関西の大御所タレントだったやしきたかじんさんですが、2014年の訃報と共に遺族間でのトラブルが勃発しました。
やしきたかじんさんの結婚歴と離婚歴・歴代の嫁と子供、本当の死因、また最後の妻・家舗さくらさんの衝撃過去や遺産相続の行方を総まとめしました。
この記事の目次
やしきたかじんのプロフィール
名前:やしきたかじん
本名:家鋪隆仁(やしき たかじ)
生年月日:1949年10月5日
死没:2014年1月3日
出身地:大阪府大阪市西成区
学歴:桃山学院大学中退/龍谷大学中退
デビュー年:1971年
所属事務所:P.I.S
やしきたかじん、1971年に歌手として芸能界デビュー
生前は、関西の人気タレントであったやしきたかじんさんは、1971年に歌手として芸能デビューを果たし「やっぱ好きやねん」や「東京」となど、関西人にはおなじみのナンバーでヒットを飛ばしました。
その後、歌手活動を継続しながらもタレント業がメインとなっていったたかじんさんは、歯に衣を着せない爆弾トークで、関西を代表する人気タレントとなります。
放送禁止用語や放送局の出入り禁止や、名誉毀損(後述)も恐れないストレートな発言(友人であろうとも容赦なく批判する)で、テレビ・ラジオのパーソナリティーとしても関西では不動の地位を誇り、全レギュラー番組が高視聴率を誇ることから「浪速(関西)の視聴率男」(関西の高視聴率男とも)と呼ばれた。本人は自著の中で「僕を視聴率男と呼ばないで」と記しているが、これまでに数多くの番組をヒットさせた。
引用:タレント活動について
たかじんさんは、2014年1月に64歳の若さで亡くなっておりますが、生前は関西ローカルながらも「たかじんのそこまで言って委員会」や「たかじん胸いっぱい」など、3本のテレビのレギュラー番組を持っていました。
関西での人気ぶりを踏まえると、本来なら何本もの番組を抱えられる人気を誇っていたたかじんさんでしたが、自身の中ではプロとして納得の出来る仕事の限界が3本という理由で、あえてレギュラー本数を絞っていたとか。
たかじんは生前、レギュラー番組を3本以下にとどめるようになった理由について「企画の段階から参加できない番組でレギュラーを務めることは、『ギャラ稼ぎ(を狙った)流しの仕事』に過ぎないので視聴者に失礼」「新番組を引き受ける限りは(視聴率で裏番組に)圧勝しなければならないが、不器用な自分の能力では3本が限界」「テレビ番組に関わる以上、(自宅へ大量に設置した)ビデオデッキで録画した番組を全部見たうえで、放送内容を徹底的に分析しなければ納得が行かない」と述べている
やしきたかじんが東京進出を頑なに断り続けた理由とは
やしきたかじさんといえば、関西を代表するタレントでありながらも、東京進出に消極的だった人物として有名でした。
生前に日本テレビ側からの要請により、「たかじんのそこまで言って委員会」がゴールデンタイムでの全国中継が検討されたこともあったようですが、たかじんさん本人が「関東で放送されるくらいなら辞退する」と大反対して、企画が流れたこともありました。
たかじんさんの東京嫌いの原因に関しては、実は放送コードが関西よりも厳格だったことが一番の理由だったようですね。
自分の持ち味は歯に衣を着せない爆弾トークだと自負していたたかじんさんは、東京では自分の発言が放送コードに引っかかりカットされてしまうことに対して、憤慨していたと言われております。
仕事面では東京嫌いだったたかじんさんでしたが、プライベイトでは私用で東京に滞在することは珍しくなかったとか。
やしきたかじんの父・権三郎さんは在日韓国人1世だった
やしきたかじんさんは、2014年9月に発売された角岡伸彦さん著作の「ゆめいらんかね やしきたかじん伝」において、在日韓国人1世であった父・権三郎さんの元に生まれていたことが明らかにされています。
本書ではもうひとつ、たかじんが決して語ろうとしなかった顔に切り込んでいる。それはたかじんのルーツ、父親が在日韓国人だったという事実だ。
「父親は一九二六年に朝鮮半島で生まれ、十四歳で弟とともに大阪に渡ってきた」
その後、日本でたかじんの母親と出会い、男ばかり4人の子どもをもうける。たかじんはその2番目の子どもだ。父親は水石鹸を作る工場を起こすなど事業を成功させたが、一方で何度か破産もしているという。
ちなみに、権三郎さんが息子の国籍のために妻・光子さんとは籍を入れずにいたことで、形式上は私生児として生まれているたかじんさんは、最初から日本国籍のようですね。
やしきたかじんの家族~2度の結婚・離婚に子供は娘が1人
やしきたかじん、最初の結婚した嫁との間に娘が誕生
やしきたかじさんの最初の結婚時期は意外にも早く、21歳の頃には結婚していたと言われております。
たかじんさんと最初の嫁・Aさんとの間には、結婚翌年に第一子となる長女・Bさんが生まれています。
たかじんの最初の結婚は彼が21歳のときだった。翌年にはひとり娘が産まれており、彼女はすでに40代。
結婚後のたかじんさんですが、昔の芸能人にありがちな無頼派気取りだった面があり、女遊びが酷く数年ほどでたかじさんが家を飛び出す形で別居へと至ってしまったとか。
その後の離婚協定はかなり長引いたようで、2人が正式に離婚をしたのは1980年でした。
ちなみにたかじんさんは、養育費などはきっちり支払っていたようで、芸能活動が低迷していた1980年代前半くらいの時期は、養育費の支払いにも四苦八苦していたというエピソードも残っております。
たかじんが大阪で個人事務所である「P.I.S」を設立した直後(1983年)は、関西での仕事の依頼が皆無だったことに加えて、既に離婚していた最初の妻への生活費・養育費の支払いなどで苦しい状況にあった
やしきたかじんの1人目の嫁は1988年にくも膜下出血で死亡
Aさんと離婚後のやしきたかじんさんですが、意外なことに長女・Bさんとは定期的に面会をするなど、父親らしい一面もあったとか。
「父は私が物心つく前に自分の女性関係の問題で家を出ていってしまったけど、離れて暮らしながらも定期的に会っていました。母が生きている間は誕生日とかクリスマスの時には親子3人で食事をしたり、プレゼントを買ってもらったり、父のマンションに泊まりに行ったり。大人になってからも年に1、2回は会っていました。」
しかしながら、Aさんは1988年10月5日にくも膜下出血で亡くなってしまったそうで、当時学生だったBさんは、父方の祖父母に引き取られることとなりました。
でも当時、たかじんは仕事漬けの日々で急に子どもを引き取って育てることができなかった。そのため、たかじんの両親が彼女を引き取り、育ててきました」(前出・親族)
やしきたかじん、2人目の結婚した嫁は15歳年下の和服モデル
やしきたかじんさんは、1993年になると15歳年下の和服モデルの女性Cさんと再婚をすることになりました。
最初の結婚生活を自身の女癖の悪さで台無しにしてしまったたかじんさんですが、2度目の結婚生活でもその部分は改善することはなかったと言われています。
酷い時には、1年ほど自宅に戻らない時期もあったというたかじんさんでしたが、Cさんはそんな夫を「おかえりなさい」と迎え入れたというエピソードまで残っております。
そんなやんちゃすぎるたかじんさんの夫婦生活が長らく続いた理由は、Cさんの寛容すぎる人間性にあったことは言うまでもありませんね。
やしきたかじん、女癖の悪さで2人目の嫁とも離婚
やしきたかじんさんは、2006年にCさんと離婚をしています。
2人の離婚の詳しい経緯については、週刊誌などでも報じられていないため不明となりますが、最初の離婚時と違い、この時はCさんの側からたかじんさんに離婚届を突きつけたと言われております。
たかじんさんと離婚後のCさんに関しては、再婚をして新しい家庭を築いているようですが、離婚時で既に40代前半だったという年齢上、子供などは生まれていないようですね。
やしきたかじんは食道がん闘病中に3人目の嫁・さくらと結婚
やしきたかじん、食道がんが発見され芸能活動を休養
やしきたかじんさんは、2012年1月に食道がんが発見されたため、同年の2月より芸能活動を休止して、闘病生活に入っております。
たかじんによると、2011年10月ごろ、胸に痛みを感じ、心臓病と思い、検査を受け、狭心症の疑いも浮上したが、病名は判明せず。同年末、毎年恒例のハワイでの年越しを取りやめ、年が明けた2012年1月末、人間ドックで胃カメラ検査を受け、食道に腫瘍が発見された。
2月9日より都内の病院へ入院をしたたかじんさんは、3月5日から抗がん剤治療を開始し、4月9日に食道がんの切除手術を受けています。
しかしながら、3D内視鏡を使った切除手術は無事成功した一方で縫合不全が起こり、消化液が肺などへ漏れ落ちる状況に陥ったたかじんさんは、2度目の手術を余儀なくされたとか。
とはいえ、半分戻しながらも積極的に食事を摂取するなど、術後の辛い状況を精神力で乗り越えたたかじんさんの体力の回復は早く、6月9日には最初の退院を果たしたそうですね。
やしきたかじん、芸能界復帰を果たすも体調不良で再休養
退院後のやしきたかじんさんは、北海道の別邸で抗がん剤治療を再開しながらリハビリを続けていたそうですね。
たかじんさんの体調に関しては、抗がん剤の副作用のせいか、腸閉塞で再入院となった時期もあったものの、2012年11月にはハワイの別荘に移れる程度には回復していたとか。
ハワイでのたかじんさんは、喉の調子を確認するためにカラオケに興じたり、高カロリー食品を食べて体重を戻し、来るべき芸能活動復帰の日に備えていたと言われています。
その甲斐あり、2013年3月に「たかじん胸いっぱい」にて1年2ヶ月ぶりの芸能界復帰を果たしたたかじんさんでしたが、以前の精悍な面持ちとは違い、がっつりと老け込んでいました。
見た目の時点で分かるたかじんさんの体調の悪さは、同年の5月には再休養という形で表れました。
所属事務所は「主治医による検査診断の結果、疲労による食欲不振や睡眠不足などから起こる体力の低下がみられ、しばらくの間休養を要するとの指示が出ました。苦渋の選択ではありましたが、本人も今は大事をとって休養に専念する所存でおります」と報告。今後については「主治医とも相談しながら改めてご報告させていただきます」として、復帰時期は未定という。
ちなみに、再休養直後の2013年5月24日には、「週刊フライデー」がたかじんさんのがんの再発をスクープしております。
3月に1年2カ月ぶりに食道がんの手術と治療から復帰後、今月8日に再び無期限の休養を発表した歌手でタレント、やしきたかじん(63)が、がんを再発したと、24日発売の写真週刊誌「FRIDAY」が報じた。
同誌によれば、製薬会社関係者らの話として、食道周囲のリンパ節へ、がんが転移したことが判明したと伝えている。現在は外来治療が可能のため、大阪の自宅で静養しているという。
やしきたかじん、闘病を支えた32歳年下のさくらさんと3度目の結婚
やしきたかじんさんは、2013年10月に、32歳年下の一般女性・家鋪さくらさんと再々婚をしております。
2人の交際は、2011年12月から開始されていたようで、再々婚が発覚した当初は、闘病生活を支えてくれたさくらさんに対するケジメ婚と報道されていました。
体調不良のため今年5月から療養を続けている歌手でタレント、やしきたかじん(64)が、今秋に一般女性(32)と結婚していたことが6日分かった。たかじんは3度目の結婚となる。
同日付のスポーツニッポンによると、女性は長身の美人で、交際は3年近くに及び、長期療養中のたかじんを献身的に支え続けてきた。ごく親しい関係者には結婚を報告しているという。
ちなみに、たかじんさんの死去後に発売されたノンフィクション本「殉愛」では、2人の馴れ初めは下記記事のように語られています。
『殉愛』の記述によると、ふたりが最初に会ったのは、2011年12月25日。独身で、イタリアでネイルサロンを経営していたさくらさんは、妹の出産に合わせて日本に帰国しており、梅田のヒルトン大阪で友人のイタリア人女性と食事をし、その後、Facebookで知り合った「家鋪隆仁」という素性不明のおじさんのパーティにしぶしぶ参加。その後、30日にたかじんと2人で鉄板焼き店に行き、その日の夜、たかじんの自宅にてプロポーズを受けている。
やしきたかじんはがん闘病生活虚しく2014年1月に死去
やしきたかじん、死因は餅を詰まらせた窒息死??
芸能界復帰のために闘病生活を続けていたやしきたかじんさんですが、2014年1月3日に、64歳の若さで亡くなられています。
たかじんさんの死は、「絶対におめでたい正月が明けるまでは口外するな」という故人の遺言により、同年の1月7日に公表されることになりました。
たかじんさんの死因に関しては、ネット上では「餅を喉に詰まらせて亡くなった」との情報も飛び交いましたが、実際は抗がん剤治療で弱った食道に食事が詰まり救急搬送。さらに年末から風邪で体調を崩し、肺炎も患っていたそうです。
その2日後、『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ系)の収録現場には、彼が愛した32歳年下の妻・Sさんの姿があった。昨秋に入籍したばかりの夫を失い、憔悴しきったSさんは悲しみをこらえながら、たかじんさんの最期の様子と、残した“遺言”を伝えに駆けつけた。
収録後に共演者と対面し、「やしきは、1月からハワイで静養すべく、医師からも許可を得ていましたが、先月26日に風邪で体調を崩し、肺炎も患い急変。最期を迎えました……」と振り絞るような声で説明したという。その場に立ち会ったタレント・北野誠が語る。
死の直前は末期がんの緩和ケアで余命数ヶ月の状態だったそうです。
やしきたかじんの葬儀に母・光子さんは呼ばれず絶句
やしきたかじんさんの葬儀に関しては、死後間もなく、近親者のみの密葬で執り行われたそうですね。
死後、密葬を希望する芸能人は案外多いため、それ自体は特に不思議ではないものの、たかじんさんのケースでは、母親である光子さんが、葬儀に呼ばれていなかったようです。
献身的に彼を支え、最期を看取ったのは昨年秋に再々婚した32歳年下の妻(32)。葬儀は「故人の強い遺志」に従い密葬となり、最初の妻との間に産まれた長女もかけつけたという。だが、もっとも悲しみに暮れているのは、大阪市内に住むたかじんさんの実母だろう。そこで実家へと向かうと、近くに住む親族の男性がこう語ってくれた。
「お母さんは、息子が亡くなったことを1月7日に知ったそうです。死から4日後ですよ? 関東に住むたかじんの長女から夕方5時すぎに電話があったそうですが、『葬式もすでに済ませた』と言ったそうなんです。お母さんは、息子の死を現実のものと受け止めることができないようで、涙を見せるのでもなく絶句していました」
たかじんさんは、大学時代に実父と大喧嘩をして実家を飛び出して以降は、母・光子さんとも疎遠になっていたとも言われており、家鋪さくらさんとの再々婚時も母親への報告はなかった関係でもありました。
さらには、光子さんは2012年に脳梗塞に倒れて車イス生活を送っていた状況でもあったため、色々な事情を配慮しての処置だった可能性はありますが、たかじんさんの死後、世間をざわつかせた最初の騒動となってしまいました。
だが実母は2012年、脳梗塞を患ったことで車いす生活を送っており、自宅にこもっているという。代わりに親族のひとりが母親の話をしてくれたのだが、飛び出したのは意外な内容だった。
「私も今日、(結婚を)初めて知ったんですよ! たかじんのお母さんも同じで、事前には何も知らされてなかったみたいなんです。病気のことを考えると、今回の結婚はお母さんとしても安心でしょう。でも、彼にはひとり娘がいるので……」
やしきたかじん嫁・家舗さくら、母・光子さんの葬儀で遺族と大モメ
やしきたかじんさんの葬儀を巡るトラブル以降は、家鋪さくらさんと光子さんの嫁姑の確執なども週刊誌ネタとなりましたが、息子の後を追うように、光子さんは2014年5月に亡くなりました。
「お母さんは、毎日たかじんの写真を見て泣いていました。息子の死に目に会えなかったことが、相当ショックだったみたいです。3月3日の『たかじんを偲ぶ会』前には、お母さんのがんはわかっていました。出席を果たしてからほどなくして体調が急変。最後は家族みんなに見守られながら、息を引き取りました」
光子さんの葬儀には、さくらさんも参列したそうですが、当初はキリスト教徒を理由にお焼香を拒否したり、光子さんの骨も拾わずに帰るなど、かえって遺族との軋轢が深まる結果に終わってしまったようですね。
「参列者のひとりによると、彼女は当初『キリスト教だから……』と焼香を拒んでいたようです。周囲が説得を重ね、何とか焼香だけしてもらいましたが、参列者との会話もほとんどなし。出棺後の親族との食事会は辞退し、お骨を拾うことなくすぐに帰っていきました。最後は『帰ります』の挨拶もなく、気が付いたらいなくなっていました」
やしきたかじんの遺産は寄付を除いて全額が家舗さくらに
やしきたかじん、10億円ともいわれた遺産の行方は意外な展開に
やしきたかじんさんの遺産10億円の行方ですが、たかじんさんの遺言書により、寄付分を除く4億円の全額が家鋪さくらさんに相続されています。
「遺言書はA子さんにほぼ全ての財産を相続させるといっても過言ではない内容だったそうです。『OSAKAあかるクラブ』に2億円、大阪市に2億円、母校の桃山学院に2億円を寄付する旨、A子さんに4億円を相続させる旨もありました。つまり遺産10億円の内、長女の相続分は0。非情な遺言を見た長女は絶句したそうです」(前出・たかじんさんの知人)
生前のたかじんさんは、唯一の子供である長女・Bさんにも遺産を相続させる意向を口にしていただけに、遺言書の意外な内容には、たかじんさんの知人たちもびっくりをしていたようです。
民法上はたかじんさんの遺産総額の4分の1は、遺留分として自動的にBさんが相続出来る立場であったため、裁判を起こせば簡単に覆る稚拙な内容の遺言書だったと言えます。
「新潮」によれば、民法上A氏は遺留分減殺請求を出せば遺産総額の4分の1を受け取れるのだが、遺産執行者だったB弁護士(仮名/すでに解任)がそれを考慮せずに遺書を作成してしまったため、A氏は減殺請求権をめぐる訴訟を起こすことを今後判断する事態になっているという。
やしきたかじん、肖像権も家鋪さくらがすべて相続
芸能人であるやしきたかじんさんの遺産には、当然ながら肖像権や名前使用料もありました。
たかじんさんの肖像権などに関しては、生前は個人事務所「P.I.S」が取り扱っており、たかじんさんがMCを務める番組の看板料だけでも年1億5000万円もあったとか。
しかしながら、たかじさんの死後間もなくすると、家鋪さくらさんが新事務所「Office TAKAJIN」を設立し、放送関係者などの協力もあり、たかじんさん関連の権利のすべてを取り扱うこととなったと言われております。
「P.I.S」の代表は、長女・Bさんとたかじんさんのマネージャーが務めておりましたが、権利関連をさくらさんに押さえられてしまったことに対しては、泣き寝入り状況になってしまったようですね。
やしきたかじんの死後…ノンフィクション本「殉愛」の発売により裁判合戦に
やしきたかじん、「殉愛」の事実誤認に対してやしきたかじんの娘が裁判
家鋪さくらさんとやしきたかじんさんの関係者との対立は、2014年11月に、ノンフィクション本「殉愛」が発売されたことにより本格化します。
『殉愛』(じゅんあい)は、百田尚樹による2014年の書籍。シンガーソングライター、タレント、司会者、ラジオパーソナリティとして関西で人気を博したやしきたかじんの最晩年を、たかじん自筆のメモや、看病に人生を捧げたと主張する未亡人、家鋪さくらの証言、看護日記などに基づいて描いた、「かつてない純愛ノンフィクション」として発売されたが、「ノンフィクション」といえるのかなど、内容について議論があり、販売差し止め訴訟も起きている
引用:殉愛 (百田尚樹)
「殉愛」の著者は、「永遠の0」などで知られている大ベストセラー作家の百田尚樹さんだったこともあり、作品の発売当日にはバラエティ番組「金曜日のスマイルたちへ」で特番が作られています。
しかしながら、肝心の本の内容は事実誤認による関係者への誹謗中傷が多い代物だったようで、2014年11月に、たかじんさんの長女・Bさんにより、発売元の幻冬舎に対して、出版差し止めと損害賠償の裁判を起されています。
本書はたかじんの長女を「横柄な態度で8歳下の父の若妻に暴言を浴びせる『中年女性』」として描き、以下のようなエピソードを掲載している。
たかじんに、食道ガンになったのは自業自得という内容のメールを送って激怒させ、たかじんは絶縁を宣言した。
たかじんに金の無心を繰り返して辟易させ、たかじんは親友に対し娘と絶縁したいとこぼした。
闘病中のたかじんを一度も見舞わなかった上、退院したたかじんに対し、その妻を誹謗中傷する内容のメールを送りつけた。
たかじんの死後開かれた「やしきたかじんを偲ぶ会」において、挨拶をしようとした未亡人に対し野次を飛ばした。
これに対し長女側は、上記記述は虚偽であり、「1人の遺族の話を根拠に、他の親族の取材をせずに一方的に攻撃するもの、「あまりに一方的なひどい内容」、「事実と違うことだらけ」と反論し、本書の中に「すべて事実である」という記述があることについて、「百田さんから取材の申し込みもありませんでした。こんなのノンフィクションじゃないですよね?」とコメントしている
やしきたかじん、裁判は娘の勝訴に終わるも出版差し止めされず
やしきたかじんさんの長女・Bさんと幻冬舎との裁判ですが、2017年12月にBさんの勝訴により決着が付きました。
ただし、「殉愛」の出版差し止めはならなかったようで、Bさんにとっては些か不満の残る結果でもありました。
タレントの故やしきたかじんさんの闘病生活を描いた作家百田尚樹氏の書籍「殉愛」を巡り、やしきさんの長女が発行元の幻冬舎(東京)に損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決で東京高裁は1日、1審東京地裁判決に続き、一部の記載にプライバシー侵害と名誉毀損を認め、365万円の支払いを命じた。
やしきたかじんの弟子や元マネージャーも裁判沙汰に
「殉愛」を巡る訴訟トラブルに関しては、やしきたかじんさんの元弟子である歌手・打越元久さんも巻き込まれています。
打越さんのケースでは、「殉愛」発売直後に出演したネットラジオにて、「がんが移ったとしてたかじんさんに金銭を請求していた」と家鋪さくらさんを中傷してしまったところ、さくらさん側から名誉毀損の裁判を起されたパターンとなりました。
こちらは、さすがにさくらさん側の勝訴となったようで、2016年7月に打越さん側が100万円の損害賠償金を支払うことで決着がついております。
故やしきたかじんさん(享年64)の妻、家鋪さくらさんが名誉を傷つけられたとして、たかじんさんの元弟子、打越元久氏に損害賠償1000万円を求めた裁判の控訴審判決が14日、大阪高裁で言い渡され、同高裁は打越氏に、1審の地裁判決から200万円減額になる100万円の支払いを命じた。
その他にも、たかじんさんの長女・Bさん同様に、「殉愛」で酷評をされていたたかじんさんの元マネージャーも、2015年10月に作者の百田尚樹さんや出版元の幻冬舎に対して、名誉毀損の裁判を起こしています。
元マーネージャーは、たかじんさんの個人事務所「P.I.S」を退職後は、東京の芸能事務所に就職していたものの、百田さんらへの訴訟のために再就職先を退職してまでの訴訟となりました。
報道によると、男性は、たかじんさんの闘病生活を描いた百田氏の著書「殉愛」で、事実とは違って、事務所の金約1200万円を横領したり、看病で怠慢な態度を取ったりしたと描かれたと主張している。一方、訴えられた百田氏と「殉愛」発行元の幻冬舎は、「訴状が届いていないのでコメントを差し控える」とマスコミ取材にコメントした。
やしきたかじんの嫁・家鋪さくらにまつわる噂~たかじんとの結婚は4度目だった
家鋪さくら、ネット上で過去の男性問題が暴かれる
やしきたかじんさんの関係者との間にトラブルが絶えない家鋪さくらさんですが、ネット上ではさくらさんの過去に纏わる噂も流れております。
2014年11月に放映された「金曜日のスマイルたちへ」での「殉愛」特集をきっかけに、ネット上で始まったさくらさんの過去の詮索作業ですが、真偽不明の噂も含めて多くの情報が集まっています。
ネット上でまず注目されたのは、年齢の割に異常に激しい結婚離婚歴です。家舗さくらさんはたかじんさんとの結婚の前に3度の結婚と離婚をしています。つまり、たかじんさんとの結婚は4度目だったことになります。
1度目の結婚は詳しい詳細は不明ですが、高校卒業後に大阪高島屋の中にあったコムサ系のショップ店員時代に大阪・岸和田市在住の男性(在日韓国人のパチンコ店オーナー森田氏との噂)と結婚しています。
この記事では、マスコミにも取り上げられた2人の外国人男性との結婚を取り上げさせて頂きます。
家鋪さくらの結婚歴① 英会話講師ダニエルさんと結婚
家鋪さくらさんにとって、過去の結婚相手ではないかという疑惑のある人物には、アメリカ人英会話講師・ダニエルさんがいます。
2人の結婚説の情報元は、とあるブリーダーのブログ記事でした。
大型犬専門のブリーダーのブログにて、2007年5月に来訪したカップルについて綴られていたのだ。
「そのブログに登場しているのが、さくらさんと当時、交際していたといわれるアメリカ人男性でした。ブログには<色白で背の高いアメリカ人の好青年D(イニシャル表記は編集部)さんと、小柄で華奢な日本人のお嬢さん、さくらさんが仲良く手をつないで三島駅の階段を降りてきた>と書かれている。文面だけでは判断が難しいところではあるが、画像も数枚、掲載されており、集合写真にさくらさんに瓜二つの女性が微笑んで写っています」(芸能ライター)
2人の結婚説に関しては、このブリーダーのブログ内にて、さくらさんがダニエルさんの婚約者であると紹介されていたことが発生原因となりました。
その他にもネット上では、さくらさんとダニエルさんと思われる2人の親しげな写真が数々発掘されているため、2人が特別な間柄だったことは確かなのでしょうね。
ちなみに、後日発売された「百田尚樹・殉愛の真実」という本の中で、さくらさんが過去にアメリカ人の英会話講師と結婚をしていたことが判明しています。
家鋪さくらの結婚歴② イタリア人 ・Ivan Signoreさんと結婚
家鋪さくらさんの過去の男性遍歴に関しては、イタリア人男性Ivan Signoreさんとの結婚歴も判明しております。
2人の結婚の過去がバレてしまった原因は、さくらさんが運営をしていた「都会っ子、イタリア・カントリーサイドに嫁ぐ」というブログがのせいです。
イタリアへのショートステイでIvan Signoreさんと知り合い、長距離恋愛の末に2008年12月に日本で結婚をしたというさくらさんですが、2009年春になるとイタリアへ移住をしました。
前述のイタリアでネイルサロンを経営していたというさくらさんの経歴も、実は主婦の副業だったということなのでしょうね。
後日にたかじんさんと知り合い、結婚をする運命などは予感していなかったさくらさんは、Ivan Signoreさんとの楽しい結婚生活を逐一ブログで報告しており、そのことが仇となってしまったというわけになります。
家鋪さくら、イタリア人夫とやしきたかじんの重婚疑惑も??
家鋪さくらさんには、やしきたかじんさんとの交際開始時期とIvan Signoreさんとの結婚時期が被っているのではないかという噂もあります。
元々、イタリアに移住していたさくらさんが日本へ帰国をしたのは、妹の出産の手伝いをするためだったそうですね。
そのため、2011年11月18日に日本へ戻ってきたさくらさんですが、「都会っ子、イタリア・カントリーサイドに嫁ぐ」を確認する限りでは、Ivan Signoreさんも妻の様子を見に来日し、同年の12月28日から1月2日まで日本へ滞在していたという記述がありました。
一方で「殉愛」の記述上では、さくらさんとたかじんさんが出会ったのは2011年12月25日であり、同年の12月30日には、たかじんさんがさくらさんにプロポーズをしていることになります。
そのため、「殉愛」と「都会っ子、イタリア・カントリーサイドに嫁ぐ」の記述を対比して見ると、さくらさんは人妻の身でありながらたかじんさんと交際を開始していたと受け取れます。
さくらさんの不倫説に関しては、たかじんさんとの交際が正式スタートした2012年1月16日以降も、Ivan Signoreさんが「妻と2日間喋っていない」という愚痴をツイッター上でこぼしていることからも増強されてしまいます。
2 days: longest period without talking with my wife
— Ivan Signore (@ivansignore) 2012年1月22日
その後も、現在は削除されたものの2012年3月15日には、「75 days far from my wife and I am going crazy. Maybe it’s time to think how to get out this situation. Move to Japan?」という、「妻に75日も会えていない」との嘆きのツィートを残しているIvan Signoreさん。
さくらさん自身は、後に「週刊フライデー」誌上にて、Ivan Signoreさんとは2010年3月には別居状態となっており、2011年11月に日本へ帰国した理由の1つには、日本での離婚手続きもあったと主張していますが、些か苦しい言い訳ではないかと思われます。
ちなみに、さくらさんの重婚説に関しては、「イタリアでの離婚手続きは3年かかる」という真偽不明の情報が元となった噂のため、こちらの説はおそらくはガセネタなのではないでしょうか?
「殉愛」作者・百田尚樹、家鋪さくらの男性問題を弁明
その内容を巡って訴訟沙汰にもなっている「殉愛」の作者である百田尚樹さんですが、家鋪さくらさんとイタリア人男性との結婚問題がネット上でやり玉に挙がった際には、ツイッター上で弁明をしております。
①多数の質問が寄せられたので書く。たかじんの妻にはイタリア人男性との結婚・離婚歴がある(日本で入籍、離婚)。しかし一部ネットで言われている重婚の事実はない。彼女はたかじんと出会う一年前から、夫とは離婚の協議をしており、たかじんに出会ってそのことを彼に相談していた(証拠メールあり)
— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) 2014年11月17日
②しかし彼女の離婚の話を書くかどうかは、実は大いに迷った。本人ができれば知られたくないというプライバシーを明かす必要があるのか、と。誰にでも伏せておきたい過去はある。それに本のメインテーマはそこではない。迷った末に書くのをやめたが、この判断は結果的には失敗だった。
— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) 2014年11月17日
③ネットで彼女の結婚歴が暴かれ、重婚ではないかという噂が拡散した。こういう話は尾ひれがつく。2チャンネルでは信じがたいデマも乱れ飛んだ。本に離婚歴を書かなかったというだけで、ネット上では「とんでもない悪女」という評判が立った。すべては私のミスである。以上!
— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) 2014年11月17日
百田さんの弁明の内容がどこまで正しいのかは分かりませんが、「殉愛」が完全なノンフィクション本ではなく、かなり手心を加えられた内容であったことは間違いないようですね。
「殉愛」掲載のやしきたかじんの自筆メモに偽物説も?
やしきたかじんさんの関係者とのトラブルが続いたノンフィクション本「殉愛」ですが、その原因には、作者の百田尚樹さんが執筆の参考にした「たかじさんの自筆メモ」が、偽物だからではないかという説もあります。
具体的には、「たかじんさんの自筆メモ」とされているメモ帳の筆跡は、家鋪さくらさんの筆跡に似ているとの指摘がネット上であがり、検証もされている状況です。
「殉愛」の元ネタとなったメモ帳の筆跡に関しては、たかじんさんに数々の詞を提供していた作詞家の及川眠子さんも違和感を感じていたようで、ツイッター上で疑問の声を上げたこともあります。
及川眠子とトルコ人夫の離婚や借金・印税や現在の様子まとめ
『殉愛』の表紙に感じたすっごい違和感。なんでだろーと思っていたが、はたと気付いた。たかじんってあんな字を書いたっけ? もっと読みづらい変ちくりんな字だった記憶が・・・。病気になると筆跡まで変わっちゃうのかな?
— 及川眠子 7月20日『ネコの手も貸したい』発売 (@oikawaneko) 2014年11月16日
しかしながら、「たかじんさんの自筆メモ」は、「探偵Watch」というWEBメディアが筆跡鑑定を依頼した結果、本物だったという鑑定結果も出ているようなので、この話題に関しては、ネットの勇み足という結論なのかもしれませんね。
続報・百田尚樹『殉愛』、たかじん直筆?疑惑のメモを専門家が筆跡鑑定
「殉愛」のカウンター本も出版で家舗さくらの過去が暴かれる
賛否両論の状態が続いている「殉愛」ですが、2015年2月になると「百田尚樹・殉愛の真実」というそのままなタイトルのカウンター本が出版されています。
ちなみに作者は、家鋪渡さんや西岡研介さん、角岡伸彦さんの3人となります。
こちらの作品は、やしきたかじんさんの前妻・Cさんや元マネージャーの他、家鋪さくらさんの元夫の証言まで引き合いに出して構築したノンフィクション本であり、さくらさんの過去を暴く作品という謳い文句となっております。
さくらには3度の結婚歴があるのだが、最初の夫と親族、2番の夫の英会話講師(白人)を直撃。2番目の夫は、さくらの躁鬱的な気質とカネへの執着を語り、同時並行でさくらが年配の社長と付き合っていたという衝撃の事実を明かす。その人は、『殉愛』のなかで「金持ちの伯父」として登場している。
ちなみにさくらさんは、出版元の宝島社を相手どって損害賠償などを求める裁判を起こしていますが、2018年3月に判決が下った第一審では、宝島社側の勝訴となっているようですね。
やしきたかじんについて総まとめすると…
・やしきたかじんには3度の結婚歴があり、最初の結婚相手との間に子供は娘が1人いる。
・やしきたかじんは2013年10月に、32歳年下のさくらさんと再々婚した。
・やしきたかじんの父親は在日韓国人一世である。
・やしきたかじんの遺産は10億円といわれ、寄付を除いた全額が3番目の嫁・さくらにすべてを相続させるという驚愕の遺言状だった。
やしきたかじんさんの死後のゴタゴタに関しては、多くのファンたちが悲しんでいる状況だと言われております。
大富豪ともなると、無用な遺産トラブルを避けるために、終活婚などは控えた方が良いのかもしれませんね。
たかじんさんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。