「料理の鉄人」でも知られる料理研究家の服部幸應さんの死去が発表されました。
この記事では服部幸應さんの本名、学歴や経歴、調理師免許を持っていない事で物議を醸した過去、結婚や嫁と子供、息子の逮捕、自宅や死去発表、死因や何らかの病気を患っていたのかについてまとめました。
この記事の目次
服部幸應のプロフィール
服部幸應のプロフィール
本名 :染谷幸彦(そめや・ゆきひろ)
生年月日:1945年12月16日
没年月日:2024年10月4日(78歳没)
出身地 :東京都豊島区
身長 :171cm
血液型 :O型
服部幸應(はっとり・ゆきお)さんは、1990年代に「料理の鉄人」、「愛のエプロン」、「SMAPXSMAP」(BISTRO SMAPのコーナー)などに出演し料理の深い知識を披露して人気を集めた料理評論家で、自身の父親である服部道政さん(本名:染谷栄)が創立した「服部栄養専門学校」の校長と、その設置者である「服部学園」の理事長を務めていました。
服部幸應さんは、栄養士や調理師の育成に尽力しつつ、「食育」の必要性を訴えて2005年の食育基本法成立にも関わり、農林水産省の「食育推進評価専門委員会」座長や、NPO日本食育インストラクター協会理事長などを務めました。
こうした功績により、2003年に「藍綬褒章」を、2020年に「旭日小綬章」を受章しています。
また、日本でのフランス料理の普及に情熱を持って取り組んだ事でも知られ、フランスで最も権威のある国家勲章である「レジオンドヌール勲章」のシュヴァリエの等級を授与されています。
2024年10月、この服部幸應さんが78歳で死去したと報じられ悲しみの声が広まっています。
服部幸應の本名は染谷幸彦
「服部幸應」というのは芸名のようなものだそうで、服部幸應さんの本名は「染谷幸彦」さんです。
服部幸應さんの本名が染谷幸彦である事が判明したのは2007年の事で、「週刊文春」や「日刊ゲンダイ」などのいくつかのメディアが、服部幸應さんが経歴や名前を詐称しているという内容を報じた事でした。
服部幸應さんはこれらの報道内容を概ね認めており、本名(戸籍上の名前)が染谷幸彦である事や、別に隠す意図があったわけではなく、父親の染谷栄さんが「服部道政」という通称を使っていた事から、学校を引き継いだときに自身も「服部」を通称として使用するようになったという経緯などを説明されています。
この本名が判明するきっかけとなった騒動以前は、服部幸應さんは1561年に発祥したという「服部流割烹17代目家元」や「服部流割烹宗家」を自称し、自らこそが服部流割烹の正当な継承者であるとアピールしていました。
出典:https://livedoor.blogimg.jp/
服部幸應さんはこの騒動を受けて、自身と服部流割烹の家とは血縁関係が無い事を認め、父親の染谷栄さんが戦前にこの服部家の料理学校を手伝っていた事があり、その縁で歌舞伎などの伝統芸能のようにその仕事を代々継承しているという解釈で「服部姓」を名乗っていると釈明されていました。
また、この騒動が起こる4年前に本当の服部家の血筋の方から「(血縁でも無いのに宣伝のために服部を名乗るのは)おかしいのではないか」とクレームがついたため、服部流割烹の家元だという経歴は修正したとも説明されていました。
ちなみに、服部幸應さんの本名や経歴の詐称を最初に公に指摘したのは、覆面自腹レストラン評論家として知られる友里征耶さんだそうです。
kou@kou_1192 確かに服部幸應さんの本名や家柄偽装の言い出しっぺは友里になっておりますが、実際は読者の方からの情報がきっかけでありました。一緒に色々と調べて、服部流割烹もエアーだと確信して問題提起したのです。会社にかかってきた「半殺しにするぞ」との脅迫電話も懐かしい。
— 友里征耶 (@TomosatoYuya) November 13, 2012
服部幸應の学歴① 立教大学社会学部産業関係学科
服部幸應さんは学歴については、「立教大学」の社会学部産業関係学科を卒業している事を公表しています。現在の立教大学社会学部の偏差値は「60〜62.5」となっています。
服部幸應さんは大学時代について、よく仲間と麻雀で遊んだ事や、ゴルフ同好会と服飾研究会のサークルに所属していた事などを明かされています。
服部幸應さんは1970年に立教大学を卒業し社会学士の学位を取得されています。
服部幸應の学歴② 昭和大学医学部博士課程修了
服部幸應さんの学歴としては、料理評論家として名前が知られるようになった後、忙しい仕事の合間を縫って昭和大学の医学部へと通い、2005年に「女子学生における食品摂取と性格との関連に関する研究」という論文で博士号の学位を取得されています。
服部幸應の経歴
出典:https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/
服部幸應さんは立教大学を1970年に卒業後は、父親の服部道政(本名:染谷栄)さんが創立した料理学校・服部学園(現在の服部栄養専門学校)ですぐに広報担当として働き始めています。
その後、当時校長を務めていた母親の記代子さんが死去したため、その後任として1977年に32歳の若さで「服部栄養専門学校」の校長に就任し、同時に服部学園の理事長にも就任。
服部幸應さんが服部栄養専門学校の経営を継いだ頃は経営状態が思わしくなかったそうで、経営の再建に苦労されたそうです。
服部幸應さんは、1990年代から「料理の鉄人」などのテレビ番組に料理評論家として出演されましたが、これも少しでも学校の宣伝になればとの気持ちからだったそうです。
テレビ出演などで知名度を上げた服部幸應さんは、服部栄養専門学校以外の教育機関でも幅広く教鞭を取り、母校である立教大学では全学共通カリキュラム兼任講師を務め、東京農業大学、昭和大学医学部、広島大学医学部医学科の客員教授、高知大学医学部の非常勤講師、福井仁愛学園仁愛女子短期大学の特別講師、国士館大学「21世紀アジア学科」ホスピタリティマネジメントⅡ(外食サービス)の担当兼任教員、独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構農業者大学校 の特別講師などを務められています。
その他、様々な団体の役職を務めており、主なものとしては、全国調理師養成施設協会会長、全国栄養士養成施設協会常任理事及び全国栄養士養成専門学校協議会名誉会長、全国料理学校協会会長、NPO日本食育インストラクター協会理事長などがあります。
服部幸應が調理師免許を持っていない事が物議を醸した事も
32歳で「服部栄養専門学校」の校長と服部学園の理事長に就任し、以降は「食」に関わる様々な分野・団体で重きをなした服部幸應さんでしたが、2001年には日刊ゲンダイなどに調理師免許や栄養士免許など、食に関わる免許を何1つ所持していない事を暴露され、それによって物議を醸した事がありました。
当時の日刊ゲンダイの記事によれば、服部幸應さんが「社団法人全国調理師養成施設協会」の会長を決める選挙に出馬して次期会長に選出されたが、この選挙戦において、服部幸應さんが調理師免許を持っていない事を批判する声が上がったという事です。
服部さんは、調理師の育成をすすめる「社団法人全国調理師養成施設協会」の会長選挙に出馬し、現会長を下して次期会長に選ばれた。選挙戦は“怪情報”が飛び交う激しいものになったという。
その選挙戦の最中に、「調理師の免許も持たない服部が、調理師養成の社団法人の会長になるのはおかしい」という批判の声が上がったというのだ。
これを受けて、服部幸應さんは2001年5月24日に会見を開き「学校経営に調理師免許は必要ない。」と説明し、「(調理師免許は)あった方がいいと思うが、学校に1年間通ったりする必要があり、今更取得しに行くのは難しい」と、調理師免許を取りに行く時間がないと事情を説明されていました。
服部幸應さんはそもそも料理人ではなく料理評論家であり、大学卒業後すぐに広報担当として服部学園で働き始めて32歳の時に急遽「服部栄養専門学校」の経営を継ぐ事になり、以降は多忙を極められていたはずなので調理師免許を取得する暇も必要性もなかったのでしょう。
この騒動では、そもそも服部幸應さん自身が調理師免許の問題を作る側なので試験を受ける事ができないというジョークも広まりました。
服部幸應先生が調理師免許の問題作成側になってしまったために、先生自身は調理師免許の試験を受けることができないという話が好き。ゲームに勝つか負けるかじゃなくて、ルールメーカーになるという選択肢。
— 山本ゆうご (@yugo_yamamoto) August 2, 2020
服部幸應の結婚と嫁
服部幸應さんは26歳の時に結婚されています。
服部幸應さんの嫁は4歳年下の女性で名前などは明かされていませんが、結婚当時は家事手伝いをされていたそうで、知り合いの紹介をきっかけに結婚されたそうです。
服部幸應さんの2017年のインタビュー記事の中で、嫁と服部栄養専門学校から歩いて20分ほどの自宅で2人で暮らしているとも明かされていました。
26歳のとき、友人に紹介された4歳下の“家事手伝い”の女性と結婚。服部栄養専門学校から徒歩20分の自宅で夫人と2人暮らし。
服部幸應さんの嫁は2024年現在は74歳〜75歳だと推測されます。
服部幸應の子供は息子が2人で共に学校経営を手伝っている
服部幸應さんと嫁の間には子供が2人生まれています。
服部幸應さんの子供は2人とも息子で、共に服部栄養専門学校の経営に関わっているという事です。
息子2人は結婚して独立し、ともに学校経営を手伝っている。孫はいないそうだ。
服部幸應の息子のうち長男の染谷吉彦には背任容疑での逮捕歴も
服部幸應さんの2人の子供(息子)のうち、長男の染谷吉彦さんは、2015年11月16日に背任容疑で警視庁捜査2課に逮捕されています。
当時の報道によると、服部幸應さんの息子の染谷吉彦さんの逮捕容疑は、服部学園の総務部長を務めており、2012年4月から2015年3月頃までに、知人が経営する広告代理店など2社に広告宣伝費などを水増し請求させて服部学園に合計約2800万円を支払わせ、服部学園に本来の代金との差額の約1100万円の損害を与えたという事でした。
服部幸應さんの息子の染谷吉彦さんはこの差額を着服しており、宝くじ(ナンバーズ)の購入費などに充てたと容疑を認めているという事でした。
服部幸應さんの息子である染谷吉彦さんはこの逮捕当時43歳と報じられているので、1972年頃に生まれたと思われます。
1972年というと服部幸應さんは26歳〜27歳の年なので、26歳で結婚した服部幸應さんと嫁との間には結婚から1年を待たずに子供が生まれたという事になります。
服部幸應さんの息子の染谷吉彦さんの逮捕を受けて、服部学園側は「詳しい状況を把握していないので、今は何も答えられない」とのコメントを発表しています。
その後、染谷吉彦さんが起訴されたのか、または不起訴となったのか、何らかの判決を言い渡されたのかなどは続報が何も出ていないのでわかりません。
ただ、現在、染谷吉彦さんは公益社団法人東京都専修学校各種学校協会の理事を務めているようなので、もしかすると不起訴処分とされたのかも知れません。
服部幸應の自宅
服部幸應さんの自宅は「服部栄養専門学校」から徒歩で20分の距離にある事が明かされています。
服部栄養専門学校は東京都渋谷区千駄ヶ谷五丁目なので、服部幸應さんの自宅も渋谷区内になる可能性が高そうです。ただ、徒歩20分であれば新宿区の可能性も考えられます。
一部のウェブサイトでは、服部幸應さんの自宅は渋谷区の豪邸だと書かれていますが、情報元が示されておらず真偽不明の情報です。
服部幸應の死去が発表
服部幸應さんは2024年10月4日に78歳で死去しました。
服部幸應さんの死去は10月5日に一斉に報じられました。報道によると、服部幸應さんは10月4日に服部栄養専門学校内で倒れ、16時45分頃に同校の職員から119番通報がされて都内の病院に救急搬送されるも、同日18時半に病院で死亡が確認されたとの事です。
捜査関係者などによると4日午後4時45分頃、服部栄養専門学校職員から服部さんが倒れていると119番通報があり、都内の病院に救急搬送されたが、同6時半に死亡が確認された。
引用:料理評論家、服部幸應さん死去 78歳 理事長を務める専門学校で倒れ、そのまま帰らぬ人に… フジ系「料理の鉄人」解説&「ビストロSMAP」企画監修
服部幸應さんの葬儀については家族葬で執り行われたという事です。2024年12月13日に、学校葬として東京都港区の芝・増上寺にてあらためて葬儀が行われる事も発表されています。
葬儀は家族葬で執り行いますのでご会葬は固くお断りいたします
ご供花・ご供物等は学校葬にてお受けいたします何卒ご理解のほど宜しくお願い申し上げます
<学校葬について>
日時:12月13日(金)
会場:芝・増上寺(住所:東京都港区芝公園4-7-35)
なお増上寺へのお問い合わせはご遠慮ください
服部幸應の死因は急性心不全
服部幸應さんの死因は「急性心不全」と「服部栄養専門学校」の講師サイトで発表されています。
4日に78歳で急逝した料理評論家、服部幸應さん。その死因が急性心不全だったことを、故人が理事長を務める服部栄養専門学校(東京都渋谷区)が公式サイトで明らかにした。
引用:料理評論家・服部幸應さんが急逝、死因は急性心不全 直前までラジオ共演の保田圭が悲痛な思い TOKIOや木村拓哉も追悼
服部幸應が何か病気を患っていたといった情報は現在の時点では特になし
出典:https://news.biglobe.ne.jp/
服部幸應さんの死因は急性心不全という事ですが、それを誘発するような何らかの病気を患っていたといった情報は現在の時点では特に確認されていません。
服部幸應さんは、死去の直前まで精力的に活動しており、2024年10月1日には元大関の栃ノ心剛史さんが服部栄養専門学校を訪れて服部幸應さんと会った事を自身のXに投稿し、服部幸應さんとの写真も添付されています。この写真からは若干痩せたようには見えるものの病気を患っているような印象は受けません。
服部学園の服部幸應理事長と津貴子先生、服部学園の先生方とお会いしました。
— 栃ノ心 剛史 (@tochinoshin) October 1, 2024
ジョージアの食文化やワインについてお話させて頂きました。 pic.twitter.com/HSBYK6tolA
また、服部幸應さんが長年パーソナリティを務めていたラジオ番組「服部幸應 WELL TASTE」で、約8年半にわたってアシスタントパーソナリティとして共演した元モーニング娘。の安田圭さんは、服部幸應さんが亡くなった当日に一緒にラジオ収録をしており、昼食も一緒に食べた事をブログで明かし、服部幸應さんが「いつもと変わらない様子で全ての料理を美味しそうに完食」と元気そうな様子だった事を綴られています。
先生が倒れられた日、
普段通りにラジオの収録をし、その後、陳さんのお店で久しぶりに昼食をご一緒させて頂きました。
いつもと変わらないご様子で、全ての料理を
美味しそうに完食なさっていました。
こうした事から、服部幸應さんが何か具体的な病気で闘病をしていたといった事実はなかったと思われます。
ただ、服部幸應さんと業務提携しマネージメントを担当していた生島企画の代表である生島ヒロシさんは、今年(2024年)の3月に服部幸應さんが足を怪我して歩くのに杖が必要になったと聞いていたそうで、健康面を心配されていたそうです。
また、生島ヒロシさんは、最近の服部幸應さんについて、足の怪我の事で周囲に手術を勧められるも本人が望まずに断っている事や、どんどん痩せていた事、声が通りにくくなっている様子である事などを知人から聞かされていたという事でした。
最近ではコロナ禍もあり直接会う機会はなかったが、「今年3月に服部さんが足にけがを負い、杖をつくようになったと聞いていた」と健康面に心配もあった様子。先月、服部さんに会った知人からは「周囲は手術を勧めたが本人は『望まない』と。どんどん痩せて世間のイメージするふっくらした服部先生ではない。歩く速度もゆっくりで、声も通りにくいようだ」と近況を聞かされていたという。
引用:生島ヒロシ、服部幸應さん死去に沈痛&近況明かす「3月に足をけがしたと…」40年来の付き合いで“意志強く義理堅い人”
服部幸應さんは病気ではなかったのかも知れませんが、足を怪我した事をきっかけに身体が衰弱し、それが死因となった急性心不全と関連した可能性などもあるのかも知れません。
まとめ
今回は、「料理の鉄人」や「愛のエプロン」、「SMAPXSMAP」などへの出演で知られる料理評論家で、服部栄養専門学校の校長であった服部幸應さんについてまとめてみました。
服部幸應さんの本名は「染谷幸彦」さんで、「服部幸應」というのは戦国時代に発祥した「服部流割烹」の教えの継承者という意味合いでつけられた芸名のようなものだという事です。
服部幸應さんの学歴は、立教大学の社会学部産業関係学科を卒業している事が明かされています。また、2005年には昭和大学医学部より博士号の学位を授与されています。
服部幸應さんの経歴ですが、立教大学を卒業後に父親の創立した服部学園で候補として勤務し始め、校長を務めていた記代子さんが死去したため、32歳の時に服部栄養専門学校の校長と服部学園の理事長に就任しています。
食に関する教育機関や公的団体で要職を歴任された服部幸應さんですが、実は調理師免許や栄養士免許などは何も持っておらず、この事が物議を醸した事もありました。
服部幸應さんは26歳の時に結婚していて、嫁は4歳年下の一般の女性だという事です。服部幸應さんと嫁の間には2人の子供が生まれており、子供は2人とも息子さんです。
服部幸應さんの息子さんのうち長男の染谷吉彦さんは2015年に背任容疑で逮捕されていますが、現在も公益社団法人東京都専修学校各種学校協会の理事を務められているようなので、この件は不起訴になった可能性が高そうです。
服部幸應さんの自宅は「服部栄養専門学校」から徒歩で20分の距離にある事が明かされており、晩年は自宅で嫁と2人で暮らされていたという事です。
服部幸應さんは2024年10月4日に78歳で死去しており、死因は「急性心不全」と発表されています。服部幸應さんが何か病気を患っていたといった情報は現在の時点では出ていません。