1999年に起こった「音羽お受験殺人事件」で2歳女児の若山春奈さんを殺害した犯人の山田みつ子の現在が注目されています。
この記事では山田みつ子の顔写真や、その異常な生い立ち、結婚した旦那や子供、音羽お受験殺人事件での逮捕と裁判、出所後の現在などについてまとめました。
この記事の目次
- 山田みつ子は「音羽お受験殺人事件」の犯人
- 山田みつ子の顔写真は事件当時盛んに報道されていたが現在は確認できない
- 山田みつ子の生い立ち① 実家は静岡・子供時代は複雑な家庭で育つ
- 山田みつ子の生い立ち② 盲腸で入院したときに親切にされ看護師を志す
- 山田みつ子の生い立ち③ 看護科の高校へと進学
- 山田みつ子の生い立ち④ 短大の看護学科へ進むも拒食症などで悩まされる
- 山田みつ子の生い立ち⑤ 病院に就職も患者の死に衝撃を受けてすぐに退職
- 山田みつ子の生い立ち⑥ 再就職するも摂食障害による退職を繰り返す
- 山田みつ子の生い立ち⑦ 1993年に僧侶と結婚し子供を出産
- 山田みつ子の生い立ち⑧ 「音羽お受験殺人事件」被害者・若山春奈さんの母親と知り合う
- 山田みつ子の旦那の僧侶について
- 山田みつ子の「音羽お受験殺人事件」での逮捕と裁判の判決
- 山田みつ子の出所後の現在
- まとめ
山田みつ子は「音羽お受験殺人事件」の犯人
山田みつ子は1999年11月22日午前11時50分頃に発生した殺人・死体遺棄事件「音羽お受験殺人事件」の犯人です。
山田みつ子は、当時6歳の長男と2歳の長女がいる35歳の主婦でしたが、息子と同じ音羽幼稚園に通う当時6歳の男の子の母親の、当時2歳の長女・若山春奈さんを、母親の目を盗んで東京都文京区大塚5丁目の公衆便所に連れ出し、マフラーで首を絞めて殺害しました。
山田みつ子は若山春奈さんの遺体をカバンに入れて自転車でいったん文京区音羽1丁目の自宅へと運び、それから列車などを使って静岡県志太郡大井川町(現在の焼津市)の実家へ運んで、その裏庭に埋めて遺棄しました。
事件発生の3日後の11月25日、山田みつ子は旦那に説得されて自首し逮捕され、その残虐な事件が発覚。
2人の幼い子供を持つ母親が、自分の子供と同じ年齢の女児を殺害して遺棄するという衝撃的な事件内容は世間を震撼させました。
当時報じられたお受験をめぐっての母親同士の確執は事実無根
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事件後の報道では、山田みつ子と被害者女児の母親はママ友同士で、子供のお受験をめぐって確執が生じていたとする内容が盛んに報じられました。
事実として、被害者の若山春奈さんは、その年の茶の水女子大付属幼稚園の受験に合格し、山田みつ子の2歳の長女は同幼稚園の受験に失敗するという事があったようです。また、山田みつ子と被害女児の母親の同い年の長男もその年の小学校受験を控えており、それに関連しての確執があったとの報道もされていました。
さらには被害女児の母親が、山田みつ子をいじめていたとする事実無根の報道も一部あった事から、なぜか加害者の山田みつ子が擁護され、被害女児の母親がバッシングを受けるという理不尽な展開となり、残虐な殺人犯である山田みつ子がまるで被害者であるかのような空気まで生まれました。
しかし、当時の報道で山田みつ子と仲の良いママ友だったとされていた被害女児の母親は、裁判で「私は山田みつ子と特に親しくはない」と証言しており、山田みつ子が裁判で供述した、被害女児の母親との確執についても、その後の関係者の証言などを客観的に見ると、山田みつ子の一方的な被害妄想である可能性が高いように感じられます。
また、山田みつ子の生い立ちを改めて調べると、この女は「音羽お受験殺人事件」を起こす以前からかなり精神的に不安定だった事が浮かび上がり、結局のところこの事件は山田みつ子の、被害女児母親に対するストーカー的執着から引き起こされた身勝手な殺人だったように思えてきます。
今回はこの「音羽お受験殺人事件」の犯人・山田みつ子の生い立ちを中心にまとめていきます。
山田みつ子の顔写真は事件当時盛んに報道されていたが現在は確認できない
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山田みつ子は「音羽お受験殺人事件」を起こした当時の報道では、新聞やテレビニュース、週刊誌まであらゆるメディアに顔写真が掲載され報道されていましたが、現在はインターネット上でもそのモザイクなしの顔写真を見つける事はできません。
山田みつ子は現在は刑期を終えてすでに出所し社会復帰しているため、配慮もあってネット上の顔写真が消されているとも噂されています。
ちなみに、当時の報道で盛んに流されていた山田みつ子の写真は、切れ長の目で神経質そうな印象をうけるものだったと記憶しています。
山田みつ子の生い立ち① 実家は静岡・子供時代は複雑な家庭で育つ
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山田みつ子は1964年、静岡県志太郡大井川町(現在の焼津市)の生まれで、実家は土建業を営みながら先祖代々の田畑も所有して生活していました。
実家には、両親と妹、父親の祖父とその後妻である祖母(父親にとっての継母)、この祖母の実の息子にあたる叔父とその妻の8人が同居しており、家の実権を握っているのは祖母でした。
母親は娘の山田みつ子と、祖母の間に血のつながりが無いことなどを気にして、祖母にとても気を使っていたようです。さらに家の相続をめぐって、この祖母の実子である叔父と祖父の前妻の子供である父親との対立などもあり、祖母が近所の住人に父親の悪口を言っているのを日常的に耳にするなど、山田みつ子はとても健全とは言えない家庭環境の中で育っています。
山田みつ子はこうした家庭環境や人間関係が嫌で嫌で仕方がなく、口数の少ない塞ぎ込みがちな性格に育ったようですが、一方で家の農作業を手伝うなど真面目な性格でもあったという事です。
山田みつ子の生い立ち② 盲腸で入院したときに親切にされ看護師を志す
山田みつ子は中学校に進学したばかりの頃に急性盲腸で2ヶ月間入院しています。山田みつ子はこの入院の時に、親切に看護してくれた看護師に憧れて、自身も看護師を目指すようになります。
この2ヶ月の欠席が影響し、中学1年1学期の成績はオール1になりますが、山田みつ子は学校の補習を受け、夏休みに猛勉強をして成績を戻し、教師にも「よく頑張った」と褒められています。また、それ以降は無遅刻無欠席を続け、学級委員長を務めて、騒がしい生徒を率先して咎めるなど極めて真面目な生徒であったようです。
中学3年生の頃、父親が生家の近くに家を建てて家族4人で住む事が決まりかけますが、親戚に農業を続けてほしいと説得されて結局家族は生家に留まる事になり、この事を山田みつ子はとてもがっかりした気持ちであったと、後の「音羽お受験殺人事件」での裁判で供述しています。
山田みつ子の生い立ち③ 看護科の高校へと進学
中学卒業後、看護師を目指す山田みつ子は、静岡県立掛川東高校の看護科へと進学しています。
高校時代は合唱部に所属していますが、赤面恐怖症に悩むようになり、通学途中で男子生徒が乗り込んでくると極度の不安や緊張に襲われたようです。
また、当時の同級生によれば、山田みつ子は極めて几帳面で真面目な性格であり、それまで1度もカップラーメンを食べた事がなかったのか、同級生が昼休みにカップラーメンを作るのを物珍しそうに見て「できたら見せて」と頼んできた事もあったのだそうです。
山田みつ子の生い立ち④ 短大の看護学科へ進むも拒食症などで悩まされる
山田みつ子は高校を卒業後に、親元を離れて埼玉県立衛生短期大学の看護学科へと進学しています。
この短大の2年生の頃、山田みつ子は糖尿病の患者のカロリー制限について学んだのをきっかけにダイエットを始めのが原因となり摂食障害を発症。わずか3ヶ月で10キロ以上痩せて体重が30キロ台にまで激減しています。
さらにその後、夏休みに実家に戻った時に拒食症の反動から過食に転じ、学校が再開しても食欲が収まらなくなって体重が急増。
精神的にも不安定になって一時は退学も考えたようですが、周囲の支援もあって1984年3月に無事卒業しています。
山田みつ子の生い立ち⑤ 病院に就職も患者の死に衝撃を受けてすぐに退職
短大を卒業後、山田みつ子は地元の静岡県に戻り、浜松医科大学の付属病院に看護師として就職しています。
ここで働き始めたばかりの新人の頃に、山田みつ子はナースコールで呼ばれて病名も知らない患者の排泄を手伝った際、その患者の容態が急変してそのまま死亡するという事件が起こります。これに強いショックを受けた山田みつ子は就職からわずか1ヶ月ほどでこの病院を退職してしまいます。
山田みつ子はそのまま実家に引きこもるようになり、摂食障害の症状も悪化して過食と拒食を繰り返すようになり体重が数十キロ単位で増減し、精神も病んで風邪薬を大量に摂取しての自殺未遂事件を起こしています。
山田みつ子の生い立ち⑥ 再就職するも摂食障害による退職を繰り返す
それから約2年後の1986年1月、ようやく働けるほどまで体調を持ち直した山田みつ子は、静岡市内の赤十字病院に再就職し、実家を出て病院の寮で一人暮らしを始めました。
ただ、この頃にも摂食障害による過食をしては嘔吐するを繰り返しており、精神的にもギリギリの状態で働いていたようです。
22歳だった1986年の夏、山田みつ子は救いを求めてか、仏教の教えを広める「南無の会」の研修会に母親と共に参加し、ここで、後に結婚して自分の旦那となる若い僧侶と知り合っています。山田みつ子はそれから4年間「南無の会」に毎年参加しています。
ただ、その後も山田みつ子は摂食障害で苦しんでおり、程なくして赤十字病院を退職。再び実家に戻って引きこもる生活となり、今度は睡眠薬「ハルジオン」を過剰摂取しての自殺未遂騒動を起こしています。
その後再び浜松医科大学に就職し、実家を離れて寮で暮らし始めますが、1992年には再び摂食障害が原因となってまたしても退職し実家に戻っています。
山田みつ子の生い立ち⑦ 1993年に僧侶と結婚し子供を出産
またしても病院を辞めて実家に戻った1992年の秋頃、山田みつ子はある自己啓発セミナーに傾倒し、友人や知人に勧誘の電話をかけ続けていました。
その勧誘相手の中に「南無の会」で知り合いになった若い僧侶もおり、この時に僧侶が「代表者が誰かも分からないようなセミナーには参加しない方が良い」と山田みつ子に親身に忠告した事から2人の距離が縮まり交際に発展、山田みつ子が29歳だった1993年4月に結婚しています。
その後、山田みつ子は1994年1月に1人目の子供(長男)を出産しています。
山田みつ子の生い立ち⑧ 「音羽お受験殺人事件」被害者・若山春奈さんの母親と知り合う
山田みつ子は、1994年3月頃に生まれたばかりの長男を連れて訪れた近所の公園で、同い年の男の子を連れた若い女性と知り合っています。この女性こそが「音羽お受験殺人事件」の被害女児の母親の若山さんでした。
その後、山田みつ子は同い年の子供を持ち近所に住む若山さんと親友関係になりたいと切望するようになりますが、一方の若山さんにはそこまでの想いはなくあくまでも知り合いの1人として接していたようです。
山田みつ子は、自分の想いに応えない若山さんに次第に執着と憎悪の感情を同時に抱くようになり、若山さんが他のママ友と親しくしていれば嫉妬の感情を持ち、若山さんの自宅マンションの前を通る時には、若山さんの自転車があるかないかを確認し、あれば家にいるのだと安心し、なければ近所を探し回るといったストーカー的行動もとっていたようです。
そして、若山さんとの出会いから約5年後の1999年11月22日に、山田みつ子は、「音羽お受験殺人事件」を起こし、何の罪もない2歳の女児の命を残虐に奪ったのです。
山田みつ子の旦那の僧侶について
山田みつ子は1993年に僧侶の旦那と結婚していますが、この旦那についてもわかっている情報をまとめていきます。
山田みつ子の旦那の僧侶は1993年に結婚した当時38歳で、山田みつ子の9歳年上でした。旦那の実家は愛知県で、結婚式はこの実家で挙げているようです。
結婚から「音羽お受験殺人事件」が起こった当時まで、この旦那は東京都文京区音羽の寺院、臨済宗・桂林寺の副住職を務めていました。
この寺の住職に跡取りがいなかったため、将来的にこの寺を継ぐという名目でこの寺に養子に入ったようですが、寺の住職が心変わりして自分の親族に継がせたいと思うようになり、次第にこの旦那に対して冷たく当たるようになったと言われています。
山田みつ子は結婚後、月給6万円でこの寺の手伝いをするようになりますが、住職に対してはとても気を使っており、自分の長男が寺で騒いだりすると頭を叩いたり蹴り飛ばしたりして叱る事もあったようです。
また、山田みつ子は「音羽お受験殺人事件」を起こす以前から、この旦那との関係はあまりうまくいっておらず、家事について厳しく叱責されたり、子育てについての相談にまともに取り合ってくれない事などに不満を持ち、当時の日記に「離婚したい」、「別居したい」などと書いています。
山田みつ子は「音羽お受験殺人事件」での裁判で、この旦那や結婚生活に対する不満などを数多く供述していますが、単に自己弁護の材料として利用したようにしか見えません。いかなる事情があったとしても、何の罪もない2歳の子供を殺害する理由にはならないでしょう。
山田みつ子の「音羽お受験殺人事件」での逮捕と裁判の判決
山田みつ子は「音羽お受験殺人事件」を起こした3日後の1999年11月25日に旦那に付き添われて自首し、その後殺人と死体遺棄の容疑で逮捕されています。
裁判は2001年から第一審が東京地裁で開かれ、山田みつ子は犯行動機について、被害者女児の母親への憎悪がその娘の若山春奈さんに向いたとしつつも、詳しい動機については「話したくない」などと口を閉ざしました。
第一審判決は、求刑懲役18年に対して懲役14年の実刑判決が下されています。検察側はこれを不服として控訴しています。当然ながら被害女児の母親もこの判決に不服を訴え「極刑を望む」と怒りを露わにしています。
控訴審では、検察側の主張が受け入れられる形で、懲役15年の判決が下されています。この判決に検察側も被告側も上告せず刑が確定しています。
また、被害者遺族は、山田みつ子に総額約1億3700万円の損害賠償を求める民事裁判を起こしています。この民事裁判では2002年12月4日に東京地裁が山田みつ子に約6100万円を支払うよう命じる判決を下しています。
山田みつ子の出所後の現在
山田みつ子はすでに懲役刑を満期で終えて出所しており社会復帰しています。
山田みつ子は被害者遺族が起こした民事裁判で賠償金約6000万円の遺族への支払いを命じられていますが、出所後から現在に至るまで、遺族へ賠償金は1円も支払っていないどころか、謝罪すらしていない事が、2021年6月の週刊女性の記事で明かされています。
なお、下の引用記事の「美恵子」とは山田みつ子の記事内での偽名です。
美恵子は刑期を満了し、すでに出所している。関係者によると、遺族への謝罪が行われていないどころか、賠償金も支払われていない。
山田みつ子が現在どこで何をしているのかは不明です。また、その旦那や2人の子供は「音羽お受験殺人事件」直後に桂林寺と自宅を離れており、現在どのように過ごしているのかは不明です。
まとめ
今回は1999年11月22日に発生した「音羽お受験殺人事件」の犯人の山田みつ子についてまとめてみました。
山田みつ子は、静岡県で生まれ、複雑な家庭で育ち、短大の看護学科を出て看護師として働き始めてからは摂食障害による退職や自殺未遂などを繰り返した生い立ちを持ちます。
1993年に文京区音羽の寺で副住職をしていた僧侶と結婚し、2人の子供を産んでいます。
山田みつ子は近所に住む、3歳年下の女性と知り合いになり、同い年の子供を持つ事から親友関係になる事を切望しますが、その思いが受け入れられない事に一方的に憎悪の感情を募らせ、その感情をその女性の娘の2歳女児に向ける形で殺害しました。
山田みつ子はその後自首する形で殺人と死体遺棄容疑で逮捕され、裁判で懲役15年の実刑判決を受けています。
現在、山田みつ子は既に刑期を終えて出所していますが、出所後も被害者遺族への謝罪はなく、民事裁判で命じられた賠償金の支払いも一切行っていないという事です。