故人である俳優の若山富三郎さんですが、ハリウッド映画にまで出演した実力派なれど、数々の武勇伝を残したことでも有名な人物となります。
この記事では、若山富三郎さんの身長などプロフィール、若い頃と伝説、結婚した嫁と息子や娘、そして死因をまとめました。
この記事の目次
若山富三郎の身長などプロフィール
若山富三郎(わかやま とみさぶろう)
本名:奥村勝(おくむら まさる)
生年月日:1929年9月1日
出身地:東京都江東区
若山富三郎、勝新太郎の実兄で時代劇やヤクザ映画で活躍していた
若山富三郎さんといえば、父は長唄三味線の師匠だった杵屋勝東治さん、弟は伝説の名優・勝新太郎さんという芸能一家の出であることでも有名です。
弟同様に、スター俳優に上り詰めた若山富三郎さんは、全盛期はヤクザ映画や時代劇といった分野で活躍し、映画「極道」シリーズや映画「子連れ狼」シリーズなどの主演を務めてヒットを連発しました。
50代以降は社会派作品に出る機会も多かった若山さんは、1979年に主演した映画「衝動殺人 息子よ」にて、「日本アカデミー賞」最優秀主演男優賞を獲得しています。
少年犯罪により一人息子を失った夫婦を描いた作品である「衝動殺人 息子よ」は、犯罪被害者給付金制度の成立に貢献した名作としてもお馴染みとなります。
同時代の俳優には珍しく海外映画でも活躍した若山さんは、「がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-」や「ブラックレイン」といったハリウッド映画に出演した経験もあったそうですね。
役者としては、まさに一流の実績を残したと言える若山さんですが、仕事に対しては柔軟な考えの持主だったようで、晩年は「クイズダーヒー」や「どっきりカメラ」といったバラエティ番組に出演することもありました。
若山富三郎、身長はそれなりに大きかった?
若山富三郎さんといえば、身長は非公開なれど、中年期にブレイクした遅咲き俳優ということもあり、小太りでずんぐりした体格といったイメージが世間に流布されていました。
若山富三郎さん(左)と勝つ新太郎さん(右)
そのため、小柄だったのではないかと思われている若山さんでしたが、実弟の勝新太郎さんとの2ショット写真などを踏まえると、公表身長170cmの勝さんよりも若干大きいことが確認出来ます。
「学校保健統計調査 年次統計」を参考にすると、1929年生まれの日本人男性の平均身長は160cm前後だったというデータもあるため、巷のイメージとは違い若山さんは同世代の中では大柄な部類だったと言えます。
若山富三郎の若い頃…落第生で俳優デビューも苦戦続きだった
若山富三郎、旧制中学に進学したエリートなれど落第生だった
若山富三郎さんといえば、旧制中学への進学率が2割だった時代に「日本大学第三中学校」に進学したエリートなれど、勉強の方は苦手だったようで、1年時に3回連続で落第する悪夢も経験しています。
そんな若山さんが学生時代に熱中したものは柔道だったようで、師範(伍段)を目指すほど入れ込んでいたようですね。
中学を卒業後は、長唄の練習を本格的に開始し、父・杵屋勝東治さんの伝手で「尾上菊五郎劇団」に預けられていた時期もあったという若山さんでしたが、地方(じかた)に過ぎない長唄の唄方は、役者よりも格下という厳しい現実を突きつけられることになりました。
そのため、「尾上菊五郎劇団」時代は、長唄よりも殺陣やトンボ切りの練習ばかりしていたという若山さんは、一時は芸事から離れて用心棒していたこともあったとか。
その後、1954年2月になると、父親や弟・勝新太郎さんと一緒に、吾妻徳穂さんの劇団「アズマカブキ」のアメリカ巡業に地方として参加した富山さんは、帰国後に新東宝からスカウトを受けて役者に転身しています。
若山富三郎、VIP待遇なれど主演映画が当たらない日々が続いた
20代中盤での役者デビューとなった若山富三郎さんですが、一足先に映画デビューを飾りスター候補となっていた勝新太郎さんの「弟の七光り」だった部分は否めなかったようですね。
そのため、弟のオマケ扱いでのデビュー話を嫌った若山さんは、当初はスカウトを断るつもりで新東宝に1本30万円(当時の大卒初任給の50倍以上)の出演料や運転手付きの車での送迎といった条件を提示したと言われております。
しかしながら、映画黄金時代の勢いもありノリノリだった新東宝が、提示した条件を受け入れてしまったため、若山さんはVIP扱いでの役者デビューが決定してしまうことになりました。
若手俳優時代の若山さんに関しては、映画を中心に活躍しており、「人形佐七捕物帖」シリーズや「謎の紫頭巾」シリーズなどに主演していました。
しかしながら、周囲の期待ほどの興行成績をあげることが出来ずに、燻る日々が続いていたと言われております。
その後、新東宝が経営危機に陥ったため1959年に東映に移籍し、引き続き時代劇スターとしプッシュされていた若山さんですが、ヒット作に恵まれない日々は相変わらずだったとか。
そのため、1962年には勝新太郎さんのツテを頼り大映に移籍することとなった若山さんでしたが、脇役落ちする屈辱を味わった他、女性問題で干される逆境も経験しています。
そんな若山さんが俳優としてブレイクを果たしたのは、東映に出戻りヤクザ映画に出るようになった1960年代後半以降の話だったようですね。
若山富三郎の家族情報…バツ2で息子や娘は?
若山富三郎、2人の嫁との離婚原因は不倫だった
若山富三郎さんに関しては、生涯で2度の結婚と離婚を経験しています。
若山さんの最初の妻については、ハワイ在住の日本人だったそうですが、若山さんの浮気が原因であっけなく離婚してしまったとか。
その後1963年になると、宝塚歌劇団の元男役で、映画「無名」シリーズのお照役などでお馴染みだった女優・藤原礼子さんと再婚している若山さんでしたが、女優・大楠道代さんとの不倫が原因で1965年に2度目の離婚の憂き目となりました。
離婚後の若山さんについては、業界内で女癖の悪さが問題視されるようになった結果、1年ほど干される苦境も味わったものの、大楠さんとはすぐに別れることもなく7年ほど同棲していたようですね。
ちなみに、若山さんの離婚時に19歳という若さだった大楠さんですが、不倫が原因でキャリアが絶たれることもなく、演技派女優として数々の映画やドラマに出演。1980年には、映画「ツィゴイネルワイゼン」の青地周子役で、「日本アカデミー賞」最優秀助演女優賞に輝いています。
若山富三郎、子供たちとは離れて暮らしていた
若山富三郎さんは、藤原礼子さんとの間に長女・佳代子さんと長男・若山騎一郎さんを儲けることになりましたが、自身の不倫が原因で離婚した手前、子供たちの親権は藤原さんが獲得していたそうですね。
離婚後の藤原さんは、1966年に女優を引退すると、以降は兵庫県神戸市内で割烹を営みながら女手1つで子供たちを育てることになりました。
そのため、騎一郎さんが若山さんと再会を果たしたのは、20歳になってからの話だったとか。
役者を目指していた騎一郎氏に日活の松尾昭典監督が、「役者になるなら父親に会っておきなさい」 と段取り、父と面会したのだ。そこで騎一郎氏は思わぬ言葉をかけられる。「ウチ(個人プロダクションの若山企画)に来て修業してみないか」
その後は、若山さんの元で修行をし、テレビドラマシリーズ「北アルプス山岳救助隊・紫門一鬼」などで活躍をした騎一郎さんですが、私生活では3度の結婚と2度の離婚を経験した他、覚醒剤取締法違反での逮捕歴があるなど、破天荒ぶりも父親譲りとなっています。
若山富三郎の伝説…親分肌だったが神経質な一面もあった
若山富三郎の伝説① うるさ型で学歴コンプもあった
若山富三郎さんといえば、日本一殺陣が上手い俳優との異名を持ち、アクションスターであった千葉真一さんに対して峰打ちの殺陣を伝授したことまでありました。
そんな実力に加えて、数々の映画やドラマに主演してヒットを飛ばした実績まで持っていた若山さんは、撮影現場ではかなりのうるさ型だったそうで、監督へアイデアを進言したり無茶振りをして困らせることも多かったとか。
一方で旧制中学時代に3回の落第を経験している劣等生であった若山さんは、学歴のある人間の指示は素直に受け入れる傾向があったため、新人監督が若山さんの出演作を担当する際には、旧帝国大学出身という設定にしてトラブルを避ける習慣があったそうですね。
若山富三郎の伝説② 親分肌だったが神経質な気質だった
若山富三郎さんは、親分肌な俳優でもあり、気に入った役者やスタッフを取り巻きにして面倒を見ていたそうですね。
若山組と呼ばれた若山さんの取り巻きに関しては、山城しんごさんや安岡力也さんといった有名芸能人もいました。
一方でうるさ型であり、上下関係にも厳しかったという若山さんは、時代劇の撮影現場で「着物の着方が分からない」と呟いた若手俳優をその場で投げ飛ばしてしまったこともありました。
そんな暴君ぶりに対して恐れおののいた撮影現場では、若山さんの機嫌を損ねないための暗黙のルールまで存在していたと言われております。
・目下の俳優やスタッフは若山のことを「若山さん」ではなく「若山先生」と呼ぶ
・若山と顔を合わせた場合、必ず立った状態で挨拶と最敬礼をする
・若山とすれ違った場合でも必ず立ち止まって挨拶と最敬礼をする
・共演をする際には、撮影前に若山の楽屋まで挨拶に行く
・若山が出演する撮影現場では遅刻厳禁
しかしながら、そんな暗黙のルールを知らなかった俳優・柳沢慎吾さんは、レギュラー出演していた時代劇「名奉行 遠山の金さん」に若山さんがゲスト出演した際に、軽いノリで挨拶をしてしまい、激怒させてしまった経験もあったそうですね。
慎吾さん「僕は(満面の笑みで)チィーッス! って言ったの。そしたら(かすれた声で)『おうっ!(無礼な振る舞いに怒り、震えながら指をさす)』っていうから、僕、もう一回チィーッス!」って言ったの(笑)」
信じられないといった表情で口をパクパクさせた若山さん。慎吾さんは気付かずそのままご飯を食べに行ってしまったから、さあ大変。そのあと、撮影所の特別室に呼び出されます。
若山富三郎の伝説③ 借金王で山口組3代目・田岡一雄からも借金していた
映画黄金期に活躍したスターということで、遊び方も豪快だった若山富三郎さんは、本人は下戸だったものの、取り巻きを遊ばせるために撮影が終わると夜の街に繰り出す毎日だったとか。
その他にも、自分が主演の撮影現場では出演者やスタッフ全員の弁当を差し入れたりと、気前の良さでは定評があった若山さんは、知り合いからお金の相談をされると、証文も取らずにお金を渡してしまうことが度々あったと言われております。
そんな散財ぶりが祟って借金まみれだったという若山さんは、「ロック座」社長の齋藤智恵子さんや山口組3代目組長・田岡一雄さんから借りたお金を踏み倒したことまであったそうですね。
若山富三郎の伝説④ 個人事務所は女だらけだった
昭和のスターということで女癖も悪かったという若山富三郎さんは、個人事務所である「若山企画」のスタッフが女性ばかりだった時代もありました。
当時の「若山企画」には、50代の女性社長から女優志望の内弟子、身の回りの世話するお手伝いさんなど5~6名の女性がいたそうですが、そのほとんどが若山さんの愛人だったとか。
そのため、「若山企画」に所属していた長男・若山騎一郎さんは、愛人たちから父親との生々しい性事情を聞かさせることも少なくなかったようで、すっかり参ってしまっていたそうですね。
「“私、お風呂出たあとの先生の体を拭いているんだけど、そのときわかるのよね、今日(肉体関係が)あるか、ないか”なんて言ってくる人もいました。それを聞いて私は“オヤジ、体を拭かせてるのか!”“なんでそんなことを息子に言うんだ!”とか思いましたね。当然、女性同士の嫉妬とかいざこざがあって、それも私が仲裁して、父の尻拭いをしているようなものでした。普通は親が子供の尻拭いをするんでしょうに」
若山富三郎の伝説⑤ 大のマリオ好きだった
気難しい性格だった若山富三郎さんですが、意外にもテレビゲーム好きだったようで、「スーパーマリオブラザーズ」シリーズの大ファンだったそうですね。
腱鞘炎になってまで「スーパーマリオブラーズ」をやり込んでいたという若山さんは、自ら賞金を用意して「若山企画」内でゲーム大会を開催したことまであったとか。
そんな若山さんのゲーム熱は留まるところを知らず、「スーパーマリオブラザーズ2」が発売された直後は、一刻も早くクリアをしようと仕事を休んだことまでありました。
若山富三郎の死因とは?…糖尿病や心筋梗塞で体はボロボロだった
下戸だったものの甘党だった若山富三郎さんに関しては、好物の羊羹や大福を食べ過ぎたせいか、糖尿病を患っていたそうですね。
とはいえ、医者の言いつけを守ることもなく病後も不摂生な生活を続けていたという若山さんは、1984年には心筋梗塞で倒れ入院し、バイパス手術を受ける羽目になってしまったとか。
それでも生活習慣を改めなかった若山さんは、1990年には腎機能障害まで併殺し週3回の人工透析を受けるなど体がボロボロになってしまった他、1992年2月にはペースメーカーを埋め込むほどに心臓の状態が悪化してしまいます。
そんな若山さんの最期は、1992年4月に、自宅に勝新太郎さん夫妻や女優の清川虹子さんを招き食事会を開催していたところ、急性心不全を起こして亡くなってしまうことになりました。
会話が大いに盛り上がった食事後、若山は闘病生活を公私ともに支えていたマネジャーの水谷亜希子さんに麻雀卓の用意を指示した。しかし、元気いっぱいに見えていた若山の体が突然グラリと揺れ、隣の清川に崩れ落ちた。すでに意識はなく真っ青。直前まで元気だったため、勝夫妻も清川も最初は冗談かと思ったほど。救急車の中では勝が人工呼吸を繰り返すなどしたが、意識は戻らず、心臓はほとんど停止状態。
若山富三郎についてまとめてみると…
ハリウッド映画にも出演した名優だった若山富三郎さんですが、不摂生が原因で体がボロボロになってしまった結果、62歳の若さで亡くなってしまったことになります。
若山さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。