「TULIP/チューリップ」リーダーの財津和夫さんさんは今日の日本の音楽に多大な影響を与えてきました。
財津和夫さんが結婚した嫁、息子と娘など子供と家族、そして大腸がんの余命など今現在に至るまでを総まとめしました。
この記事の目次
財津和夫のプロフィール&生い立ち
”和製ポールマッカートニー”と呼ばれた財津和夫
財津和夫さんは和製ビートルズを目指して結成したバンド「TULIP/チューリップ(前身は「ザ・フォーシンガーズ」)」でこれまでに数多くの名曲を世に残してきました。
財津和夫さんのプロフィールはこちらです。
出生名: 財津 和夫(ざいつ かずお)
生誕: 1948年2月19日
出身地: 福岡県福岡市
学歴: 西南学院大学法学部中退
ジャンル: J-POP
職業: シンガーソングライター、作曲家、音楽プロデューサー、ラジオDJ、俳優、大学教授
担当楽器: ボーカル、ギター、ピアノ、キーボード、ブルースハープ、、
活動期間: 1969年 –
引用:Wikipedia – 財津和夫
財津和夫さんと言えば、1970年代から日本の音楽業界の第一線で活躍してきたバンド「チューリップ」のリーダーで、ソロとしても素晴らしい活躍をされてきました。
財津和夫さんを知らない世代でも、国民的愛唱歌として歌い継がれている「切手のないおくりもの」やCMソング、アーティストへの楽曲提供などで一度は耳にしたことがあるでしょう。
特に、財津和夫の代表曲である「WAKEUP」「サボテンの花」「心の旅」などはテレビを観ていなくても聴く機会があるほど有名で、財津和夫さんの透明感のある歌声は心地良いですね!
財津和夫の生い立ち&経歴
財津和夫の名前の由来は?
財津和夫さんの名前の「和夫」は、福岡県福岡市に本社を置く福岡証券単独上場企業である「昭和鉄工」が近くにあったことから”和”の字を貰ったようです。
財津和夫さんは福岡県福岡市の出身で、5人兄弟の末っ子として唯一福岡で誕生しました。
しかし、長男と次男は財津和夫さんが生まれる以前に他界しているため3人兄弟として育ったそうです。
財津和夫さんの両親は、第二次世界大戦中に朝鮮で生活をしていたようで、終戦と同時に日本に帰国して福岡競輪場の食堂を経営して働いていました。
財津和夫さんは幼少期からアメリカ文化への憧れが強く、映画やFENを聴いたりする内に洋楽にハマっていったという。その中でも高校時代にはビートルズへの憧れを強めていったそうです。
高校で本格的に音楽活動を始めた財津和夫
財津和夫さんは1963年に福岡県立香椎高校に入学するとブラスバンド同好会に入り、アルトホルンを担当しました。映画好きが高じて映画同好会も立ち上げましたが、続かずに自然消滅したという。
高校に進学してからビートルズを知った財津和夫さんは独学でギターを練習し、ブラスバンド同好会でもアルトホルンの演奏技術を磨きました。
高校を卒業した財津和夫さんは1年間浪人して西南学院大学法学部に進学。浪人時代には来日したビートルズの武道館コンサートを見るために女友達からチケットを譲ってもらって上京したそうです。
財津和夫、「チューリップ」でメジャーデビュー
財津和夫、1971年に「チューリップ」でデビュー
西南学院大学は中退してしまいましたが、在学中に結成した「チューリップ」でデビューを果たした財津和夫さん。
財津和夫さんは大学進学するとすぐに友人の吉田彰さんと共に”和製ビートルズ”を目指して「ザ・フォーシンガーズ」を結成しました。
しかし、音楽業界からは中々認められなかったため1971年にバンド名を「チューリップ」に改名し、財津和夫さんは再びメジャーデビューを目指して精力的にライブ活動を行います。
海援隊、甲斐バンド、井上陽水などを輩出した博多にある伝説的な音楽喫茶「照和」にて「チューリップ」の名前は売れていき、財津和夫さんは福岡時代からの知り合いである東芝音楽工業(現EMIミュージック・ジャパン)のディレクターだった新田和長さんにデモテープを売り込んだ結果、1971年に「私の小さな人生」をデビューシングルとしてメジャー入りすることになります。
最初は売れなかった財津和夫率いる「チューリップ」
「チューリップ」の出だしは決して順風満帆ではなく、2枚目のシングルまでは売れませんでした。
デビューした年に「チューリップ」はアルバム『魔法の黄色い靴』をリリースし、翌1972年には2ndシングル「魔法の黄色い靴」、3ndシングル「一人の部屋」をリリースしましたが反応はよくありませんでした。
しかし、4枚目となるシングル「心の旅」を1973年にリリースすると、発売から5ヶ月後のオリコンチャートで第1位を記録して一気に売れっ子となり音楽番組への出演が増えました。
一躍スターとなった「チューリップ」ですが、「青春の影」「サボテンの花」「虹とスニーカーの頃」など名曲を次々と出したもののメンバーの脱退と加入が相次いだ結果、1989年に一時解散してしまいました。
1978年には財津和夫はソロデビューもしている
財津和夫さんは「チューリップ」としての活動をしながら1978年にはシングル「二人だけの夜」でソロデビューも果たしています。
財津和夫さんはソロデビューをしてからは楽曲提供でも活躍を見せ、ペギー葉山さんへ提供した「切手のないおくりもの」は1977年にNHK音楽番組『歌はともだち』で初めて披露されて好評を博し、同局の『みんなのうた』でも放送。
さらに小学校の音楽の教科書にも掲載されて、国民的愛唱歌として現在まで親しまれ続けています。
また、財津和夫さんは1979年にセカンドシングルとして「Wake Up」をリリースするとSEIKOのCMソングとして使用されてオリコン週間ランキングで3位にランクイン。
そして、松田聖子さんをはじめ、木之内みどりさん、沢田知可子さん、藤井フミヤさんなどに楽曲提供を精力的に行い、松田聖子さんの「チェリーブラッサム」や「白いパラソル」などはオリコンチャート1位を記録して松田聖子さんの人気を決定づけるものにしました。
財津和夫の曲はCMソングや主題歌として起用された
財津和夫さんのキャッチーなメロディラインが好まれて、ドラマや映画の主題歌、CMなどに多数起用されています。
1979年…「Wake Up」SEIKOのCMソング
1993年…「サボテンの花〜ひとつ屋根の下より〜」フジテレビ系ドラマ『ひとつ屋根の下』主題歌
1988年…「ラブ・ストーリーを君に」映画『ラブ・ストーリーを君に』主題歌
ほか多数
特に1973年にリリースされた財津和夫さんの代表曲である「心の旅」は、1988年に「人情一本こころの旅」のテーマソング、1996年にトヨタ「カリーナ」のCMソング、2006年にキリン「クラシック・ラガー」のCMソング、2007年に共栄火災海上保険のCMソングなど度々用いられています。
財津和夫、テレビタレントや俳優として活躍
音楽活動意外にもタレント・俳優として活躍した財津和夫
財津和夫さんは音楽活動の他にも、番組司会や俳優としてドラマや映画に出演して多才ぶりを発揮しています。
財津和夫さんは1986年には音楽番組『財津和夫のPOPS探偵団(フジテレビ)』で司会を務め、ラジオ番組『財津和夫の人生ゲーム』は1975年から1988年までパーソナリティを務め、2001年には『財津和夫の人生ゲーム21〜心の旅〜』と番組名を変えて再スタート。現在まで続く長寿番組になっています。
さらに、財津和夫さんは役者としての才能も見せており、1976年のドラマ『三男三女婿一匹(TBS)』で準レギュラーの役で俳優デビューを果たすと数々のドラマに出演し、2006年の『たったひとつの恋』を境にドラマへの出演は終わりました。
映画俳優としては1984年から2010年までの間に、『メイン・テーマ』『ソラニン』などに出演しています。
俳優デビューをした動機は、「チューリップ」と同じ事務所に所属していた女優のあべ静江さんがいたからではないかと、財津和夫さん自身が振り返っているようです。
財津和夫の結婚した嫁や子供の情報について
財津和夫、いつの間にか結婚
一回り下の女性と結婚していた財津和夫
財津和夫は結婚式も発表もしていないようで、いつのまにか結婚して子供をふたりもうけていたようです。
財津和夫さんは自分の結婚について結婚式も披露宴もやっていないと語っているようです。
特に意味は無いようで、”若気の至り”で片付けてしまったようですね。
そして、財津和夫さんは嫁さんについて1993年に発売した自身の著書「こんなに近くにいるのに…」で語っています。
1989年に「チューリップ」を解散したこともあり、著書の表紙は畳んだパラソルが映る浜辺で、賑わっていた夏の終わりを感じさせるものでした。
財津和夫の名曲「 サボテンの花〜ひとつ屋根の下より〜」がリリースされた年でもある
1993年は財津和夫さんの代表曲のひとつ「 サボテンの花〜ひとつ屋根の下より〜」がリリースされて大ヒットを飛ばした年で、その関係もあって著作を出版する機会をえたのでしょう。
この財津和夫さんの著書では、解散した「チューリップ」の歴史や自身の交友関係を振り返っている他、競馬場でキレた事件など財津和夫さんのとりとめもない内容なども綴られているようです。
そして、この著書の中には財津和夫さんが嫁さんとの夫婦生活で感じていることも綴られており、結婚観をありありと書かれていて面白いそうです。
財津和夫さんが結婚して感じたのは「ひとりより、ふたりの方が孤独」だということ。
夫婦仲は人によりけりだと思いますが、破天荒な財津和夫さんらしい結婚観を赤裸々に語っています。
財津和夫は”九州女”の世話女房説を信じて結婚した
なんとも面白い話ですが、財津和夫さんは結婚して夫婦生活をスタートさせることに大きな不安を抱えていたようですが、嫁さんが11歳年下であり世話女房と言われる”九州女”だったから結婚に踏み切ったと語っています。
頑固で気性の激しい九州男児の財津和夫さんとしては、我の強い結婚相手では成立しなかったのでしょう。一回り年齢が下で従順であり、世話女房と言われる”九州女”だったからこそ結婚したそうです。
現在も離婚をしていないところから、財津和夫さんの直観は当たっていたのでしょう。
しかし、財津和夫さんはこの自身の直観すらも、「従順」とは責任を取らないこと、「年齢差が大きい」ことは自分が先に死ぬということ、「世話好き」というのは転じてイニシアティブを取りたがる人だということ、というように皮肉った内容を綴っています。
この著書の出版から25年近く経とうとしていますが、財津和夫さんはどうやら結婚に成功したようです。
財津和夫さんが得意とした別れを主題とした青春歌をめっきりリリースしなくなったようで、家族のいる幸せがそうさせているのかもしれませんね。
また、ネット上のエピソードを見ている限りでは少しかかあ天下になっているようで微笑ましいですね!
財津和夫の息子と娘について
財津和夫には二人の子供がいる
財津和夫さんには長男の財津和典さんと長女の財津慶子さんという二人の子供がいるそうです。慶子さんは手前の方のようで青二プロに所属している声優のようです。
財津和夫さんの子供たちについては公式に情報が出回っていないようですが、調べていくとmixiのコミュニティで子供たちの名前が公表されていました。
息子さん→和典くん、娘さん→慶子ちゃん
です。
東京でのコンサートを息子さんは観に来てたそうですよ。
まず、長女の財津慶子さんですが、現在声優として活躍されていました。
財津慶子さんは2012年に松本知博監督が構想に2年かけて製作、監督、脚本、デザイン、演出、CG制作すべてを一人で手掛けた作品『Happening Star☆』に声優として出演しています。
他にも『BRAVE10』というアニメなどにも出演しているようですが、まだ大きく花開いているわけではないようですね。
財津和夫の息子はニート?
財津和夫さんには息子さんと娘さんがいますが、調べていく内に「息子がニート」だという情報がありましたが本当なのでしょうか?
長男の財津和典さんはネット上では”武蔵野音大卒のニート”という情報がありますが、どうやら信憑性のない情報のようですね。
情報の出どころは2ちゃんねるで、下記のようなコメントがありました。
長男がニートで音大に十年くらい在籍してた
引用:2ちゃんねる – 【音楽】財津和夫「これが本当の最後」…「TULIP(チューリップ)」デビュー40周年全国ツアー開催
他にも財津和典さんが成城学園に通っていたことを思わせるような関連検索ワードがありましたが、詳しい情報はありませんでした。
財津和夫の家系が凄い~NHK『ファミリーヒストリー』で明かされる
NHKの『ファミリーヒストリー』で財津和夫の家系が明かされた
財津和夫さんは熊本藩士の家系のようで、NHKの『ファミリーヒストリー』では先祖をたどるところから始まり、過酷な社会情勢を生き抜いてきた両親の感動的な話が紹介されたようです。
財津和夫さんの先祖を辿るとキリシタン大名として「キリシタン王国」建設の夢半ばで散った大友宗麟に仕えていた熊本藩士の家系のようです。
先祖:戦国武将・大友宗麟に仕えた家臣で財津家は熊本藩士の家系
曽祖父:緒方小平太(熊本藩士)
祖父:緒方民平(警察官。熊本県の役人。戦前、朝鮮に向かい農業で大成功を収めた)父親:財津國平(民平の恩師、財津永枝の財津の苗字を名乗る)
母親:山村サイ(実家は、たばこを栽培。一家で朝鮮に渡る)
『ファミリーヒストリー』の冒頭、財津和夫さんは家系について何も聞かされていないことを明かしました。
前述のように、財津和夫さんは終戦直後に両親が挑戦から福岡へ帰ってきた時に生まれています。
番組では財津和夫さんの故郷である福岡に住む、兄・三郎さんのお宅を訪ねて行きました。
兄・三郎さんの家で家系に関する古い書物が見つかる
財津和夫さんが訪ねてきたことで、日の目を見ることになった財津家に関する古書物。番組がなければ引っ張り出すこともなかったという。
書物に書かれた”民平”という名前は父方の祖父であった緒方民平さん。
”財津”という姓は財津和夫さんの父である國平さんが養子になった際に名乗り始めたのだという。
民平さんはかなり厳しい気骨のある人だったようで、”おじいちゃん”と呼べる間柄にはついにならなかったと三郎さんが語っていました。
民平さんの故郷熊本は2016年の地震で甚大な被害を受けた
2016年4月15日に起きた熊本地震は記憶に新しいですが、民平さんの故郷でもあり熊本城は壊滅的な被害を受けました。
民平さんは幕末である慶応三年に熊本藩士の緒方家に生まれ、熊本城付近に暮らしていました。
熊本県立図書館に収められていた明治7年に書かれたとされる「有禄士族基本帳」には民平さんの父親である緒方小平太の名前がありました。
明治10年…西南戦争が勃発し、城下にあった緒方家は焼失。
明治12年…父・小平太が亡くなる。
明治13年…貧困するもある教師の計らいで民平は学校に通い始める。卒業後に19歳で警察官になる。
明治31年…民平は妻・としと結婚。文官普通試験(今でいう公務員試験)に合格して熊本県の役人になる。
明治41年…民平は農業で成功を目指し、40歳を超えて朝鮮半島へ移住。
明治42年…ナムピョン(南平)という農村で、民平は農業に小学校・駅の誘致と大成功を収め、財津和夫の父・國平が生まれる。
”財津”姓を名乗るに至ったエピソード
緒方家の親戚にも”財津”という姓はなかったにもかかわらず、財津和夫さんの父・國平さんは民平さんからある日「これから財津姓を名乗ってくれ」と言われますが、その理由は恩師が”財津”だったからでした。
朝鮮のナムピョン(南平)という農村に移住してゼロから大成功を収めるに至った民平さん。
その成功のきっかけは、貧困で小学校にも通えなかった当時、目をかけてくれて教育を受けさせてくれた教師・財津永枝(ざいつながえ)さんでした。
そして、財津永枝さんが明治40年12月で他界するまで民平さんは連絡を取り合っていたそうですが、 後に跡取り息子が亡くなったことで家系が途絶えてしまったという。
そのため民平さんは恩義に報いるためにせめて”財津”姓を残そうと、長男の國平さんに名乗らせたそうです。
俳優でコメディアンの財津一郎は遠い親戚だった
財津家の家系図を読み進めていく内に分かった衝撃的な事実は、なんと俳優でコメディアンの財津一郎さんも一族に入っており、財津和夫さんとつながりがあったということでした。
財津家に伝わる家系図を紐解くと、無敗を誇り天皇の前でも相撲を取った”相撲の神様”と言われた永季がいました。
そして、現在でもタケモトピアノのCMでお馴染みの財津一郎さんも同じ財津一族だったのです。
國平さん、サイさんに息子が二人生まれる
結婚から間もなく國平さんとサイさんは二人の子供に恵まれたそうです。
しかし、二人の子供は長男が腸の病気、次男が赤痢と幼くして亡くなってしまいます。
幼い息子たちを亡くした國平さんは悲しみに暮れ、名前をこだわり過ぎたのが良くなかったと結論付けて三男は”三番目の男”という意味で三郎と名付けたそうです。
日本でゼロからやり直した國平さん
財産をすべて失った國平さんは一家を養うために開拓農場の仕事を始め、ゼロから再び成功を目指し働きました。
国が雇用を創出するために作った開拓農場の仕事は焼け野原となった博多ふ頭周辺で、國平さんは倉庫を家替わりに改造し、ドラム缶の五右衛門風呂を作り生活の地盤を作っていったそうです。
そして民平さんは昭和31年に、家族が見守る中で静かに息を引き取りました。
財津和夫、故郷を捨てて上京し夢を掴む
國平さんもサイさんも共働きで一人でいることが多かった財津和夫さんは、”和製ビートルズ”を夢見て福岡を捨て上京。両親も黙って見送ったという。
財津和夫さんが成功してからは、財津家では毎日財津和夫さんの歌で溢れていたそうです。
特に母のサイさんは息子がラジオ番組に出演するのをいつも心待ちにしていたようで、ラジオの前から離れず聴いていたという。
財津和夫さんは父の國平さんには飲んだくれた印象しかなかったようで、今回父の苦労話を知って感慨深い気持ちになったようです。
そして、國平さんとサイさんは晩年には朝鮮半島で生活していた頃の思い出話をよく話していたそうです。
財津和夫の現在や余命は?腸閉塞から大腸がんが発覚
現在、大腸がん闘病中の財津和夫
2017年6月2日に財津和夫さんは大腸がんだと医師に診断されたことを発表しました。昨年9月からチューリップ結成45周年を記念した全国ツアーを開催中で、残り4公演を残して中止。財津和夫さんは治療に専念しているようです。
財津和夫さんは2017年5月下旬には腸閉塞を患ったとして入院したことをマスコミや週刊誌が報じていました。
しかし、入院中の精密検査を受けた結果、大腸がんであることが発覚したのです。その時のことをORICON NEWSでは以下のように報じています。
”チューリップのリーダーでボーカル兼ギターの財津和夫が2日、大腸がんを患っていることを所属事務所を通じて発表した。5月下旬に腸閉塞の治療のため入院中に受けた精密検査の結果、発見されたという。財津は「皆様へ」と題して、自身の名前入りでがんについて公表。「5月下旬、腸閉塞のため入院中に受けた精密検査の結果、大腸がんが見つかりました」と報告した。
引用:ORICON NEWS – TULIP財津和夫、大腸がんを公表 45周年ツアー中止で治療に専念
この財津和夫さんの報告を知ったファンの間では、ツイッターなどで心配する声が上がっています。
そう言えば財津和夫さんが大腸癌で休養とかの情報を耳にした。ライブツアーも急遽中止とかですね。でも先ずは身体が第一ですし復帰を願ってます。今は治療に専念して下さい。
— Hiro・Sanada (@hamann63) 2017年6月2日
マジか
— ゆとりにとり@オカマライダー (@yutorinitori) 2017年6月2日
財津さん早く良くなってください‼︎(>_<)
チューリップの財津和夫さんが大腸がんを告白した❗
— hideki (@Hideki372Hideki) 2017年6月3日
癌なんかに負けるな財津さん❗❗
財津和夫さんは決して大腸がんには屈せず、来年には復活して新しいコンサートツアーを開催することを約束しています。
チューリップ45周年ツアーもラストスパートに差し掛かっていただけに心残りです。
完走できなかった今回のツアーですが、来年にはチューリップの一員として新たなコンサートツアーを開始するつもりです。
ネット上では財津和夫さんの余命を心配する声も上がっているようですが、医師から余命を宣告されたという情報はなく、「来年には復活すると宣言している」ところから初期で発見されたと見ていいと思います。
また、現在は財津和夫さんのがん発覚から2年経っていますが、死亡したなどの情報はありません。
財津和夫さんのクリアーな歌声がまたコンサート会場に響き渡るのはいつになるのかわかりませんが、今は大腸がんの治療に専念して完治してステージに戻ってきて欲しいですね!
財津和夫についてまとめると…
「TULIP/チューリップ」として、ソロ歌手として数々の名曲を世に送り出してきた”和製ビートルズ”の財津和夫さんについてまとめてきました。
財津一郎さんが遠縁の親戚に当たるということが発覚したのも驚きですが、ご両親をはじめご先祖様はかなり波乱に満ちた人生を送った方だったようです。
そして、財津和夫さんもまた歌手として激動の人生を送って来たと思いますが、ここにきて大腸がん発覚というのは悲しいですね。
無事、完治して再びステージで財津和夫さんの歌う姿を拝見したいと思います。