戦後の時代から活躍されていた名俳優・宝田明さんが2022年3月に死去されました。
この記事では宝田明さんの身長や若い頃の画像や活躍、壮絶な戦争体験、父や兄などの家族、2度の結婚と嫁、息子や娘などの子供、晩年の活動や死因などについてまとめました。
この記事の目次
- 宝田明のプロフィール
- 宝田明の身長は183cmだが若い頃は低く公称していた
- 宝田明の若い頃① 日本統治下の朝鮮半島に生まれ満州国で育つ
- 宝田明の若い頃② 19歳の時に東宝ニューフェイスに選ばれ俳優デビュー
- 宝田明の若い頃③ 第一作目をはじめ「ゴジラ」シリーズに多数出演
- 宝田明の若い頃④ 香港や台湾などアジア地域でも人気に
- 宝田明の若い頃⑤ ミュージカル俳優の草分け的存在として活躍
- 宝田明は晩年まで壮絶で悲惨な戦争体験を語り平和の尊さを説いていた
- 宝田明の家族① 父親は朝鮮鉄道や満州鉄道の技師だった
- 宝田明の家族② 兄が3人、姉が1人、弟が1人の6人きょうだい
- 宝田明の家族③ 3番目の兄は敗戦時満州に置き去りにされるも自力で生還
- 宝田明の家族④ 結婚歴2度で1度目の嫁は元ミス・ユニバースの児島明子
- 宝田明の家族⑤ 2度目の結婚の嫁は不倫相手として騒がれた将未さん
- 宝田明の子供① 娘は歌手の児島未散
- 宝田明の子供② 息子も2人いる
- 宝田明の死因は誤嚥性肺炎で晩年は入退院を繰り返していた
- まとめ
宝田明のプロフィール
宝田明のプロフィール
本名 :寶田明(読みは同じ)
生年月日:1934年4月29日
没年月日:2022年3月14日(享年87歳)
出身地 :朝鮮・咸鏡北道清津
身長 :183cm
血液型 :O型
宝田明(たからだ・あきら)さんは、戦後の時代から活躍されていた俳優で、特撮映画の金字塔である「ゴジラ」の第1作目への主演や、日本におけるミュージカル俳優の草分け的存在として活躍された事などで知られています。
晩年は俳優活動と並行して、自らの戦争体験をもとに、平和の尊さを説く活動にも力を入れられていました。
そんな宝田明さんですが2022年3月14日に87歳で亡くなられました。ここでは改めて宝田明さんの若い頃の経歴や画像、壮絶な戦争体験や生き別れになった兄などの家族などを中心にまとめていきます。
宝田明の身長は183cmだが若い頃は低く公称していた
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宝田明さんの実際の身長は「183cm」です。これは2011年に宝田明さん本人が「徹子の部屋」に出演された際に明かされた数値で間違いありません。
宝田明さんの若い頃、当時183cmというのは稀に見る高身長でしたが、宝田輝さんは人に会うたびに「身長が大きいですね」と驚かれるのが嫌で、数cmほど身長を低く「五尺九寸(178cm)です」と答えられていたのだそうです。
宝田明の若い頃① 日本統治下の朝鮮半島に生まれ満州国で育つ
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宝田明さんの若い頃の経歴や画像などを紹介していきます。
宝田明さんは1934年、日本統治下の朝鮮半島に生まれました。宝田明さんの父親は鉄道技師で、朝鮮総督府鉄道に勤務し次いで南満州鉄道で働きました。宝田家は武家の出で越後国村上藩藩士の末裔だった祖父は朝鮮総督府の海軍武官でした。
宝田明さんは2歳の時に父親の満州鉄道への転勤に伴って満州国へと家族で移り、満州の中心都市で当時はアジアのパリとも呼ばれたハルビンで育っています。
幼い頃の宝田明さんは、漢民族、朝鮮族、蒙古族、満洲族、ロシア革命から逃げてきた白系ロシア人など、様々な民族、人種の人々と日常的に接しながら成長し、この時に自然と国際性が身につき、人気俳優となってからのアジア圏での人気にもつながりました。
宝田明さんは、1945年の日本の敗戦も満州国で迎え、ソ連軍の侵攻から逃げて12歳の時に家族と引き揚げ船に乗り、父親の本籍地である新潟県岩船郡村上本町(現在の村上市)へと移っています。この時に2歳上の兄(3番目の兄)は行方がわからずに満州に置き去りにされ、生き別れになっています。(宝田明さんの兄や戦争体験については後述)
帰国後の宝田明さんと家族は、寶田家の菩提寺である笠原山善行寺に身を寄せ、四畳半の一間で2年間暮らしています。宝田明さんはそこから村上本町国民学校へと通いました。
その後は村上中学校を経て、上京して東京都立豊島高等学校へと入学されています。(見出し最初の画像の前列中央のイケメンが高校時代の宝田明さん)
宝田明の若い頃② 19歳の時に東宝ニューフェイスに選ばれ俳優デビュー
高校生の頃から高身長のイケメンで知られていた宝田明さんは、豊島高校に出入りしていた写真店の店主に東宝ニューフェイスへの挑戦を勧められ、高校卒業後に東宝ニューフェイスに応募されています。
若い頃の宝田明さんは、あがり症な一面もあったようで、最初の審査で東宝の撮影所を訪れたときは、緊張のあまりに動けなくなって長い間ベンチでうずくまってしまい、それを見かねた守衛さんに「君、受験に来たんじゃないの?」と声をかけられて、背中を押される形でようやく中に入る事ができたのだそうです。
そして、宝田明さんは東宝ニューフェイス第6期生として1953年に俳優生活をスタートさせました。その年の映画「かくて自由の鐘は鳴る」で銀幕デビューを果たしています。
宝田明の若い頃③ 第一作目をはじめ「ゴジラ」シリーズに多数出演
宝田明さんは、俳優としてデビューした翌年の1954年に特撮映画の金字塔となる「ゴジラ」シリーズの第一作目「ゴジラ」の主人公・尾形秀人役に抜擢されました。
この「ゴジラ」の大ヒットをきっかけにして、宝田明さんは高身長で美形の2枚目俳優として人気を急上昇させ、全盛期の東宝の若手の映画トップスターとも評されるようになります。
若い頃の宝田明さんは、ゴジラの翌年の1955年8月に公開された「獣人雪男」にも主演しています。
宝田明さんは、「ゴジラ」と「獣人雪男」以降は約10年ほど特撮作品からは遠ざかり、「青い果実」、「美貌の都」(準主演)、「サラリーマン出世太閤記」シリーズ、「わが胸に虹は消えず」(主演)、「大学の侍たち」、「青い山脈」(主演)、「暗黒街の顔役」、「小早川家の秋」(小津安二郎監督作品)、「放浪記」などの東宝映画の名作に数多く出演されました。
そして、1964年公開の「モスラ対ゴジラ」で再びゴジラシリーズの映画に主演として復帰すると、立て続けに「怪獣大戦争」、「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」にも出演されています。
複数の「ゴジラ」シリーズの大ヒット作に主演し、日本の特撮映画を代表するスターとも評された宝田明さんは、時を経て、平成ゴジラシリーズの「ゴジラvsモスラ」(1992年)、「ゴジラ FINAL WARS」(2004年)にも出演し、往年のゴジラファンの間でも話題を呼びました。
また、2014年のハリウッド映画「GODZILLA ゴジラ」にも宝田明さんは日本の入国審査官の役でカメオ出演する予定で実際に撮影も行われていますが、残念ながらこのシーンは未公開となっています。宝田明さんはこの、未公開になってしまったエピソードもよくテレビ出演時などに話題にされていました。
宝田明の若い頃④ 香港や台湾などアジア地域でも人気に
「ゴジラ」シリーズのイメージが強い宝田明さんですが、若い頃は台湾や香港などのアジア圏でも絶大な人気を誇り、国際派俳優としても高い評価を得ていました。
1960年代には、香港のキャセイ・フィルムと東宝が合作映画を多数発表し、宝田明さんは香港の人気女優・尤敏(ユー・ミン)さんと共に「香港の夜 A Night in Hongkong」(1961年)、「香港の星 Star of Hongkong」(1962年)、「ホノルル・東京・香港 Honolulu-Tokyo-Hongkong」(1963年)に主演しています。
この香港シリーズを通じて、宝田明さんはアジア・中華圏で絶大な人気を獲得しました。
この香港シリーズで共演した尤敏(ユー・ミン)さんは香港のスター女優でしたが、共演を通じて宝田明さんに好意を抱き、自身がマカオのカジノ王の御曹司であるエリック・コーという男性に結婚を申し込まれた際に大いに悩んだ末、宝田明さんに「私と結婚してくれますか?」と逆プロポーズをしたというエピソードが知られています。
宝田明さんは尤敏さんからのプロポーズを「富豪であるエリック・コーと結婚した方が良い」と勧めて断ったのだそうです。これが原因となって、香港シリーズの4作目の製作は取りやめ(4作目のポスターも刷り上がり製作が決まっていた)となったそうで、尤敏さんは1964年にコーさんと結婚して女優業を引退されています。
宝田明の若い頃⑤ ミュージカル俳優の草分け的存在として活躍
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日本の映画産業が下火になった頃から、宝田明さんはミュージカルの世界にも進出して新境地を開きました。
宝田明さんは1964年に公演のブロードウェイ・ミュージカル「アニーよ銃を取れ」の日本版に江利チエミさんと主演して芸術祭奨励賞を受賞。以降、宝田明さんはミュージカル俳優として人気を上げ、「日本のミュージカル俳優の草分け的存在」とも評されました。
宝田明さんはミュージカル作品では、「南太平洋」、「サウンド・オブ・ミュージック」、「風と共に去りぬ」(レット・バトラー役)、「マイ・フェア・レディ」(ヒギンズ教授役)など数多くの作品に出演し、第6回紀伊国屋演劇賞、 第10回ゴールデンアロー賞など数々の賞を受賞。当時の日本にはまだ人気のある男性のミュージカル俳優は少なく、宝田明さんはミュージカル主演俳優として不動の地位を築きました。
宝田明さんは1980年には、日本国内初となるミュージカル俳優養成学校「宝田芸術学園」を東京都中野区江古田に開校されています。この宝田芸術学園は1983年5月で閉校となりましたが、卒業生は演劇の世界などで活躍されている方も多く、現在も同窓会も開かれているようです。
宝田明さんも存命されていた頃には、宝田芸術学園の同窓会にも顔を出されていたようです。
宝田明さんはその後も晩年までミュージカル俳優として活躍し、「Big」、「タイタニック」(スミス船長役)、「ピーターパン」(フック船長役)、「ファンタスティックス」(エル・ガヨ役で文化庁芸術祭大衆芸能部門大賞を受賞)、「葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜」(ルーク医師役)、「34丁目の奇跡〜Here’s Love〜」(クリス・クリングル役)、「ミー&マイガール」(ジョン男爵役)、「Mr.レディ Mr.マダム」(ジョルジュ役)など多数の作品に出演されていました。
宝田明は晩年まで壮絶で悲惨な戦争体験を語り平和の尊さを説いていた
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宝田明さんは、日本統治時代の朝鮮半島で生まれて、満州国で育ちました。1945年の日本が太平洋戦争に敗戦した時にはソ連軍が満州国に侵攻し悲惨な体験をされています。
晩年の宝田明さんは、この時の戦争体験をもとに全国各地での講演活動やメディアによるインタビューなどで平和の尊さを説く活動を精力的に展開されていました。
宝田明の戦争体験① 子供時代は典型的な軍国少年だった
宝田明さんの語った戦争体験によると、宝田明さんは戦時中(日中戦争や太平洋戦争時)は典型的な軍国少年だったそうで、大人になったら関東軍(満州に駐屯しソ連国境の防備にあたっていた旧陸軍の精鋭部隊)に入って、日本の北方を守備する防波堤になりたいと当たり前のように考えていたそうです。
しかし、1945年に入ると当時小学生であった宝田明さんも日本の戦況の悪化を肌で感じられるようになり、出征していた上の兄2人や、遠方で働いていた姉の身を案じたそうです。
そして、1945年8月15日、宝田明さんは家族と共に、日本の敗戦を告げる玉音放送を満州国の大都市ハルビンの自宅で聴いたそうです。
母親はがっくりと崩れ落ち、父親が「終わったな」と呟いたのを聞いた少年時代の宝田明さんは「どうしたの?負けたの?嘘だよね!」と父親に食ってかかったそうです。
宝田明の戦争体験② ソ連軍侵攻後の満州で数々の悲惨で凄惨な体験をする
日本の敗戦が明らかになってすぐに、満州国境を超えてソ連軍が侵攻してきました。頼りにしていた関東軍は頑強な抵抗を示したごく一部の部隊を除いて真っ先に撤退し、役人や警察官も我先にと逃げ出し、宝田明さんや家族ら一般市民は無政府状態となった満州国に取り残されました。
満州国を占領状態に置いたソ連軍は、暴虐・略奪の限りを尽くし、婦女子に対する凌辱、暴力行為までもが行われました。
宝田明さんはある日、自宅の部屋の窓から道を1人で歩いていた女性が、2人のソ連兵に捕まって路地裏に無理やり引きづられていく場面を目撃したそうです。女性は助けを求めて叫び声を上げましたが、ソ連兵が持っていた短機関銃を恐れ、助けに行く者はいませんでした。
宝田明さんは、無我夢中で交番へと向かいますが、すでに日本人の警察官はおらず、そこにはソ連軍の憲兵が在駐していました。宝田明さんはこのソ連軍の憲兵にロシア語で「将校さん、お願いです!」と必死に懇願し、どうにか現場へと連れて行ったそうです。
しかし、既に女性は下半身の衣服を剥ぎ取られて辱めを受けた後だったそうです。宝田明さんはこうした一般の市民が、それも女性が犠牲になる悲惨で理不尽な戦争体験によって「ソ連兵が憎い」という気持ちを強く持つようになったそうです。
宝田明の戦争体験③ ソ連兵の銃撃を受けて腹部に大怪我を負う
そしてそんなある日、宝田明さんはハルビン駅から2分ほどの場所に停車していた列車の中に、シベリアに抑留されていく大勢の日本兵捕虜の姿を見つけたそうです。
宝田明さんは、出征していた上の兄2人の姿がその中にあるのではないかと思い、咄嗟に近づいて行ったそうです。すると、列車の中にいた日本兵達が口々に「来るな!帰れ!戻れ!」と手を振りながら叫んだそうです。これは中の日本兵達が、子供であろうと不用意に近づけばソ連兵からの発砲を受ける事を知っていたため、警告のために叫んでくれたのでした。
そしてその直後、警備に当たっていたソ連兵が、宝田明さんに向けて機関銃を発砲しました。宝田明さんは無我夢中で自宅へと逃げ戻ったそうですが、帰ったところでお腹のあたりが熱くなっている事に気がつき、服を脱いでみると右腹部あたりに銃撃を受けて、下腹部が出血で真っ赤に染まっていたのだそうです。
腹部には銃弾が残っており、2、3日すると傷がどんどんと化膿してきたそうです。そこで近所の軍医さんの元で、火で炙った裁ちばさみで傷口を十文字に切り開いて銃弾を摘出してもらったそうです。物資は欠乏していて麻酔はなく、ベッドに縛り付けられての手術だったという事です。宝田明さんはあまりの激痛に大声を上げたという事でしたが、失神する事なく耐えられたそうです。
摘出された銃弾は、国際法で使用が禁止されている「ダムダム弾」というもので、摘出していなければ傷口が化膿して死んでいただろうと宝田明さんは後に語られています。
宝田明の戦争体験④ 終戦1年後に最後の引き揚げ船で帰国も兄姉とは生き別れに
こうした戦争体験から、宝田明さんはソ連に対する怒りの感情が強く残ったそうで、ソ連が作ったどんな芸術作品を観ても、吐き気を催すほどの嫌悪感を抱いてしまい、どうしても感動する事ができなかったのだそうです。
銃撃をうけた怪我が治った後、宝田明さんは自分が家族を支えなければと、ソ連兵相手の靴磨きや専売公社から仕入れたタバコの転売などで金を稼いで家計を助けた生き延びたそうです。
終戦から約1年を満州で家族と生き延びた後、1946年に最後の引き揚げ船に乗って、両親と弟と4人だけで帰国しています。(長兄と次兄は出征したまま行方が分からず、三兄もソ連兵に連行され行方不明、姉は牡丹江に働きに出たまま音信不通だった)
宝田明さんはこうした自身の戦争体験を晩年まで語られていました。
宝田明の家族① 父親は朝鮮鉄道や満州鉄道の技師だった
既に触れているように宝田明さんの父親は、鉄道技師(エンジニア)で、朝鮮鉄道や満州鉄道などに勤務されていました。祖父は武士の家の出身で、朝鮮総督府で海軍武官を務めており、その勧めもあって若い頃に挑戦へと渡って朝鮮鉄道に勤め技師になったという事です。
宝田明さんは朝鮮で生まれ、2歳の時に父の満州鉄道への転勤に伴って家族でハルビンに移住し、そこで12歳まで育っています。
宝田明の家族② 兄が3人、姉が1人、弟が1人の6人きょうだい
宝田明さんは兄が3人、姉が1人、弟が1人の6人きょうだいでした。
長兄と次兄は徴兵で出征し、長兄は23歳で戦死 次兄は戦死したとも復員したとも言われています。(宝田明さん本人のインタビューでも次兄については、戦死と語っている時と復員したと語っている時の両方がありはっきりしない)
姉は終戦時、牡丹江(満州国東部の都市)で働いていて終戦時にそのまま行方不明となり、1956年に北朝鮮から帰国しています。
三兄は、日本の敗戦時にも家族と共にいましたが、ソ連が求めた強制労働に行ったまま行方不明になり宝田明さんの家族の帰国により生き別れとなりました。
宝田明さんの三兄については次の見出しで紹介します。
宝田明の家族③ 3番目の兄は敗戦時満州に置き去りにされるも自力で生還
宝田明さんの三兄は、宝田明さんの2歳か3歳上で、日本の敗戦後に満州を占領したソ連軍の求めた強制労働に赴いたまま行方不明になりました。
その後、宝田明さんは家族(両親と弟)と共に、引き揚げ船に乗って日本に帰国します。三兄の事は家族も気にかけ、途中の駅ごとに「マサオ(三兄の名前)へ 私たちは新潟県岩船郡村上町のどこそこにいる」と書いた置き手紙を貼り付けたそうです。
後に、三兄はすぐ近くのソ連兵の宿舎に連れて行かれて働かされており、帰る事ができなかったのだそうです。
宝田明さんの家族は日本に帰国後は本籍地の新潟県村上で、菩提寺である笠原山善行寺に身を寄せて、四畳半の一間を借りて貧しい生活を送っていました。
それから程なくして、ぼたん雪の降るある寒い日の昼前、宝田明さんと母親が通りで魚を売っていると、軍隊の外套を羽織い、髪がボサボサに伸びて、靴には滑り止めに縄を巻いた異様な風体の男が近づいてきたそうです。
その男が役場の場所を尋ねてきたので、宝田明さんがその場所を教えると、男は「ありがとう」と言って、その道を行きかけますが、10メートルほど行ったところこちらを振り返り、じっとこちらを見つめてきたそうです。
宝田明さんが母親と「なんだか気味が悪いね」、「そうだね」などと話していると、若い男が引き返しておもむろに近づいていきたそうです。ここでようやく、宝田明さんと母親はこの男が生き別れになっていた三兄だと気がつきました。
三兄の第一声は「なんで俺を置いて行ったんだ」だったそうです。
宝田明さんの三兄は、自宅がもぬけの殻になっている事を知ると、重労働をしてわずかな食料とお金をもらいながら何ヶ月もかけてハルビンから南へと旅し、ようやく海が見えるところまで来ると、そこで再び何ヶ月も働いてお金を貯めて、密航船に金を渡してようやく日本へと帰ってくる事ができたそうです。
九州に上陸した三兄はひたすら東へと歩き、その日にようやく新潟県村上にたどり着いたという事でした。
宝田明さんの三兄はこうした辛い経験から人間不信のようになってしまい、すぐに家を出てどこかへ姿を眩ましてしまったのだそうです。
ただ、この三兄はずっと弟の宝田明さんの事を陰から見守ってくれていたそうで、近所の子供に託して百円札と「明、頑張れ。マサオより」と書いた手紙を送ってくれたそうです。また、俳優デビューをし「ゴジラ」に出演する少し前に百円札2枚と「明、よかったな。頑張れ」とだけ書いた手紙を同じように人に託して送ってくれたそうです。
その後、三兄が結婚する事を知った宝田明さんは両親に内緒で会いに行ったそうなのですが、久しぶりに会った三兄は北海道の炭鉱のタコ部屋で長く働いていたそうで、毎日叩かれたりして顔がミミズ腫れだらけだったそうです。
この三兄は最後は63歳の若さで亡くなったそうです。宝田明さんは後に、この兄の苦労を思うと今でも涙ぐんでしまうと語られていました。
宝田明の家族④ 結婚歴2度で1度目の嫁は元ミス・ユニバースの児島明子
宝田明の1度目の結婚の嫁・児島明子のプロフィール
生年月日:1936年10月29日
出身地 :東京府東京市世田谷区豪徳寺
身長 :167.6cm
宝田明さんは1966年4月29日の32歳の誕生日に1度目の結婚をされています。宝田明さんの1度目の結婚の嫁はミス・ユニバース世界大会の日本人・アジア人史上初の優勝者として知られる、ファッションモデルの児島明子さんで、結婚当時29歳でした。
宝田明さんと嫁の児島明子さんは、結婚から10年以上前の1954年頃に知り合い、1956年頃に児島明子さんが上京(児島明子さんは大阪でモデルの仕事をしていた)したのを機に、親しい交際に発展したそうです。
1959年に児島明子さんが「ミスユニバース」に輝いた頃、既にスター俳優として絶大な人気を得ていた宝田明さんが「彼女が好きだ、こんな自分についてきてくれるなら結婚したい」と発言。児島明子さんも「男性のお友達の中では一番親しくしています」とコメントし、さらにお互いの事務所も交際を認めて結婚に反対する理由はないとのコメントも出したため、当時のマスコミに結婚間近と騒がれました。
しかし、その後もしばらくは2人の関係は進展せず、児島明子さんが別の一般男性と婚約しその後破棄になるという騒動なども経て、1966年4月にようやく2人は結婚し3人の子供にも恵まれるなど、おしどり夫婦とも呼ばるようになりました。
宝田明の不倫により児島明子と結婚18年目に離婚
ところが、結婚10年目の1975年に宝田明さんの不倫スキャンダルが浮上します。
噂に上がったのは、ミュージカルでの共演で知り合ったという16歳年下の女優の将未(まさみ)さんという女性で、宝田明さんはこの将未さんを自分の個人事務所に移籍させています。
その後、将未さんは芸能界を引退し、宝田明さんが1980年に開校したミュージカル俳優養成学校「宝田芸術学園」で事務を務め、宝田明さんの秘書も担当するようになります。
ちょうどこの頃に、嫁の児島明子さんが子供達を連れて家を出たとの報道が流れ、宝田明さんも「離婚と書きたければ書いていいよ」と半ば別居を認める発言をされています。
そして、1984年1月に宝田明さんと嫁の児島明子さんの離婚が成立しました。
宝田明の家族⑤ 2度目の結婚の嫁は不倫相手として騒がれた将未さん
1度目の結婚の嫁の児島明子さんとの離婚成立から8ヶ月後の1984年9月、宝田明さんはこの不倫相手である将未さんと2度目の結婚をされています。
宝田明さんはこの2人目の嫁の将未さんとの夫婦仲は良好で、豪華客船での12日間の夫婦での船旅が話題になった事もありました。
宝田明さんと将未さんとの間には子供は生まれていません。
宝田明の子供① 娘は歌手の児島未散
宝田明の娘・児島未散のプロフィール
生年月日:1967年4月25日
出身地 :東京都
身長 :168cm
宝田明さんと最初の嫁の児島明子さんの1人目の子供は娘の児島未散(こじま・みちる)さんです。
宝田明さんの娘の児島未散さんは、ミュージカル俳優としての父・宝田明さんに憧れ、成城学園高校在学中の1985年に1stシングル「セプテンバー物語」で歌手としてデビューしました。
1990年の7thシングル「ジプシー」は、36万枚を売り上げるヒットを記録し、その後、1995年まで歌手として活躍。
女優としても活躍の幅を広げ、TBSドラマ「3年B組金八先生」の第4シリーズやスペシャル版に英語教師の岩崎恵役としてレギュラー出演しました。
その後はアメリカへと移住し芸能活動からは長らく離れられていましたが、2016年頃から歌手活動を再開し、現在もシンガーソングライターとして活動されています。
宝田明の子供② 息子も2人いる
出典:https://fujinkoron.ismcdn.jp/
宝田明さんと1人目の嫁の児島明子さんの子供には、娘の児島未散さんの後に生まれた息子さんが2人います。
宝田明さんの息子さん2人は芸能活動はされていない一般の方で、情報は公開されておらず不明です。
宝田明の死因は誤嚥性肺炎で晩年は入退院を繰り返していた
宝田明さんは2022年3月14日に87歳で亡くなりました。死因は「誤嚥性肺炎」と報じられています。
14日に死去したことが明らかになった俳優、宝田明さん(享年87)の死因が誤嚥性肺炎だったことが18日、分かった。
宝田明さんは晩年まで俳優として活躍されており、死去4日前の2022年3月10日には、乃木坂46の岩本蓮加さんとダブル主演した映画「世の中にたえて桜のなかりせば」の完成試写会にも出演し、腰痛が原因の車椅子姿ながらも元気な姿を見せていました。
ただ、関係者の話では、晩年の宝田明さんは入退院を繰り返しており、死去の前日の13日に容態が急変して東京都内の病院で亡くなられたという事でした。
複数の関係者によると近年、入退院を繰り返していたという。今月13日に容体が急変し、同日深夜から14日の未明ごろに亡くなったという情報もある。
葬儀は近親者のみの密葬で営まれ、喪主は嫁の将未さんが務められたという事です。
まとめ
今回は戦後の時代から俳優として活躍を続けられ、2022年3月に87歳で亡くなられた宝田明さんについてまとめてみました。
宝田明さんは身長183cmの2枚目俳優として、若い頃は東宝映画のスターとして「ゴジラ」をはじめ数多くの作品に出演されました。
生まれは日本統治時代の朝鮮半島で、日中戦争・太平洋戦争中の満州国で育っています。この頃に経験した壮絶な戦争体験を語る活動を晩年まで続けられており、平和の尊さを説かれていました。
家族は、鉄道技師だった父親と母親、兄が3人と姉が1人、弟が1人の6人きょうだいで、兄2人は戦争で死去、三兄も終戦後の引き揚げの際に生き別れとなりました。この三兄は苦労を重ねて独力で大陸から帰国されましたが、宝田明さんはこの兄の苦労を思うと、思わず涙ぐんでしまうと語るほど、この兄に対して同情の気持ちを強く持たれていたようです。
宝田明さんは、ミスユニバース世界王者の栄冠にアジア人として初めて輝いたモデルの児島明子さんと1966年に結婚されていますが、その後宝田明さんの不倫が原因となって離婚されています。
宝田明さんはその後不倫相手と2度目の結婚をされ、この嫁とは亡くなるまで連れ添いました。
宝田明さんの子供は1人目の嫁の児玉明子さんとの間に娘1人、息子が2人で、娘は歌手として活躍する児島未散さんです。
宝田明さんは2022年8月14日に87歳で亡くなりましたが、晩年まで映画に主演するなど活躍されていました。死因は「誤嚥性肺炎」と報じられています。