ジャイアンツの大エースとして知られる斎藤雅樹投手ですが、全盛期の成績は現在も多くの野球ファンの記憶に残っています。
今回は斎藤雅樹の経歴、球速や球種、全盛期の凄いエピソード、成績や年俸、引退理由や現在をまとめました。
この記事の目次
齋藤雅樹のプロフィール
斎藤雅樹
生年月日:1965年2月18日
出身:埼玉県川口市
身長:181cm
所属:元読売ジャイアンツ
活動:プロ野球選手
斎藤雅樹は、1980年代~1990年代に読売ジャイアンツのエースとして活躍したプロ野球選手です。
サイドスローが特徴で、桑田真澄・槙原寛己と共に先発3本柱と呼ばれ、さらに「平成の大エース」とも呼ばれたピッチャーです。
先発3本柱の中でも特に素晴らしい成績を残し、2016年には野球殿堂入りを果たしています。
齋藤雅樹の経歴
巨人の大エースである斎藤雅樹の経歴を見ていきましょう。
プロ入り前
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斎藤雅樹が野球を始めたのは、小学校5年生の時です。母親が、リトルリーグの選手募集に申し込んだことがきっかけでした。
リトルリーグ時代はキャッチャーでしたが、中学・高校で頭角を現します。甲子園出場はならなかったものの、1982年のドラフト会議で、巨人から1位指名を受けます。
全国大会に出場していない高卒の選手がドラフト1位指名を受けるということは、いかに高い評価を受けていたかがわかりますね。
巨人時代
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1982年のドラフト会議で巨人から1位指名された斎藤雅樹は、打撃センスを買われ、野手転向を勧められたこともあったようです。
プロ2年目で1軍デビューすると、プロ3年目の1985年には先発ローテに定着します。
しかし、順風満帆だったわけではありません。1986年~1988年の3年間は1軍と2軍を行ったり来たりすることもありました。
当時の監督である王監督からは、「ノミの心臓だから、先発に向かない」と評されていました。
しかし、1989年に監督に就任した藤田監督に「お前は気が弱いんじゃない、気が優しいんだ」と諭され、さらに藤田監督の勧めでサイドスローに転向した後、徐々にその才能が開花します。
その後、「平成の大エース」「球界のエース」「ミスター完投」と呼ばれるくらい、巨人の大エースに成長した斎藤雅樹。
2年連続20勝、1993年から1997年まで5年連続で開幕投手を務めるなど、間違いなく巨人のエースであり、球界のエースとして活躍しました。
しかし1990年代後半になると、年齢的なこともあり、徐々に衰えが見え始め、故障がちになっていきます。
そして、2001年シーズン終了後に現役を引退しました。
現役引退後
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2001年に現役を引退した斎藤雅樹は、翌シーズンから巨人の一軍投手コーチを務めます。
その後は野球解説者を2年間務めて、その後は長く巨人のコーチを務めています。
斎藤雅樹の凄さを球種・球速から分析してみた
斎藤雅樹は巨人の大エースになったのは、なぜでしょうか?
その秘密を探るために、斎藤雅樹の球種と球速を見ていきましょう。
斎藤雅樹の球種
斎藤雅樹の球種は、次のものがあります。
・スライダー
・シンカー
スライダーは、本人曰くカーブとのことです。
平成の大エースは、この3つしか球種がなかったんです。本当はもっといろいろな球種を投げられたのかもしれませんが、試合で使うのはこの3つでした。
しかも、シンカーは「最後まで信頼できる球ではなかった」と本人が言っていることからもわかるように、あまり使っていません。
つまり、斎藤雅樹の球種はストレートとスライダーの2つだけだったということになります。
ダルビッシュ投手は10球種以上、金子弌大投手は8球種、一般的なピッチャーでも3~4球種は持っているのが普通と言われています。
そのため、球種がほぼ2つというのは先発ピッチャーとしてはかなり珍しいでしょう。
斎藤雅樹の球速
次に、斎藤雅樹の球速を見ていきましょう。
斎藤雅樹の球速は、140km/h後半でした。1989年は最高球速が146km/h、1994年には148km/hを記録しています。
今の感覚で言うと、あくまで普通の球速ですが、今から約20年前という時代的なことに加え、斎藤雅樹はサイドスローでした。
サイドスローのピッチャーの人数が少ないというのもありますが、オーバースローやスリークォーターよりも、サイドスローは球速が出にくい傾向にあります。
サイドスローの斎藤雅樹が球速146~148km/hを出すことができれば、バッターを抑えやすくなりますよね。
ただ、対戦したバッターに言わせると、斎藤雅樹の武器は球速よりも、そのコントロールとキレにあったそうです。
キレが凄くてストレートもスライダーも超一級品。そして、コントロールが抜群だった。だから、平成の大エースになることができたというわけですね。
斎藤雅樹の凄すぎる全盛期エピソード
斎藤雅樹の全盛期は、1989年から1995年までと言われています。
成績についてはこの後説明しますので、それ以外の面でどれだけ全盛期が凄かったのかを見ていきましょう。
11試合連続完投勝利
斎藤雅樹は、1989年に11試合連続完投勝利という記録を打ち立てています。
11試合連続勝利というだけでも十分にすごいのに、11試合すべてで完投しているなんて、今の時代から見たらあり得ないことです。
今の時代はピッチャーは分業制になっていますので、よほど調子が良く、球数が少ない時でないと完投はありませんから。
1989年5月10日を皮切りに、そこから中5~6日で投げ続け、6月16日には延長10回まで投げています。
ちなみに、この11試合連続完投勝利の中で、完封は4回。1失点は4回、2失点が3回となっています。ハッキリ言えば、バケモノですよね。
そのくらい、11試合連続完投勝利はすごい記録なんです!
中1日で優勝決定戦!
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巨人ファンなら誰でも覚えている、1994年10月8日の中日ドラゴンズとの試合。この日はシーズン最終戦であり、勝った方がリーグ優勝という優勝決定戦でした。
斎藤雅樹は10月6日に先発し6回まで投げていたので、中1日という状態です。しかも、あまり調子が良いとは言えない状態でした。
10月8日の先発は、三本柱の1人・槙原寛己。チーム優勝をかけた重要な試合で先発した槙原でしたが、2回に早くも打ち込まれ、斎藤雅樹がリリーフでマウンドに上がることになりました。
本人いわく、「中1日だったし、出番はないと思っていた。コーチに「斎藤」と呼ばれたけれど、一度は聞こえないふりをした」とのことです。
2回2-2、ノーアウト1、2塁という場面でマウンドに上がった斎藤雅樹は、見事に後続を抑えて追加点を許さず、6回まで投げ切ります。
そして、7回からは3本柱の1人の桑田真澄が抑え、巨人の優勝となりました。
この日の勝利投手は斎藤雅樹であり、ヒーローインタビューでは「やればできる、できるんです。最後の最後でいい仕事ができた」と叫んでいます。
ちなみに、5回途中で内転筋を痛めたそうですが、テーピングで応急処置をして、6回まで投げ切ったそうです。
さすが全盛期の斎藤雅樹、さすが巨人の大エースです。
斎藤雅樹の成績・年俸の推移
斎藤雅樹の成績
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斎藤雅樹の現役時代の成績を一覧表にしてまとめました。
勝数 | 負数 | 防御率 | |
1983年 | 一軍出場なし | ||
1984年 | 4 | 0 | 3.07 |
1985年 | 12 | 8 | 2.96 |
1986年 | 7 | 3 | 2.40 |
1987年 | 0 | 0 | 18.00 |
1988年 | 6 | 3 | 1.89 |
1989年 | 20 | 7 | 1.62 |
1990年 | 20 | 5 | 2.17 |
1991年 | 11 | 11 | 3.38 |
1992年 | 17 | 6 | 2.59 |
1993年 | 9 | 11 | 3.19 |
1994年 | 14 | 8 | 2.53 |
1995年 | 18 | 10 | 2.70 |
1996年 | 16 | 4 | 2.36 |
1987年 | 6 | 8 | 4.11 |
1998年 | 10 | 7 | 3.08 |
1999年 | 5 | 2 | 4.66 |
2000年 | 3 | 1 | 2.10 |
2001年 | 2 | 2 | 4.32 |
個人タイトルや表彰を見てきましょう。恐ろしいほどの成績であることがわかると思います。
・最優秀防御率:3回
・最多奪三振:1回
・最多勝率:3回
・沢村栄治賞:3回
・最優秀選手(MVP):1回
・ベストナイン:5回
・ゴールデングラブ賞:4回
・最優秀投手:5回
- 最多勝5回、沢村賞3回。
- NPBをちょっとでも見たことがある人なら、この成績がどんなにすごいことかがわかりますよね。本当に素晴らしい投手でした。
斎藤雅樹の年俸
斎藤雅樹の年俸の推移を見ていきましょう。
・1984年:360万円
・1985年:520万円
・1986年:1260万円
・1987年:1260万円
・1988年:960万円
・1989年:1440万円
・1990年:4500万円
・1991年:8400万円
・1992年:7600万円
・1993年:1億1800万円
・1994年:1億1500万円
・1995年:1億8000万円
・1996年:2億7000万円
・1997年:3億3000万円
・1998年:2億9000万円
・1999年:2億9000万円
・2000年:2億5000万円
・2001年:2億1000万円
総年俸は23億1800万円になります。契約金は3500万円ですから、合計すると23億5300万円ですね。
時代が違うため一概には言えませんが、1989年に20勝7敗(防御率1.62)という成績でも、1440万円から4500万円にしか年俸アップしておらず、「巨人、渋すぎ!」と思ってしまいます。
ただ、全盛期が過ぎた後も大幅な年俸ダウンはないのは、功労者に優しい巨人という感じがしますね。
斎藤雅樹の引退理由
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斎藤雅樹は2001年に引退しました。
2001年は5月に走塁時に故障して、二軍落ちになります。その後、一軍に昇格しますが、故障によって体が限界になったために引退を決めたとのことです。
斎藤雅樹と共に、3本柱の1人だった槙原寛己と女房役の村田真一も引退しました。
同時に長嶋茂雄監督も退任することになり、巨人の一時代が終わったとも言える幕引きでした。
斎藤雅樹が結婚した嫁・子供
出典:sanspo.com
斎藤雅樹は、1988年に結婚しています。お相手は高校時代の野球部のマネージャーをしていた女性です。
プロ入りして5年目に、高校時代の野球部のマネージャーと結婚なんて、好印象以外の何物でもありません。
華やかな世界で、いろいろキレイな女性が寄ってくるのにも関わらず、高校時代から付き合っている一般女性との結婚。
しかも、斎藤雅樹さんは浮気とか不倫の噂も一切なかった選手です。まさに好印象!
これだけの大投手なのに、高校の同級生一筋!ピッチャーとしてだけでなく、男としても一流です。
3人の息子さんがいるとのことです。
斎藤雅樹の現在 【名球会入りできない理由とは?】
出典:sanspo.com
平成の大投手である斎藤雅樹は、2016年に野球殿堂入りしています。
現役を引退してから15年後の殿堂入りですが、最多勝5回・沢村賞3回という実績を見れば、当然ですよね。
ただ、200勝を達成しておらず、180勝どまりなので、斎藤雅樹投手ほどの選手が名球会入りできないんです。
2018年まで巨人のコーチをしていましたが、現在は野球解説者として活動しています。なぜか、斎藤雅樹は監督をしていないんです。
巨人一筋ですし、実績から言っても申し分ないのですが、本人にその気がないのかもしれません。
斎藤雅樹は巨人の監督をするには、優しすぎるのかもしれませんね。
まとめ
斎藤雅樹のプロフィールや経歴、球種や球速、全盛の凄さ、成績や年俸の推移、引退理由、結婚した嫁や息子の情報、現在をまとめましたが、いかがでしたか?
・沢村賞3回、最多勝5回、11試合連続完投勝利などのとんでもない記録を持つ
・サイドスローで球種は多くないが、コントロールとキレが抜群
・現在は解説者として活動
今後、斎藤雅樹が巨人の監督をすることはあるのか、注目していきたいです。