フォークダンスDE成子坂(桶田敬太郎、村田渚)は、1990年代に活躍したお笑いコンビです。
当時はボキャブラ芸人などとしてテレビ番組に出演していた実力派でしたが、1999年に解散。その後はそれぞれ活動を続けていたものの、村田渚さんが2006年に、桶田敬太郎さんが2019年にそれぞれ亡くなっています。
ここではフォークDE成子坂の桶田敬太郎さんと村田渚さんの解散後の活動や解散理由、死因(病気?自殺?)についてまとめています。
この記事の目次
「フォークダンスDE成子坂」のプロフィール
コンビ名:フォークダンスDE成子坂
メンバー:桶田敬太郎(ボケ・ネタ作り)、 村田渚(ツッコミ)
桶田敬太郎さんと村田渚さんは中学時代の同級生で、高校生のときにコンビ結成しました。その頃からホリプロの勉強会に通い始め、高校卒業後に上京。
1991年ぐらいからテレビ出演をするようになり、1993年には『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』チャンピオン、1994年からは『タモリのボキャブラ天国』のレギュラーになりました。
当時、フォークダンスDE成子坂は爆笑問題やネプチューンなどとともに、人気を獲得した実力派コンビでした。
1998年には単独お笑いライブ『自縛』を開催しましたが、1999年末にコンビ解散。
「フォークダンスDE成子坂」のコンビ解散理由
フォークダンスDE成子坂の解散理由
桶田敬太郎さんは、フォークダンスDE成子坂の解散理由についてボッドキャストで話しています。
そこでは村田渚さんとの出会いから解散に至るまでの経緯に触れていますが、かなりの長編になっていますので、興味のある方はぜひ聞いてみてください。
OKEDフォークダンスDE成子坂:桶田敬太郎ブログ(Podcast用)
wikiなどでは解散理由について「桶田敬太郎さんが音楽活動をするため」とありますが、実際は別の理由もあったようです。
解散までの経緯は、数年前に桶田さんが個人で始めたポッドキャスト(インターネットラジオ)番組の中で詳細に語られていました。そこで長い時間をかけて説明されていた解散理由を一言でまとめるのは難しいのですが、自分のやりたい笑いをどこまでも追求したいと思っていた桶田さんと、所属事務所や相方の村田さんとの間の溝が少しずつ広がっていき、解散に至ったのだと思います
かつての盟友である爆笑問題の太田光さんは、桶田さんについて「あいつは天才すぎて売れなかった」と話していたことがありますが、その言葉がしっくりきます。
「フォークダンスDE成子坂」桶田敬太郎のプロフィールとコンビ解散後の活動
桶田敬太郎さんはフォークダンスDE成子坂の元メンバーです(ボケ・ネタ作りの担当)。多くの芸人から天才と称された芸人でした。
1999年にフォークダンスDE成子坂を解散した後は音楽活動に一時専念(『THE 3cm』というバンドのボーカルとして活動)。
2004年頃からは演出や構成作家としてテレビ・イベント・CMなどの裏方としての活動が顕著となり、時にはその発想力を活かし新たなビジネスを提案することもありました。
2014年頃からはYouTuberデビューするなど、ピン芸人としての活動を再開。後進の育成にあたるなどもしていましたが、2019年に急逝。生涯独身。
「フォークダンスDE成子坂」村田渚のプロフィールとコンビ解散後の活動
村田渚(むらたなぎさ)
出身地:大阪生まれ、三重県育ち
生年月日:1971年7月29日
没年月日:2006年11月11日(35歳没)
身長:168cm
血液型:O型
最終学歴:三重県立上野高校
職業:芸人
所属事務所:ホリプロ→フリー→ホリプロコム→ソニーミュージックアーツ
村田渚さんは、フォークダンスDE成子坂の元メンバーです(ツッコミ担当)。桶田さんと同じく、同業者などから才能を高く評価されていた逸材でした。
コンビ解散後は一時ピン芸人となりましたが、2005年に松丘慎吾さんと『鼻エンジン』を結成し活動していました。『鼻エンジン』ではM−1ぐらんぷりで準決勝まで勝ち残りました(2005年)。2006年に急逝。生涯独身。
「フォークダンスDE成子坂」桶田敬太郎のその後現在…2019年11月に死去、死因は病気?自殺?
桶田敬太郎、2019年11月に病死していた
桶田敬太郎の死因は?
桶田敬太郎さんの死去は、所属会社であり取締役を務めるMRが2020年2月に発表。
弊社取締役 桶田敬太郎は、広く創作活動に勤しんで参りましたが、昨年11月23日に病により永眠いたしました。なお葬儀と七七日法要は故人の遺志により近親者のみで相済ませました。
引用:MRHP
それによると病気で亡くなったと書いてありますので死因は病死になります。詳細は公表がなくわかっていませんので、それ以上のことは不明です。
桶田さんのTwitterなどを見ると、2019年9月ぐらいまで普通のツイートが並んでいます。(6月ぐらいから更新頻度は減っていた)
ですので、”突然病気(重病)が判明した”説などが考えられますが、それ以上の特定は難しそうです。
桶田敬太郎、発表が遅れたことで自殺説も浮上していた
発表が遅れた理由は?(画像は2011年頃)
桶田敬太郎さんは2019年11月に亡くなりましたが、その公表は2020年2月でした。やはり、死後すぐの発表ではなかったことで、ネット上では自殺説も浮上。
ただ芸人仲間たちは、その死をもう少し早い段階から知っていたようです。有吉弘行さんは2020年1月末ぐらいのラジオ番組で桶田さんの死に触れており、公表後には「本当だったんだ…」とのリスナーの声があったといいます。
また亡くなった後に土田晃之さんが話したところによると、(死を知っていた)芸人仲間の間では「(桶田さんが)話題にされることを好まないから」という配慮もあったようです。
昨年末に爆笑問題の太田光から知らされたといい、ほかの芸人仲間たちにもそのタイミングで伝わったが、「みんな言わなかったのは、太田さんも言ってたんですけど、『敬太郎が、そうやって話題にされることを好まないから』って。亡くなってることも言わないでくれって話で。だから大事にせず、みんなもう知ってるけど黙っておこう、みたいなことだったの」と説明した。芸人仲間たちからも“孤高の天才”と言われた桶田さんについて「センスがやっぱすごかった」と述懐。
桶田敬太郎さんの死去の発表は、所属する会社HPで「病死」発表があっただけで、芸人仲間たちもその死に深く触れていません。故人の意向をその周囲が守っている感じに見えますね。
桶田敬太郎の死去後の芸人仲間たちのコメント
公式発表されたのは2020年2月27日でしたが、SNSなどで芸人仲間たちがその死を悼みました。
サンドウィッチマン(上・伊達/下・富澤)より。
『フォークダンスDE成子坂』という、めちゃくちゃ面白くてカッコ良かった先輩芸人がいた。若手時代、生であの衝撃的に面白いライブを観る事が出来たのは我々の糧になっています。。そしてこれからも、成子坂さんのネタ映像を見て勉強させて頂きます。桶田さん、渚さん、ありがとうございました!お疲れ様でした。
元フォークダンスDE成子坂の桶田敬太郎さんがご病気でお亡くなりになりました。相方の村田渚さんも早くにご病気で亡くなっており、二人共いなくなってしまいました。
若い頃は成子坂さんの単独ライブのお手伝いに行ったこともあったので寂しいですが、また二人で天国でふざけあってくれていたらいいなぁと思います。
桶田敬太郎さんが亡くなった事が公表されましたね。
— 松丘慎吾(赤プルとだんな改チャイム) (@matsushin4545) February 26, 2020
憧れの先輩だったので本当にショックでした。
村田渚さん、桶田敬太郎さん、ありがとうございました!
2人の先輩と出会ってなければ今の自分はいなかったと思います!
心よりご冥福をお祈り致します。
フォークダンスDE成子坂。GAHAHAキングの番組でご一緒して初めて話をした。桶田さんも渚さんも2人とも天才だと直感した。あの時代の芸人は先輩も後輩みんなそう感じていたと思う。ちょっと前に桶田さんと初めてお酒を飲んでゆっくり話をさせてもらった。凄いコンビだ。ありがとうございました。
— スマイリーキクチ (@smiley_kikuchi) February 27, 2020
元フォークダンスDE成子坂の2人は、いずれも芸人仲間たちは尊敬されるような才能をもった人たちだったのがよくわかります。
「フォークダンスDE成子坂」村田渚のその後現在…2006年に35歳で死去、死因はくも膜下出血
村田渚、2006年11月にくも膜下出血のため死亡
村田渚の死因は病死
村田渚さんは、2006年11月に35歳の若さで亡くなっています。第一発見者となったコトブキツカサさん(映画パーソナリティ・元芸人)の話から、当時の状況は以下の通りです。
村田さんは06年11月12日午後4時45分ごろ、東京都品川区の自宅マンションで布団にうつぶせになって死亡しているのを管理人が発見した。仕事に来ず、携帯電話にも出ないことを不審に思った所属事務所が連絡し、死亡が確認された。
村田さんに触れると、「冷たかった」といい、発見時点ですでに死後38時間経っていたという。死因はくも膜下出血だった。村田さんの死に顔についてコトブキは「本当に穏やかだった。微笑んでた」と明かした。村田さんは亡くなる直前の10日、ラジオ番組に出演後、相方の松丘に「頭が痛い」と訴えていたという。
くも膜下出血は脳のくも膜部分の血管が切れて起こる出血で、そのほとんどは脳動脈瘤(動脈にできるこぶ)の破裂で起こるのものとされます。
くも膜下出血は発症後の死亡率が高く、助かっても後遺症が残るケースが多い怖い病気です。統計的には40代以降が多く、男性よりも女性の割合が高く、喫煙習慣・高血圧・飲酒・遺伝などの要素が発症を高めるとされます。
くも膜下出血というと、「今までに経験したことがないような、頭を殴られるような」激しい頭痛を突然伴うという症状をよく見聞きしますが、発症前には微小出血が起こり頭痛が出るケースもあるといいます。ただこの頭痛は風邪と見逃されがちだとか…。
村田渚死去後の芸人仲間たちのコメント
2006年に村田渚さんが急死。35歳没。亡くなってからは、すでに10年以上の月日が経っていますが、テレビ番組で特集されたり13回忌ライブが催されたりと、さまざまな人が村田さんについて語っています。
芸人仲間のコメントを見ると、村田さんがいかにお笑いに対して真面目だったかがわかります。
「ツッコミ同士だったんで渚は…。後輩であり、ライバル」(三村)、
「僕ら世代のトップランナーだった。センセーショナルだったかな…」(上田晋也)、
「笑いに飢えている…っていうか。24時間笑いのことを考えてないといけないんだな、って、すごく学ばせてもらいました」(有田哲平)、
「お笑い熱すごい…この人売れるんだろうなと」(土田)、
「この人といたら何でもボケられる。唯一無二」(古坂)
鼻エンジンの相方となった村田について、松丘は「仲はよかったけど、厳しかった。『ネタ中は明るさを全部消せ。宇宙を旅してるように何も考えるな』と言われた」とストイックなまでのネタの指導を振り返る。
とくに三村マサカズさんは仲が良かったようで、節目節目で村田さんの話題をTwitterで出しています。
12年ぶりの再会。フォークダンスDE成子坂の村田渚。いい再会だったな。松丘。 https://t.co/HX2fzmxWAy
— 三村マサカズ (@hentaimimura) May 20, 2018
「フォークダンスDE成子坂」についてまとめると…
・村田渚はコンビ解散後に新たなお笑いコンビ「鼻エンジン」を結成し活動していたが、2006年にくも膜下出血により35歳の若さで死亡した
・桶田敬太郎はコンビ解散後に演出や構成作家に転身したが、2014年からはYouTuberやピン芸人としても活動をしていた
・桶田敬太郎は2019年11月に48歳で死去、発表が遅れたことで自殺説も浮上したが死因は病死だった
フォークダンスDE成子坂のメンバーだった桶田敬太郎さんと村田渚さんの解散後の活動や死因などについてまとめました。
かつてはボキャブラ芸人として確かな実力がありながら、現在では2人ともすでに亡くなっているなんて、切ない話ですね。
ご冥福をお祈りします。