1999年9月に起きた「東海村JCO臨界事故」では、被爆者の写真が衝撃的すぎると話題です。
今回は東海村JCO臨界事故の詳細や原因、大内久さん・篠原理人さんなど被爆者の状態とその後、生存者の声、現在をまとめました。
この記事の目次
東海村JCO臨界事故とは
東海村JCO臨界事故とは、茨城県那珂郡東海村にある、住友金属鉱山の子会社・株式会社ジェー・シー・オー(以下、JCO)が、1999年9月30日に起こした原子力事故です。
核燃料加工施設にて核燃料を加工していた最中に、作業ミスからウラン溶液が臨界に達してしまい、核分裂連鎖反応を起こしました。
この事故で、作業員2名が被爆して死亡、さらに近隣住民を含めた667名が被曝しており、国内の原子力事故としては、 2011年の東日本大震災の際の事故に次いで最悪と言われています。
東海村JCO臨界事故の詳細を時系列で紹介
ここからは、東海村JCO臨界事故の詳細について見ていきましょう。
ただし、大変ショッキングな写真がありますので、自己責任でお読みください。
「東海村JCO臨界事故」1999年9月29日まで
当時のJCOは、高速増殖炉の研究炉「常陽」で使用する核燃料である、硝酸ウラニル溶液・約160リットルの製造を請け負っていました。
そのため、1999年9月28日までにウランの製造作業が開始され、29日からは硝酸ウラニル溶液の均一化作業がスタートしていました。
「東海村JCO臨界事故」1999年9月30日に事故が発生
1999年9月30日、JCOの作業員たちは硝酸ウラニル溶液を沈殿槽にバケツで流し込む作業を転換試験棟で行なっていました。
そして午後10時35分頃、沈殿槽に7杯目となる硝酸ウラニル溶液をバケツで流し込みます。
すると、予想に反して突然臨界に達してしまい、中性子線が大量に発せられたことから施設の警報機が鳴りました。
この沈殿槽は言ってしまえばむき出しの原子炉であり、臨界に達した硝酸ウラニル溶液からはチェレンコフ光の青白い光が発せられ、その中性子線は建物の外まで放射状に広がったのです。
「東海村JCO臨界事故」同日11時52分に被爆者を病院へ搬送
同日11時15分頃、臨界事故が発生した可能性があるとJCO社員が科学技術庁に一報を入れます。
3名が重度の被曝をしたことがわかり、11時52分に核燃料加工施設に救急ヘリコプターが到着、 国立水戸病院(現・国立病院機構水戸医療センター)へと3名を搬送しました。
また、中性子線が建物の外にまで漏れ出していたことから、事故の知らせを聞いた東海村村長の村上達也さんは、住民に対して12時30分頃に屋内に退避するようにアナウンスしました。
なおこのアナウンスは、政府や茨城県庁の指示を仰ぐ前に、村上達也村長の独断で行われたものでした。
「東海村JCO臨界事故」同日11時52分に被爆者を病院へ搬送
午後12時40分頃には、 当時の内閣総理大臣だった小渕恵三首相に事故の第一報が届きました。
小渕恵三首相は、事故現場から半径350メートル以内の住民に直ちに避難要請、500メートル以内の住民には避難勧告、10キロ以内の住民約10万世帯に対しては屋内退避を呼びかけました。
「東海村JCO臨界事故」10月1日朝6時30分に事態が収束
当時、日本での臨界事故は初めてであり、JCO社員も勝手を把握していなかったため、臨海を収束させるための作業を誰も行いませんでした。
そのため、事故直後から中性子線が漏れ出し続けていました。
現場に派遣された原子力安全委員会委員長代理の住田健二さんは、動こうとしないJCOの社員に苛立ち、関係各方面に通達して強権を発動して命令することも考えました。
しかしこの手順を踏むことでさらに時間を要してしまい、その間にも中性子線が漏れ続けることを懸念していました。
こうした流れの中、JCO側が事故を起こした責任があるとして、自社の社員18人を2人1組編成にして、臨界事故現場に1分を限度として収束作業に当たらせる提案しました。
これにより、冷却管の破壊部位からアルゴンガスを注入して冷却水を抜く作業、沈殿槽にホウ酸を投入して臨界を終息させる作業を行うことができ、無事連鎖反応を止めることができました。
この作業は終わるまでに約20時間を要しており、日をまたいだ10月1日の朝6時半頃、ようやく完全な収束が確認されました。
東海村JCO臨界事故の原因
東海村JCO臨界事故が発生した最も大きな原因は、JCO内の核燃料製造がずさんだったことであり、いつ事故が起きてもおかしくない工程になっていたためでした。
核燃料の加工を行うにあたり、JCOには臨界を防止するための作業工程マニュアルはもちろん存在していました。
しかし、その手順が面倒であり、作業の効率化を重視した社員たちは、より簡易化された裏マニュアルに沿って作業をしていたんです。
正しいマニュアルでは、ウラン化合物の粉末を溶解する際に、溶解塔という専用の設備を使用することが決められています。
一方、裏マニュアルではステンレス製のバケツを使うという危険極まりない作業工程に書き換えられていました。
さらに事故当時は、裏マニュアルにもない作業工程が行われていたこともわかっています。
通常は貯塔という容器を使わなければならないところを、沈殿槽という容器に置き換えて作業していました。
貯塔を使用すれば臨界が起きる可能性は低く、沈殿槽にバケツで硝酸ウラニル溶液を入れ続けるというずさんな工程を行っていたがゆえに、事故は起きるべくして起きたと言えるでしょう。
通常の工程では、沈殿槽に入れるウラン量は、1バッチ当たり約2.4キログラム以下に抑えられることになっていたが、このとき16.6kg程度のウラン量、バッチ数にして6~7バッチ分が注入され、その結果、臨界に達してしまった。今回の「常陽」向けの燃料の転換作業は、ほぼ3年ぶりで、9月22日に始まったばかりであった。
事故につながった今回の作業手順は、国の許可を得た作業手順と全く異なるもので、バケツから沈殿槽に移す作業はこれら3人が発案し、今回初めて行ったということだ。また、沈殿槽を使うことについては、上司である職場長の承認を得ていなかったとのことである。
核燃料を扱う施設がこのようなずさんな管理を行っていたことが明るみになり、専門家や関係者にとってはめまいのするような状況だったことでしょう。
そして、結果として2名の尊い命を奪い、多くの被爆者を出すことになっていまいました。
東海村JCO臨界事故での被爆者数
出典:sonohino.com
硝酸ウラニル溶液が臨界に達して大量の中性子線が放出されたことで、致死量である1グレイ・イクイバレント以上の多量の放射線を3名の作業員が浴びてしまいました。
これにより、3名は急性放射線症候群となり、救急ヘリコプターによって放射線医学総合研究所に救急搬送されました。
そのうち2名は状態が深刻であり、造血幹細胞移植が必要になったことから、東京大学医学部附属病院に救急搬送され、集中治療室にて治療が開始されました。
そして、事故後に現場付近を訪れたJOC職員、東海村職員、さらに近隣住民を含め、667名が被曝していたのです。
次からは、被爆者3名それぞれの状態について詳しく見ていくことにします。
東海村JCO臨界事故の被爆者(作業員)・大内久さんの状態とその後 【写真あり】
最も症状が重い被爆者となってしまった社員は、大内久さん(当時35歳)です。
16~20グレイ・イクイバレントという高濃度の放射線を浴びたことにより、染色体破壊が起きてしまい、DNAの核型が完全に破壊されました。
これにより、大内久さんの体は新しい細胞を作り出す能力を完全に失い、白血球を生成することができなくなっていました。
そのため、実妹から提供された造血幹細胞を移植する手術が行われています。
移植自体は成功して、しばらくは白血球数が順調に増えていましたが、時間が経過する中で新しい細胞にも染色体の異常が見られるようになり、白血球数も再び減少に転じました。
また、皮膚を生成する機能も失われていたため、体内からにじみ出る体液が止まりませんでした。さらに、心肺へのダメージも深刻なものだったようです。
そして、臨界事故から50日後となる11月27日、大内久さんは心停止に陥ります。
心臓マッサージにより一時的に蘇生できたものの、脳を含む各臓器の機能は低下し、敗血症を引き起こしていました。
事故から83日後となる1999年12月23日、大内久さんは多臓器不全で亡くなっています。
東海村JCO臨界事故の被爆者(作業員)・篠原理人さんの状態とその後 【写真あり】
もう1人、臨界事故で亡くなられた被爆者は、篠原理人(当時39歳)さんです。
事故により、6.0~10グレイ・イクイバレントという致死量の放射線に被爆しました。
大内久さんが浴びた放射線量の半分程度とはいえ、同様に染色体破壊が起きています。
ただ、造血幹細胞の移植が一定の効果を出したことから、一時期は警察の事情聴取に受け答えができるほどまで回復を見せていました。
しかしその後、徐々に容態が悪化し、免疫が落ちたことでMRSAに感染し、肺炎を発症。
事故から211日後となる2000年4月27日、篠原理人さんも他臓器不全により亡くなりました。
「急性被ばくの患者なんて誰も見たことがない。皮膚の様子は刻々と変化し、いろんな症状が出てくる。(皮膚が再生されず)身体の表面から大量の体液と血液が失われ、それに大量の下痢。終わりのほうでは、毎日1万cc以上という量の輸液です」
「篠原さんの被ばく線量は大内さんより低かったのですが、211日と長期に生存されたので、皮膚や皮下組織がゆっくりと変化し、胸・腹・手足の皮膚は鎧(よろい)のように硬くなりました。新しい細胞をつくる皮膚の幹細胞もやられ、最後は本当に筆舌に尽くしがたい様子でした」
染色体異常により細胞の再生ができなくなったことで、体液や血が体外へ出るのを止められず、写真からもわかるように、生きているのが不思議なほど悲惨な状態だったようです。
東海村JCO臨界事故の被爆者(作業員)・横川豊さんの状態とその後 【唯一の生存者】
臨界事故で搬送された被爆者のうち、辛くも助かったのは横川豊さん(当時54歳)です。
1~4.5グレイ・イクイバレントの放射線被曝をし、白血球の数が一時的にゼロになりました。
しかし、無菌室で骨髄治療を受ける中で回復し、12月20日に退院しています。
事故後、横川さんはJOCの刑事裁判において、ずさんな工程・手順だったことを証言しました。
また、毎日新聞のインタビューにも答え、「無知だった」と当時の事故原因を語っています。
東海村JCO臨界事故の被爆者は現場から離れたところにもいた
「東海村JCO臨界事故」では、直接現場にいなかったものの、東海村職員として働いていた川又則夫さん(当時48歳)も被爆しています。
川又則夫さんは当時、企画課に在籍する最年少職員でした。
事故が起きた当時、「臨界」は核分裂が安定的に行われるときの現象だったため、JCOを含め、恐ろしい現象だという認識が薄かったそうです。
また、東海村村長だった村上達也さんは、JCO社員とのやり取りに関して以下のようにコメントしています。
午後2時半ごろ。再びJCOの2人が現れ、早く避難させてくれと頼んだ。「おたくの社員はどうしているのか」と聞くと、JCO側は「敷地の端に避難した」と言う。村上さんは「(敗戦直前の旧満州の)関東軍みたいだな、(住民より先に)みんな逃げちゃって。俺んとこの住民のほうがはるかに(事故現場に)近いところにいる」と憤り、そして決断した。
「避難だ」
対策本部で村長の村上さんが声を上げると、50人ほどの職員が一斉に立ち上がった。住民の避難を最前線で担う「輸送班」である。前出の川又さんもその中にいた。
川又則夫さんは、避難要請に奔走していた時に4.8ミリシーベルトの放射線を浴びて被曝しました。
その時、JCOの核燃料加工施設から100メートルも離れていなかったということです。
幸い、川又則夫さんは現在までに目立った放射線障害は起きていないようです。
東海村JCO臨界事故の現在① 国際評価
東海村JCO臨界事故は、日本で初めての臨界事故ということもあり、国際評価尺度では当時としては国内で最も危険レベルが高いレベル4に評価されました。
JCOの燃料転換施設で起きた臨界事故について科学技術庁は、国際評価尺度(INES)で暫定値としながらもわが国の事故・故障ではもっとも高い「レベル4」と発表した。東海再処理工場・アスファルト固化処理施設の火災爆発事故(1997年3月)はレベル3であり、高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏洩事故(1995年12月)はレベル1であった。
なお、東日本大震災で発生した東京電力福島第一原子力発電所事故は、国際評価尺度において最も危険度の高いレベル7に評価されています。
東海村JCO臨界事故の現在② 「朽ちていった命 被曝治療83日間の記録」が出版
大量の放射線を浴び、放射線障害に苦しみながら亡くなった大内久さんの、83日間に渡る壮絶な闘病記録が『朽ちていった命 被曝治療83日間の記録』として出版されました。
以下、この本を読まれた方のレビューを紹介しましょう。
1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料加工施設で臨界事故が発生した。大量の放射線を浴びた大内久さんの、83日間にわたる壮絶な闘病記録。
読んだ後、かなりのショックだった。その状態がしばらく続いた。
頭の中を、読んだばかりの本の内容がぐるぐると回っていた。これは人的災害だった・・・。マニュアルを無視した、あまりにもお粗末な作業内容。安全性の考慮のかけらもない。
大量の放射線を浴びると人はどうなってしまうのか?それは恐怖の一言に尽きる。骨髄細胞の検査で判明した染色体の破壊。そのことは、今後新しい細胞が作られないことを意味していた。古い細胞から新しい細胞への入れ替わりがない体。再生できない!朽ちていくだけなのだ。
現代の最新医療をもってしても、それを止めることは不可能だ。
こんなにも放射線被爆というのは凄まじいものなのか。遺伝子レベルでの破壊が起こるのだ。最後まであきらめることのなかった大内さん本人、ご家族の方たち、そして医療現場の方々。壮絶な闘病記録は、読んでいて胸が痛くなるほどだった。
原子力の利用。それはこれからも続くのだろう。原子力を利用しようとする限り、この事故のことを決して忘れてはならないと思う。つねに危険と隣りあわせだということを認識していなくてはならない。
あらためて、この事故の犠牲者の方々の冥福を祈りたい。
このレビューを読むと、日々新しく細胞を作り変えられる健常体であることのありがたみを実感するとともに、原子力や被爆の恐ろしさを痛感します。
亡くなった大内久さん、篠原理人さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
まとめ
1999年9月に東海村で発生した原子力事故「東海村JCO臨界事故」についてまとめてきました。
原子力発電所は多くの電力を供給することができる、現代人に欠かせないインフラとなっていますが、ひとたび事故が起きると未曾有の大惨事につながる諸刃の剣とも言えます。
クリーンエネルギーへの移行が叫ばれる現在、二酸化炭素を排出する火力発電所の廃止と並行して、原子力発電所の推進が再び起きています。
この裏には巨大な利権が隠れているようですが、強欲な人間による巨大なツケの負債が今後またどこかで爆発するかもしれません。
今後このような事故のないよう、マニュアルの徹底と安全管理を十分に行ってほしいものです。