「ベルマーレ平塚(湘南ベルマーレ)」「鹿島アントラーズ」などで活躍した元プロサッカー選手の名良橋晃さんが話題です。
この記事では名良橋晃さんの高校時代、若い頃の経歴、結婚した嫁や息子、引退後激やせの原因やがんの噂、現在の活躍などについてまとめました。
この記事の目次
名良橋晃のプロフィール
名良橋晃のプロフィール
生年月日:1971年11月26日
出身地 :千葉県千葉市花見川区
身長 :170cm
血液型 :A型
名良橋晃さんは、Jリーグ「鹿島アントラーズ」や「湘南ベルマーレ(ベルマーレ平塚時代にも所属)」、日本代表などで活躍した元サッカー選手です。現役引退後はサッカー解説者、サッカー指導者として活躍されています。
ポジションはディフェンダー(主に右サイドバックで活躍)で、相馬直樹さんや秋田豊さんらと共に、黄金期の鹿島アントラーズの鉄壁のディフェンスラインを形成しました。
鹿島時代には、3度のJリーグ年間優勝、ナビスコ杯3度優勝、天皇杯2度の優勝を経験。日本代表には1994年に初選出され、日本のワールドカップ初出場となった1998年のフランスワールドカップ本戦でもグループリーグ全3試合に先発出場しています。
Jリーグでの通算成績は311試合出場で23得点。日本代表では通算38試合に出場されています。
今回はそんな名良橋晃さんについて詳しく見ていきます。
名良橋晃の出身高校は千葉英和高等学校
正面から見て左が高校時代の名良橋晃、右は「ペナルティ」のワッキー(名門・船橋市立船橋高校サッカー部)
名良橋晃さんの出身高校は「千葉英和高等学校」です。
名良橋晃さんは最初、サッカーの強豪校である「習志野高校」を志望していたそうで、入学前の練習会にも参加して手応えもあり、ほぼ入学が決まっていたそうです。
しかし、中学校のサッカー部の顧問の先生が、当時は新鋭高だった千葉英和高校サッカー部の監督の先輩にあたり、名良橋晃さんの中学から毎年1人は千葉英和高校へ進学するというのが恒例になっていたのだそうです。それで、中学時代からその圧倒的な身体能力で将来を期待されていた名良橋晃さんに白羽の矢が立ち千葉英和高校へと進学されたという事です。
結果として、当時はまだ新鋭高だった千葉英和高校のサッカー部は、他の強豪校に比べると部員が少なく、名良橋晃さんは1年生の時から試合に出場し、2年生になるとエースとしてチームの中心となり、3年生時の総体予選ではチームをベスト4に導いています。
名良橋晃さんのドリブル力は同世代の高校生の中でも別格で一部からは「千葉のマラドーナ」の異名で呼ばれていました。また、名良橋晃さんの最大の魅力であるそのスピードは当時から注目されていました。
お 名良橋晃氏
— MIYA (@say3911) April 22, 2018
千葉英和高校出身
高校時代から めちゃくちゃ速い奴で有名だった。
名良橋晃は高校時代に50m5秒9だったのか。すごいな。手計りだと思うけど。
— ニート鈴木 (@suzuki210) September 20, 2013
名良橋晃と高校時代に対戦した「ペナルティ」ワッキーが受けた衝撃
出典:https://instagrammernewsimg.s3.ap-northeast-1-ntt.wasabisys.com/
お笑いコンビ「ペナルティ」のワッキーさんは、全国最強の呼び声も高い私立船橋高校サッカー部出身で、プロサッカー選手を目指せるほどの有望選手だった事はよく知られていますが、その高校時代に、千葉英和高校時代の名良橋晃さんと試合で対戦しています。
ワッキーさんは、当時の監督に「とにかく名良橋を止めろ」と指示されてマークについたそうなのですが、その試合で名良橋晃さんの圧倒的な身体能力に衝撃を受けた事を後に語っています。
ワッキーさんは当時を振り返り、自身は身長178cm、名良橋晃さんは当時身長が170cmないくらいだったにも関わらず、ヘディングでは一度も競り勝てず、フィジカルも圧倒的な強さで、ワッキーさんは「なんだ、この人は」と衝撃を受けたと話されていました。
また、キック力も圧倒的だったそうで、名良橋晃さんがフリーキックを蹴る際に、壁に入るのが本気で怖いと感じるほどだったそうです。
そんなワッキーさんと名良橋晃さんは現在、J SPORTSのサッカー専門番組「Foot!THURSDAY」で共演されています。
名良橋晃の若い頃の経歴① 高校卒業後は日本サッカーリーグ「フジタ」へ
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続けて、名良橋晃さんの高校卒業後の若い頃の経歴についても見ていきます。
名良橋晃さんは1989年に千葉英和高校を卒業後、日本サッカーリーグに所属するサッカークラブ「フジタ(湘南ベルマーレの前身)」に加入し、同時期に日本ユース代表にも選出されています。
「フジタ」は、名良橋晃さんが入団を決めた時には日本サッカーリーグの1部に所属していましたが、入団決定後に2部転落が決まります。当時について名良橋晃さんは2部に転落した事でチームでの世代交代が考えられた事で、1年目から試合に出られるようになって結果としてタイミングが良かったと語られています。
「フジタ」は、1992年から開催された「旧JFL1部(ジャパンフットボールリーグ)」に参加しました。「フジタ」はJFLで圧倒的な強さを誇り、1993年には1部リーグ優勝を果たしてJリーグ昇格を決めています。その年は名良橋晃さんもレギュラーとして活躍しサイドバックのポジションでありながらアシスト王に輝きました。
名良橋晃の若い頃の経歴② ベルマーレ平塚の選手としてJリーグでプレー
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名良橋晃さんの所属していた「フジタ」は、1994年のJリーグ昇格に伴いチーム名を「ベルマーレ平塚」に改称。
名良橋晃さんは同年3月のヴェルディ川崎戦でJリーグデビューを果たしました。その年にはリーグ戦39試合に出場し2得点を挙げています。
また、その年には、名良橋晃さんは日本代表監督に就任したロベルト・ファルカン監督に招集され、同年9月27日のオーストラリア戦で日本代表デビューも果たしています。
1995年シーズンも主力選手として活躍し、リーグ戦46試合に出場して4得点を挙げる好成績を残しています。日本代表としてもキリンカップやアンブロカップに出場しました。
1996年シーズンは不振のシーズンとなり、チーム成績も低迷しました。また、この年には日本代表にも招集されませんでした。
名良橋晃の若い頃の経歴③ 鹿島アントラーズに移籍
名良橋晃さんは、1998年のフランスワールドカップに向けてなんとしても日本代表に選出されるためには優勝争いのできるチームでプレーしてアピールする必要があると考え、1997年シーズンに強豪の鹿島アントラーズへの移籍を決めています。
当時の鹿島アントラーズには、名良橋晃さんがサイドバックの名手として憧れていた、ブラジル出身のスター選手ジョルジーニョが所属していた事も移籍の決め手となったそうです。
鹿島アントラーズ移籍後の名良橋晃さんは、右サイドバックのレギュラーとして、相馬直樹さんや秋田豊さんらとディフェンスラインを形成し、黄金期の鹿島アントラーズを支えました。
また、狙い通りにアントラーズでの活躍により日本代表に再び選出されレギュラーを獲得。フランスワールドカップ本戦も右ウイングバックで3戦全てに出場しました。
名良橋晃の若い頃の経歴④ 古巣ベルマーレ復帰後に引退
名良橋晃さんは、それから2006年まで10年間鹿島アントラーズでプレーしましたが、年齢による衰えや、2006年から入団した内田篤人さんがレギュラーを獲得した事もあり、その年にチームから来季の契約を結ばないとの通告を受けました。
名良橋晃さんは現役続行を希望して、2007年シーズンから古巣のベルマーレ(湘南)に移籍します。しかし、1試合に出場したのみで同年7月末に契約満了となり退団。名良橋晃さんはなおも現役続行を希望しましたが、移籍先は見つからず、その年での現役引退を決断されました。
名良橋晃の結婚と嫁について
名良橋晃さんは結婚されているのですが、結婚した時期や嫁の詳細については情報を公開されておらず不明です。
ただ、名良橋晃さんはインタビューなどでよく嫁について話されているので夫婦仲はかなり良いのではないかと思います。
ワールドカップ前の最後のトレーニングマッチが6月3日のユーゴスラビア戦でした。実はその日って、嫁さんの誕生日なんですよ。もし嫁さんの誕生日にいいプレーができなくてワールドカップのメンバーから落ちたら申し訳ないと思ってたんです。
僕が釜揚げしらす丼を食べたいときは、妻に「ららぽーとに行こうか」って言って、食いつかせて、インターセプトするという作戦をとってます(笑)。
名良橋 いろいろと気を使わせてしまった部分があり、ボク以上に妻が大変だったと思います。家族といるとホントにリフレッシュになりましたが、父親としての立ち振る舞いを考えないといけないこともありました。
名良橋晃の息子はJ3藤枝MYFC所属のサッカー選手・名良橋拓真
名良橋晃さんの子供は2人で、息子さんと娘さんだそうです。娘さんの情報は全くないのですが、息子さんは2021年シーズンからJ3所属のサッカークラブ「藤枝MYFC」でプレーしているサッカー選手の名良橋拓真さんです。
名良橋拓真のプロフィール
生年月日:1997年5月19日
出身地 :茨城県鹿島市
身長 :178cm
体重 :74kg
血液型 :A型
名良橋晃さんの息子の名良橋拓真さんのポジションはゴールキーパーで、富士見台FC、FCパーシモン、川崎フロンターレの下部組織(U-15、U-18)を経て阪南大学サッカー部で活躍。2020年の大学卒業後は無所属になっていましたが、2021年1月に「藤枝MYFC」への入団が発表されました。
川崎フロンターレU-18のGK名良橋拓真は、名手・名良橋晃選手のご子息。横顔が似ている。 pic.twitter.com/t4oSDLBl7V
— 安藤隆人@鈴木武蔵『ムサシと武蔵』共同制作 (@takahitoando) August 30, 2015
名良橋晃の激やせの原因はがん?
現役引退後に名良橋晃さんが激やせしたと話題になっています。
写真を見ると確かに頬がこけるほどに激やせしており、何か悪い病気かと心配になるほどです。ネット上では名良橋晃さんの激やせの原因は「がん」では?との噂も出ていました。
名良橋晃…久々見たら!!(゜ロ゜ノ)ノ癌ぢゃねぇ?あの痩せ方
— 畠田 武志 (@hadada4717) June 5, 2014
未だに名良橋晃を見る度にびつくりするなぁ。病的な痩せ方にしか見えないけど癌とかじゃないんだよねぇ?
— Ronald Kumaaaan!!69号 (@ik_uy_o_o_69) May 16, 2013
しかし、名良橋晃さんの激やせが話題になったのは2010年頃からで、2021年の現在も元気に活躍されているため、がんではなかったと思われます。
名良橋晃さんの激やせの原因は「がん」意外にも色々と噂されていますが、以前に名良橋晃さんは「元々食が細い」とインタビューで答えられていたため、現役を引退して食事を摂る量が激減して激やせにつながったのが原因ではないかと思われます。
僕は元々食が細いんですよ。現役のときって無理矢理食べてたんです。体が資本ですから。だから必死で食べてて、食べられなかったときはプロテインとかゼリーとかを流し込んで。
名良橋晃の現在
名良橋晃さんの引退後の現在についても見ていきます。
名良橋晃さんはサッカー選手引退後もサッカーに関わる仕事をしており、2009年からはS.C.相模原のジュニアユースの総監督に就任し現在も務められています。
また、NHKやCS日テレ、スカパーなどでのサッカー放送の解説などでも活躍。J SPORTSのサッカー専門番組「Foot!THURSDAY」にもレギュラー出演されています。
現在の名良橋晃さんの最新の情報としては、2021年3月に東京オリンピックの聖火ランナーを務める事が発表されています。
鹿島アントラーズは2日、ジーコテクニカルディレクターと中田浩二クラブ・リレーションズ・オフィサー、クラブOBの本田泰人氏、名良橋晃氏、鈴木隆行氏が「ジーコ&レジェンズ」として東京五輪の聖火ランナーに参加すると発表した。
名良橋晃さんは、ジーコさんや本田泰人さん、中田浩二さんら往年の鹿島のスター選手達と茨城県鹿嶋市内をグループで走るという事です。
まとめ
今回は、Jリーグ黎明期に「ベルマーレ平塚(湘南ベルマーレ)」や「鹿島アントラーズ」の主力選手として活躍した元サッカー選手・名良橋晃さんについてまとめてみました。
名良橋晃さんは当時新設されたばかりだった千葉英和高校の出身で、当時から圧倒的ドリブル力とフィジカルの強さを持つサッカー選手として注目されていました。
高校卒業後の若い頃の経歴は、ベルマーレの前身である「フジタ」に入団し、そのまま「ベルマーレ平塚」でJリーグデビューを果たし、その後は鹿島アントラーズに移籍して鉄壁のディフェンス陣の一角として活躍しました。日本代表でも活躍し、フランスワールドカップ本戦全3試合に出場しています。
時期は不明ですが結婚していて嫁がおり、子供のうち息子の名良橋拓真さんは2021年シーズンからJ3「藤枝MYFC」でゴールキーパーとしてプレーされています。
引退後の名良橋晃さんは激やせしたため、「がん」などの病気が心配されましたが、現在も、ジュニアユースチームでの指導者や、サッカー放送の解説、サッカー番組への出演などで元気に活躍されています。