お笑いコンビ「カンニング」で活動していた中島忠幸さんは2006年に白血病で病死しましたが、闘病記や相方との友情エピソードが話題です。
今回は中島忠幸さんの経歴、結婚した嫁や子供、死因や葬儀、闘病記や墓の場所を紹介します。
この記事の目次
中島忠幸はカンニング竹山の元相方
中島忠幸(なかじま ただゆき)
生年月日:1971年6月14日
没年月日:2006年12月20日(35歳没)
出身地:福岡県福岡市
身長:168㎝
「カンニング」のツッコミ担当だった
中島忠幸さんは、お笑いコンビ「カンニング」のツッコミ担当だった人物でした。
「カンニング」とは、相方・竹山隆範さんのキレ芸で注目を集めたコンビであり、「めちゃ×2イケてるッ!」や「虎の門」といった番組で活躍していました。
ブレイク直後に中島さんが病魔に倒れたため、冠番組などはありませんでしたが、竹山さんがピンでも人気芸人となったこともあり、「カンニング」は知る人ぞ知る伝説のコンビなんです。
この記事では、そんな中島さんの経歴や家族情報の他、闘病生活の詳細について紹介します。
中島忠幸(カンニング)の経歴 【竹山隆範とは小学時代からの友人】
福岡県福岡市育ちの中島忠幸さんは、相方の竹山隆範さんとは小学時代からの同級生でした。
そのため、小学時代は竹山さんと一緒に近所の池に釣りに行くなど、幼なじみの関係だったんです。
ただ、中学に入ると中島さんがグレ始めます。そのせいか、高校は別々の所に進学しています。
九州産業大学付属九州高校に進学した中島さんでしたが、素行は改善しなかったようで、未成年喫煙を繰り返した末に1年も経たずに退学処分になりました。
高校を中退後はアイドルの親衛隊長
高校中退後の中島忠幸さんは、すぐには就職せず、大阪でアイドル・田村英里子さんの親衛隊をしていた時期もありました。
元々ヤンキー気質で仕切り能力もあった中島さんは、田村さんの親衛隊長にまで上り詰めたようです。
その後、18歳の時に地元・福岡の料亭に就職し、板前修業に入った中島さんですが、超体育会系の世界だけあり、先輩からイジメられる日々だったとか。
1年ほど経った頃、堪忍袋の緒が切れた中島さんは、嫌がらせをされた先輩を殴り倒して料亭を辞め、東京に上京することになりました。
東京で竹山隆範と再会して「カンニング」結成
上京後の中島忠幸さんは、親衛隊時代の知り合いの家に泊めてもらいながら、中野区のお惣菜屋でアルバイトをしていました。
そんな時、西荻窪の定食屋で竹山隆範さんと再会し、それから半年間ほど東京の観光スポットを2人で見学して回っていたとか。
ちなみに、竹山さんが上京していたのは、高校卒業後に福岡でローカル芸人をしていたものの性に合わず、地元を飛び出したそうです。
吉本が福岡に事務所を立ち上げると、当時大学受験に失敗し予備校に通っていた竹山は、中島同様小学校時代からの友人であるケン坊田中とコンビを組み「ター坊ケン坊」としてオーディションに参加。同じく決勝に進出した博多華丸・大吉らとともに吉本にスカウトされ地元のテレビなどに出演し始めた。しかし、程なくして竹山はノイローゼ状態になり、仕事を飛ばし逃げ出した。
ローカル芸人生活が嫌で逃げ出したものの、芸人生活に未練があった竹山さんは、中島さんにお笑いコンビ結成を持ちかけます。
そして2人は、1992年に「カンニング」として芸能デビューを果たしたのです。
紆余曲折の下積み時代
デビュー当時の「カンニング」は、大手芸能事務所「渡辺プロダクション」に所属していましたが、まったく売れなかったためすぐにクビに。
スタートからつまづいてしまったものの、その後、中島忠幸さんの親衛隊時代のコネで「サンミュージック」に拾ってもらうことになりました。
とはいえ、この頃の「サンミュージック」のお笑い部門は、「カンニング」が所属2組目という弱小事業だったこともあり、しばらくすると業績不振で事業は解散。
再度所属先を失った「カンニング」は、今度はお笑いコンビ「MANZAI-C」の個人事務所「フリーフォークス」へ移籍しています。
「カンニング」の下積み時代は、とにかく不運に見舞われることが多かったらしく、つまらない事故が原因で中島さんが借金を背負ってしまったこともありました。
ある日バイクで車と接触事故を起こし一方は無灯火、もう一方は信号無視とどちらにも非があったが、中島は先方から50万円もの示談金を請求される。売れない芸人にとって50万円は大金であり、普通に働くしかないと芸人をやめようと考えた。しかし、スポーツ新聞で見かけた消費者金融の広告を頼りに借金を150万円行ったことで廃業危機は回避する
引用:中島忠幸
「ブッチャーブラザーズ」のアドバイスでブレイク
「フリーフォークス」時代の「カンニング」も、まったく仕事がなかったため、借金だけがかさむ日々だったようです。
そのため、業績不振で「フリーフォークス」が解散した頃には、中島忠幸さんの借金は300万円にまで膨らんでいたそう。
そんな苦境を救ってくれたのが、お笑いコンビ「ブッチャーブラザーズ」でした。
彼らの口利きのおかげで、再度「サンミュージック」に所属が決定したのです。
そんな「ブッチャーブラザーズ」は、「カンニング」のお笑いでの恩人でもあります。
リッキーさんのアドバイスで、キレ芸漫才路線に進むこととなったそうですね。
その後の「カンニング」は、テレビ朝日の名物プロデューサー・藤井智久さんの目に留まり、テレビ番組の出演が増えて行くことになりました。
中島忠幸(カンニング)の嫁と子供…結婚した直後に白血病が発覚
長い下積み時代が続いた「カンニング」ですが、お笑いブームの波に乗り、2004年に念願のブレイクを達成しています。
この頃の「カンニング」は、テレビやイベントに引っ張りだこで、睡眠時間も1日2時間程度という多忙ぶりでした。
そんな中、中島忠幸さんは真奈美さんと結婚し、長男・翔太くんも生まれています。
仕事もプライベートも順調に思えましたが、結婚した年の11月頃、体調不良から病院を受診すると白血病が発覚するという悪夢が待っていたのです。
「あるロケの時にロケバスに乗って、3人で寝ていて、呼ばれても中島が起きなくて、『ちょっとしんどいわ!』って。『風邪やろ』ってことで病院に行ったら『風邪や!』って言われて。(その後も)休めないから無理して働いていて、でも、『やっぱりしんどいから、風邪じゃないんじゃないか』って大学病院に行ったら『白血病です』って…」と経緯を説明。
中島忠幸(カンニング)の白血病の闘病エピソード
中島忠幸さんは白血病発覚後、すぐに仕事を休業して病気の治療に専念しています。
闘病生活中、同時期に白血病に倒れた本田美奈子さんと文通をしながら、お互いを励まし合っていたそうです。
しかしながら、その本田さんは臍帯(さいたい)血移植手術も空しく白血病が再発し、2005年11月に病死しています。
そんな厳しい現実を突き付けられながらも、周囲に対して気丈に振舞っていた中島さんは、気晴らしにやった競馬で万馬券を次々に当てるミラクルを起こしていたとか。
払戻金は、後輩にお小遣いとして配ったり、焼き肉を奢ったりしていた他、新車の購入もしたそうです。
中島忠幸(カンニング)の死因は白血病からの肺炎だった
中島忠幸さんは、臍帯血移植手術にチャレンジしていました。
妊娠中のお母さんと赤ちゃんを結ぶさい帯と、胎盤の中に含まれる血液をさい帯血といいます。さい帯血と胎盤は、赤ちゃんが生まれた後は不要で捨てられていたものです。そのさい帯血の中には、赤血球、白血球、血小板といった血液細胞をつくり出す造血幹細胞がたくさん含まれています。このさい帯血を、白血病や再生不良性貧血などの血液の病気や、ある種の遺伝疾患などの治療に使うことを「さい帯血移植」といいます。
最初の臍帯血移植手術は2006年2月で、直後は経過も良好だったものの、2006年5~6月頃に白血病が再発。
その後、夏頃に2回目の臍帯血移植手術を受け、寛解状態にまで容態が回復したため、退院して自宅療養になっています。
自宅療養中の中島さんは、リハビリの合間に芸人仲間と釣りに行ったり、子供と公園に遊びに行ったりと、楽しい時間を過ごしていたそう。
しかしながら、2006年11月にまたも白血病が再発し、再入院を余儀なくされます。中島さんはかなり気落ちしていたと言います。
その後、帰宅話が浮上するくらい病状が一時持ち直したこともあったようですが、ウイルス性の肺炎にかかってしまい、2006年12月20日に亡くなりました。
中島さんの逝去のニュースに、ネット上でも追悼の声が溢れていました。
36 :名無しさん:2006/12/21(木) 02:17:52
誰もみんな最後は死んでしまうのはあたり前だけどさ、どんな人の死でもやっぱり辛い。
まだ竹山と舞台に立ちたかっただろうに。
「あなたが無駄に生きた1日は生きられなかった人が生きたかった1日」だっけ。
思い出してずきんときたよ。
ご冥福お祈りします。
48 :名無しさん:2006/12/21(木) 02:49:13
竹山がピンで活動してる姿テレビで見てるし、
相方が白血病なのは知ってたから、
竹山と妻子残していっちゃったんだなと思うと
普段芸能人なんてどーでもいいと思ってるワタシでも
本当に残念に思います。
中島忠幸(カンニング)の葬儀は宝仙寺で行われた
中島忠幸さんの告別式は、2006年12月24日に東京都中野区にある宝仙寺で行われました。
お笑い関係者やファンら900人が参列する賑やかな告別式で、参列者には、竹山隆範さんの他、恵俊彰さんや北陽の面々も出席しています。
中島忠幸(カンニング)の白血病の闘病記が出版されている
中島忠幸さんの一回忌に合わせたタイミングで、嫁の中島真奈美さんが、闘病記『家族のたからもの―夫・カンニング中島が遺した最期の日記』を出版しています。
中島忠幸さんが2年にわたる闘病中に綴った日記をまとめたもので、「泣ける」「感動する」「中島さんの強さと優しさ、本当にすごい」とレビューでは高評価が並んでいます。
中島忠幸(カンニング)の相方・竹山隆範の友情エピソードが泣ける
35歳の若さで病死してしまった中島忠幸さんですが、現在は相方・竹山隆範さんの美しすぎる友情エピソードが有名です。
竹山さんは、ピンで稼いだギャラの半分を闘病中の中島さんに渡していたそう。
竹山ってさ、相方亡くなってからも周りにコンビってこと忘れて欲しくないから「カンニング竹山」で出てるし、相方が闘病中のときピンで稼いだお金も半分こして治療費にあててたらしいし、家族 恋人 友達とか関係なく誰かの為に本気で行動起こせる人ってすごい尊敬する。そんな人なりたい。
— Mika TANABE (@Lv209) December 24, 2013
ちなみに、中島さんの死後も遺族をサポートする立場を貫いている竹山さんは、遺児の翔太くんと一緒に旅行をしたりキャンプをする間柄らしく、まさに父親代わりとなっています。
中島忠幸(カンニング)のお墓はどこにある?
中島忠幸さんのお墓の場所は、遺族の意志もあるのか、公表されていません。
そのため、現状はファンがお墓参りに行くことはできない状況のようです。
中島忠幸(カンニング)のまとめ
「カンニング」として活動していた中島忠幸さんは、長い下積み時代を経てブレイクを果たしたものの、白血病で倒れ、復帰することが叶わずに亡くなりました。
カンニング竹山さんの友情は中島さんが亡くなった現在も続いているようで、残された家族はどれだけ心強いことでしょう。
中島さんのご冥福を祈りながら、この記事のまとめを終了させて頂きます。