大山寛人さんは死刑囚を父親に持ち、つらすぎる生い立ちが話題です。
今回は大山寛人さんの家族構成、父親の大山清隆による母親・養父殺害(広島連続保険金殺人事件)、祖父の事件、経歴や仕事、韓国人説、刺青や結婚、現在を紹介します。
この記事の目次
大山寛人は広島連続保険金殺人事件の犯人の息子
大山寛人さんは、1998年・2000年に起こった広島連続保険金殺人事件の犯人である大山清隆の息子です。
殺人事件の犯人の息子・死刑囚の息子というレッテルを貼られ、辛い生活を余儀なくされてきました。
2013年には『僕の父は母を殺した』という本を出版。メディアにもたびたび出演して、「被害者遺族であり加害者遺族」という特別な立場から、講演活動などを行っています。
大山寛人の家族構成
出典:ytv.co.jp
大山寛人さんは父親と母親の3人家族で生活していたとYouTube動画などで語っています。
・母親(大山博美)
・大山寛人
父親の大山清隆は、親族が経営する有限会社大山生コンで働いていたほか、不動産業を営んでいた経営者で、母親は専業主婦をしていました。
大山寛人さんが子どもの頃は、経営していた会社がうまくいっていて、収入が多く裕福な生活をしていたとのことです。
大山寛人さんはYouTube動画の中で「3人家族」と語り、取材でも両親以外の家族の存在を話したことはありませんが、最高裁の判決文の中で大山寛人さんの妹の存在が記されています。
Bは,亡Aが殺害された当時12歳であり,妹C(当時8歳)と共に,幼くして最愛の母親を父親たる被告人に殺害されたのであって,亡Aの遺族の中ではCと共に最大の被害者である。
この判決文の中のBが大山寛人さんのことで、Aが母親の大山博美さんのことです。妹Cと書かれていますので、大山寛人さんには4歳下の妹がいたと思われます。
ただ、父親が母親を殺害したという複雑な家庭環境でしたので、妹が少しでも「普通の生活」を送れるように、大山寛人さんはなんとしてでも妹の存在を隠し通したいのかもしれません。
大山寛人の父親・大山清隆は母親と祖父を殺害した
大山寛人さんの父親の大山清隆は広島連続保険金殺人事件の犯人です。
1998年に大山寛人さんの祖父(大山清隆の養父)を殺害、さらに2000年には母親(大山清隆の妻)を殺害しました。
大山清隆は2002年に逮捕され、2011年に最高裁で上告が棄却され死刑が確定しています。
大山寛人の祖父(大山勉)を殺害
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1998年10月11日21時頃、大山清隆は広島市佐伯区内の会社事務所に養父(大山寛人の祖父・大山勉)を呼び出し、養父の頭を鉄アレイで数回殴りました。
この時、頭蓋骨骨折の大けがを負わせましたが、養父はまだ生きていました。
大山清隆は養父を「病院に連れていく」と言って車の助手席に乗せ、自ら車を運転して、猛スピードでコンクリートの壁に突っ込み、交通事故に見せかけて養父を殺害しようとしました。
養父は病院に救急搬送されたものの、翌年の1月20日に死亡しています。
なお、事件現場の会社事務所は頭蓋骨の破片や血が飛び散った状態でしたが、大山清隆は逮捕されることはありませんでした。
翌朝、会社に出勤してきた親戚たちが事務所を掃除して犯罪の痕跡を隠したためです。
その後、大山清隆に6000万円の死亡保険金が支払われましたが、親戚たちが大山清隆に「お前が殺したんだろう?ばらされたくなかったら保険金をよこせ」と脅します。
そのため、6000万円の保険金は親戚に奪われたようです。
保険金に関しては大山清隆は結局手に入れることができず親戚に奪われましたが、2002年に逮捕された後、殺害の動機は「保険金目当て」と判断されました。
これは、最高裁でも「養父を交通事故に見せかけて殺害し、生命保険会社から多額の保険金をだまし取った殺人」と認定されています。
しかし、大山清隆が息子の大山寛人さんに語った動機は保険金目当てではありませんでした。
この事件があった時、生コン会社はすでに8億円の負債があったため、6000万円程度ではどうにもならない状態でした。
養父が養母を殺害したことを認めたため、そのことに逆上して殺害したそうです。
大山寛人の母親を殺害
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大山清隆は養父(大山寛人の祖父)を殺害しましたが、保険金6000万円は親戚に奪われる形になりました。そのことを妻の博美さんは不審に思います。
さらに同時期、博美さんは親戚から「あんたの夫(大山清隆)が養父を殺したんじゃないの?」と言われるようになりました。
博美さんは夫の大山清隆を信じたかったのですが、少しずつその気持ちが揺らいでいき、離婚をほのめかすようになりました。
大山清隆は博美さんに離婚されるくらいなら、いっそ殺害してしまおうと考え、睡眠薬を飲ませて浴槽に沈めて溺死させます。
父は、「母を殺したことを後悔している」と語りました。周囲から養父の殺害を疑われ、母から離婚をほのめかされたことが動機だった、と話しました。
その後、海に遺体を遺棄して「酔った状態で海に誤って転落した」という事故死に見せかけ、300万円の保険金を手にしました。
大山寛人の祖父も殺人事件の犯人だった・・・
出典:youtube.com
大山寛人さんの父親である大山清隆は2人を殺害した殺人犯・死刑囚ですが、大山寛人さんの祖父も殺人犯でした。
大山寛人さんの父親である大山清隆は、幼い頃に両親が離婚したため、実の父親の弟(大山勉)に養子に出されます。
そのため、大山清隆は養父(大山勉)・養母に育てられます。その養父を大山清隆は殺害するわけですが・・・。
大山清隆の養父であり、大山寛人さんの祖父である大山勉は、自分の妻を殺害していました。
大山勉夫婦には実の子供がおらず、大山清隆が養子になったのですが、大山勉はいつしか自分の子供が欲しくなり、愛人を作って、愛人に自分の子供を産ませます。
愛人の存在に気づいた大山勉の妻は大山勉に子供を引き取って育てるから、愛人と別れろと迫ります。大山勉はそんな妻を邪魔に感じて、1985年に絞殺してしまうのです。
しかし、この事件は自殺として処理されて、大山勉が逮捕されることはありませんでした。
大山清隆は当時から、養父(大山勉)が養母を殺害したと思っていたようで、その疑念を1998年になって養父にぶつけ、養父は養母殺害を認めたから殺害したということになります。
大山寛人さんは父親が母親を殺害しただけでなく、祖父も祖母を殺害したという辛い境遇だったんですね。
大山寛人の生い立ち① 事件前まで
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大山寛人さんは広島県広島市佐伯区で生まれます。2023年で35歳なので、1988年生まれと思われます。
前述の通り、父親は生コン関係の会社で働き、不動産関係の会社もやっていたので、子どもの頃は裕福な生活でした。大山寛人さんが小学校に入学した時の写真を見てもわかりますね。
専業主婦だった母親は厳しい人で、学校から帰ってきたらまずは1時間勉強することが大山寛人さんの日課になっていました。
また、小学6年生になっても、21時には寝るような規則正しい生活習慣でした。
小学5年生の頃に、祖父(大山勉)を父親の大山清隆が殺害していますが、この事件は当初は事故として処理され父親は逮捕されていませんので、当時は大きな影響はなかったようです。
大山寛人の生い立ち② 父親が母親を殺害した時のアリバイ作りをさせられる
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大山寛人さんが小学6年生だった2000年3月1日21時ごろにいつものように大山寛人さんは就寝しました。そして23時40分ごろ、父親の大山清隆は母親の博美さんを殺害します。
3月2日1時ごろ、大山寛人さんは父親に起こされて、「お母さんが酔っぱらって夜釣りに行きたいと言っているから一緒に行こう」と誘われました。
大山寛人さんは釣りが大好きで、日ごろから父親と一緒に海釣りに行っていたそう。
そのため、嬉しくなってパジャマにコートを着て、ウキウキしながら車に乗り込みました。(裁判記録では8歳の妹も一緒に夜釣りに行っている)
車の助手席にはシートを倒した状態で、母親が横になっていました。大山寛人さんが母親を起こそうとすると、父親は「酔っぱらっているから、海に着いたら起こそう」と言います。
釣り場に着いたため、寛人さんが母親を起こそうとすると、今度は「魚が釣れたら起こそう」と父親に言われました。
そう言われた大山寛人さんは母親を起こすことなく、釣りを始めることにしました。父親と別々のポイントで釣りをしていましたが、しばらくすると父親が近づいてきて、並んで釣りをすることになりました。
父親は突然「海に何か落ちる音がしなかったか?」と言いますが、大山寛人さんには何も聞こえなかったので、気にすることなく釣りを続けました。
その日の釣果は良くなく、さすがに寒くなってきたので帰ることになり、車に乗り込もうとしたら、車で寝ていたはずの母親が助手席からいなくなっていたことに気づきます。
そして、寛人さんは父親の「海に何か落ちる音がしなかったか?」という先ほどの言葉を思い出し、母親が海に落ちたと考え、公衆電話から通報します。
すぐに警察やレスキュー隊が来て捜索が始まり、母親が発見され、引き上げられました。すぐに病院に搬送されたものの死亡が確認されています。
父親は息子をアリバイ工作に使う
父親はすでに死んでいる母親を「寝ているだけ」と息子の大山寛人さんに嘘をつき、夜釣りに連れていきました。
そして、息子を一人で釣りさせている時に母親の遺体を海に遺棄して、そのあと何食わぬ顔で息子と一緒に釣りをしていたということになります。
しかも、「何か落ちる音がしなかったか?」という伏線を貼っていることで、母親が海に落ちたと思わせるように誘導しているのです。
この伏線を貼ったことで、大山寛人さんに「母親が海に落ちる音に気付けなかった」という心の傷を負わせ、息子の心を犠牲にしてまで自分のアリバイ工作を優先させたことになります。
父親は息子の大山寛人さんをアリバイ工作に使ったということです。これは、あまりにも罪深い行為ではないでしょうか。
大山寛人の生い立ち③ 事件後
母親が死亡した後、すぐに父親が逮捕されたわけではありません。
保険金300万円が支払われていますので、事故死と判断されたようです。そして、父親と2人暮らしが始まりました。
大山寛人さんが中学1年生の時に、会社が倒産して父親は自己破産することになります。
その後は土木関係の日雇いの仕事をしていましたが、いつしか働かなくなり、家にも帰って来なくなりました。
そのため、大山寛人さんはスーパーでパンなどを万引きして、飢えを凌ぐようになります。
そんな日々を送る中、突然父親と夜逃げをすることになりました。同じ広島市内での夜逃げでしたが、大山寛人さんは中学校を転校することになりました。
ただ、「夜逃げの後は父親が家にいてくれるようになったので嬉しかった」と語っています。
しかし、寛人さんが中学2年生の時、突然目の前で父親が逮捕されてしまうのです。
大山寛人の生い立ち④ 父親の逮捕後
大山寛人さんが中学2年生の時、父親が目の前で逮捕され、その後は母方の叔母の家で生活することになりました。
大山清隆は最初は詐欺容疑で逮捕されました。その半年後の2002年6月に養父(大山寛人の祖父)殺害容疑で、さらに同年10月に妻(大山寛人の母親)殺害容疑で再逮捕されています。
しかし、大山寛人さんは目の前で父親が逮捕された後も、なぜ父親が逮捕されたのか?どんな容疑で逮捕されたのかは知らないまま過ごしました。
親戚の人たちに聞いてもはぐらかされ、事件について全く知らないまま過ごしていたそうです。
中学3年生の時、学校から帰ってきて、何気なくテレビをつけたら、ニュースで父親の大山清隆が広島連続保険金殺人事件で逮捕されたことを知ります。
自分の父親が母親と祖父を殺害していたことを知った時の衝撃は想像を絶するものがありますね。
父親が広島連続保険金殺人事件で逮捕された大山寛人さんは、学校で孤立していきます。また、「イジメられるかもしれない」という不安から、非行に走るようになりました。
手が付けられないほどの不良になったことで、大山寛人さんは叔母の家を追い出され、親がいない子供のための施設である広島修道院に入ることになりました。
この施設はきちんと高校に行く学生でないと置いてくれないため、寛人さんは高校に進学しますが、結局は3日で退学してしまいます。
高校を退学したため施設も追い出されることになり、ホームレス生活が始まりました。
大山寛人の経歴:仕事は夜職
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ホームレス&非行生活
施設を追い出された大山寛人さんは、公園を拠点にしてホームレスになります。公園の多目的トイレで寒さをしのぐような生活でした。
同時に暴走族も続けていたので、ホームレス暴走族ですね。
ただ、暴走族の仲間は帰る家があるのに、自分はホームレスのために孤独を感じ、自殺未遂をしたこともあったそうです。
他の奴らには帰る家があって、温かいご飯と布団がある。みんなに用意されているものが自分にだけない。自分と周りを比べてしまい、風邪薬を過剰摂取したりして、自殺未遂を繰り返しました
引用:「僕は死刑囚の息子として生きてきた」大山寛人さんが語る壮絶半生【広島連続保険金殺人事件】 | FRIDAYデジタル
そんなある日、友人から新聞を渡され、その新聞で父親が死刑判決になったことを知るのです。
父親と面会して非行をやめる
父親が死刑判決になったことを知った大山寛人さんは、事件の真相を知らないまま死刑になったら困ると思い、父親に初めて面会することになりました。
この時、父親が逮捕されてから3年半が経っていました。
母親を殺した父親に憎しみをぶつけようと思っていましたが、いざ面会して、プルプル震えながら謝罪を続ける父親を見たら、責めることができませんでした。
その後も面会を続け、父親から事件の真相を聞き、気持ちをリセットすることができたそうです。
また、バイクの無免許で事故を起こしてケガを負った状態で面会に行くと、父親から「ムチャをするな」と泣きながら言われたことをきっかけに、非行をキッパリとやめています。
そのとき、逮捕されて以降初めて、父に対し親としての愛情を実感できました。父を恨んだり憎んだりする気持ちに見切りをつけられると思った。僕自身が前に進むためにも、非行を止めて家族の絆に向き合おうと切り替えられたんです
引用:(2ページ目)「僕は死刑囚の息子として生きてきた」大山寛人さんが語る壮絶半生【広島連続保険金殺人事件】 | FRIDAYデジタル
死刑囚となった父親と面会して、気持ちの整理をつけることができたんですね。
仕事は風俗のボーイ
大山寛人さんは17歳の頃から働くようになります。これは、おそらく父親と面会したのと同時期と思われます。
最初は友達の親が月数万円で世話をしてくれるようになり、そこから精肉店で働いたり、パチンコ店で働いたりするようになりました。
しかし、「人殺しの息子はちょっと・・・」のように差別を受けることも多かったとのことです。
21歳の頃には広島を出てフラフラするようになりますが、名古屋でお金が無くなって、寮付きのパチンコ店に就職します。
その後、ガソリンスタンドなどで働くようになり、夜の世界・風俗業で働くようになりました。
夜の世界の人たちは、「人殺しの息子だから」、「死刑囚の家族だから」などの差別がなく居心地が良かったとのことです。
大山寛人は父親の死刑に反対していた
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大山寛人さんは、被害者遺族であり加害者遺族です。
大山寛人さんは父親のことは許せませんでしたが、「死んでも償えることではない」という考えもあり、父親の死刑に反対し、高裁や最高裁で死刑を回避するように訴えていました。
最高裁では、死刑判決になったものの判決文の中で裁判長は次のように述べています。
最大の被害者の一人である息子の,父の存在が自らの生き甲斐だから残された唯一の親である父までを奪わないでほしい,との訴えは誠に重い。
被害者家族であり加害者家族というレアケースで、裁判所としては「唯一の親である父まで奪わないでほしい」という気持ちは理解できるものの、死刑はやむを得ないと判断されたようです。
大山寛人は在日韓国人3世?
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大山寛人さんは在日韓国人3世の可能性があります。少なくとも祖父の大山勉は在日韓国人であることは間違いありません。
大山清隆が書いた手記の中に、「養父は、地元の在日韓国人社会で広く知られた存在であり」とあります。
また、父親の大山清隆と母親の博美さんはいとこ同士であると記されています。
ということは、父親の大山清隆と母親の博美さんも在日韓国人になりますので、大山寛人さんも在日韓国人でしょう。
ただ、すでに帰化している可能性もありますので、現在も大山寛人さんが韓国籍かどうかは不明です。
大山寛人の刺青がすごい
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大山寛人さんは全身に刺青を入れています。
刺青は結婚しない証として入れたそうです。
「刺青はマイナスの部分しかないと思うので、少しでも結婚しづらい環境に自分を追いやることが目的。そうすることで自分の中で踏ん切りがつく、諦めがつくというか」(寛人さん)
そして左腕には父親の名前から一文字「清」、右腕には母親の名前から一文字「美」が入っています。
清隆の『清』なんですけど、僕の父親の名前ですね。己の命をもってしても罪は償いきれない、死刑は受け入れるといった父親の気持ち。なので、罪人が首をはねられて朽ちた姿を彫っています。逆に右腕は、僕の母親の名前・博美の『美』が入っていて、父に殺されてしまった無念とかそういったものを、自分の中で表現しているつもりです
刺青を入れることで、大山寛人さんは家族の絆を自分の中に刻み込もうとしたのかもしれませんね。
大山寛人は結婚していない
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大山寛人さんは、結婚していません。結婚はしないと決めていると語っていました。
大山寛人さんは父親が殺人犯で死刑囚ということで、いろいろと辛い思いをしてきたから、自分の生い立ちのせいで大切な人を傷つけてしまうかもしれないという不安があるそうです。
自分が辛かったから、同じような思いをさせたくないということなのでしょう。
2022年の時点では恋愛も遠ざけていると語っていましたが、2023年の『Friday』の取材では17年ぶりに恋人ができたと話していました。
「彼女とは遠距離なので毎日電話をするぐらいしかできませんが、それでも楽しいです。20年以上かかってようやく、自分が今まで手に入れられなかった幸せに触れることができたなと感じています」
引用:(2ページ目)「僕は死刑囚の息子として生きてきた」大山寛人さんが語る壮絶半生【広島連続保険金殺人事件】 | FRIDAYデジタル
少しずつ前を向いて、「普通の幸せ」を手に入れることができているのかもしれません。
大山寛人の現在
出典:youtube.com
講演活動を行っている
父親の死刑が確定した後、早稲田大学で講演をする機会があり、それがきっかけで朝日新聞出版から『僕の父は母を殺した』という本を出版します。
その後も死刑制度に関する講演をするようになりました。
講演活動を行っていると、拘束時間が長い風俗業はできなくなり、現在は休職して、バーでアルバイトをしながら講演活動を続けています。そこで、休職させてもらい、今はアルバイトで、バーというか、飲み屋さんの仕事を手伝っている状態です。
引用:僕の父は母を殺して、死刑囚となった 職を転々とし、風俗店にたどり着くまで【大山寛人×社会学者・開沼博】 | 対談 漂白される社会 | ダイヤモンド・オンライン
大山寛人さんは、加害者家族であり被害者家族であるからこそ、死刑制度に関して問題提起ができるのでしょう。
父親とは距離を置いている
大山寛人さんは現在、死刑囚の父親とは距離を置いていて、年に1回程度しか面会していないそうです。以前は年に3~4回は面会していたのに、現在はあえて距離を取っているとのこと。
その理由は「欲」が出てしまうからだそうです。
父親の大山清隆は死刑が確定してから10年以上が経過しています。いつ死刑が執行されてもおかしくない状態です。
また、死刑がいつ執行されるかは家族にも知らされることはありません。死刑が執行された後に知らされます。
頻回に面会していると、「次もまた会いたい」という欲が出てきてしまうから、あえて面会せずに距離を置いて、その欲を抑え込んでいると話していました。
大山寛人のまとめ
大山寛人さんの家族構成、父親の大山清隆による母親・養父殺害(広島連続保険金殺人事件)、祖父による殺人事件、生い立ちや経歴・仕事、韓国人説、刺青や結婚歴と現在をまとめました。
大山寛人さんが今後、少しでも幸せに、そして心穏やかに過ごせることを祈らずにはいられません。