俳優、映画監督、商業デザイナー、エッセイストと幅広い分野で一流だった伊丹十三さんは、戦後からバブル崩壊後にかけて大きな影響を与えてきました。
この記事では、伊丹十三さんのプロフィールから、結婚した嫁や息子など、死因は自殺や他殺の真相について詳しくまとめましたのでご紹介します。
この記事の目次
伊丹十三のプロフィール
伊丹十三(いたみ じゅうぞう)
本名: 池内 義弘(いけうち よしひろ)
別名義: 池内 岳彦(いけうち たけひこ)、伊丹 一三(いたみ いちぞう)
生年月日: 1933年5月15日
没年月日: 1997年12月20日(64歳没)
出生地: 京都府京都市右京区鳴滝泉谷町
死没地: 東京都港区麻布台
伊丹十三さんの本名は「池内 義弘(いけうち よしひろ)」ですが、実家では「岳彦(たけひこ)」と呼ばれて育ったことから「池内岳彦」とされる場合もあります。
映画監督、俳優、エッセイスト、商業デザイナー、イラストレーター、CMクリエイター、ドキュメンタリー映像作家 、テレビマンなど、伊丹十三さんは13以上の顔を持つと言われ、いずれも一流という非常に多彩でカリスマに溢れた存在でした。
映画監督・伊丹万作を父に持つ伊丹十三さんは、映画監督として映画『マルサの女』、『タンポポ』などの大ヒット作品を代表作に持っており、世界的に後世のクリエイターに影響を与えました。
伊丹十三の結婚・離婚歴~再婚した嫁は女優・宮本信子
伊丹十三、女優・川喜多和子と最初の結婚
伊丹十三の最初の嫁は女優の川喜多和子だった
伊丹十三さんは1954年に新東宝での映画編集の仕事を経て、その後商業デザイナーとして活躍していましたが、1960年1月に時大映に入社し、父親の伊丹万作と阪急東宝グループ創始者の小林一三の名前にちなんで「伊丹 一三」という芸名で俳優デビューしました。
そして、同年5月に日本映画界の巨匠である川喜多長政とその妻・川喜多かしこの娘で女優の川喜多和子さんをスクリプターの野上照代さんから紹介されて、伊丹十三さんは同年7月にスピード結婚しています。
川喜多和子さんとは1962年に自主短編作品『ゴムデッポウ』を制作するなどしましたが、1966年10月26日に協議離婚をしています。
伊丹十三、離婚した翌年に宮本信子と出会い結婚
川喜多和子と離婚した翌年に宮本信子と出会った
1967年に公開された映画『日本春歌考』にて、伊丹十三さんと宮本信子さんは共演して出会いました。
伊丹十三さんは同年に「マイナスをプラスに変える」という意味で”十三”に改名し、ドラマや映画などで名脇役として活躍し始めました。
そして、出会いから2年の交際を経て伊丹十三さんは宮本信子さんと再婚しました。
2人の結婚式は東京都国立市にある谷保天満宮で営まれ、その後長男で俳優の池内万作さんと、次男の池内万平さんの2人の息子に恵まれました。
伊丹十三さんは亭主関白が当たり前だった昭和当時には珍しく、非常に家事や子育てに積極的であり、その子育て体験談などはエッセイなどで訳書も含めて出版されています。
伊丹十三さんの子育て体験談は現在も注目されているようです。
むかし伊丹十三さんは「主婦ってヒステリック」みたいなイメージは偏見で、男も一日中家で子供の世話してたら「キーッ!何やってんのーッ!」と子供に叫ぶようになるんですよ、主婦の属性と思われてることは、同じ状況になったら男だってそうなるんですよ、と実体験に基づいて書いていた。
— ヲノサトル (@wonosatoru) February 6, 2018
なお、宮本信子さんは伊丹十三さんの作品のほとんどで主演を務めていましたが、妻を輝かせたいという思いが強かったのでしょう。
嫁・宮本信子が明かす伊丹十三との結婚秘話
伊丹十三の嫁・宮本信子にかける愛情
雑誌『Men`s Precious』の2018年冬号にて、亡き伊丹十三さんの嫁・宮本信子さんのインタビュー記事が掲載され、当時の結婚秘話を明かしました。
「何しろ伊丹さんは、すべてにたいしてこだわる人でした。こだわらないというものがないんです(笑)。だから私、結婚するとき、悲しかったですが、自分のものを全部捨てましたよ、伊丹さんから「要りませんから」と言われて。(中略)そうすると、今度は、私のために、それはきれいな服をつくってくださるの。結婚前でもそうでしたからね。「この人に似合うもの、これとこれ」という調子で(中略)。着物だったら銀座の白洲正子さんの店『こうげい』へ連れていかれましたね。(中略)あの、センス、ほんとうにどこで学んだんでしょうかね」
引用:PR TIMES – 没後20年を越え、いま甦る伊丹十三流! 女優・宮本信子が『Men`s Precious』(12月6日発売)で初めて明かす“伊丹スタイル”
伊丹十三さんはすべての事にこだわる上に、すべてが一流に昇華させているため、どこにそんな時間があるのか不思議ですが、凄まじいまでのセンスの塊だったのでしょう。
また、伊丹十三さんが最も輝いていたと感じたのは、映画の撮影現場での姿だったと語っています。
「私だけじゃなく、スタッフの皆さんも、伊丹さんが『オーケー!』と言ってニコッと笑うその顔が見たくて仕事をしている、そういうムードでしたもの。だから、伊丹さんがいちばん素敵なのはやっぱり撮影現場かな。現場で悩んで、ものすごく考え込んだり、うんうんうなっているようなところも、ちょっと格好いいなと思います」
引用:PR TIMES – 没後20年を越え、いま甦る伊丹十三流! 女優・宮本信子が『Men`s Precious』(12月6日発売)で初めて明かす“伊丹スタイル”
伊丹十三さんが家庭での育児や家事に奮闘する様を知っている宮本信子さんだからこそ、世間が知らないギャップ萌えがあったのかもしれません。
★7月6日(土)7:30★
— サワコの朝 (@sawako_no_asa) June 28, 2019
来週の #サワコの朝 には #女優 #宮本信子 さんが登場!夫 #伊丹十三 さんが脚本・監督を手がけ宮本さんも出演した映画 #タンポポ がNYでリバイバルされ大反響! 世代や国境を越えて人々を惹きつける伊丹作品の魅力をたっぷり語って頂きました。お楽しみに!#マルサの女 pic.twitter.com/DCY2z6B4NV
伊丹十三に子供は2人~息子は池内万作は俳優として活躍中
伊丹十三の長男・池内万作は個性派俳優
俳優として活躍している池内万作
伊丹十三さんの長男である池内万作さんは、伊丹十三さんの父親・伊丹万作からそのまま名前をもらいました。
1989年の和光学園高校2年時にアメリカの高校に留学して1991年に卒業、その後はロンドンに留学してリー・ストラスバーグ校にて3年間演技と脚本を学んで帰国しました。
池内万作さんは帰国後の1995年に映画『フラート』で俳優デビューを果たし、2002年からはドラマ『こちら本池上署(TBS系)』でレギュラー出演をしていました。
その後現在までに、映画を中心にドラマでも活躍していますが、池内万作さんは”伊丹”を芸名に使わなかったのはその名前の大きさがプレッシャーだったからかもしれません。
️今日の気になった俳優️
— (V) o¥o (V) (@ta2mix910remix) July 11, 2019
『キュクロプス』より、池内万作
バイプレーヤーとしてあちこちで存在感は見せてましたが、本作での主演ぶりは流石で・・・実は故・伊丹十三と宮本信子の息子ですが、そこは全く感じさせませんね pic.twitter.com/hnsbckBifA
伊丹十三の次男・池内万平は裏方として活躍
伊丹十三の代表作『タンポポ』に子役出演した池内万平
池内万平さんは伊丹十三さんが監督を務めた2作品に子役として出演していました。
1984年の映画『お葬式』では、山崎努さんと宮本信子さんが演じた主人公夫婦の次男・次郎役で、翌1985年の映画『タンポポ』でも、やはり宮本信子さん演じる未亡人タンポポの息子・ターボー役でした。
しかし、池内万平さんはその後芸能界を引退しており、現在までに芸能活動はしていないようです。
2007年5月15日、愛媛県松山市に公益財団法人ITM伊丹記念財団が運営する伊丹十三記念館が開館しましたが、館長は宮本信子さんで評議員に池内万平さんが名前を連ねています。
また、池内万平さんは映画製作会社・伊丹プロダクションの取締役を務めているようで、裏方として活躍しているようです。
伊丹十三の自殺の真相~暴力団による他殺の可能性が濃厚?
伊丹十三、1997年に飛び降り自殺
世間に衝撃を与えた伊丹十三の飛び降り自殺
1997年12月20日に、伊丹プロダクションが入っている東京都港区麻布台3丁目にあるマンションから飛び降り自殺をしたと報じられ世間に衝撃が走りました。
しかし、伊丹十三さんの自殺に関して懐疑的な声が多く、他殺の線が濃厚だと囁かれるようになりました。
伊丹十三、「身の潔白を証明するための自殺」と報じられる
不倫疑惑を苦に自殺というのは無理がある
伊丹十三さんは1997年に写真週刊誌「FLASH(フラッシュ)」によりSMクラブ通いや不倫疑惑が報じられました。
伊丹プロダクションにはワープロによる遺書が残されており、「身をもって潔白を証明します。なんにもなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです。」と書かれてありました。
不倫について「FLASH」の記者から直撃取材を受けた際に、伊丹十三さんは「妻に聞いてみればいいよ」「(不倫疑惑は)いつものことだから」と笑ってあしらう様子が誌面に掲載されていました。
この記事が報じられた直後に伊丹十三さんは”飛び降り自殺”をしていますが、自殺直前に伊丹十三さんが悩んでいる様子が無かったことや、映画の製作に邁進していたことなどから、自殺は不自然だと周辺者が声を挙げていました。
伊丹十三、暴力団・後藤組に殺害された可能性も
伊丹十三は後藤組に殺害された可能性がある
当時、伊丹十三さんは後藤組と創価学会の繋がりを題材にした映画の製作を進めており、それを快く思っていなかった後藤組組長の後藤忠政が、手下の5人を連れて伊丹十三さんを拘束し、マンションの屋上で体を押さえつけて銃を突きつけ、飛び降り自殺をさせたと語った人物がいました。
これにより刑事事件に発展することはありませんでしたが、伊丹十三さんをよく知る映画監督の大島渚さんや、落語家の立川談志さんなども「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と否定していました。
そして、伊丹十三さんが後藤組に殺害されたことに信ぴょう性を持たせる事件が、1992年に発生していました。
伊丹十三、『ミンボーの女』で後藤組に襲撃されていた
後藤組に襲撃されて病院に搬送される伊丹十三
伊丹十三さんの大ヒットシリーズである『○○の女』の、1992年5月に公開された映画『ミンボーの女』では、ゆすりたかりをする暴力団も市民が勇気と知恵を持って対抗すれば引き下がることを描いて観客はスッキリした思いをし大好評を得ていました。
その公開から1週間後となる5月22日に、伊丹十三さんは自宅近くで後藤組の5人組に襲撃されて、顔や両腕などを刃物で切りつけられ全治3ヶ月の重傷を負う事件が発生しました。
伊丹十三さんは担架で運ばれる際にも記者の呼びかけに対してピースサインで応えており、その後回復してからは「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言しました。
伊丹十三、ワープロの遺書は何者かに捏造された?
世界一とも称されたレタリング技術を持つ伊丹十三がワープロで遺書を書くはずが無い
伊丹十三さんはレタリングデザイナーとしては日本でも屈指の技術を持っており、商業デザインから映画の題字・撮影中に映る文字など、一文字に至るまで徹底したこだわりを持っていました。
映画監督の山本嘉次郎さんによれば「伊丹十三さんの明朝体は、日本一である。いや世界一である」と評するほどでした。
そのため、人生最後の時に無味乾燥なワープロで遺書を書くということは、伊丹十三さんを知る人であれば有り得ないことでした。
伊丹十三さんは限りなく後藤組に殺害された他殺の線が濃厚ですが、当時は監視カメラも普及しておらず証拠が残っていないため、現在までに”謎の死”として扱われています。
1992年5月16日「ミンボーの女」公開
— ぽてとちっぷ (@peace551) August 8, 2018
1992年5月22日 伊丹十三襲撃事件
1992年12月 後藤組組員5人逮捕
1997年9月「マルタイの女」公開 坂本堤弁護士一家殺害事件・カルトがモチーフ
1997年12月 伊丹十三監督 不審死
2011年 後藤忠政元組長が著書で創価学会から数々の「仕事」を依頼された事を暴露
伊丹十三についてまとめると…
・伊丹十三はの長男は俳優として活躍する池内万作である
・伊丹十三は飛び降り自殺と報じられたが、後藤組による他殺の線が濃厚とされている
伊丹十三さんほどあらゆる分野で高い才能を発揮した人は中々いないと思いますが、育児にも熱心だったことからも、やはり時代の先を生きていたのでしょう。