かつては「現代のベートーベン」とも称えられた音楽家の佐村河内守さんですが、2014年にゴーストライター騒動が勃発し、すべての名誉を失ってしまうことになりました。
この記事では、佐村河内守さんのゴーストライター新垣隆さん騒動の顛末、耳が聞こえる噂の真相や現在の様子についてまとめてみました。
この記事の目次
佐村河内守の「ゴーストライター騒動」とは
佐村河内守、現代のベートーベンとして一躍有名に
佐村河内守さんといえば、「交響曲第1番 HIROSHIMA」の作曲者としてお馴染みであり、「現代のベ-トーベン」として一世を風靡した音楽家でした。
佐村河内さんは元々は健常者であったものの、被爆2世である身の上が原因で、30代の頃より聴覚障害に悩み始めて全聾の身になってしまったと自称していました。
そのため、2000年代後半頃より各種情報番組で特集され続けた結果、代表曲である「交響曲第1番 HIROSHIMA」が20万枚近いCDセールスを記録するなど、クラシック音楽を手掛ける作曲家としては破格の知名度を誇っていたようですね。
新垣隆、佐村河内守のゴーストライターだったと衝撃告白
2013年6月には、全国30ケ所を巡る「交響曲第1番HIROSHIMA」全国ツアーが開始されるなど、我が世の春を謳歌していた佐村河内守さんでしたが、2014年2月5日になると、「週刊文春」にゴーストライター疑惑記事が掲載されることになりました。
佐村河内さんを告発した人物は、当時桐朋学園大学で音楽講師をしていた新垣隆さんでした。
佐村河内さんと新垣さんの出会いは1996年まで遡るらしく、以降に発表された楽曲は新垣さんがゴーストライターとして作曲したものであり、代表曲の「交響曲第1番 HIROSHIMA」も彼の作品となります。
新垣さんが佐村河内さんを告発した理由については、世間を欺き続ける罪悪感に耐えきれなくなった末の行動だったようですね。
しかし、彼がどんどん世間に知られるようになるにつれて、この関係が世の中に明らかになってしまうのではないか、と不安を抱くようになりました。同時に、「これ以上、自分の大好きな音楽で世間を欺き続けたくない」という気持ちが、私の中で大きくなっていきました。
ちなみに、新垣さんが佐村河内さんとの関係を解消しようと思い始めたのは、2013年5月頃だったらしく、当初はマスメディアに告発するといった強硬手段は考えていませんでした。
しかしながら、関係解消の提案をした際の佐村河内さんの反発が凄く、「曲を提供してくれないと妻と一緒に自殺する」との脅迫メールまで送信してくるほど関係がこじれてしまったため、強硬手段に出る羽目になりました。
佐村河内守の耳は聞こえる?~会見で新垣隆が真相を明かす
新垣隆、佐村河内守は「耳が聞こえないと感じたことはない」と激白
新垣隆さんの告発騒動により、作曲家としての名声を失ってしまった佐村河内守さんでしたが、全聾という設定すら嘘であったことも暴露されています。
佐村河内さんが全聾設定を使い始めたのは1999年頃からとなっており、新垣さんはゴーストライター活動を開始して以降に、佐村河内さんより耳が聴こえなくなったとの報告を受けていたようですね。
とはいえ、全聾設定開始当初は、新垣さんとの楽曲制作の打ちあわせを手話で行っていた佐村河内さんですが、次第に面倒臭くなったのか、途中から言葉のみのやり取りで打ち合わせすることが当たり前になっていたとか。
新垣氏の説明では、佐村河内氏が聴力を失ったと世間に公表した当初、新垣氏にも「耳が悪い状況である」と打ち明けてきた。障害者手帳を見せられ、手話などを交えて会話するようになったが、次第に手話がなくても会話が成立するようになっていたという。新垣氏は「最近は普通にやりとりしていた。彼は障害者ではないと思います。手帳は(本物とは)違うのではないかと思います」と強調した。
新垣さんの告発を受けて、障碍者手帳を発行していた横浜市が再検査を行ったところ、佐村河内さんには本当に聴覚障害があったものの、軽症であったことが確認されています。
横浜市による再検査では中度の感音性難聴と診断され、障害者手帳の交付の対象となるレベルではなかった。
引用:佐村河内守
佐村河内守、指示書を使い新垣隆に作曲を依頼
また、新垣さんのゴーストライター業は、佐村河内さんより上記のような指示書を受け取った後、そのイメージに沿った楽曲を作曲するといった作業の繰り返しでした。
当然ながら、その中には新垣さんが作ったデモ音源の確認作業も含まれており、自分の耳で音源をチェックした佐村河内さんが意見を口にすることも珍しくなかったようです。
佐村河内守、新垣隆に支払ったギャラは20曲で700万円程度
新垣隆さんの告発騒動では、佐村河内守さんが支払っていたゴーストライター代までも明らかになっています。
18年間のゴーストライター稼業で、佐村河内さんに20曲を提供していた新垣さんですが、受けた取った報酬総額はわずか700万円程度でした。
とはいえ、佐村河内さんは、納得の行く楽曲を作成するためには赤字覚悟でオーケストラ代やスタジオ代を捻出する気質も持ち合わせていたため、新垣さん的には報酬の安さは気にならなかったそうですね。
彼には、自分が取ってきた仕事で「自分のアイデアをどうしても実現したい」という強い気持ちがありました。実際に寄せられた予算を大幅に超えたお金を自分で出して、(演奏する)メンバーを雇い、スタジオを借り、私が協力するという形で(楽曲を)作ってきました。彼はやりたいことを実現させるために頑張り、そのようなことはたびたびあったので、私は偉いなと感じていました。
佐村河内守の暴かれた虚像と本当の経歴~公称プロフィールはすべて嘘
佐村河内守(さむらごうち まもる)
生年月日:1963年9月21日
出身地:広島県広島市佐伯区
佐村河内守、自称していた生い立ちは嘘だった
佐村河内守さんに関しては、被爆者手帳を持つ両親の元、1963年9月に広島市佐伯区に誕生しているため、被爆2世であることは本当だったようですね。
●4才で母親のピアノの英才教育が始まり、10才でベートーベンやバッハを弾きこなした。
●中高生時代にして楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法などを学び、高校2年生の時に音楽をより深く学ぶために東京へ家出を試みた。
●高校卒業後は、現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、独学で作曲を学んだ。
一方で、佐村河内さんが公称していた上記の経歴は嘘だったらしく、地元の同級生たちの証言によると、ピアノを弾いている姿すら見たことがないほど音楽とは無縁な少年時代だったという話になっています。
佐村河内守、高校卒業後は悪役俳優を目指していた
佐村河内守さんの実際の少年時代に関しては、同世代の多くの男子たち同様に不良に憧れを抱いていた一方で、真偽不明の喧嘩の武勇伝を吹聴する悪癖があったため、周囲からほら吹き扱いされていました。
中学を卒業後は、崇徳高校商業科に進学した佐村河内さんでしたが、学園祭で手品を披露したり演劇部に所属していたりしたため、同級生たちからは目立ちたがり屋だと思われていたようですね。
崇徳高校を卒業後は、京都にある東映の太秦撮影所で大部屋役者していた佐村河内さんですが、悪役商会のメンバーと仲良くなったことをきっかけに、東京に上京して悪役俳優を目指すことになりました。
とはいえ、上京後に「まさし君」というSPドラマでチンピラ役をゲットしたものの、基本的には仕事がなくアルバイトで生計をたてる日々が続いていました。
佐村河内守、ミュージシャンを目指すも失敗していた
役者としてまったく芽が出なかった佐村河内守さんですが、1988年頃より、ミュージシャンを目指して音楽関係者にデモテープを送り始めるようになりました。
音楽関係者も認める美声の持ち主であった佐村河内さんは、作曲家の大倉百人さんに見初められた結果、レコード会社を招いた公開ライブを開催して貰えるなど、破格の待遇を受けたこともあったようですね。
しかしながら、「広島時代は暴走族のリーダーをしていた」などと嘯く佐村河内さんの言動がイマイチ信用し切れなかった大倉さんは、結局は佐村河内さんのプロデュースから手を引くことを決断しました。
その後2、3社が契約を持ちかけたが、「直後に弟さんが亡くなったり、彼自身の“問題”もあり、(オファーを)詰めることなくやめました」と振り返る。この“問題”こそが虚言癖とし「すぐ嘘をついていた。このまま彼に関わっていくと、こっちがヤバくなると感じた」と打ち明けた。
業界の有力者から見限られてしまった佐村河内さんは、メジャーデビュー話も流れるなど散々な目にあいましたが、その後も「Kids」というバンドを結成して音楽活動自体は続けていたと言われております。
佐村河内守、バンドマンから新垣隆との出会いで作曲家に転身
バンドマンとして音楽活動を続けていた佐村河内守さんですが、1993年にNHKの「山河憧憬」という番組から劇伴の依頼を受けたことをきっかけに、作曲家としての活動も開始しています。
とはいえ、あくまでバンド活動の傍らで作曲もしている程度であり、譜面も読めなかった佐村河内さんは、1996年に映画「秋桜」の劇伴の仕事を引き受けた際には、専門教育を受けたアシスタントの必要性を痛感していたようですね。
そんな折に出会った人物が新垣隆さんだったらしく、以降の佐村河内さんは、新垣さんの作曲能力を頼りに各方面に営業を仕掛けるようになり、前述の詐称した経歴を自称し始めた他、全聾キャラを演じるようになりました。
1996年夏、アシスタントを探していた佐村河内は、自身がシンセサイザーで作った「短いテーマ曲」を新垣に渡して、「これをあなたにオーケストラ用の楽曲として仕上げてほしい。私は楽譜に強くないので」と頼んだ。佐村河内は「この作品はぼくの名前で発表したい。君の名前は演奏家としてクレジットするし、将来必ず引き上げるから、しばらく協力してほしい」と言ったという。
引用:佐村河内守
佐村河内守の結婚した嫁と子供について
俳優として下積み時代が続いていた佐村河内守さんですが、1988年2月になると、3歳年上の女性・香さんと結婚しています。
佐村河内さんと香さんは、元々同郷で同じ団地に住む顔なじみだったそうですが、その馴れ初めに関しても胡散臭いエピソードが存在するようです。
同氏への不信感は、昔から芽生えていた。香には同氏と同じ年の弟がいた。香と同団地に住んでいた同氏は高校生時代「○○君(香の弟の名)の友達です。香さんいらっしゃいますか」と突然香の家を訪ねてきた。後に弟に同氏について尋ねると「そんなやつ知らない」と答えたという。うそをつき香に接近した可能性があった。
結婚後の佐村河内さんは、一家の大黒柱として奮闘することはなかったそうで、本人の収入は、結婚後の7年間で20万円しかなかったと言われております。
そのため、結婚からしばらくの間は、佐村河内家の家計は全面的に香さんが担うこととなり、子供服店で働きながら佐村河内さんの芸能活動を支えることになりました。
ちなみに、2人の間には年齢は不明なものの娘も誕生しているようです。
とんでもない苦境にあった佐村河内さんですが、それでも妻・香さんが夫を見捨てて離婚することはなかったようで、少なくとも2018年12月時点では離婚はしていないようです。
佐村河内守のその後と現在~莫大な借金で自宅は競売にかけられていた
佐村河内守、ツアー中止の損害賠償で4000万円超の借金
新垣隆さんによる告発騒動後の佐村河内守さんですが、それまで持て囃していたマスメディアからも手の平を返されることとなり、ペテン師として大バッシングを受けることになりました。
その結果、開催中だった「交響曲第1番HIROSHIMA」全国ツアーも14公演を残して中止の憂き目となり、公演を主催していた「サモンプロモーション」から損害賠償訴訟を起こされてしまいました。
こちらの損害賠償訴訟については、2017年に決着がついており、佐村河内さんに対して4230万円の支払い命令がでています。
佐村河内守、JASRACに分配金を凍結されて訴訟沙汰に
新垣隆さんによる告発騒動後の佐村河内守さんは、JASRAC側の「著作権の所在が明らかでない」との判断により、著作権管理契約を解除されたうえ、著作権使用料700万円の分配も凍結されることになりました。
とはいえ、佐村河内さん側もJASRACの措置に黙って従っていたわけではなく、2016年10月になると「新垣さんより著作権の譲渡を受けた立場」を主張し、JASRACを提訴しています。
こちらの裁判については、2019年11月現在係争中のようです。
佐村河内守、ドキュメント映画にもなっていた
告発騒動後の佐村河内守さんについては、ドキュメンタリー映画「FAKE」の主人公にもなっています。
「FAKE」の監督を務めたのは、オウム真理教関連のドキュメンタリー映画「A」シリーズの監督・森達也さんでした。
マスコミ関係者向けの試写会では好評だった「FAKE」ですが、劇場公開日が2016年6月と、既に騒動が風化した時期の作品だったこともあり、世間では特に話題になることもなく公開終了しています。
佐村河内守、自宅マンションが競売に
佐村河内守さんの現在については、2017年にプロレスラーのザ・グレート・サスケさんの入場テーマ曲を作曲して以降は、表立った活動がない状況となっています。
佐村河内さんの最新の話題は、2018年12月に、神奈川県横浜市内にある自宅マンションが競売にかけられているといった記事が週刊誌を騒がしました。
佐村河内さんの自宅マンション関しては、前述の「サモンプロモーション」が2014年に仮差し押さえをしていた状況だったのが、損害賠償訴訟の決着を機に強制競売開始となっていたようですね。
今年3月に予定していた全国ツアーがゴーストライター問題で中止に追い込まれたとして、コンサート企画会社のサモンプロモーションが佐村河内氏に約6100万円の損害賠償を求めて提訴した。そのため佐村河内氏の財産を保全するため、提訴前に大阪地裁を通じ、冒頭の自宅マンションを仮差し押さえしたのである。
ちなみに、代理人弁護士の話によると、佐村河内さんに残った唯一の財産と言える自宅マンションは、既に次の持ち主が決まる寸前だったようです。
佐村河内守の「ゴーストライター騒動」についてまとめると…
・佐村河内守は、新垣隆に本当は耳が聞こえることを暴露された
・佐村河内守は1988年2月に同郷の女性と結婚、娘が1人いるといわれている
・佐村河内守は現在、損害賠償による莫大な借金により自宅が競売にかけられた
まさに身から出た錆で破滅してしまったと言える佐村河内守さんですが、この手のはったりだけで成り上がる人間が、意外と多い日本社会も無防備と言えるのかもしれませんね。
佐村河内さんが今度は真っ当な手段で再起出来ることを祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。