一時一世を風靡した西城秀樹さんですが、2018年5月16日に急性心不全で死去しました。
脳梗塞の原因は韓国の水と言われていますが、西城秀樹さんの死因と現在までや闘病生活、嫁や子供3人など家族に関してまとめました。
この記事の目次
西城秀樹のプロフィール
西城秀樹の経歴!在日韓国人だった
名前:西城 秀樹(さいじょう ひでき)
本名:木本 龍雄(きもと たつお)
生年月日:1955年4月13日
出身:広島県広島市
身長:181cm
血液型:AB型
活動期間:1972年
西城秀樹さんの本名は木本龍雄(きもとたつお)で、韓国名は、李龍雄です。父親が韓国人で、実家はパチンコ店を経営していたそうです。
小さな頃から音楽に触れ、そのきっかけは父親の趣味のジャズギター。その父親の影響で幼少期から洋楽に馴染みジャズスクールでドラムを学びました。
小学3年生の頃にはジェフ・ベックが好きで5年生の時にエレキバンドを結成し、小学生ドラマーとして活動しています。
他にもベンチャーズ、ビートルズ、ジミ・ヘンドリックス、ローリング・ストーンズ、シカゴ、ジャニス・ジョプリンなどの洋楽に影響を受けていた為、歌謡曲は聴いてなかったといいます。
中学以降もバンド活動を続け、山陽高等学校時代、ジャズ喫茶でバンド出演時に歌っていたところをスカウトされました。
しかし父親が頑固で厳しく、芸能界入りは反対されるが、その反対を押し切り、家出同然で広島から上京しました。
そして1972年3月25日、ビクター音楽産業 よりシングル「恋する季節」で歌手デビューを果たしました。当時のキャッチフレーズは「ワイルドな17歳」です。
1973年6月25日には「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入りとなり、人気に火がつきはじめ、トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれました。
また、絶唱型と言われる歌唱法を披露し「第15回日本レコード大賞」で初の歌唱賞を受賞。
歌唱賞に関しては「傷だらけのローラ」で「第16回日本レコード大賞」でも受賞しています。これによりポップス歌手としては史上初となる2年連続受賞を樹立しています。
「第25回NHK紅白歌合戦」にも初出場し、ホームドラマ「寺内貫太郎一家」にレギュラー出演、松竹映画「愛と誠」で映画初主演など俳優としても活動開始しました。
1978年の「炎」では「東京音楽祭」国内大会でゴールデン・カナリー賞を受賞し、世界大会に出場。
1975年秋には、日本人のソロ歌手として史上初となる日本武道館でのリサイタルを公演。
1981年には国外でも活動を始め、香港で初のコンサートを開催、その後もアジア各国でコンサート。
1983年1月21日には芸映を円満退社し独立、「アースコーポレーション」を設立。ちなみに独立第1弾シングルは「ギャランドゥ」です。
出典:http://saishingeinou201.blog.so-net.ne.jp/
2001年には一般女性と結婚し、2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男、2004年には次男が誕生しています。
そして2003年に6月21日に、公演先の韓国で脳梗塞を発症してしまい、軽度の言語障害の後遺症は残ったものの、闘病の末復帰しました。
しかし、2011年には脳梗塞が再発してしまい入院。右半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残りながらもリハビリに励んでいました。
しかし闘病もむなしく、2018年5月16日午後11時53分、急性心不全のため横浜市内の病院でお亡くなりになられました。
西城秀樹の功績
西城秀樹さんは「歌謡曲の時代」を築いた人物の一人と言われ、日本のエンターテイメントを切り拓いたパイオニア、また、日本のロックヴォーカリストの先駆者でもあります。
日本の音楽の中で洋楽的、ロック的な方向性を取り入れたという事もあり西城秀樹さん自身も「今のJ-POPの原型を作ったという自負はある」とコメントしている
また楽曲に対して振り付けをつけて歌うようになったパイオニアは女性歌手では、山本リンダさん、男性歌手では西城秀樹さんです。
「チャンスは一度」で初めて振付けが付き、「情熱の嵐」ではさらに振付けが激しくなり、西城秀樹さんの場合は「アクション」「アクション歌謡」とも呼ばれました。そして「薔薇の鎖」ではスタンドマイクを使ったアクションをいち早く取り入れ、「スタンドマイク・アクション」が誕生しました。
絶唱型と呼ばれる歌い方も披露する西城秀樹さんは当時行儀よく礼儀正しい日本のアイドルシーンの中で初めて「ワイルド」という概念を持ち込んだ先駆者でもあります。そのハスキーな声でシャウトする絶唱型の歌唱法は後の多くのミュージシャンにも影響を与える。
西城秀樹さんの曲と言えばコールアンドレスポンスのある曲もお馴染みですが、この歌手とファンによるコールアンドレスポンスのスタイルを本格的に歌謡曲に持ち込んだのも西城秀樹さんが最初とも言われています。
そんな面を見せつつも、やはり西城秀樹さんはロックヴォーカリスト80年代以降の日本のロックヴォーカリストたちに多くの影響を与えます。またロックヴォーカリストとしては西城秀樹さんが日本初だそうです。
カバーなどを通して海外アーティストとも交友を深める事も多く、香港でのコンサートを開催し、プラチナディスクを獲得しアジアでの日本人歌手進出の先がけとなる
そして大きな功績として、現在ではスタジアムコンサートなどは当たり前になっていますが、西城秀樹さんはスタジアムコンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催した人物でもあります。
西城秀樹の代表曲!
西城秀樹さんの代表曲と言えばやはり「Y.M.C.A」が有名ではあります。西城秀樹さんの絶唱型の歌唱方法を思いっきり感じる事の出来る曲ではないでしょうか。
1974年8月25日にリリースされた西城秀樹さんの10枚目のシングル「傷だらけのローラ」。この曲では第16回日本レコード大賞で2年連続して歌唱賞を受賞。
西城秀樹さんの初の海外進出作品として、1975年1月17日にフランス語版のレコーディングが行われ、2月15日にはカナダ、フランス、スイス、ベルギーの各国で発売されるなど、国内外で人気となった曲です。
西城秀樹の嫁は年下の元会社員・槙原美紀さん【画像あり】
西城秀樹さんは2001年に結婚されています。人気もありカリスマ性のある西城秀樹さんと結婚できたというのはとても羨ましい事ですが、結婚後西城秀樹さんは脳梗塞になってしまい、それを支え続けるというのは大変だった事でしょう。
そんな西城秀樹さんのパートナーの女性は19歳も年下の元会社員、槙原美紀さんと言う方だそうです。当時西城秀樹さんは45歳、槙原美紀さんは28歳という年の差婚です。
お二人がどの様に出会って、どの様に付き合ったのかという情報は出回っていませんが、2001年時点でも西城秀樹さんの人気はありましたし、どこからでも出会いは見つかりそうですね。
しかし、あそこまで人気がありながらも同じ芸能界ではなく一般女性というのも西城秀樹さんらしく、かっこいい男性の姿です。
西城秀樹と嫁の間には3人の子供【画像あり】
2人の間には長女、長男、次男と三人の子供がいます。お子様も美男美女であり、一時期は話題となりました。
長女(2002年6月3日生まれ)
莉子ちゃん(りこ)
長男(2003年9月1日)
新之助君(しんのすけ)
次男(2004年生まれ)
悠天君(ゆうま)
2002年、2003年、2004年と続けて年子で3人のお子様と、大変子宝にも恵まれていますね。
お子様に関してはまだ中学生~高校生位なので、特に何をしているのかという情報は出回っていませんが、西城秀樹さんのお子様という事もあり、何度かテレビでインタビューを受け、その時の写真などは出回っています。
写真を見る限りは、やはり長女長男次男、どのお子様も美男美女です。西城秀樹さんの遺伝子を継いでいるというだけあり、この先も期待できますね。
また、現在中学生~高校生程なのでこれから夢や目標を持つ年齢でしょう。これからお子様がどんな方向に進んでいくのか、西城秀樹さんと同じ様に歌手の道を志す子も出てくるかもしれません。
西城秀樹さんのお子様達がどんな風に活躍するのか、期待したいですね。
西城秀樹の脳梗塞と闘病生活【2003年~】
西城秀樹の脳梗塞の原因は韓国の水
歌手としての人気はもちろん、結婚し、お子様も生まれ、順風満帆な生活に見えますが、西城秀樹さんは二度の脳梗塞を発症してしまいます。
一度目は2003年、韓国での公演後。闘病の末、復帰はしましたが軽度の言語障害が残ってしまいます。この脳梗塞の原因は韓国での水が原因と言われています。
「実は現地のゴルフ場で水道の水をがぶがぶ飲んだ後、程なくして『あぁ…具合が悪い…』とこぼすようになった」
発症後、言葉をうまく発声できない軽度の言語障害が残る事態になったが、体調を崩したきっかけは、意外にも現地の“生水”だったという。
「もちろん生水だけでなく、心身ともに疲れがたまっていたことが前提にありますが…」(前同)
その後、水にこだわりを持つようになったのは有名な話だ。
復帰できたは良いものの2011年には脳梗塞が再発し、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残ってしまいました。それでもリハビリを続け、現在では再びステージに立つまでになっています。
どちらの発症時も、やはり頑張ってこれたのは支えてきた奥さんの力もあるでしょう。一度目の脳梗塞の際には声帯にも障害があり、構音障害もあり、歌手としての引退も決意したそうですが、奥さんから「焦らずゆっくり治していこう」という言葉に励まされ、闘病の末復帰を決意したのだそうです。
二度目の発症の際には西城秀樹さん自身のショックも大きく死んでしまいたいと思う程追い詰められていたそうですが、その時もずっと支えてくれたのは奥さんの存在でした。
西城秀樹が患った脳梗塞とは?
西城秀樹さんが悩まされた脳梗塞とはそもそもどんな病気なのか?
脳梗塞は脳卒中の一種で、頭の中の血管が詰まつ事によって起こる疾患で、世界的に見ても主な死因、また障害をもたらす原因である病気です。
脳卒中の中には血管が切れることによって生じる脳出血、脳動脈瘤という血管のコブが破れてしまうくも膜下出血などもあり、脳卒中は日本人死亡原因の第4位でもあります。
脳梗塞になってしまうと右側もしくは左側どちらかの手足に麻痺やしびれるような感覚障害が起こり、運動障害や感覚障害になったり、ろれつが回らず何を言っているのかわからなくなってしまう構語障害、話したいのに言葉が出なくなってしまう運動性失語、言葉が理解できなくなってしまう感覚性失語などの障害が怒ってしまいます。
他にも視野の半分だけが欠けてしまう視野障害、体のバランスが取れなくなって転倒してしまったりする平衡感覚の障害などもあります。
脳梗塞の予防に関しては日常生活の改善が予防法とされています。
西城秀樹の脳梗塞に対しての反応
西城秀樹さん「2003年に脳梗塞になった後、食生活に気を付けている。」って聞いていたけど、2011年に2度目の脳梗塞……
— ととこ (@totokodemitasu) 2017年5月28日
呂律が回っていないし、リハビリ大変そう。
……お大事にして下さい。
#フルタチさん #西城秀樹 #脳梗塞 #フジTV
2003年の脳梗塞発症からの復帰は希望となりましたが、2011年に二度目の発症はそのファンの希望や、同じ様に脳梗塞で悩んでいる方の希望を砕くものになってしまったかもしれません。しかし、また希望の光になる為にこれまでも頑張っていました。
往年のスター西城秀樹さんは、2度の脳梗塞で右半身マヒと言語障害が残るなか、ファンの為に今もステージに立っているそう。よっちゃんも常にファンに寄り添い、挑戦し続けてくれている事に感謝しかありません☺️生きる力を貰いました🌹
— kumiko (@sumiredaisuki_k) 2017年5月24日
脳梗塞を二度も患ってしまえば、芸能活動、ましてや歌手として引退を考えるのは当然の事でしょう。しかし、それでも常にステージに立つというのは西城秀樹さんの歌手としての覚悟を感じます。
昨夜の金スマに(西城)秀樹(さん)が出てたのを視た!
— maryoichi (@maryoichi) 2017年5月20日
2度の脳梗塞で、半側麻痺と言語障害が見受けられたけど
発症前と変わらず(若干違うのかもしれんけど)歌は唄えるのか(;゚д゚)?!とびっくりした#金スマ #西城秀樹 #脳梗塞 #後遺症 #麻痺 #歌手
脳梗塞であり、言語障害なども患ってしまいながらもしっかりと歌えるというのは、本当に西城秀樹さんの努力あってのものでしょう。そこまで回復する事が出来るのは本当に凄い事です。
西城秀樹さんは2度の脳梗塞患っても今もリハビリ続けながらもコンサートをやり続けてる凄さ、求められてる強さは体を突き動かすんだね!
— ヒロ子📎 (@hiromikuroko101) 2017年5月19日
テレサ・テンはよくカラオケで歌ったな…あんな若さで亡くなったなんでビックリだった#金スマ
西城秀樹さんと言えばやはり力強い歌声とパフォーマンスですが、その力強さというのは歌う時だけの作り物ではなく、リハビリにもしっかりと繋がっているのでしょう。昔からのファンの方もそんな西城秀樹さんをずっと応援し続ける事でしょう。
西城秀樹、リハビリ復帰して活動していた【2016-2017年】
そんな西城秀樹さんですが、リハビリをして、昨年まではステージに立って歌っていました。
やはり闘病にリハビリを重ねていたという事もあり、少し細くなってしまっていますが、あの足の長さにスタイルの良さは健在でした。
脳梗塞により後遺症で喋り方などに関しては少し不自然さがありましたが、二度の脳梗塞から喋れるまで、ましてや歌うまでに回復したのはかなりの努力が必要だったのではないかと思います。
ステージで歌うというだけでも凄い事なのに西城秀樹さんは2016年には、なんと70回のライブを行い、積極的に公演を行っていたのだそうです。
脳梗塞を患い、言語障害もあり、現在でも右半身には麻痺が残っている状態です。その状態で70回のステージに立つという事は並の人間では出来ない事です。
もちろんあの西城秀樹さんですし、医者やリハビリの担当なども腕の良い方をつけているでしょう。だとしても、それだけではそこまでの復活、そこまでの活動をする事は難しく、最終的には本人の精神的な強さが大事になっていたはずです。
そして2017年5月に出演した「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」の番組内で「舞台に立ち続けるのはどういう意味があるんですか」という質問をすると「みなさんが喜んでくれるから」と即答。
芸能人として、歌手として、アーティストとしてやはりお客さんが喜んでくれるというのは一番の喜びであると共に、時としてその期待からプレッシャーを感じてしまう事もあるでしょう。
しかし、西城秀樹さんはそれをプレッシャーと感じずに活動していたのです。本当にすごい人でした。
西城秀樹の現在…急性心不全で死去【2018年5月】
西城秀樹が急性心不全で死去
リハビリをして復帰をしていた西城秀樹さんですが、2018年5月16日に横浜市内の病院で亡くなりました。
「傷だらけのローラ」「YOUNG MAN」などのヒットで知られる歌手の西城秀樹(さいじょう・ひでき、本名・木本龍雄=きもと・たつお)さんが16日午後11時53分、急性心不全のため横浜市内の病院で亡くなったことが17日に分かった。63歳だった。広島市出身。2003年と11年に脳梗塞を発症、右半身麻痺の後遺症が残っていた。4月25日に入院し、そのまま帰らぬ人となった。
通夜は25日午後6時、告別式は26日午前11時から、いずれも青山葬儀所で営まれる。
西城さんの関係者によると、西城さんは4月25日に家族と団らん中に意識を失い倒れて、横浜市内の病院に搬送。「20日ほど頑張った」(関係者)ものの、意識は戻らず、16日に力尽きたという。仕事の予定はしばらくいれていなかったともいい、仕事面での混乱はないという。
2018年4月25日に団らん中に意識を失い倒れて、横浜市内の病院に搬送されましたが、力尽きてしまったようです。
西城秀樹の死を見届けた嫁と子供
入院中、妻の美紀さんは「(事務所の方針が)誰にも会っちゃいけないって決まったんです。ごめんなさい」と西城秀樹さんとの面会を拒否していたといいます。
西城秀樹さん死去後、家族は死を完全に受け止められなかったといいます。
西城さんには「(長年)いろいろと良くしていただいた」という笠井アナ。美紀さんと3人のお子さんについて「亡くなって24時間たってなかったので、気丈というよりも、秀樹さんの死を完全には受け止められていない様子だった」とし、「秀樹さんは寝室のいつものベットの上でお休みなっていた。秀樹さんが寝ている状態であることがご家族の心の支えになっているようでした。1週間後が葬儀なので、(美紀さんは)『パパちゃんがいてもらえるので良かったわ』と話をしていました」と明かした。
西城秀樹の死に対するネットの反応
西城秀樹さんは偉大な人だったので、その死を悔やむ人がほとんどでした。特に50-60代の方からは昔を懐かしむ声も聞かれています。
西城秀樹さんの逝去、新御三家世代の私としてはショックでした。数ヶ月前に偶然お見かけした時も脚を引きずりながらも、付き添いの方に笑顔で話しかけお洒落なファションに身を包み想像のつかない痛みや不自由な中挫けずに生きている姿を拝見して、陰ながら目標にさせて頂いていたので、、
— 黒田崇矢 (@takayakuroda) 2018年5月17日
西城秀樹さんの訃報
— 佐久間レイ (@REISAN_no_HEYA) 2018年5月17日
子供心に「この人すごい😳」そう思いながらテレビに釘付けになっていました
「歌う」と言うより「演じる」ような熱い表現でした
「早すぎる」とは思いますが
「足りない」人生では無い。
十分な素晴らしい人生を駆け抜けて旅立たれたのでしょうね。
ご冥福をお祈りいたします。
サラリーマンになって、上司や先輩とのカラオケで、あなたにどれだけ助けられたことか。
— 森拓磨 (@moritaku_htv) 2018年5月17日
子供の頃から聞いていたあなたの歌を歌うと、みんな勝手に入ってきて盛り上がった。
幅広い世代が知ってて、そして愛されたっていうのはまさに大スターの証。
西城秀樹さん、忘れない。
西城秀樹さんが亡くなった。永遠のヤングマン。歌も聞いたしドラマも見たしカレーも食べた。哀しい。5月18日付け日刊スポーツは、たっぷり丸々6ページを追悼記事と写真で埋め尽くしました。ファンの方はぜひ。【当番T】#西城秀樹 #ヤングマン #新ご三家 pic.twitter.com/YoeR9XGZmr
— 日刊スポーツ新聞社東京本社編集局 (@nikkan_tokyo) 2018年5月17日
まとめ
過去の日本の音楽に対して沢山の功績を残し、後に日本の音楽界にも多きな影響を残す程の歌手、西城秀樹さん。西城秀樹さんが歌手活動を通して、現在に、未来に残し繋げていくものの大きさは計り知れないでしょう。
実際、西城秀樹さんが日本人史上初という事は沢山あり、今の音楽の原点となっているものや基礎の部分を作り上げたと言っても過言ではないです。
そんな西城秀樹さん、二回もの脳梗塞に後遺症と、ただでさえステージに立つ事、引退する事を決めてもおかしくありませんでしたが、引退はしませんでした。
西城秀樹さんのご冥福をお祈りします。