欽ちゃんの愛称で親しまれている萩本欽一さんを調べると「死去」というワードが出てきます
今回は萩本欽一さんのプロフィール、若い頃や出身高校と大学、結婚した嫁や息子の情報、そして死亡説が出る理由をまとめました。
この記事の目次
萩本欽一のプロフィール
名前:萩本 欽一(はぎもと きんいち)
ニックネーム:欽ちゃん/大将
生年月日:1941年5月7日
出身:東京都台東区
身長:164cm
体重:65kg
血液型:A型
萩本欽一の若い頃の経歴…高校卒業後にコメディアンの道へ
萩本欽一、高校卒業後にコメディアンの道へ
萩本欽一さんはコメディアン、タレント、司会者、ラジオパーソナリティー、演出家としても活動されています。両親は香川県小豆島出身で、父の実家は饅頭屋で、母はお嬢様で嫁ぎ先で洗濯をする発想が無く洗濯物を貯めこむ有様だったそうです。
稲荷町で幼少期を過ごすも、父親が稲荷町の長屋で営んでいたカメラ製造販売が成功し埼玉県浦和市に家を建てたため、稲荷町から一家で浦和に転居、裕福な少年時代を送ることとなりました。
父は愛人と萩本欽一さんとで浅草へよく出かけ、それが芸能へ興味を持つ原点になっています。しかしそんな生活が、昭和25年萩本欽一さんが小学校5年の時、父の会社が倒産することで変わってしまいます。
それからは再び稲荷町の長屋に居を移し、さらに中学校3年の時、文京区丸山町に転居するも、極貧生活を余儀なくされの高校時代に一家で夜逃げをしたことがあるそうです。
そして極貧の生活を抜け出したい萩本欽一さんは、映画で「面白い人が面白いことをしてお金をもらっている姿」を見たことがきっかけで中学卒業と同時に芸人を目指し浅草を代表する喜劇役者・大宮敏充さんの元へ弟子入りを請います。
しかし「せめて高校を出てからおいで」と断られてしまうのでした。そして高校卒業後、浅草公園六区にあった東洋劇場の仲介で再度入門を請うべく大宮敏充が常打ちにしていた浅草松竹演芸場へと赴くも、寸前で入門することを取り止めその足で同じ近隣の東洋劇場に入団し、研究生としてコメディアンの卵となります。
東洋劇場では、先輩芸人である池信一さんや石田英二さん、そして東八郎さんから数多くの指導を受け、大師匠筋である浅草の首領こと深見千三郎さんからも薫陶を受け、大いに可愛がられられる存在となりました。
入団当時には演出家の緑川士朗さんから「君は才能がないからやめたほうがいい」と言われて落ち込み諦めようとした際、池信一さんが演出家を説得し、「大丈夫、演出の先生に言ってきた。ずっといていいよ」と萩本欽一さんを引き止めたというエピソードもあります。
その後、誰も居ない劇場で早朝に大声を出す練習をしたり、先輩芸人の真似を何度も繰り返すなど才能を努力で補うために必死になったそうです。
そこから更に災いがふりかかり、親の家が火災になり、萩本欽一さんは父親を助けるためにコメディアンを辞めようとしたこともあったそうです。
それを聞いた池信一さんは、劇場の関係者からカンパを募り約60万円を萩本欽一さんに渡し、萩本欽一さんも感極まって号泣し、コメディアンを続けていくことを決意します。
萩本欽一、坂上二郎とコント55号を結成
萩本欽一さんは、東洋劇場で上達した頃、同系列の浅草フランス座へ出向し、ストリップの幕間コントでさらに腕を磨き、ここで漫才師崩れの専属コメディアン・安藤ロール(後の坂上二郎)と知り合います。
東洋興業を辞めた後はいくつかのコントグループを経て浅草松竹演芸場で劇団浅草新喜劇を旗揚げして座長公演を行い、同時期に、放送作家のはかま満緒さんに師事してお笑い作りに本格的に取り組むこととなります。ここで、後年コント55号のほとんどの台本を手掛けた岩城未知男さんと知り合うのでした。
さらに、はかま満緒さんの伝手で、TBSのプロデューサー・向井爽也さんや芸能マネージャー・浅井良二さんと知り合い、本格的にタレント活動を開始することとなりましたが、CMの仕事でミスを繰りかえしてしまいテレビ進出を諦め生涯舞台役者で生きていくことを決意し、熱海つるやホテルの営業で再起を期していました。
熱海で考案したコント「机」を売り込もうと帰京したところ、たまたま坂上二郎さんから電話が掛かってきて会うことになり、その際萩本が「机」のあらすじを語ったところ「そのコントは俺と欽ちゃんで演じた方がいいのでは」と提案されたのがきっかけとなり、一回の舞台契約だけで、1966年、「コント55号」を結成します。
コント55号を結成してからは人気を博すものの、テレビ出演の機会が増えていく度にピンでの仕事が増えていきました。
それからは萩本欽一さんは数々の番組をヒットさせ、現在の地位を確立したのです。
萩本欽一の出身高校と大学~73歳で駒澤大学に進学で話題に
萩本欽一の出身高校は駒込高校
萩本欽一さんは、東京にある駒込高校を卒業しています。高校時代には野球に熱中しており、野球部に所属していたそうです。
当時は、父親の会社が倒産し貧乏だった萩本欽一さんは高校指定の革靴が買えず、新聞配達をして購入したんだとか。
裕福な生活から一転、相当苦労されたようです。
「買って」と言えなかったのは革靴だ。駒込高校は校則に「革靴で通学」とあった。僕は白いズック靴で通い始めた。校門で先生が生徒たちの靴をチェックする。「おい君、校則読んだのか。運動靴じゃあだめだよ」
萩本欽一、73歳で駒澤大学仏教学部に入学
萩本欽一さんは2015年4月、73歳の時に駒澤大学仏教学部に入学しました。
高校卒業後はすぐにコメディアンの道に進んでいる萩本欽一さんですが、そもそも当時は極貧生活ということもあり、大学進学は断念せざるをえない状況でした。
しかし、大学進学というのは萩本欽一さんの母親の夢でもあり、萩本欽一さん自身のチャレンジでもあったのです。
萩本欽一さんは社会人特別入試枠で願書を提出したところ、大学側から推薦での入学を打診されたそうなのですが「挑戦がしたい」という理由から社会人試験を受けたそうです。
無事に試験に合格し大学に入学した後は、若い学友たちに囲まれ、キャンパスライフを楽しんでいたようです。
14年に駒澤大学仏教学部へ入り今春から4年生になった萩本欽一(76)も、あと1年足らずで卒業を迎えることになる。そうなれば欽ちゃんも晴れて「学士様」。だが最近、大学卒業後について萩本にさらなる“夢”が膨らんでいるという。
「じつは、大学4年間では満足できず、さらに大学院へ進みたい希望があるそうなんです」(萩本の知人)
いくつになっても学ぶ姿勢はとっても素敵ですね。
萩本欽一は視聴率100%の男?芸能界での若い頃の伝説の数々とは
萩本欽一さんには多くの伝説がありますが、その伝説の一部を紹介します。
萩本欽一、出演番組は軒並み高視聴率を叩き出す
萩本欽一さんは、出演した番組が軒並み高視聴率を叩き出しています。
1981年には月曜9時にフジテレビ「欽ドン!良い子悪い子普通の子」シリーズが開始され最高視聴率は38.8%、「欽ちゃんのどこまでやるの!?」は、最高視聴率42%を記録、1982年に始まったTBS「欽ちゃんの週刊欽曜日」は最高視聴率31.7%、TBS「ぴったし カン・カン」は最高視聴率37.6%などなど高視聴率番組が続き、各番組の合計した視聴率の数字から「100%男」の異名を取りました。
萩本欽一の才能を見抜く能力スゴイ!
萩本欽一さんは一般の素人や、芸人以外の著名人などを積極的に番組に起用し、コメディーの才能を見抜いて引き出すことに長けていました。
有名な方だと志穂美悦子さん、前川清さん、内山田洋とクール・ファイブ、中原理恵さん、真屋順子さん、志賀勝さんなど、それまでお笑いに縁がなかった面々を自分の世界に引き込み、世間に新たな側面を見出させました。
更にテレビ番組に出演した際かつて司会を務めたスター誕生!の裏話として山口百恵さんが実は不合格だったが他の出演者がオーディションを行っている間、山口百恵さんは後ろの席に座ったまま身動き1つせずじっと他の出演者のオーディションを見ていたことを語り、その姿勢を見た萩本欽一さんが「百恵ちゃんは必ず大物になる」とプロダクション側に訴えた結果不合格が合格になったと話しています。
萩本欽一の家族情報~結婚した嫁や子供について
萩本欽一の親族はスゴイ人揃いだった!
プロフィールで萩本欽一さんの家庭に関しても触れていますが、実は親族には凄い方が多くいるのです。
・兄 萩本功(はぎもと いさお)プラスロン化粧品会長
・弟 萩本悦久(はぎもと よしひさ)元東京創価小学校校長
・姪 プラスロン明世(ぷらすろん あきよ)プラスロン化粧品社長
・はとこ 藤本克巳 銀座カツミ堂写真機店会長
・姪孫 萩本愛里(はぎもと あいり プロテニスプレーヤー
あまり知られていませんが、萩本欽一さんの兄弟も会長や校長、更に姪などもかなりの経歴を持っているようです。
萩本欽一、嫁は浅草時代のストリッパーの女性
それは結婚相手が浅草での駆け出し芸人時代に知り合ったストリッパーだったことから名前などの詳しい情報は伏せるようマスコミに要望を出していたからだそうです。
本名が澄子さんということまでわかっていますが、それ以外の情報は公表されていません。
萩本欽一に子供は息子が3人
嫁との間に3人の息子がおり、一般人という理由で長らく公表されることはありませんでした。しかし、2007年に刊行された自伝「なんでそーなるの!」においては実名入りで紹介されていますが、ネット上には息子さん情報は出回っていませんでした。
黒柳に誘われて口にした家族は、澄子夫人との間に3人の男児がいる。夫人と2児が写った昔の写真も紹介され、萩本は「奧さんが年がいってたので急いで作りました」と夫人が年上であることを明かした。
引用:こ欽ちゃん「徹子の部屋」で家族秘話
萩本欽一に死去説?~デマの出処は「欽どこ」出演の真屋順子の死去
萩本欽一、ネット上で死去説が出回る
ネット上で萩本欽一さんを調べると「萩本欽一 死去」という予測ワードが出ます。更に「欽ちゃんの死亡が確認された」という記事まであるのですが、これは全て誤報です。
ただ、萩本欽一さんに関わってきた人達が亡くなってしまい、関係者として萩本欽一さんがコメントを残していることもあるので、萩本欽一さんと「死去」という言葉がつながりやすくなっているのです。
萩本欽一、共演者の真屋順子・生田悦子の死に悲痛
萩本欽一さんを調べて「死去」と出てしまう原因として、「欽どこ」に出演していた真屋順子さん、そして「欽ドン」に出演していた生田悦子さんの死に関連しています。
2017年12月28日なくなった真屋順子さん
「欽どこ」では萩本欽一さんと夫婦役でした。
1976年から86年まで放送されたテレビ朝日系「欽ちゃんのどこまでやるの!」のお母さん役で人気を博した女優、真屋順子(まや・じゅんこ、本名高津詔子=たかつ・しょうこ)さんが、昨年12月28日に死去したことが5日、分かった。75歳。葬儀・告別式は近親者で済ませた。
真屋順子さんの家族葬の時の記念写真
ずっと夫婦役だった萩本が「すてきな萩本家の家族葬をやろう!」と呼びかけ実現した「欽どこ家族葬」。萩本は「やっと家族みんなで順子さんに『ありがとう』を言えた」と遺影を見上げた。
そして、真屋順子さんが亡くなって約半年後の2018年7月には「欽ドン」で共演した生田悦子さんも亡くなってしまいました。
2018年7月15日に71歳で亡くなった生田悦子さん
フジテレビ系バラエティー番組「欽ドン!良い子悪い子普通の子」などで活躍した女優の生田悦子(いくた・えつこ)さんが15日午後、虚血性心不全のため都内の病院で死去した。71歳だった。所属事務所が17日、発表した。
「欽ドン!」で生田さんと共演したタレントの萩本欽一(77)はスポーツ報知の取材に応じ「こんなに早く亡くなってしまうなんて…。もう一度お会いしたかった」と悔やんだ。
萩本欽一の現在① 駒澤大学を中退
出典:https://xn--o9ja893uzzaw79anxbca106hu14bql4ah8ds99e.com/
2015年に駒澤大学に入学した萩本欽一さん。2019年3月に卒業予定でしたが、「大学が楽しくてもっといたくなってしまった」との理由から単位を取らず卒業はしませんでした。
そして、同年5月に大学を自主退学しています。
この時78歳だった萩本欽一さんは、大学を中退した理由について「自分が全力で笑いに取り組める時間はそう長くはなく焦りを感じた」ためだと明かしました。
「年を取ればとるほど、いい笑いはできなくなる。だから、あと2年ぐらいは笑いをとことんやろうと思って。いま、腹を抱えて笑えるほどのテレビ番組を作るのは難しい。でも、約50年前、コント55号(故・坂上二郎さんとのお笑いコンビ)のときのぼくは、そんな番組が作れていた。いまでも、二郎さんがいたらできると思うんだけど、もういないから、ぼくの“相方”を育てるために、80歳までの2年を使おうと」
大学4年生にして中退してしまった萩本欽一さんですが、もともと卒業にはこだわっていなかったとのことで、「学ぶことは面白かったし、若い友だちができ認知症予防にも役立った」と大学生活を振り返って語っていました。
萩本欽一の現在② 最愛の妻・澄子さんを亡くす
出典:https://sportsarekore.com/
過去の共演者たちとの悲しい別れを経験してきた萩本欽一さんですが、2020年8月にはがんで4年程闘病していた妻・澄子さんも亡くしています。
がんが見つかったのは、4年前。そのときはお医者さんに「あと半年ぐらい」って言われたんだけど、がんばってくれた。あんまり急だと、ぼくも3人の息子たちも、心の準備が間に合わないって思ったのかな。
亡くなる前の1週間ぐらいは、もうスミちゃんは言葉を口にできなかった。だけど、大事なことをいっぱい話せた気がする。長いあいだ夫婦をやってても、最後の最後にならないと、話せないことってあるんだね。
澄子さんは萩本欽一さんに対し、「家のことなんて気にしないで、笑いのことを考えてなさい」と言い続け、仕事に専念させてくれるような方だったそうです。
萩本欽一さんは澄子さんのことを、「頼りになるお姉さん」、「立派なお母さん」、そして「理想の奥さん」だったと語っていました。
萩本欽一の現在③ YouTubeなど新たな挑戦も
出典:https://news.mynavi.jp/
2021年5月で80歳を迎えた萩本欽一さんですが、80代に入ったとたん、体が思い通りに動かなくなったことを明かしています。
ものを食べればすぐむせる、何でもないところでよろける、ぶつかる。極めつきは1ヵ月の間に4回も家の中で転んで頭を打って、病院のお世話になったことだな。 もう時間が経っているから先生は「治りましたね」と言うけど、治ってないよ。後遺症っていうのかな、今も転倒時の50%くらいの頭の痛みを抱えて生活しているの。自分が年をとったということに気づかないように生活してきたけれど、なんだか体のほうから「おい、いいかげん気づけよ」と言われているみたいだった。
コロナ禍で仕事がストップし外出もままならなくなり、年齢のせいで体も思うように動かない、さらには妻・澄子さんが亡くなったことで気持ちが塞いでいた時もあったといいます。
しかし、このまま沈んでてはいけないと思うようになり、仕事で新しいことに挑戦するためにも愛着のあった2つの番組「欽ちゃんの仮装大賞」(1979年から司会)と「ラジオ深夜便・萩本欽一の人間塾」(2014年から出演)から2021年に退きました。
暗くなりかけていた気分が持ち直したら、仕事でも新しいことを始めたくなっている自分がいました。でもね、80代はこれまでとは違う。若い頃のようにいくつも並行してできません。何かを手放して、挑戦する対象を絞り込むこと。これが力強く邁進するために、最初にやらなくてはいけないことなんだ。 具体的に言うと、『全日本仮装大賞』と『ラジオ深夜便』、愛着を持って長いこと続けてきたテレビとラジオの番組を手放すことにした。やめたくないけど、自分の体のことを考えると、どうしてもやめなくちゃいけなかったんです。
そして、80歳にしてYouTubeチャンネル「欽ちゃん80歳の挑戦!」での活動を始めるなど、新たなことに挑戦しています。
そして80歳で新たに始めたのが、ユーチューブチャンネル「欽ちゃん80歳の挑戦!」です。自由の利く新しい媒体だから、試行錯誤しながら楽しくやっているよ。今は、視聴者と一緒に理想のお墓を考える「欽ちゃん最後の夢物語」と、かつて一緒に番組をつくってきた人を招いてトークをする生配信を週2日。小堺一機や関根勤とコラボして動画を撮ることもあります。
これからも夢を持ち続けて挑んでいきたいと語っている萩本欽一さん。今後もまだまだファンに笑いと勇気を届けていってほしいですね。
年齢を重ねると、やっぱりしんどいことは増えてくる。でも、楽ばかりしていると、その後には小さい楽しかこない。苦労をしたからこそ、そのあとに大きな楽がくる。人生はそうやって転がるものだって、僕は身をもって学んできた。だからこれからも夢を持ち続けて、挑んでいきたいね。
萩本欽一について総まとめすると…
・萩本欽一は2015年4月、73歳の時に駒澤大学仏教学部に入学したが、2019年5月に自主退学している。
・萩本欽一の結婚した嫁は浅草時代に知り合ったストリッパーの澄子さんで、がんで闘病後2020年に亡くなっている。
・萩本欽一には子供は息子が3人いる。
・萩本欽一死亡説のデマの出処は、盟友の真屋順子さん、生田悦子さんの相次いで死去したことによるものである。
73歳で大学に入学したり、80歳でYouTube活動を始めたりと、いくつになっても新しいことに挑戦する姿勢は素晴らしいです。欽ちゃんにはこれからも元気に長生きしてほしいですね。