時事ニュースをネタに漫才でぶった斬りまくる漫才コンビ・爆笑問題。嫁の太田光代とは勘違いから交際ゼロ日で同棲するなど太田光の暴走ぶりは昔から!
太田光のお笑いのルーツや、子供の有無についても生い立ちから詳しくまとめたのでご紹介していきましょう!
この記事の目次
太田光のプロフィールと詳しい生い立ち
本名: 太田 光(おおた ひかり)
ニックネーム:ピーちゃん、おおたぴかり
生年月日:1965年5月13日
出身地:埼玉県上福岡市(現ふじみ野市)
血液型:O型
身長:170cm
最終学歴:日本大学芸術学部中退
出身:太田プロのスカウト
コンビ名:爆笑問題
相方:田中裕二
芸風:漫才・コント(ボケ)
事務所:タイタン
活動時期:1988年 –
引用:Wikipedia – 太田光
太田光の主な出演レギュラー番組はこちら。
太田上田(中京テレビ)
サンデージャポン(TBS)
空飛ぶ!爆チュー問題(フジテレビONE)
Eテレ2355(NHK Eテレ)
爆報! THE フライデー(TBS)
探検バクモン(NHK総合)
世界の日本人妻は見た!(毎日放送)
世界が驚いたニッポン! スゴ〜イデスネ!!視察団(テレビ朝日)
バクモン学園(テレビ朝日)
引用:Wikipedia – 太田光
太田光のルーツである父・太田三郎と気丈な母
2012年3月21日に亡くなった太田光の父
太田光が「尊敬と畏怖の念を同時に持つ父親」という太田三郎さんは、太田光のお笑いの原点にもなったようです。
太田光の父親・三郎さんは少年時代から落語家に弟子入りをしたり、太宰治に書いた小説を持ち込んで読んでもらうなど、自分を表現する道に強い志を持った人だったようです。
そして、大人になり戦後を迎えてからは建築会社を設立し、業績の良い会社に成長させる一方で書道家としてもその道では知られた人だったという。
叙々苑の毛筆ロゴを手がけ、叙々苑・幽玄亭の設計も手がけたようで、三郎さんの書も店内に飾られているという。
叙々苑はテレビで大々的に太田光の父親が書いたと言わないで欲しいと言っているようです
太田光が問題発言の多い芸人なのでマイナスイメージを恐れたのか、他に理由があるのかは不明です。
太田光は父・三郎さんと会話をすることがほとんどなかったと語っています。
太田光は子供時代はすごくおとなしい子供だったようですが、三郎さんは人を笑わせることが好きで、本当は落語家になりたかったのだという。
三郎さんは2011年に脳梗塞と心筋梗塞で倒れ、1年間の寝たきりの闘病の末に3月19日、急性循環不全でこの世を去りました。
太田光は父親について自著『しごとのはなし』の中で次のように語っています。
<とにかく話す内容がおもしろかった。たとえば、落語や小説や美術の話など、親父の表現に対する造詣の深さや会話のおもしろさは、今の俺の仕事にもかなり影響を与えていると思う>
また、太田光は父親とほとんど会話しなかったことに加えて、反抗期がまったく無かったことにも触れています。
太田光の現在の爆弾発言、暴走キャラはそうした裏返しもあるのかもしれませんね。
太田光と父・三郎さんの最後の言葉
三郎さんが倒れ、死期を悟った中で太田光と交わされた最後の言葉に会話はなくともちゃんと深い絆があったことが伺えます。
2016年7月12日に放送されたラジオ番組『爆笑問題カーボーイ』で、亡くなった永六輔のことに触れた際に、父親との最後の言葉について語りました。
三郎さんはほとんど会話ができなかった太田光に対してずっと負い目を感じていたようで、「光、ごめんな」と切り出したという。
三郎さんは続けて、「何もしてやれなかった、俺が嫌いだろう?」と聞いてきたようで、太田光は「嫌いだと思ってたの?」とびっくりしたという。
病院の個室も太田光が手配したことにも申し訳ないと思っていたようで、立派な個室だったのか「高かったろう?迷惑しかかけてないし、何もしてやれてない」と悔いていたという。
それを聞いた太田光も親孝行をしてあげられなかったことを悔やんだようです。
そのとき太田は「そんなことはないよ。学校出してくれたしさ、世話になったよ」と答えていた。この言葉を聞いた父親は「そうか、キライじゃなかったか、オレのこと。お前にしてやったか」と喜んでいたそうで、太田は「オレって本当に親不孝だ」と感じた、としみじみ話していた。
三郎さんは死の間際に息子に父親としての役割を果たせたと感じて、思い残すことなく天国へ行ったことでしょう。
太田光の母も父の死去から4年後に他界
太田光の母は元女優でとても気丈な人だったという。
三郎さんの死から約4年後、2016年11月8日に肺気腫による呼吸不全のため太田光の母親・太田瑠智子(るちこ)さんはなくなりました。
太田光は母の告別式で、「かっこよくて強い母でした」とその死を悼むと共に、「どーも、ドナルド・トランプです」と精一杯ボケて見せたという。
このボケに相方の田中裕二も予想していなかったようで、マイクで拾えない程度の声で「やめなさい…」といつものように制止したようです。
太田光は続けて、父には人を楽しませることを学んだと語り、母については以下のように語りました。
「弱音をいわない、かっこよくて強いおふくろでしたが、子供のころ本を読んでもらうのが楽しみで、物語や小説に興味を持つきっかけをくれました」
「おやじとおふくろからは、生き方のすべてを学びました」と改めて亡き父と母に感謝の言葉を述べ、締めの言葉として「ドナルド・トランプでした」とボケた太田光。
瑠智子さんの晩年は、太田家の近所にある老人ホームに入所していたようで、コーラスなど趣味を楽しみながら豊かな時間を過ごせていたという。
両親を送った太田光は、これから残りの人生を嫁の太田光代と乗り越えていくことでしょう。
太田光と田中裕二の出会い、そして爆笑問題の結成
父・三郎さんの夢を自身が追い始めた太田光
太田光と田中裕二は日本大学芸術学部演劇学科で知り合ったそうですが、お笑いの道に進むために二人は中退しています。
大学では田中裕二の方が学年がひとつ上だったようですが、意気投合した二人はお笑いの道に進むために大学に行かないようになります。
自然と除籍扱いになったようですが、1988年に太田光と田中裕二は漫才コンビ・爆笑問題を結成。
そして漫才を日々磨き、渡辺正行が主催した『ラ・ママ新人コント大会』で漫才デビューを果たしました。
そして、それを観ていた芸能事務所・太田プロダクションの関係者によりスカウトされて事務所入りしました。
太田光と嫁・太田光代の馴れ初めと結婚
太田光の嫁・太田光代(当時・松本光代)とは太田プロダクションで出会いました
太田光代は芸人やモデルをしていましたが、本当は女優志望だったようです。太田プロダクション独立後は芸能事務所タイタンの社長として経営の才能を発揮しています。
太田光と太田光代の馴れ初めについてですが、ある日同じ事務所の芸人仲間たちと合同コントをすることになり、太田光代の家に集まって台本を作っていたそうです。
そこで、太田光は別の女芸人にすごく好かれていたそうで、太田光を追い掛け回していたという。
しかし、太田光はその女芸人が別段好きではなかったようで、困っているところを太田光代が見かねて隣に座らせたという。
太田光代は自分に気があると太田光が勘違い
太田光代が自分を隣に座らせたことで、気があると勘違いした太田光は暴走し始めます。
太田光は完全に太田光代に好かれていると勘違いして、そのままその日のうちに同棲を始めてしまったそうです。
信頼を築くという段階をすっ飛ばして即日同棲というのは太田光らしいですね。
当然、男女がひとつ屋根の下になればやることはやったようで、その時の心境を太田光代は「まぁいいか1回ぐらい…」と、あっさり体を許していたようです。
とはいえ、太田光に魅力があったからこその話で、その後交際を続けて2年後の1990年に結婚、入籍をしました。
太田光と太田光代に子供はいる?二人三脚の不妊治療
恐妻家でも嫁にベタ惚れの太田光
太田光と太田光代は結婚10周年を迎えた36歳から子作りを開始したようです。
ご存知のように結論から言えば、太田光と嫁・太田光代との間に子供は生まれませんでした。
36歳からの妊活というのはなかなか難しくなってくる年齢だと思いますが、太田光と太田光代は結婚直後から大変な時代を過ごしていたため子作りの暇もなかったのでしょう。
35歳での初産に望むのはそれなりに覚悟がいることだと思いますが、太田光代が子作りに意欲的になった理由は、太田光の父・三郎さんが「孫の顔を見たい」と言ったことから、自分の両親、太田光の両親に孫の顔を見せてあげたいという思いが芽生えたという。
太田光と太田光代の二人三脚の不妊治療が始まった
太田光代の体に不妊治療は過酷だったようで、薬ひとつ飲むとひと駅も乗っていられなかったと、その辛さを番組で語りました。
太田光代は36歳から3年間のホルモン治療をしたようですが、体に合わず体調を著しく壊してしまったため断念してしまいました。
不妊治療の様子は随時ツイッターで太田光代が報告していましたが、排卵誘発剤を使っていたことも報告していたことから排卵障害があったという。
それでも諦めきれなかった太田光代は、それまで敬遠していた顕微授精に2012年から臨みます。
不妊治療には人工授精と体外受精の他に顕微授精がありますが、体外受精より受精確率が高い反面、赤ちゃんが先天性異常を持って生まれてくる確率が上がるとも言われているようです。
また、1回の治療で高い場合100万円を超えることもあるようで、とても気軽に臨めるような治療ではないようです。
2度の顕微授精でも妊娠が叶わなかった太田光代
残念ながら2度の顕微授精では妊娠できなかったようで、ツイッターでは3度目に踏み切るかどうかを考えているところで報告は途絶えたようです。
妊娠しない理由には太田光側の理由もあったようで、医師から精子の量が少ないと言われていたため自然妊娠は臨めない状態にあったという。
だからこそ顕微授精に踏み切ったわけですが、天の悪戯か結局子供を授かることはできませんでした。
このことを両家の両親に報告したようですが、太田光の父・三郎さんはなかなか聞き入れてくれなかったという。
光代さんが医師の診断結果を説明すると義父は「そんなことはないだろう」と聞き入れようとしなかった。その時、太田が「データとし出てるんだからしょうがないだろ」と言った。すると義父も受け入れたという。
この太田光の言葉に太田光代は救われたようで、「唯一かばってくれた瞬間」と夫の太田光を讃えました。
しかし、太田光と太田光代の間には幾度となく離婚の危機が訪れていたようです。
太田光代が夫・太田光と離婚しない理由を明かす
同じ方向を向いて戦ってきたが離婚の危機もあった?
太田光は嫁にベタ惚れなため離婚の文字は浮かぶことがないようですが、太田光代は何度か離婚も考えたという。
爆笑問題が干されて仕事のない3年間を影から支え、不妊治療による苦しみを味わい、太田光の両親の死に立ち会い…ずっと影から夫・太田光を支えてきた太田光代。
芸能事務所・タイタンの社長としても辣腕を振るってきた太田光代ですが、太田光との離婚については幾度か考えたことがあるという。
しかし、離婚した方がデメリットが多いためにしないというだけのようで、次のように語っています。
「全部、あたしが離婚の手続きをしなきゃいけないのかと。それに、私は事務所の社長もしていますので、自分の分を分けなきゃいけないのかと。それで離婚が成立して若い女と再婚されたらたまんない」
引用:デイリースポーツオンライン – 太田光代さん 爆問光と離婚しない理由https://www.daily.co.jp/
要約すると”太田光は動かない”のに、色々苦労して手続きを終わらせ離婚が成立した後に太田光に再婚されたら悔しいということでしょう。
多数のタレントを抱える事務所の社長なので収入面は安定しているでしょう。
とはいえ、本心では離婚したいと思っていなさそうなコメントにも受け取れます。
これからも太田光代には太田光、そして爆笑問題を支えていって欲しいですね!
まとめ
爆笑問題・太田光の生い立ちに始まり、嫁の太田光代との馴れ初め、結婚、不妊治療など太田光の人生についてご紹介してきました。
太田光は気に入らなければ誰彼かまわず噛み付いていく狂犬のような存在ですが、暴走する太田光の手綱を取れるのは嫁の太田光代と相方の田中裕二くらいのものでしょう。
太田光は父・三郎さんが歩めなかったお笑いの道でこれほど成功していることが最大の親孝行だと思います。
これからも社会を風刺した爆笑問題ならではの毒舌漫才で笑わせて欲しいですね!