東日本大震災によって被害を受けた大川小学校ですが、生存者は教師ただ一人でした。そして、この大川小学校の被害は教師に責任があったのではないかと被害者遺族と学校側が裁判になっているのです。
今回は大川小学校の悲劇に関する情報を詳しくまとめてみました。
この記事の目次
津波襲来「大川小学校の悲劇」~死亡者は児童74人、教職員10人
「大川小学校の悲劇」東日本大震災の津波が小学校を飲み込んだ
2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う津波が三陸海岸・追波湾の湾奥にある新北上川を遡上し河口から約5kmの距離にある学校を襲い、校庭にいた児童78名中74名と、教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡、さらにスクールバスの運転手も死亡してしまいました。
学校の管理下にある子どもが犠牲になった事件・事故としては戦後最悪の惨事となります。
現在難を逃れた児童22名は新学期より、約10km離れた石巻市立飯野川第一小学校へ通学していましたが、2014年からは石巻市立二俣小学校敷地内の仮設校舎に移転しています。
当初は校舎も新たに建て直す予定でしたが、のちに児童数減少のため二俣小へ統合することになります。
大川小には、犠牲者を慰霊するために制作された母子像が設置され、2011年10月23日に除幕式が行われました。
制作された母子像
また2016年3月、石巻市は被災した大川小学校の旧校舎を存置という形でその全体を保存することとなりますが、遺族の中には「校舎を見たくない」という意見もあるため周辺を公園化して植栽などで囲むことが検討されています。
「大川小学校の悲劇」問題となった学校側の対応
「大川小学校の悲劇」学校側の初動対応の遅れ
本震直後、校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもありましたが、教師らは児童を校庭に集めて点呼を取り全員の安否を確認したのちに、避難先について議論を始めました。
学校南側の裏山に逃げた児童たちもいたが、教諭に「戻れ!」と怒られ、連れ戻されてしまいます。
校庭のすぐそばには裏山を登るための緩やかな傾斜が存在し、児童らにとってシイタケ栽培の学習でなじみ深い場所である裏山は有力な避難場所であったが、悪天候により足場が悪いことなどから、登って避難するには問題があるとされていました。
教職員の間では、裏山へ逃げるという意見と、校庭にとどまり続けるという意見が対立し、避難所でもある小学校にすでに避難してきていた老人がいることから、裏山ではなく、約200m西側にある周囲の堤防より小高くなっていた新北上大橋のたもとの三角地帯へ避難するという案も上がっていたそうです。
市教委の報告書によれば「教頭は「山に上がらせてくれ」と言ったが、釜谷区長さんは「ここまで来るはずがないから、三角地帯に行こう」と言って、けんかみたいにもめていた」という情報もあります。
この議論の間、20家族ほどの保護者が児童を迎えに来て、名簿に名前を書き帰宅した親や、大津波警報が出ていることを報告した親もいました。
「大川小学校の悲劇」誤った避難場所へ児童を誘導した教師
教師たちは「学校のほうが安全」「帰らないように」「逃げないほうがいい」などと言い、逆に保護者達を引き留めたそうです。しかし、実際に引き留めに応じ、死亡してしまった母親が、15時29分に「子どもと学校にいます。」と夫に向けてメールを送っています。
また、山に逃げたものの連れ戻された児童らが「津波が来るから山へ逃げよう」「地割れが起きる」「ここにいたら死ぬ」と教師に泣きながら訴えている光景が、このときの保護者達により目撃されています。
最終的に三角地帯に避難することになり、教職員と児童らは地震発生から40分以上たってから移動を開始しはじめます。
児童らが県道に出た直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方からのみ込んでしまい、列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて裏山を駆け上がり、一部は助かるものの、迫りくる津波を目撃して腰を抜かし、地面に座り込んで避難できない児童もなどもいました。
そして、実際家族が車で迎えに出向き、独自に避難した児童は助かったのです。
避難先として選定した三角地帯も標高不足で津波に呑み込まれており避難が完了していても被害は避けられなかったと見られています。当時得られた情報から想定を超える規模の津波の到達を予見できたか否かは、後に起こされた民事訴訟で争点となりました。
「大川小学校の悲劇」被害者遺族と学校側は裁判へ
「大川小学校の悲劇」被害者児童の保護者と学校側で裁判にまで発展
被害に関して学校側の対応への問題視などもあり、被害者遺族側と学校側は裁判になってしまいます。
地震発生から津波到達まで50分間の時間があったにもかかわらず、最高責任者の校長不在下での判断指揮系統が不明確なまま、すぐに避難行動をせず校庭に児童を座らせて点呼を取る、避難先についてその場で議論を始めるなど学校側の対応を疑問視する声は圧倒的に多かったようです。
普段から避難に関する教育を徹底し、児童らだけの自主的避難により99.8%が無事だった釜石の全小中学校や、地震直後より全員高台に避難させ在校児童が全員無事だった門脇小学校と対照的とされ、教師に落ち度があったのではないかとされています。
また、宮城県が2004年3月に策定した第3次地震被害想定調査による津波浸水域予測図では、津波は海岸から最大で3km程度内陸に入るとされ、大川小学校には津波は到達しないとされていました。
そのため大川小自体が避難先とされていたケースもあり、実際に地震の直後高齢者を含む近所の住民が大川小学校に避難してきています。
石巻市教育委員会は2010年2月、各校に津波に対応するマニュアル策定を指示していますが、被災後の議論で教育委員会は、学校の危機管理マニュアルに津波を想定した2次避難先が明記されていなかった点で責任があると認め、父母らに謝罪しています。
また、2011年4月9日の説明会で、唯一の生存者である教師が、裏山に「倒木があった」と証言し、同年6月4日夜の説明会で、石巻市教育委員会は、前述の証言を「倒木があったように見えた」と訂正し、裏山へ避難しなかった理由を、津波が校庭まで来ると想定していなかった事に加え、余震による山崩れや倒木の恐れがあったためと説明しました。
これを機に2012年12月には大川小の惨事を検証する第三者検証委員会が設置され、2013年7月の中間報告で調査委員は、大川小の「地震発生時の危機管理マニュアル」に「第1次避難」は「校庭等」、「第2次避難」は「近隣の空き地・公園等」と記載があるのみで具体的場所の記載が無かったことを指摘したものの、遺族からは既に判明している事柄ばかりで目新しい情報がない、生存者の聞き取り調査を行っていない、なぜ50分間逃げなかったのか言及がないなど不満が噴出しました。
2013年9月8日、石巻市教育委員会による遺族説明会が約10ヶ月ぶりに行われ、「話し合いを拒んできた理由を説明してほしい」など批判が相次いでしまいます。
そして2014年3月1日に「大川小学校事故検証報告書 最終報告書」が石巻市に提出されました。
こうした対応が遺族者から「おかしい」と指摘され、2014年3月10日、犠牲となった児童23人の遺族が宮城県と石巻市に対し、総額23億円の損害賠償を求める民事訴訟を仙台地方裁判所に起こしました。
「大川小学校の悲劇」裁判での遺族の主張
東日本大震災の大川小津波訴訟での遺族たちの主張は以下のようなものです。
・学校側の危機管理マニュアルが不十分で、安全対策を怠ったのではないか?
・児童を迎えにきた親やラジオから津波が襲ってくること予想出来たのではないか?
・スクールバスを利用する事も出来たはずなのに、児童を校庭で待機させ、避難が遅れたのではないか?
・避難先の三角地帯は、避難先とは言えなかったのではないか?
・事故後の学校側の対応など、遺族の心に傷を残したのではないか?
この5点が遺族側の主張でした。
「大川小学校の悲劇」裁判での流れ
最初の争点となったのは「予見可能性」についてです。訴えられた市や県では、大川地区への津波襲来の記録が過去になかったことや、当時の津波浸水予想図の予測では、大川小まで津波が来ないとされていて、現場の先生などが予測出来なかったということを主張しました。
他にも、教員たちが児童を校庭に待機させ、三角地帯に逃げようとした経緯についても、「もし裏庭に逃げたとしても、倒木などの危険があった」「情報収集は行っており、地域住民との協議の上で、三角地帯に逃げたのは間違いではなかった」と、市や県は主張しています。
提訴から二年半の訴訟を経て、三人の裁判官も東日本大震災の現地を視察しながら、児童達の避難ルートを確認したと言います。そして、2016年10月26日に仙台地裁は、学校側の過失の一部を認め、総額約14億3000万円の損害賠償を支払いを命じるという判決文を下しました。
この判決の中で
・教員らは津波の恐れがあるとの広報車の呼びかけで、ある程度津波は予測できたはず
・教員らは情報があったにも関わらず、児童の避難に遅れが生じたのは怠慢
・広報車の避難の呼び掛けから、7分以上もあったことから、時間の余裕はあったはず
・避難先に選んだ三角地帯は、標高が7M程しかなく、避難所として適切ではなかった
・裏山に避難していれば、津波から逃れられる高さも十分で、1分ほどで逃げることは可能
・避難に適した裏山を使わず、三角地帯を選んだのは、教員らによる過失である
という部分がポイントとなりました。しかし、その一方で遺族らの「事前の安全対策の不備」「市による事故後の対応の落ち度」の訴えは、退けられてしまいました。
「大川小学校の悲劇」市と県側の控訴
判決文が下された後、当時の市長は、津波の被害を防ぐことは不可能だったとし、控訴を決定します。
また当時の宮城県知事も、判決文は教員に対しての責任として重すぎるとの主張をし、今なら何とでも言えるが当時は三角地帯がベストの選択だった。と遺族の訴えを退けています。
そして3月29日に、控訴審の第1回口頭弁論が仙台高等裁判所にて開かれます。遺族ら6人が意見陳述をし、原告側と被告側の意見や主張が確認され、市と県は、広報車の情報を教員が知りえたかは疑問と主張しました。
さらには、東日本大震災が起きた当時、裏山は倒木などの恐れがあり、三角地帯に逃げたことは適切だったと、改めて主張しました。
これに対して遺族側は東日本大震災が起きた時校長らの教員は、裏山に逃げることを検討していたことなどから、津波予想は充分出来たはずと反論し、第1回口頭弁論で当時の仙台高裁の小川浩裁判長は、求釈明を出します。
遺族側には、通常時でのリスクマネジメントで、当時の市や県側の具体的な例などを求め、市や県には危機管理マニュアルの作成について、各校がどのように具体的に対応してきたかの具体例を求めました。
「大川小学校の悲劇」控訴審での争点
「学校保健安全法」の第29条では、危機管理マニュアルの作成と訓練の実施などが定められていますが、事前の安全対策の不備などの遺族側の訴えは、仙台地裁で退けられました。
控訴審では重要な論点として、この第29条を挙げ、事前の対応が適切だったかどうかなども判断される可能性が出てきました。
大川小津波訴訟の争点としては大きく分けて3つです。
一つ目は「津波到達を予見できたかどうかということ」ですが、これは遺族側は予想できたはずという意見、しかし国側は過去にも到達したことがなかった為当時得られた情報の中から、津波を予想するのは困難だったと主張しています。
二つ目は「震災当日の避難行動」です。遺族側はしっかりと情報収集を行わずに、児童を長時間校庭に待機させた上に、津波が来てもおかしくない三角地帯に児童を避難させたのは過失ではないか?と訴えています。
これについて国側は適切な避難場所とされる裏山は、倒木などの危険があり、住民らと協議のうえで、三角地帯に避難したこと自体は過失ではないと訴えました。
三つ目は「結果回避義務違反の有無」です。遺族らの主張は裏山に避難したり、スクールバスを使えば、避難することは可能だったと主張していますが、国側は津波を予見してから避難する時間までの猶予はなく、避難は困難で、結果は回避できなかったと反論しました。
「大川小学校の悲劇」遺族側はデモ行進まで
大川小津波裁判での控訴が決まり、納得いかなかった遺族は横断幕を持ってデモ行進をしたり、マスメディアを利用して、控訴を阻止する働きかけを行ってしまいます。
このデモでは「先生の言うことを聞いていたのに!」という横断幕までつけられ、全てを教師の責任にするようななすりつけの部分も感じられます。
大川小の件、遺族の方々にイマイチ共感を持てないの、あの圧倒的にセンスが悪い横断幕のせいだと思う。
— たけのこぽこぽこ (@mayabashimusume) 2016年10月27日
遺族の方たちの無念とか怒りとか悩みとかそういうの察しはつくんだけど、あの横断幕見ると、葬式デモとか子連れデモとかそういうの連想しちゃって醒めちゃう。
実際にネット上ではこのようにデモを行った遺族に対して批判の声もあがりました。
「大川小学校の悲劇」唯一の生存者である教師の発言に矛盾?
「大川小学校の悲劇」津波と逆方向に逃げ助かった男性教師
そして、本来の避難場所である裏山に生徒1人または2人と逃げたといわれています。
大川小津波訴訟の控訴審では、市と県は、唯一生き残った男性教諭の書面での尋問を申請しました。
被告である市や県は、合同準備書面での危機管理マニュアルは、努力義務に留まると主張した上で、マニュアルに不備はなかったことも主張します。
一方遺族らの原告側は、校長などに対して、津波から児童を守るためのマニュアルを整備する義務を怠ったと、再び訴えました。
更には原告側は、マニュアルが不十分であったとしても、避難をすることは出来たはずと訴えました。
遺族側は、生存教諭の尋問については、申請が出てから判断するとしました。
そんな生存者の教師に注目もいく部分ですが、ここでまた問題が起こり、石巻市教育委員会の聴取結果と生き残り教師や生徒の証言が食い違っているのです。
しかもこの生き残り教師は、石巻市教育委員会や県から匿われており、保護者やマスコミから遠ざけているそうです。
そんな教師は保護者宛てに手紙を書いていますが、書いてあったことは子どもを守れなかったことへの謝罪と東日本大震災の悲劇の状況などでした。
また、教頭に裏山へ逃げることを提案したこと、教頭から何も返事がなかったこと、せめて学校の2階はどうかと見に行ったこと、見に行って戻ったら橋のたもとへ移動開始していたこと、裏山へ避難しようと強く言えなかったことが書いてあったそうです。
「大川小学校の悲劇」生存者を目撃した夫婦と食い違う教師の証言
更に当時の大川小の生存者の様子を見ていたという夫妻がおり、その夫妻も生存者教師の言っていることは嘘だと言っているのです。
「A先生の報告書は、最初から全部嘘なんです。だいたい9割方は嘘だから。なんで嘘ついたんだかは、わかんないですけども」
引用:唯一生存した男性教諭の報告に大きな矛盾!?大津波後の大川小生存者を見た夫妻の証言 | 大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~ | ダイヤモンド・オンライン
生き残り教師の話では、津波の波をかぶり小学生を助けたという話もありますが、このある夫妻はそれも嘘だと言っています。津波をかぶったはずのこの教師の背広は当時濡れてもいなかったそうです。
このようにこの教師の嘘の発言や報告などに関してもこの先どうなっていくか気になるところです。
「大川小学校の悲劇」校長に対しては賛否両論の意見
「大川小学校の悲劇」当時の校長は年休で学校にいなかった
今回のこの裁判を通して校長を非難する人も少なくはありません。そもそも校長は被災当時に年休を取っており、被災することもありませんでした。
実際遺族側は学校側に責任があると指摘しているのでもちろん校長に非難がいきますが、校長への非難に関しては賛否両論の意見があるようです。
特に一学校の校長に怒りの、批判の矛先を向けるのはいかがなものか。
本来なら「無事で良かったですね」と声をかけら得るべき一個人のはずだ。家族は本心「無事でよかった。運が良かった」と思っているはずだ。でも、そんなことはとても口にできる状況ではないはずだ。「針のむしろ」という言葉があるが、校長とその家族の今の心境は「針の・・」どころか「生き地獄」ではないだろうか。
残酷な話である。
全体の責任と言えば、要するに無責任になってしまう。だから、学校なら、管理職として校長に責任を取らせることになっている。
安全避難マニュアルを策定していなかったのは、校長柏葉照幸の落ち度であり、糾弾されるべきである。
さらに、校長不在時の対応を決めていなかったのは愚劣。退職金没収がふさわしい。
このように校長に対しては様々な意見があるようです。
「大川小学校の悲劇」現在も裁判は継続中
「大川小学校の悲劇」石巻市議会が上告を可決
大川小津波訴訟は現在も係争中で、2018年5月8日には石巻市議会は上告することを可決しました。
東日本大震災の津波で死亡・行方不明になった石巻市大川小の児童23人の19遺族が市と宮城県に約23億円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決を巡り、市議会(定数30)は8日、臨時会を開き、市が提出した上告提起の関連2議案を賛成16、反対12(欠席1)で可決した。市は期限の10日までに上告する。
上告の理由として石巻市長は、
上告理由について、亀山紘市長は本会議で「河川堤防が損壊し、浸水予測区域外の学校に津波が襲来することを予見するのは、防災や堤防の専門家でない校長らには不可能」と指摘。「(仙台高裁判決が)市教委や大川小の校長らに求める内容は、震災を経験した現在でも実現困難なものが含まれる」と主張した。
今後も続く裁判の行方にも注目です。
「大川小学校の悲劇」について総まとめすると…
・大川小学校の亡くなった生徒の保護者は当時の教師の行動を問題視し、学校側を相手取り訴訟を起こした。
・大川小学校の津波被害の唯一の生存者は教師1人であり、証言が目撃者と食い違っているといわれている。
・大川小学校の津波訴訟は現在も係争中で、2018年5月8日には石巻市議会で上告することを可決した。
石巻市は一貫して「津波想定はできなかった」と反論しています。ただ、真実は「なぜ大川小学校の1校だけが甚大な被害を出したのか?」につきるでしょう。
今でも続いている裁判ですが、当日は指揮決定者の校長がたまたま年休だったこともあり、教師たちの初動が遅れたことは確かです。
この悲しく重い教訓を生かして、学校防災について考えてもらいたいですね。
裁判の行方に注目です。