、自身は演出に向いているとし、演出家に転向。その後「現代人劇場」「櫻社」など自身で劇団を結成し小劇場中心に活動していましたが、1974年の帝国劇場「ロミオとジュリエット」の演出をきっかけに商業演劇にも進出しました。舞台ジャンルは、現代劇、古典劇、近代劇、歌舞伎など、幅広く手がています。
出身地の埼玉県では、蜷川幸雄さん主宰の「さいたまゴールド・シアター」(55歳以上の俳優で構成、2006年から)、「さいたまネクスト・シアター」(若手俳優で構成、2009年から)を発足し、演劇界の発展にも注力しました。
蜷川幸雄さんの舞台ではアイドルから俳優まで様々な役者を起用し、その力を最大限に引き出す手法から、数多くの芸能人に慕われていました。イギリスの舞台でもシェイクスピア作品などの演出を手がけており、その手腕は高く評価され「世界のニナガワ」と呼ばれることもあります。
演出家として国内外から様々な賞(大英帝国勲章三等勲章(2003)、紫綬褒章(2001年)、文化勲章(2010年)など)を受賞、女子美術大学や桐朋学園短期大学などの大学からも教授や博士の称号を与えられています。
蜷川幸雄さんのご家族
蜷川幸雄さんは4人家族で、妻と娘二人がいます。
蜷川幸雄さんの嫁は真山知子
妻は、元女優でキルト作家として活動している真山知子さんです。
芸名:真山知子(まやまともこ)
本名:蜷川宏子(にながわともこ)
出身地:東京都渋谷区
生年月日:1941年1月22日
真山知子さんも1962年に劇団青俳に入団しており、そこで出会った虻川幸雄さんと1965年に結婚しました。結婚後も俳優として活動していましたが、1978年から育児のため休業し、現在は1984年頃から始めた手芸で教室も開くキルト作家です。
蜷川幸雄さんには娘が2人
蜷川幸雄さんと真山知子さんの間には二人の娘がいて、そのうちの一人が写真家の蜷川実花さんです。
名前:蜷川実花(にながわみか)
出身地:東京都東久留米市
生年月日:1972年10月18日
蜷川実花さんの写真は、独特な世界観を映し出し、写真界の芥川賞とも呼ばれる木村伊兵衛写真賞(2001年)などを受賞しています。2007年には映画「さくらん」、2010年のAKB48「ヘビーローテーション」のPVで、映像監督デビューも果たしています。
2018年現在、3度目の結婚をしており、2人の子供がいることを公表しています。
なお、蜷川実花さんの妹にあたる次女は一般の方で、お名前は麻実さん。その他、蜷川幸雄さんの姪には、蜷川有紀さん、蜷川みほさんなどの女優もいます。
蜷川幸雄さんの死因について
蜷川幸雄さんの死因は肺炎による多臓器不全
長らく演出家として舞台の第一線で活躍していた蜷川幸雄さんですが、肺炎による多臓器不全で逝去されました。
肺炎は厚生労働省が発表した日本人の死因第3位にもあげられ、その9割以上が65歳以上の老人です。高齢者が肺炎にかかってしまうと重症化してしまうケースも多く、中には多臓器不全をまねき死にいたらしめることもある怖い病気です。
また蜷川幸雄さんは、1990年代後半以降、様々な病気にも悩まされています。
1997年に心筋こうそくで心臓のバイパス手術を受けた。2001年には腹部大動脈瘤(りゅう)を手術、09年には脳梗塞で入院。13年1月に狭心症で手術を受けた後、14年秋にも体調を崩し、以降は車いすに酸素吸入器も携帯して稽古場に通い、会見に出席したこともあった。
自身の体調よりも、仕事が優先というプロフェッショナルな姿勢が見えてきます。
しかし80歳という高齢のため、2016年に予定していた舞台は体調が思わしくなく、苦渋の延期を決めています。
2016年公演予定だった「蜷の綿」
蜷川さんは昨年12月中旬に体調を崩し軽度の肺炎と診断され入院。1月から稽古に入る予定だったが、体力の回復が十分ではなく、延期を決めた。
「蜷の綿」は、蜷川さんの半生をモチーフに、藤田貴大さん(30)が戯曲を執筆。藤田さんが同作を演出する公演も延期する。
蜷川さんは「悔しい気持ちでいっぱいです。早く回復して劇場に戻ります」とコメントした。
最後の最後まで舞台への情熱が色あせていない様子が、舞台延期を決めた時の「悔しい気持ちでいっぱいです」の一言に集約されています。「蜷の綿」については、ドキュメンタリー番組がNHKにて放送予定です。
故・蜷川幸雄、未完の舞台『蜷の綿』裏側追ったドキュメンタリーをNHKで放送
年を経ようが病気に犯されようとも、なお舞台に取り組もうとする蜷川幸雄さんという人は、弔問に訪れた渡辺謙さんの言葉にある、
永遠の演劇青年の姿しか記憶にありません。
の一言に尽きるかもしれません。
大学受験失敗がきっかけに始まった蜷川幸雄さんの演劇人生は、死の直前までその情熱が失われることはなかったようです。
蜷川幸雄さんの通夜・告別式
蜷川幸雄さんの通夜
蜷川幸雄さんの遺影
これは、写真家でもある娘の蜷川実花さんが撮影されたもの。
蜷川幸雄さんは、鬼のような厳しい演劇指導を行うことでも知られていました。
貫いたのは「自分の視点は放棄したくない」という志。その世界観を具現する立場の俳優に対しては、常に厳しく怒鳴りつけた。「おまえは、コンビニで手に入る程度の欲望しか持ち合わせていないのか!」。外国の戯曲を日本的な視点で料理する物語のスケールに比べ小さな演技をしていると感じれば容赦なかった。「バカ!」「クソ!」「マヌケ!」「イヌッ!」…。年上にも平気で暴言をぶつけた。
それも俳優の可能性に期待すればこそ。「稽古から千秋楽までは、自分をさらけ出してぶつかる、親兄弟より生々しい関係」と話すような熱さに魅了され、千秋楽では涙を流し、別れを惜しむ俳優も少なからずいた。
しかし蜷川幸雄さんの厳しさは期待の裏返しで、それぞれの演技力を最大限に生み出す手腕で、たくさんの実力派俳優を生み出してきました。そのため俳優や関係者からの信頼は厚く、とても慕われていたそうです。
それは、2016年5月15日の通夜、2016年5月16日の告別式に多くの俳優や関係者が訪れた事からもうかがい知れます。
蜷川幸雄さんの通夜は5月15日、東京都港区の青山葬儀所で行われた。SMAPの木村拓哉に女優の宮沢りえ、俳優の藤原竜也たちとそうそうたる顔ぶれが集まり、ファンも含め約1600人が参列した。
肺炎による多臓器不全のため12日に死去した舞台演出家の蜷川幸雄さん(享年80)の告別式が16日、東京・青山葬儀所で営まれ、藤原竜也さんや小栗旬さん、市村正親さん、渡辺謙さん、「嵐」の二宮和也さん、松本潤さんら生前親交のあった関係者や一般の弔問客を含む1300人以上が参列。蜷川さんは“愛弟子”の藤原さんや小栗さんらに棺を抱えられ、参列者からの惜しみない拍手の中で旅立った。
また、演劇に関することでは厳しかった蜷川幸雄さんですが、いつもは優しく温厚な人柄ということでも知られています。
蜷川さんが主宰の「さいたまゴールド・シアター」の俳優たちからは、その優しさを回顧しています。
演劇界に新風を巻き起こした高齢者の演劇集団「さいたまゴールド・シアター」の団員たちからは「厳しくて優しい人」「天才」「愛情深い人」などと惜しむ声が相次いだ。
蜷川幸雄さんが多くの俳優たちに慕われていたのも、厳しい指導の奥にあるその人柄の良さ・優しさが成せた技だったようです。
蜷川幸雄さんの告別式、芸能人の弔辞
告別式では、蜷川幸雄さんが演出する舞台でデビューした俳優の藤原竜也さんや、その他、大竹しのぶさん、平幹二朗さん、吉田鋼太郎さん、小栗旬さんらが弔辞を述べました。
告別式に参加した藤原竜也さん
蜷川さんに見いだされ、97年の「身毒丸」でデビューした藤原は、弔辞で「19年間、苦しくも…、ほぼ憎しみでしかないですけど」と苦笑しながらも「最高の演劇人生をありがとうございました」と大泣きした。小栗も「嫌われて、僕も勝手に嫌って、仲直りしてもらって、やっと一緒に(次回作を)できると思っていたのに悔しいです」と呼び掛けた。
ジャニーズ事務所の所属タレントも多く蜷川作品に出演しており、プライベートでも交流のあったジャニー喜多川社長からも哀悼の意が伝えられています。
ジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長(84)は「昭和と平成を見事につなげた人が、東京五輪を待たずに、さよならなんてずるいよ」と追悼のコメントを事務所を通じて出した。
80歳以上という長い時を生き抜き、芸能という世界を駆け抜けてきた二人ならではの通じ合えるものがあったのかもしれません。(ジャニーズタレントからも追悼コメントは、こちら→ジャニー喜多川氏、少年隊ら蜷川幸雄さん追悼 木村拓哉「悔しい」)
娘の蜷川実花さんからは、蜷川幸雄さんの最後の言葉が妻である真山さんへの呼びかけだったと語っています。
父の最期の言葉について、実花氏は「母が病室にいなかったタイミングで、『真山は?』と言っていたのが、最期の言葉なんじゃないかな…」と、かつて女優として活動していた妻の芸名(真山知子)を呼んでいたことを明かした。
ご冥福をお祈りします。