阪神タイガースやオリックスで活躍した元プロ野球選手の岡田彰布さんが話題です。
この記事では岡田彰布さんの若い頃の輝かしい活躍、現役時代の成績や年俸推移、結婚した嫁の陽子さんや息子の陽集さんら家族、娘のデマ、高級住宅街にある自宅や現在の活躍などについてまとめました。
この記事の目次
岡田彰布のプロフィール
岡田彰布のプロフィール
生年月日:1957年11月25日
出身地 :大阪府大阪市中央区
身長 :175cm
血液型 :A型
岡田彰布(おかだ・あきのぶ)さんは、阪神タイガースやオリックス・ブルーウェーブ(現在のオリックス・バッファローズ)で活躍した元プロ野球選手です。
特に阪神タイガース時代は長年にわたって主軸として活躍し、1985年のバース、掛布雅之さんとのバックスクリーン3連発は現在も伝説的に語り継がれています。
現役引退後はオリックスで打撃コーチや2軍監督を務めた後、阪神タイガースの監督に就任し、5年間で4度のAクラス入りと1度のリーグ優勝を果たしました。その後はオリックスでも監督を務め、確率論(現在で言うところのセイバーメトリクス)を軸とした緻密さに加え、選手を奮い立たせるような漢気のある采配で名監督と評されました。
岡田彰布の若い頃① 子供時代から生粋の阪神タイガースファンとして成長
続けて、岡田彰布さんの若い頃の経歴についても紹介していきます。
岡田彰布さんの実家は大阪市中央区玉造で町工場「大阪紙工所」を経営しており、父親の岡田勇郎さんは阪神タイガースの有力後援者で、当時の阪神の中心選手だった村山実さん、藤本勝巳さんとも親交があったそうです。
その影響で、岡田彰布さんも幼い頃から生粋の阪神ファンとして成長し、東大阪市の朝陽ヶ丘幼稚園に入園した頃には、当時のタイガースの三塁レギュラーで、名手と称された三宅秀史さんに可愛がってもらい、自宅近くの公園でキャッチボールをしてもらったそうです。
以来、三宅秀史さんは岡田彰布さんの憧れのプロ野球選手となり、阪神タイガース入団時にも、かつて三宅秀史さんが着用していた背番号「16」を希望しています。
その三宅さんとは、オヤジと親交があり、小さなときからオレはかわいがってもらった。自宅近くの公園でキャッチボールをしてもらい、そのときは、オレの手を見て「小さい手やし、指が短いから、内野手でいけ」とアドバイスしてもらった。
それもあって、16番に決め、それでオレのプロ人生はスタートしたのである。
岡田彰布さんは大阪市立愛日小学校に入学後、南海ホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス、当時は大阪に拠点を置いていた)が主催する「ホークス子供の会」に入会して本格的に野球を始めています。
小学4年生の時には大阪球場で試合に出場しホームランを放つなど、当時から非凡な打撃の才能を見せています。
プロ野球が行われる球場で、最初にプレーしたのが大阪球場だった。小学4年の夏、「ホークス子供の会」に入会していた岡田さんは大阪球場で試合に出場し、本塁打も放った。
小学5年生の時には、正式に少年野球チーム「リトルホークス」に入団。毎週土日に、南海ホークス2軍の拠点だった中百舌鳥球場へと通って野球の練習に打ち込んだそうです。
ちなみに、当時は阪神タイガースが主催する少年野球チームがなく、それで南海ホークスの「リトルホークス」に入団したそうです。
また、当時は父親の岡田勇郎さんも草野球チームを作っており、岡田彰布さんは背番号「11(村山実さんの背番号にあやかった)」をつけて、大人たちに混じって投手を務めていたのだとか。
その後は、野球の名門としても知られる私立の明星中学校へと進学し、3年生時の中学野球大阪府大会で優勝しています。中学時代の1973年3月には、阪神タイガースの村山実さんの引退試合で、試合前のキャッチボールの相手も務めています。
岡田彰布の若い頃② 北陽高校では甲子園にも出場しプロ球団からも注目
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岡田彰布さんは明星中学校を卒業後、強豪野球部で知られていた明星高等学校へは内部進学せずに、北陽高校を受験して進学しています。
これは、当時の明星高校が甲子園出場よりも大学進学に力を入れる変革に動いていた時期で、それならばより野球部に力を入れている北陽高校へ進学した方が野球に打ち込めると考えたためだったようです。
北陽高校時代の岡田彰布さんは、1年生で早くもレフトのレギュラーをつかみ、大阪予選では決勝戦で当時全国最強とも言われたPL学園高校と激突。この試合で岡田彰布さんは先制のツーランホームランを放ち試合も3対2で勝利し、高校1年目にして甲子園出場の夢を果たしました。
そうして出場したその年の夏の甲子園大会(第55回全国高等学校野球選手権大会)でも、岡田彰布さんはレフトを守り、打順7番か2番で3試合に出場し、9打数3安打の成績を残しています。この大会ではエースの有田二三男さん(後に近鉄バッファローズに入団)が3回戦でノーヒットノーランを達成するなどし、準々決勝まで勝ち進んでいます。(準々決勝で今治西高校に敗北)
その後、岡田彰布さんは北陽高校野球部の中心選手としてチームを引っ張り、高校3年生時にはエースで4番として大阪予選の決勝まで進みますが、興国高校に僅差で敗れて2度目の甲子園出場は果たせませんでした。
岡田彰布さんの非凡な打撃センスは、高校時代からプロ球団にも注目されていて、読売ジャイアンツ(巨人)からのドラフト指名の話もあったそうです。
岡田彰布の若い頃③ 早稲田大学時代は世代最強打者として活躍し数々の記録を打ち立てる
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プロからの話もあったという岡田彰布さんでしたが、高校卒業後はプロへは進まずに、早稲田大学野球部のセレクションを受験しています。このセレクションで岡田彰布さんは15打席で14本塁打という信じられないような成績を残し問答無用で1発合格しています。
なお、当時の早稲田大学にはスポーツ推薦などの制度はなく、野球部のセレクションに合格しても一般の入学試験で合格しなければ入学できなかったため、岡田彰布さんは学業の面でも並々ならぬ努力をして実力で合格されています。
早稲田大学時代の岡田彰布さんは、1976年の秋季リーグ(東京六大学野球リーグ)から7番レフトのレギュラーとして公式戦に出場しています。岡田彰布さんは大学1年生の時から、当時怪物と呼ばれていた法政大学の江川卓さんとの初対戦で3打数3安打して見せて、とんでもない新人が現れたと話題になりました。
2年生からは5番サードのレギュラーに選ばれ、3年生時の1978年の秋季リーグでは三冠王を獲得し、早稲田大学野球部4年ぶりとなるリーグ優勝に大きく貢献しています。
4年生からは主将を務め、1979年春季リーグでリーグ連覇を達成しています。その年の全日本大学野球選手権では準優勝の成績を残しました。また、日米大学野球選手権には、1978年の第7回大会と1979年の第8回大会に日本代表チームの4番として全試合出場しています。
岡田彰布さんの大学時代のリーグ戦での通算成績は88試合、309打数117安打の打率.379、20本塁打、81打点という圧倒的なもので、打率と打点は現在も東京六大学リーグ歴代トップの記録です(本塁打も通算歴代4位)。
他にも、1977年秋季リーグから数えて5期連続でのベストナイン選出、1978年春の史上2人目のサイクル安打達成など大学時代の岡田彰布さんは数々の輝かしい記録を打ち立てており、当時最も注目された大学生打者でした。
岡田彰布の若い頃④ 当時史上最多の6球団競合の末に阪神に入団
東京六大学野球リーグで様々な記録を打ち立てた岡田彰布さんは、ドラフト制度始まって以来の高評価を集め、阪神タイガース史上でも屈指の強打者として知られる田淵幸一さん以来の大物とも評されるなど、1979年のドラフト会議最大の目玉選手となりました。
ドラフト会議では西武ライオンズ、ヤクルトスワローズ、南海ホークス、阪神タイガース、阪急ブレーブス、近鉄バッファローズが岡田彰布さんを1位指名し、6球団による競合となります。6球団による1位指名は当時のドラフト史上最多でした。
岡田彰布さんは志望球団としては第一に阪神タイガースを挙げ、その次に阪急や南海、近鉄などの在阪球団を希望、また、巨人や西武などの優勝争いのできる強豪チームでも良いとのコメントを出されています。
結果、岡田彰布さんの第一希望であった阪神タイガースが抽選を引き当てて、交渉権を得て、岡田彰布さんは阪神タイガースにドラフト1位で入団しています。
プロ入り後の岡田彰布さんは期待に違わぬ活躍を見せ、1年目の1980年の5月頃からレギュラーに定着しサードやセカンドを守り、2割9分、18本塁打、54打点の成績を残しました。打順も当初は8番などの下位打線で起用でしたが、成績を上げるにつれ打順も上がり、最終的には5番を任されています。この年には新人王にも輝きました。
岡田彰布さんはその後も好成績を残し続け、阪神タイガースの主力打者として長年活躍しました。
岡田彰布の現役時代の成績と年俸推移
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岡田彰布さんの現役時代の年度別成績と年俸推移です。
年度 | 球団 | 試合 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 三振 | OPS | 推定年俸 |
1980 | 阪神 | 108 | .290 | 18 | 54 | 4 | 45 | .820 | 420万円 |
1981 | 阪神 | 130 | .289 | 20 | 76 | 1 | 43 | .804 | 960万円 |
1982 | 阪神 | 129 | .300 | 14 | 69 | 10 | 30 | .804 | 1600万円 |
1983 | 阪神 | 79 | .289 | 18 | 44 | 7 | 23 | .920 | 2200万円 |
1984 | 阪神 | 115 | .297 | 15 | 51 | 3 | 41 | .853 | 2000万円 |
1985 | 阪神 | 127 | .342 | 35 | 101 | 7 | 41 | 1.057 | 2130万円 |
1986 | 阪神 | 129 | .268 | 26 | 70 | 11 | 57 | .840 | 4500万円 |
1987 | 阪神 | 130 | .255 | 14 | 58 | 5 | 75 | .722 | 4300万円 |
1988 | 阪神 | 127 | .267 | 23 | 72 | 10 | 75 | .826 | 4050万円 |
1989 | 阪神 | 130 | .280 | 24 | 76 | 8 | 81 | .823 | 4300万円 |
1990 | 阪神 | 130 | .265 | 20 | 75 | 7 | 87 | .812 | 5500万円 |
1991 | 阪神 | 108 | .240 | 15 | 50 | 1 | 68 | .700 | 6200万円 |
1992 | 阪神 | 70 | .189 | 2 | 19 | 1 | 48 | .559 | 5700万円 |
1993 | 阪神 | 42 | .170 | 1 | 7 | 0 | 24 | .536 | 5000万円 |
1994 | オリックス | 53 | .277 | 2 | 12 | 1 | 20 | .734 | 3000万円 |
1995 | オリックス | 32 | .179 | 0 | 2 | 0 | 9 | .484 | 3300万円 |
通算 | – | 1639 | .277 | 247 | 836 | 76 | 767 | .813 | 4億6810万円 |
岡田彰布さんは1979年のドラフト会議で6球団競合の末に阪神タイガースに入団し、1年目シーズンから期待通りの成績(2割9分、18本塁打、54打点)を残しその年の新人王に輝いています。
阪神タイガースがリーグ優勝を決めた1985年シーズンは、バース、掛布との伝説の「バックスクリーン3連発」を放つなど圧倒的な成績(3割4分2厘、35本塁打、101打点)を残し、チームのリーグ優勝に大きく貢献しました。この年にはベストナインとダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)にも選出されています。
打撃タイトルの獲得こそないものの、長年にわたって好成績を残し続け、1980年代の阪神タイガースを支えた名選手の1人として現在も往年のファンからの高い人気を集める存在です。
なお、上の表の年俸はあくまでも推定額で正確な年俸額は公表されていません。岡田彰布さんは現役引退後のコラム記事の中で自身の現役時代の最高年俸を「6800万円」としているので、1991年阪神での年俸はその金額だった可能性が高そうです。
岡田彰布の結婚した嫁は陽子さん
岡田彰布さんは阪神タイガース入団3年目の1982年に一般女性の陽子さん(旧姓大関)と結婚されています。当時は岡田彰布さんが24歳、嫁の陽子さんが1歳下の23歳でした。
岡田彰布さんの嫁の陽子さんは、青山大学中等科時代に大手総合商社の丸紅勤務の父親の仕事の都合でカナダモントリオールで暮らした事もある帰国子女です。帰国後に上智大学外国語学部に入学し卒業されており、フランス語、英語、スペイン語が堪能な才女でした。
大学卒業後は電気メーカーの日本ビクターに入社し、語学力を活かして企画室で外国語資料の翻訳などを担当されていたそうです。
嫁の陽子さんの両親が芦屋出身で、阪神タイガースの大ファンで、岡田彰布さんの後援会の集まりの席で顔を合わせたのが馴れ初めになったようです。
結婚発表時の岡田彰布さんの発言によると、4回か5回会っただけで結婚を決められたとの事で、知り合って2ヶ月ほどでのスピード結婚でした。
結婚後、嫁の陽子さんは、生活面でも精神面でも岡田彰布さんの支えとなったようです。岡田彰布さんが現役を引退して阪神やオリックスの監督を務めた際にも、選手達の嫁や家族を細やかにフォローしたり、語学力を活かして外国人選手やその家族の相談にも乗ったりとチームの大きな力になったようです。
岡田彰布の子供① 息子は長男の岡田陽集さん
岡田彰布さんと嫁の陽子さんの間の最初の子供は1985年7月15日に生まれた息子の陽集さんです。
岡田彰布さんの息子の陽集さんは、明星中学校から明星高校を経て、大阪大学基礎工学部システム科学科へと進学されています。息子の陽集さんは、大学時代は野球はされておらずゴルフ部に所属されていました。大学卒業後には三菱商事に就職されたようです。
そんな岡田彰布さんの息子の陽集さんは、謙虚な性格で周囲からの評判がすこぶる良い方だそうです。
岡田彰布さんは2020年の自身のコラム記事で、息子の陽集さんが現在は東京でサラリーマンをされていて、結婚していて子供が2人生まれている事を明かされています。
岡田彰布さんは、自身の孫にあたる息子の陽集さんの2人の子供について、とても嬉しそうに綴られていました。
プロ野球の開幕日、実はこの機会に、私事で申し訳ないが、息子に会うことにしている。息子は現在、東京暮らしで、サラリーマン。結婚して子どもが2人。そう、オレにとっては孫である。
長い自粛期間で、会えなかった。孫たちがどれだけ成長しているのか、ホンマ、楽しみで仕方ないし、オジイちゃん気分での東京行き、ウキウキしている。
岡田彰布の子供② 娘が美人という噂もあるがデマ
岡田彰布さんと嫁の陽子さんの間には2人目の子供がおり、娘さんだと言われているようです。
実際には岡田彰布さんに娘が生まれたという情報は出ておらずデマ情報です。
一時期ネット上でネタとして岡田彰布さんの娘がかわいいなどとして、フリー素材の女性モデルの画像が拡散されていたので、これが娘さんの噂につながったのだと思われます。
息子さんの陽集さんが岡田彰布さんが監督を務めていた頃の阪神タイガースが優勝した際に、デイリースポーツにお祝いのメッセージを寄せられました。その文章の中に「野球を毎晩見ていると結構疲れる。母さんと2人で、真剣に見ているんだから」と書かれていました。この文章からして、岡田彰布さんの子供は息子さんの陽集さん1人だけである可能性が高そうです。
岡田彰布の自宅は兵庫県西宮の高級住宅街・鷲林寺の2階建の邸宅
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岡田彰布さんの自宅は兵庫県西宮市の高級住宅街である鷲林寺南町に建つ2階建ての邸宅です。
岡田彰布さんはこの自宅のローンは既に完済されているそうで、「オレに借金はない」とドヤ顔で発言されていた事があります。ちなみに自宅には太陽光発電システムも完備されているという事です。
岡田彰布の現在
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岡田彰布さんは、2022年の誕生日で65歳を迎えますが、現在も野球関係の仕事で幅広く活躍されています。
2012年シーズンにオリックスの監督を退任した後は、主に野球評論家として活躍しており、デイリースポーツの阪神タイガースコラムや、「週刊ベースボール」の連載コラム「岡田彰布のそらそうよ」などを担当し、そのコアで理論的な内容でプロ野球ファンの人気を得ています。
また、読売テレビ、朝日放送、東日本放送などでプロ野球解説者を務められている他、講演会やセミナー開催などの活動も展開されています。
まとめ
今回は、阪神タイガースやオリックスブルーウェーブなどで活躍した元プロ野球選手の岡田彰布さんについてまとめてみました。
岡田彰布さんの若い頃は、幼少時代から生粋の阪神タイガースファンとして成長し、小学生時代から野球を始めて、北陽高校時代には甲子園にも出場しています。
高校卒業後は早稲田大学へと進学し、東京六大学リーグでは様々な記録を打ち立て、通算打率と通算打点は現在も東京六大学リーグの歴代最高記録として君臨しています。
大学卒業後は、当時の史上最多である6球団による競合の果てに阪神タイガースに入団。1年目から期待に違わぬ活躍を見せて新人王を獲得。以降も主力選手として活躍し1985年の阪神のリーグ優勝にも大きく貢献しました。
結婚は阪神入団3年目の1982年で、嫁は上智大学外国語学部卒業の一般女性の陽子さんでした。陽子さんとの子供は1985年に生まれた息子の陽集さんがいて、三菱商事に勤めるサラリーマンです。息子の陽集さんは結婚して子供が2人おり、岡田彰布さんはこの孫をとても可愛がられているようです。
なお、岡田彰布さんには娘さんがいるとの噂もありますがこれはデマです。
岡田彰布さんの自宅は兵庫県西宮市鷲林寺南町の2階建ての邸宅です。
現在、岡田彰布さんは野球評論家やプロ野球解説者として活躍を続けられています。