俳優・佐藤浩市さんの父親は名優・三國連太郎さんですが、長年親子の確執があったことでも有名です。最近では息子・佐藤寛一郎さんの芸能界デビューも注目を集めました。
こちらでは佐藤浩市さんの家族や、嫁や子供など結婚について情報をまとめています。
この記事の目次
佐藤浩市のプロフィール
佐藤 浩市(さとう・こういち)
本名: 佐藤 浩市
生年月日: 1960年12月10日
出生地: 東京都新宿区
身長: 182 cm
血液型: A型
職業: 俳優
ジャンル: 映画・テレビドラマ
佐藤浩市さんは、多摩芸術学園映画学科(現・多摩美術大学美術学部演劇舞踊デザイン学科)在学中の1980年にNHK『続・続事件』でデビュー。
翌年出演した深作欣二監督映画『青春の門』1981年・1982年版にて主要キャストである伊吹信介役を演じ、第5回日本アカデミー賞新人俳優賞・ブルーリボン賞新人賞を受賞しています。
若い頃は脇役が多かった佐藤さんですが、次第に重厚な演技を披露するようになり、日本アカデミー賞などでもノミネートの常連に。
深みのある演技のみならず、コミカルなコメディ系作品などでも重宝されており、その演技力は高く評価されています。
映画『マジックアワー』
佐藤さんのコメディと言えば、三谷幸喜さん監督の作品。映画『マジックアワー』での演技は大きく話題になりました。
佐藤さんは三谷作品の常連となっています。
ちなみに佐藤さんはこれまで舞台には出演しておらず、「自分は映像で際立つ役者である」との持論から映像作品にこだわって出演しているそうです。
2012年4月から2015年3月までの3年間、東北芸術工科大学の文芸学科客員教授にも就任していました。
佐藤浩市の父親は三國連太郎で若い頃は親子の確執も話題に
佐藤浩市の父親は三國連太郎
佐藤浩市さんは、名優・三國連太郎さんの息子であることでも知られています。
三國 連太郎
本名: 佐藤 政雄(さとう まさお)
生年月日: 1923年1月20日
没年月日: 2013年4月14日(90歳没)
出生地: 群馬県太田市
出身地: 静岡県賀茂郡松崎町
死没地: 東京都稲城市
身長: 178cm
血液型: AB型
第2次世界大戦中の43年、中国に出征する。帰還後、スカウトされて松竹大船撮影所の研究生になった。51年、木下恵介監督の「善魔」でデビューし、同作の役名を芸名にする。その後、「ビルマの竪琴」(56)、「飢餓海峡」(65)といった作品で主演を務め、日本映画界を長年支え続ける。初の監督作「親鸞 白い道」(87)は、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。
引用:三國連太郎
『釣りバカ日誌』
国民的作品として知られる『釣りバカ日誌』では、長年に渡り西田敏行さんと「ハマちゃん・スーさんコンビ」を演じており、三國さんと言えばスーさんを思い浮かべる人も多いようです。
三國さんは長らく日本の映画界を支える存在となっていましたが、2013年4月に急性心不全により90歳でこの世を去っています。
佐藤浩市と三國連太郎の複雑な親子関係・確執
三國連太郎さんは女性関係が奔放だったことでも知られており、4回の結婚をしています。
佐藤浩市さんは三國さんの3人目の結婚相手との間に生まれていますが、佐藤さんが小学6年生のときに三國さんは2人を捨てて家出をしてしまいます。
「三國さんは恋人をつくり、浩市さんが幼いときに家を出て行ってしまった。“これからは他人だ”と言われたことは子ども心にそうとうショックだったことでしょう。大人になって久しぶりに再会し、“役者になりたい”と告げたときも、三國さんの反応は、“そうか”と寂しいものでした」(芸能レポーター)
これにより、佐藤さんと三國さんの間には親子の確執が生まれています。
佐藤さんは当初俳優にはならないと思っていたものの、三國さんのマネージャーに勧められて受けたオーディションに見事合格。皮肉なことに嫌っていた父親と同じ俳優の道を歩むこととなりました。
1986年には映画『人間の約束』で佐藤さんと三國さんは親子初共演を果たしますが、わだかまりは消えておらず、作品でも接点がほぼなかったために関わることは少ないまま終わっています。
そして10年後の1996年、2人は映画『美味しんぼ』で再度親子共演。
今度は佐藤さんは主役の山岡士郎役、三國さんは主人公との間に確執を抱える父親・海原雄山役を演じ、実生活さながらの配役が当時は話題となりました。
先に原作者の指名によりオファーを受けていた三國さんが、息子の士郎役に佐藤さんを指名したことからこの配役となっています。
映画『美味しんぼ』
メインビジュアルも、まるで実際の2人の関係を表しているかのようなものになっています。
そんな2人は、制作発表会の際に火花を散らします。会見中は、互いを「佐藤くん」「三國さん」と呼び合うなど、終始、他人行儀。
さらに、浩市の「俳優はサービス業」という発言を受けて、三國が「サービス業などという考え方は間違っている」と非難したものだから、会場は不穏な空気に。栗田さん役の羽田美智子が、引きつった表情のまま無理やり笑みをつくっていたのが、なんとも痛々しくて印象的でした。
公の場でもその不仲さを隠さなかった佐藤さんと三國さんでしたが、佐藤さんが結婚し孫が誕生した頃から、2人の関係が変化し始めたようです。
「孫が生まれると、それまでの三國さんの頑なな態度が一変しました。三國さんは寛一郎さんを溺愛し、自分を『レンちゃん』と呼ばせて誕生日や運動会には必ず駆けつけました。浩市さんが『カン』と呼ぶ息子が“かすがい”となって、浩市さんと三國さんとの距離も次第に縮まり、親子で談笑する姿も見られるようになりました」
その後佐藤さんと三國さんの距離は徐々に縮まり、2000年には和解したと言われています。
1996年1月 初共演。映画『美味しんぼ』。製作発表では握手もせず。確執する父と子を演じ、実生活のようだといわれた。
1996年3月 三國、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞受賞。佐藤がプレゼンター役。
2000年1月 喜寿のパーティーで「和解」。お互いを認め合う。
引用:三國連太郎ハチャメチャ人生「ひどい親父でしたよ」佐藤浩市と親子の確執
以降はCMでの共演や、トークでも佐藤さんは三國さんについて尊敬している旨を語るようになっており、三國さんが他界した際には長男である佐藤さんが喪主を務めています。
三國連太郎の葬儀の喪主を務めた佐藤浩市
佐藤さんは、「最後にまた、三國連太郎に教えられた気がします」と喪主挨拶をしています。
佐藤浩市の結婚歴① モデルの女性との間に息子1人
佐藤浩市さんは1985年7月、24才のときにモデルの女性とできちゃった結婚。
男児1人をもうけていますが、結婚してわずか10ヶ月後に手塚理美さんと不倫関係になっており、このこともあって3年で離婚してしまいます。
しかし、その幸せな生活は父・三國さん同様、すぐに崩壊してしまう。1986年3月には別居が発覚。同年9月には離婚と、わずか1年の結婚生活だった。離婚成立後、母に引き取られたBさんは、冒頭で触れた千葉県内の地で母と祖父母に育てられた。
「佐藤さんと離婚したA子さんは、実家に戻ってきてからは、働きながらBくんを育てました」(近所の住民)
佐藤さんは確執のあった三國連太郎さんと結婚生活でも同じ道を辿ってしまっていたのですね。
佐藤さんは当時多忙だったこともあり、離婚後には子供に会いに行くこともなかったそうですが、そんな佐藤さんに代わり父である三國さんが孫の顔を見に何度か訪れていたと言われています。
佐藤浩市の結婚歴② 舞台女優の広田亜矢子と再婚して息子1人誕生
そして1993年に、現在の奥さんである舞台女優の女性と結婚。
この女性は広田レオナさんの従妹・原田芳雄さんの長男である原田喧太さんの妻の姉となっており、名前は広田亜矢子さんというようです。
佐藤浩市と広田亜矢子の結婚写真
三國さんの姿も確認できます。
2015年の映画『愛を積むひと』の初日舞台では、サプライズで亜矢子さんからの手紙が読まれ、その内容に佐藤さんは男泣きを見せています。
さらに「結婚した当初、体があまり丈夫ではないわたしは、『自分が死んだらその保険金で好きな映画を作ってね』とあなたに言ったことがありました。もちろん当時はまだ若く、死という存在が遠くにありました」と続く内容に、涙をこらえていた佐藤は、耐えきれずに客席に背を向けて男泣き。それを見た樋口も「もう読めない!」と涙をぬぐう。
今の私は違います。篤史さんと似ていて、役者の仕事しかできない浩市さん。あなたを残して旅たつ事は、家族は勿論、事務所のマネージャーさん、映画関係者の皆さまに、とてつもないご迷惑をおかけする事になり、それを思うととても、先に逝くことなどできません。
23年前に浩市さんからいただいたお手紙にあった「僕は一生あなたの味方です」という言葉を、今も忘れません。私の一番の味方は、浩市さんです。だから、どんな困難も乗り越えていけます。これからも、家族でいろんな形の愛を積み上げて、たくさんの笑顔につなげていきましょうね。
佐藤浩市の息子・佐藤寛一郎が俳優デビュー
佐藤浩市さんと広田亜矢子さんとの間には、ひとり息子の寛一郎さんがいます。
佐藤 寛一郎(さとう・かんいちろう)
生年月日: 1996年8月16日
出身地: 東京都
身長: 182cm
両親の佐藤浩市と広田亜矢子
目元は佐藤さんに似ていますが、全体的な顔の感じは亜矢子さんの方に似ているようですね。
佐藤浩市の息子・佐藤寛一郎(20)が、9月公開の映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』で俳優デビューを果たすことが明らかになった。祖父・三國連太郎、父・佐藤浩市と名優たちの血を継ぎ“3世俳優”となる寛一郎は、「親のことを言われるのは正直嬉しくはないですが、注目していただけることはありがたいことでもあるので、それをプラスに変えて今後の俳優人生を進んで行こうと思っています」と心境を語った。
近年2世俳優はかなり増えていますが、寛一郎さんは祖父に三國連太郎さん、父に佐藤浩市さんを持つ3世俳優となります。
祖父と父の存在が大きすぎることもあり、もともとは俳優にはなりたくないと思っていたと言いますが、徐々に興味を持って行ったそう。
このあたりも、父の佐藤さんと似ていますね。
そんな寛一郎は、父親が佐藤浩市、祖父が三國連太郎という俳優一家に生まれながらも、子どもの頃は「俳優には絶対になりたくないと思っていた」という。「父も祖父も役者だったので、自分にとって一番近い仕事だったんです。だからこそ苦労も見えてしまいますし、親への反発心もあった気がします。でも、思春期を越えて成長していく中で、役者という職業に興味を持ち始めたんです」と素直な気持ちを打ち明ける。
寛一郎さんは、三國さんの葬儀で映画関係者にスカウトされたことが芸能界デビューのきっかけとなっています。
「三國さんの葬儀に参列した際、寛一郎さんの醸し出す雰囲気に魅了された映画関係者が声をかけたことがきっかけだったそうです。もともと寛一郎さんは音楽に興味があったそうですが、スカウトされて演技について考えるようになり、佐藤さんや三國さんの出演した映画を役者になる立場で改めて見直したそうです。そこで祖父と父の偉大さを感じて、人の心を動かすことができる俳優という仕事を志すようになったそうです」
三國連太郎葬儀時の佐藤寛一郎
寛一郎さんにとって「役者になりたい」と佐藤さんに切り出すのは生半可な気持ちではできなかったと語っていますが、決断し伝えた時には「そうか」と一言だけ言われたと語っています。
この話も、佐藤さんと三國さんのエピソードと似ていますが、寛一郎さんはその一言をいい意味として受け取っています。
寛一郎さんの芸能界デビューが報じられた日にはちょうど第40回日本アカデミー賞が開催されており、なんと佐藤さんは『64 ロクヨン』で最優秀主演男優賞を受賞。
佐藤さんは父親の威厳を見せつける形となり、親子で注目を集めました。
佐藤さんは寛一郎さんのデビューについての心境も式後に語っています。
式後の取材で息子のデビューについて初めて語った。「これから、役者としてどうなっていくのか。誰にも分からない。その中に踏み込んでいったんだな、と改めて思う」と答える顔は、父親のそれだった。その一方で「(息子は)ライバル? 違う、とんでもない。小僧っ子ですよ」と苦笑しながら一蹴してみせた。
まとめ
長年の親子の確執に苦しんだ佐藤浩市さんですが、最終的には三國連太郎さんと和解し、私生活では理解ある奥さんにも恵まれています。
亜矢子さんの手紙からも、佐藤さんとの絆の深さが感じられますね。
息子の寛一郎さんも俳優デビューし、今度は佐藤さんが三國さんの立場となっています。
自身のときと同様に親子共演を望む声も多いようですので、今後に期待したいですね。