昭和の日本を代表するスターの一人である三國連太郎さんですが、4回の結婚と3回の離婚を経験しています。
この記事では、三國連太郎さんの嫁と子供&孫の情報など、若い頃から死因までを総まとめしました。
この記事の目次
三國連太郎さんの生い立ちと経歴…若い頃は徴兵され収容所にいた
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本名:佐藤政雄
生年月日:1923年1月20日
出身:群馬県太田市
身長:176.3cm
体重:71kg
血液型:A型
学歴:旧制豆陽中学中退(現在の静岡県立下田高等学校)
三國連太郎さんのお母さんは16歳の時に女中奉公に出され、そこで三國さんを身ごもって実家に帰ったのだそうです。
帰郷途中で三國さんのお父さんになる男性と出会い、結婚。翌年の1月に三國さんが生まれています。生後7か月の時に静岡県に移住。三國さんのお父さんは暴力をふるうことがあり、三國さんは家出を繰り返していたそうです。
中学を中退して、下田港から密航して朝鮮半島から中国大陸へ渡り弁当売りをしていたこともあるそうです。
その後帰国して大阪で皿洗いやペンキ塗りなどをしながら生活をしていました。1943年20歳になった三國さんのところに徴兵通知が送られてきたため、実家に帰って徴兵検査を受けます。
甲種合格となったため、赤紙と呼ばれる召集令状が来るものの「戦争に行きたくない」と当時同居していた女性と逃亡してしまいます。
しかし、佐賀県の唐津で憲兵に捕まり連れ戻され静岡歩兵第34連隊に入りました。
その後は中国の前線に送られたものの、熱病にかかってしまいました。死亡したものと思われてむしろをかぶせられて放置され、焼き場に行くときになって、むしろを剥がしたところで目を覚ましたと言います。
その後収容所に入れられていますが、その中で自作の化粧品を売っていたそうですから、なかなかの商売人であり、女性の扱いも旨かったのではないかと思われます。
その後、復員するときに、独身者よりも妻帯者の方が早く帰国できるということで同じ佐藤性の女性と1946年4月に結婚、6月に復員しています。
偽装結婚だったという話もありますが、帰国して宮崎にある女性の実家に身を寄せ、子供もできていますので、それなりの結婚生活を送られていたのでしょう。
そのまま宮崎交通でバスの整備士として勤務されています。
1948年に妊娠している妻と離婚して鳥取に移住。
ここでその土地の資産家の娘と再婚されています。
1950年に単身で上京し闇商売などを始め、12月に松竹のプロデューサーにスカウトされます。
翌1951年、映画「善魔」でデビュー。この時の役名の「三國連太郎」をそのまま芸名にしています。
1952年に東宝から出演依頼が来るものの、松竹はこれを拒否。すると三國さん本人と交渉をすすめ、「戦国無頼」へ出演します。これを理由に松竹は三國さんを解雇し、義理人情を欠く「アプレ・スター」と叩かれました。
その後三國さんは東宝とも契約交渉が難航し、日活の「泥だらけの青春」に出演することになります。当時、映画会社同士で監督や俳優の引き抜きを禁じる「五社協定」があったため、松竹、東宝、大映、新東宝、東映の5社が三國さんの出演をボイコットしてしまいました。
日活映画を中心に活躍された後、テレビドラマ「松本清張シリーズ」などで活躍。
1988年からは「釣りバカ日誌」シリーズのスーさんこと鈴木社長としてお茶の間の人気を博していました。
三國連太郎さんの女性遍歴…4回の結婚と3回の離婚…女優・太地喜和子との不倫まで
三國さんの女性関係は、かなり華やかなものです。生涯で4回の結婚と3回離婚、また女優との不倫と、とにかく若いころはモテていた三國連太郎さん。
中学中退で家出をした後、召集逃れのために九州へ逃げた時にも、同棲していた女性と共に行動されています。
また、死地へ赴く前に広島の遊郭で女性を抱いたそうですが、この遊女を忘れられなかったと言います。
三國連太郎さん1回目の結婚と離婚
最初の結婚は中国から引き上げる1946年の同じ佐藤姓の女性との偽装結婚でした。1948年に身ごもっていた佐藤さんと離婚しています。
三國連太郎さん2回目の結婚と離婚
1948年か1949年ごろに鳥取に移住し、その土地の資産家の娘である林政枝さんと再婚。1951年に映画「善魔」でデビューした後、1952年に林政枝さんと離婚しています。
三國連太郎さん3回目の結婚と離婚
その後芸能界で数多くの女優とのうわさがあり、3度目に結婚されたのは神楽坂一の売れっ子芸者だった石原とし子さんです。
とし子さんは映画「戦国無頼」の撮影の合間に知り合ったそうです。1957年に結婚し、1960年に男の子が生まれています。この石原さんとの間に出来たのが俳優の佐藤浩市さんです。
1962年に三國さんは、また家庭を捨てて当時の若手女優太地喜和子さんと同棲。太地さんは当時19歳、三國さんは41歳です。しかし同棲開始3か月で「疲れた」と置手紙を残して去って行くのでした。
1972年に佐藤浩市さんの母であるとし子さんと離婚。
三國連太郎さん4回目の結婚
1976年に4度目の結婚をします。三國さんは糖尿病を患って入院していたそうですが、この時看病に来てくれていた友子さんという方が4度目の奥様です。
「これから先、1人で生きていくもんだと思っていたが、どうやら寂しかったみたいですね」と三國さんは4番目となる結婚にあたってコメントされています。
その後も、友子さんとの生活を大切にされ、晩年には「友子のために長生きしなくては」と語っていたそうです。
若いころには結婚しても長続きしていなかったことを思うと、随分と家庭的になられたのだな、とわかります。
三國連太郎さんに翻弄された4人の結婚した嫁たち
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4度目の結婚をするまでは、いわゆる「女たらし」だった三國連太郎さん。
女性遍歴がすごく、女遊びが凄い方でした。
結婚する前に、徴兵逃れで行動を共にしたという女性は、実家が岡山にあるそうです。
その後、三國さんはその女性を探し、帰国してから広島で下車後、岡山に立ち寄っています。
この時、女性はすでに子供を連れていたため、三國さんは声をかけずに立ち去ったそうです。
ということは、この女性は誰かと結婚して家庭を持っていたのでしょう。
最初の結婚をした佐藤さんという女性はその後、再婚するも32歳の若さで他界されました。
2番目の奥様である林政枝さんは、結婚に反対されたために県農業界(のちの農業協同組合)を退職したり、結婚生活が1年も続かなかったことなどから、本人同士というよりも周りからの障害が大きかったことがわかります。
3番目の妻となる佐藤浩市さんの母、石原とし子さんは、昭和の大スター勝新太郎さんとの常磐津の兄弟弟子だったそうです。三國さんと離婚後はスナックを経営されていました。
石原とし子さんに内縁の夫ができたために、思春期だった佐藤浩市さんは家に居場所がなく、高校2年生の時に家を出ています。
2008年にとし子さんは脳梗塞で倒れ、佐藤浩市さん一家が介護をしています。約30年にわたって断絶していたのですが、内縁の夫である男性も亡くなって身寄りがなくなってしまったとし子さん。
そのとし子さんのために、佐藤さんは自宅にエレベーターを作るなどして、佐藤浩市さんの奥様が付ききりで介護していたそうです。
また、結婚されてはいませんが、不倫同棲していた太地喜和子さん。
1982年に、若手の劇団員2人とスナックのママ4人で海にドライブに行き、桟橋から車ごと転落。48歳の若さで亡くなっています。
そして4度目の奥様佐藤友子さん。この時三國さんは58歳、佐藤友子さんは31歳です。2013年に三國さんが亡くなった時、見送ったのも友子さんでした。
三國連太郎さんの子供は俳優・佐藤浩市
一番最初に結婚された女性との間には女の子がいます。
結婚後数年で、妊娠中の妻と離婚し家を出ています。
1948年に妊娠していたということは、現在はもうすぐ70歳くらいの女性でしょうか。
2番目の奥様の林政枝さんとの間の子供については不明ですが、2番目の奥様との間に子供はいなかった思われます。
3番目の奥様である石原とし子さんとの間には1男1女をもうけたと言われています。
この男の子が佐藤浩市さんですね。
つまり佐藤浩市さんには姉か妹がいるようですが、芸能活動などをされていないようで詳細は明らかになっていません。
三國さんは、子供は2人と公言されています。どうやら、1番目の奥様との間の娘さんと佐藤浩市さんのお二人を指しているようで、いろいろと事情があるようです。
三國連太郎さんの孫・寛一郎が俳優デビュー
三國連太郎さんの息子・佐藤浩市さんは、1986年にモデルの女性と結婚し、お子さんが1人産まれています。でき婚だったため、結婚してすぐにお子さんが生まれました。
三國さんは孫にあたるこの男の子をとてもかわいがっていて、何度か訪れています。運動会の応援に三國さんが現れたこともあり、同級生の家族に驚かれたというエピソードもあります。
しかし、佐藤浩市さんとモデルの女性は1989年に離婚。離婚の原因は女優の手塚理美さんとの不倫でした。
その後、1993年に元女優・広田亜矢子と再婚します。
この現在の奥様との間に1996年8月16日に生まれた息子さんが寛一郎さんです。
寛一郎さんは、幼稚園から高校まで成城学園で過ごし、高校卒業後にロサンゼルスに短期留学。
留学先で、役者を志そうと思ったそうです。
すでに俳優デビューもされ、映画「ナミヤ雑貨店の奇蹟」(2017年9月23日公開)で主要キャストにも抜擢されています。
三國連太郎さんの死因は急性呼吸不全…2013年、享年90歳で逝去
2009年まで「釣りバカ日誌」でスーさんこと鈴木社長役を演じていた三國連太郎さん。
体調不良のために降板したとも言われていました。友子さんと結婚に至ったのも、糖尿病による入院でしたので、体調が徐々に悪化していたものと思われます。
2009年には心筋梗塞の疑いがあるとして、心臓カテーテル治療を受けています。この時には自覚症状はなく、映画のために心電図を取って、初めて心筋梗塞が疑われたと言いますから怖いですね。
2012年9月13日の週刊文春には、老人ホームで暮らしていることが報じられています。
2013年4月、東京都の病院で急性呼吸不全によって死去しました。享年90歳でした。
急性心不全、と報じているものも見られます。終末期の状態としては、心臓が止まったら心不全、呼吸が止まったら呼吸不全、というのはあまり正確にはなりません。
病気として心不全や呼吸不全ではなく、自然に心臓や呼吸が止まった、というのが事実でしょう。
三國さんは90歳でしたので、年齢によるところが大きかったのではと思われます。
常日頃、「戒名はいらない」「誰にも知らせるな」「密葬で」「散骨しろ」など、の遺志をのこしていたそうです。
友子さんと結婚されたときで58歳、この時に入院が必要なほどの糖尿病だったのなら、残りの32年間で動脈硬化が進んでいたと考えられます。
86歳で心筋梗塞の疑いありでカテーテル治療を受けていることから、この時点でかなり大きな動脈も狭窄があったのでしょう。
4月24日に検査し、28日にカテーテル治療、29日には心電図が正常となって、意思から撮影許可が下りたそうですから、やはり三國さんの回復力や体力はすごいです。
動脈硬化は血管の90%がふさがれるまでほとんど自覚症状がないと言われています。
動脈をふさぐカタマリ(プラーク)は、ある程度まで大きくなると突然破裂して一挙に血栓を作って、血管をふさいでしまいます。
三國連太郎さんは、直前まで佐藤浩市さんと会話をするほど元気でした。亡くなった日には、朝に嘔吐し、そのまま血圧が上がって2時間ほど経過してそれほど苦しむことなく他界したそうです。
嘔吐、というところから、脳血管に異常が出ていたのかという声もありました。確かに脳出血や脳梗塞で脳血管に異常が出ると、脳が腫れて嘔吐しやすくなります。年齢のこともあり、それ以上の検査や治療をしていないのかもしれません。
いずれにしても、穏やかに、最期まで三國連太郎さんらしい生き方でした。
まとめ
■息子・佐藤浩市の再婚相手・元女優・広田亜矢子との間に生まれたのが、俳優デビューをした息子の寛一郎。これで親子3代俳優となった。
■三國連太郎さんは、2013年4月、急性呼吸不全により亡くなった。享年90歳。最後を看取ったのは4度目の結婚相手である友子さんである。
昭和の実力派俳優として、日本の映画界をけん引してこられた三國連太郎さん。
スクリーンでは圧倒的な存在感と、その演技力で私たちを魅了してくれていました。
佐藤浩市さんの父であり、父子の確執などについては知られていましたが、こうして見ると、若いころから波乱万丈の人生だったことがわかります。
徹底した役作りと、華やかな女性関係、戦争にまつわるエピソード。息子である佐藤浩市さんも、今や日本を代表する実力派俳優として活躍されています。
孫である寛一郎さんも2017年に俳優デビューしています。
すでに3本の映画に出演され、「父を別として、僕は僕としてやっていきたい」と、まるで三國さんと佐藤さんを見ているようなコメントをされています。
父としてはあまり良いお父さんではなかったと佐藤浩市さんがコメントされていましたが、俳優として目標となる存在だったために、現在があるのでしょう。