加古川7人殺害事件の犯人・藤城康孝の死刑が執行されニュースになっています。
この記事では加古川7人殺害事件の詳細、犯人の藤城康孝の生い立ちや顔写真、家族や犯行動機、裁判での判決や現在の死刑執行などについてまとめました。
この記事の目次
加古川7人殺害事件の詳細な経緯
「加古川7人殺害事件」は、2004年8月2日未明に、兵庫県加古川市西神吉町大国の当時47歳無職の藤城康孝という男が、自宅両隣の一軒家に住んでいた親類を含む2家族を牛刀や金槌を使って襲撃し、7人を殺害1人に重傷を負わせた大量殺傷事件です。
加古川7人殺害事件の詳細な経緯を、時系列に沿って見ていきます。
加古川7人殺害事件の詳細① 藤城康孝は以前から近隣住人とのトラブルを繰り返していた
「加古川7人殺害事件」から見て、少なくとも十数年前から、犯人の藤城康孝は近隣住人との間にトラブルを繰り返していたようです。
2001年7月下旬と、2002年7月下旬の計2回、兵庫県警加古川警察署に、「藤城康孝から石を投げられて、訳の分からないことを言われて迷惑している。14〜15年前から同様の被害にあっている」、「物を投げつけられている」といった相談が近隣住人からあり、同署はパトロールを強化するなどの対応を取っていたという事です。
また、上の2件とは別に、2002年7月から8月にかけて、地域を管轄する交番に「藤城康孝が自宅付近をうろついており不安」という相談も寄せられています。この時には交番の職員が藤城康孝の自宅を訪れたり、周囲のパトロールを強化したりといった対応を取っていたようです。
この他にも、藤城康孝は近所の人々が外で立ち話をしているだけで自分の悪口を言っていると思い込んで突然怒鳴りつけたり、近隣住人宅に突然包丁を持って押し入ったりした事なども報じられています。
そして、事件前日にあたる2004年8月1日の夕方頃にも、藤城康孝は、自宅と隣接する住宅(加古川7人殺害事件の被害者宅とは別の家)に住む男性が自宅の庭で水撒きをしていたところを窓を開けて睨みつけるようにして男性と口論になり、母親に止められるというトラブルを起こしていました。
加古川7人殺害事件の詳細② 事件の1年〜2年前から犯行を計画していた
詳しい動機については後述しますが、藤城康孝はかなり以前から近隣住人、特に隣家に住む叔母の藤城とし子さん(当時80歳)とその家族への恨みを募らせており、少なくとも1年〜2年ほど前から凶器となった牛刀や、火をつけるためのガソリンを大量に用意するなど、犯行を計画し準備していました。
加古川7人殺害事件後、警察の捜査で、藤城康孝の自宅敷地内にあるプレハブ小屋から100リットを超える量のガソリンが発見押収されています。
加古川7人殺害事件の詳細③ 叔母宅に侵入し叔母の次男を刺殺
藤城康孝は、前日に口論になった近隣住人(庭で水撒きをしていた住人)を殺害しようと思い立ちますが、この住人を見失ったため、先に自宅東隣に住む本家筋の叔母を殺害する事をを決めています。これは、藤城康孝が以前からこの叔母の家族を逆恨みしていた事に加えて、この直前に叔母ともトラブルになっていたためでした。
藤城康孝と母親が住む自宅が建つ土地は叔母の名義になっており、その固定資産税も叔母が支払っていました。加古川7人殺害事件の少し前、叔母がその固定資産税分を藤城康孝に支払うように求めたところ、藤城康孝が激昂して土地の譲渡を迫るというトラブルがあったそうです。
そして、2004年8月2日午前3時頃、藤城康孝は刃渡り15cmの牛刀と金槌を持ち、脚立を使って隣接する離れのトイレの屋根をつたい2階の窓から叔母の自宅へと侵入し、物音に気づいて目を覚ましていた叔母の次男の義久さん(当時46歳)を金槌で殴りつけた後刺殺し、続けて、1階に降り、騒ぎを聞きつけて起きてきた叔母を金槌で殴りつけ卒倒させました。
加古川7人殺害事件の詳細④ 西隣に住む家族を襲撃し一家4人を刺殺
その後、倒れた叔母が死亡したと思った藤城康孝は一旦自宅へと戻ると、使用した牛刀と金槌を座布団の下に隠した後、別の牛刀(こちらも刃渡り15cm)に持ち替え、自宅西隣に住む、藤城利彦さん(当時64歳)の自宅へと向かいました。
玄関横の窓が開いており、そこから藤城康孝は侵入。眠っていた利彦さんを刺殺した後、奥の部屋へ向かい、騒ぎに目を覚ましてきた妻の澄子さん(当時64歳)も刺殺しています。
さらに、藤城康孝は離れで眠っていた長男の伸一さん(当時27歳)のところへ向かい、起こした上で牛刀で刺殺。
さらにその後、長女の緑さん(当時26歳)も刺殺するために母家へと戻ります。騒ぎを聞きつけた緑さんは自室のドアを押さえて抵抗しましたが、藤城康孝はドアに体当たりをして押し破り、緑さんを刺殺しています。
加古川7人殺害事件の詳細⑤ 再び叔母宅へ向かい2人を殺害し1人に重傷を負わす
その後、自宅へと戻った藤城康孝は、隣家で叔母の藤城とし子さんが助けを求めている声を聞いて、再度その家へと侵入。そこには、騒ぎを聞きつけて叔母宅に隣接(東隣)する自宅か駆けつけた長男の勝則さん(当時55歳)がおり、藤城康孝は勝則さんを即座に刺殺。
さらに、一緒に駆けつけていた勝則さんの妻(当時50歳)にも襲いかかり数回刺しています。ただ、事件後の藤城康孝の供述によると、この妻だけは藤城康孝を馬鹿にする事がなかったため、トドメを刺す事を思いとどまったという事です。勝則さんの妻は、一時重体に陥りましたが、その後回復しています。
その後、藤城康孝が1階に降りると、殺害したと思っていた叔母のとし子さん立っていました。とし子さんは逃げ出しますが、玄関あたりで追いつかれてそこで刺殺されています。
これらの藤城康孝の一連の犯行はわずか40分間の出来事でした。
加古川7人殺害事件の詳細⑥ 焼身自殺を試みるも失敗
同日午前3時45分頃、藤城康孝は自宅へと戻り、布団や畳にガソリンを巻いてライターで放火し、自宅の木造家屋と隣接するプレハブ小屋を全焼させています。自宅には藤城康孝の母親も同居していましたが、事前に藤城康孝によって避難させられており、この火事では怪我はありませんでした。
この放火直後、藤城康孝は軽自動車に乗って逃亡し、自宅から南東約4kmに位置する、弟の自宅へと行き、「多数の人を殺した。母を頼む。わしはこのガソリンに火をつけて自殺する」と言うと、車に積んであったガソリンの容器を降ろし、それを頭から被って焼身自殺をしようとしています。
しかし、弟に制止されたため、そこでの自殺を思い止まり、車に乗ってその場を立ち去っています。
加古川7人殺害事件の詳細⑦ 再度自殺を試みるも失敗し逮捕される
弟の元を去った藤城康孝は、現場から700mほど離れた加古川バイパス西インター付近で、赤信号で停車。この時に後方にパトカーが停車したため、藤城康孝は自殺を考え、車を急発進させて壁に激突させ、助手席にガソリンをかけて火をつけました。
すると、火は、車に積んであった他のガソリンにも引火して一気に燃え広がり、それに驚いた藤城康孝は車外へ飛び出したところをパトカーの警察官に保護されました。
藤城康孝はこの時に両腕に重度の火傷を負っており、神戸大学医学部附属病院へと搬送され入院しています。その回復を待ち、2004年8月31日に殺人と殺人未遂容疑で兵庫県警察によって逮捕されました。
加古川7人殺害事件の犯人・藤城康孝の生い立ちと顔写真
藤城康孝の顔写真(上の画像)と、生い立ちについても見ていきます。
藤城康孝は、1956年12月5日に3人兄妹の長男として生まれています。生家も今回の事件を起こした叔母宅に隣接する住宅でした。父親は大手製鋼会社に勤めていたようです。
藤城康孝は小学校時代から異常な攻撃性を示しており、喧嘩になった相手を包丁を持って追いかけるなどの問題行動を起こしていたようです。
両親は、そうした暴力性を矯正したいと考え、藤城康孝を厳しい指導方針で知られる三重県の全寮制高校へと入学させています。しかし、この高校でも藤城康孝の凶暴性は矯正されず、同級生の腹部を刃物で刺す事件を起こした他、包丁を振り回して暴れた事も何度もあったという事です。
卒業後は、加古川市の実家へと戻り、飲食店などで働いていますが、人間関係でトラブルを起こして長続きせず職を転々としていたようです。20代の頃に、母親の工面した金で海外に料理の勉強をしに行きますが、わずか1ヶ月足らずで帰国。その後は実家でぶらぶらする生活を続けています。
その後、藤城康孝は、加古川7年殺害事件から見て、4年前に自宅敷地内にプレハブ小屋を建てて、自家製のパンを焼き始め、そのパンを母親の勤務先の工場で販売する商売を始めています。母親の協力もあってこのパン屋は軌道に乗りかけますが、藤城康孝はこれも1年〜2年で辞めてしまい、これをきっかけにさらに凶暴性を発揮するようになり、近隣住人とのトラブルを繰り返すようになったという事です。
加古川7人殺害事件の犯人・藤城康孝の家族は母親と弟と妹
加古川7人殺害事件の犯人・藤城康孝は、事件の当時は母親と自宅で二人暮らしでしたが、家族は他にも弟と妹がいたようです。
事件当時、弟は独立して自宅から約4km離れた家に住んでいました。妹の当時の所在は不明ですが、裁判記録によると、藤城康孝は一連の犯行後、妹に電話をして「やってもうた、火つけるからはよ来い。おばばを頼むぞ」と伝えており、兄妹仲はよかったと見られます。
また、父親については、事件当時も存命だったようですが、裁判記録によれば大手製鋼会社を退職後「年金を1人で使いたい」との理由で家出をしたようです。ただ、周囲には「息子(藤城康孝)からの暴力から逃れるため」と嘘の説明していたようです。
父親が出て行った後、母親は靴下製造工場でパートとして働き生計を立てていたという事です。
加古川7人殺害事件の犯人・藤城康孝の犯行動機は叔母家族らへの積年の恨み
出典:https://irresponsibility.up.seesaa.net/
加古川7人殺害事件の犯人・藤城康孝の犯行動機は、裁判記録などによると、長年積りに積もった被害者家族らへの恨みだったようです。
藤城康孝は子供時代から、自分と家族が馬鹿にされていると感じており、被害妄想も膨らませていたようです。
ただ、裁判記録によれば、藤城康孝とその家族が、近隣住人からの嫌がらせに遭っていた事は事実だったようで、藤島康孝は叔母のとし子さんの2人の息子(殺害された勝則さんと義久さん)から幼少期から暴力を振われていたようです。
また、藤城康孝と母親が住んでいた家の土地も、本来であれば譲渡されるはずであったものを、叔母のとし子さんが譲らなかったのだそうです。
ただ、この件については、元々藤島康孝が小学生の頃から暴力的な人間であり、包丁を振り回すなどの問題行動を度々起こしていた事も、周囲のそうした態度につながった部分があったと見られ、どちらが悪いという話ではないようにも思えます。
どういった経緯があれ、結果として7人もの人間を殺害した藤島康孝の犯行は許されるものではありません。
加古川7人殺害事件の犯人・藤城康孝の裁判での判決は死刑
加古川7人殺害事件の犯人・藤島康孝は裁判で「8人を殺傷したことについて、後悔していません」と言い切っています。
藤島康孝の裁判での供述を見ると、藤島は被害者家族ら、特に叔母のとし子さんを恨み切っており、「今こうやって話してる間すら、恨み、憎しみが蘇ってきて腹立たしい気持ちになります。」と供述しています。
裁判では、弁護側は「被告人は犯行当時妄想性障害を患っていた」と主張して、情状酌量を求めていましたが、検察側はその主張を否定。裁判は最高裁まで争われましたが、裁判所は「障害が犯行に一定の影響を与えたことなどを考えても、刑事責任はあまりにも重大」として検察側の求刑通り死刑判決が下されています。
加古川7人殺害事件の犯人・藤城康孝の現在…2021年12月に死刑執行
死刑判決が確定し、大阪拘置所に収監されていた藤城康孝でしたが、2021年12月21日に死刑が執行されており、現在は既にこの世にいません。享年は65歳でした。
また、藤城康孝の死刑執行時の様子などは伝わっていませんが、裁判中に藤島康孝に面会をした記者によると、事件については全く反省しておらず、拘置所職員からのいじめを受けているなどと被害妄想を抱いていたと言うことなので、死刑執行時も全く反省はしていなかった可能性が高いと見られています。
まとめ
今回は、2004年8月2日に発生した「加古川7人殺害事件」の詳細と、その犯人の藤城康孝についてまとめてみました。
藤城康孝は、子供の頃から隣に住む叔母一家を始め、近隣住人らに恨みを募らせ、それを動機として計画的に犯行に及びました。
藤島康孝は事件時に住んでいた家で生まれ、両親と弟と妹の5人家族で育っていますが、小学生時代から包丁を振り回すなど暴力的な性格があったため、高校は厳しい指導方針で知られる三重県の全寮制の高校に入れられた生い立ちを持ちます。
しかし、藤島康孝の性格は変わらず、高校卒業後に実家に戻ってからも近隣住人とのトラブルを繰り返していたようです。
藤島康孝は裁判でも全く反省の色を見せず、弁護側は精神疾患を主張して情状酌量を求めましたが、検察側の求刑通り死刑判決が下され確定しています。
2021年12月、藤城康孝の死刑は執行され、現在はすでにこの世にいません。藤城康孝の死刑執行時の様子などは伝えられていません。