「できるかな」のノッポさんとして世代を超えた子供達に愛された高見のっぽさんの死去が発表されました。
この記事ではノッポさんこと高見のっぽさんの本名や身長、若い頃の経歴や画像、両親や兄弟など家族、結婚や嫁、子供、現在や死因などについてまとめました。
この記事の目次
- 高見のっぽ(ノッポさん)のプロフィール
- 高見のっぽ(ノッポさん)の本名は高見嘉明
- 高見のっぽ(ノッポさん)の身長は181cm
- 高見のっぽ(ノッポさん)の若い頃① 芸人の父親の助手を経て芸の道へ
- 高見のっぽ(ノッポさん)の若い頃② ダンサーとして活動しNHKでも仕事
- 高見のっぽ(ノッポさん)の若い頃③ NHK「できるかな」で人気に
- 高見のっぽ(ノッポさん)の家族① 父親の嘉一は芸人や奇術師として活躍
- 高見のっぽ(ノッポさん)の家族② 母親は両国国技館の相撲茶屋の出身
- 高見のっぽ(ノッポさん)の家族③ 兄弟
- 高見のっぽ(ノッポさん)の結婚と嫁
- 高見のっぽ(ノッポさん)の子供がオフロスキーという噂も
- 高見のっぽ(ノッポさん)の現在…2022年に死因は心不全で88歳で死去
- まとめ
高見のっぽ(ノッポさん)のプロフィール
高見のっぽ(ノッポさん)のプロフィール
本名 :高見嘉明(たかみ・よしあき)
別名義 :高見映(たかみ・えい)
生年月日:1934年5月10日
没年月日:2022年9月10日(没年88歳)
出生地 :京都府京都市右京区太秦
出身地 :東京府東京市向島区
身長 :181cm
高見のっぽさんは、NHK教育の子供向け番組「できるかな」の一切喋らず工作をするミステリアスなキャラクター「ノッポさん」を20年にわたって務め、当時の子供達から絶大な人気を集めた人物です。
「できるかな」の終了から15年後の2005年12月から1月にかけてNHKみんなのうたで放送されたミュージカル映画形式の楽曲「グラスホッパー物語」では、作詞や振り付けを担当して自ら歌手として主演し、これも大きな話題を呼びました。
当時子供だった人々にとってかなり印象深い人物であるノッポさんこと高見のっぽさんですが、2023年5月10日(高見のっぽさんの誕生日)に、2022年9月10日に88歳で亡くなっていた事が発表され衝撃が広がっています。
ここでは、そんな高見のっぽさんについて詳しく紹介していきます。
高見のっぽ(ノッポさん)の本名は高見嘉明
出典:https://static.tokyo-np.co.jp/
「ノッポさん」こと高見のっぽさんの本名は「高見嘉明」です。
高見のっぽさんは、他にも高見映などの芸名を使って活動されていましたが、特に本名を隠していたという事はなく以前から公表されています。
本書『夕暮れもとぼけて見れば朝まだき ノッポさん自伝』(岩波書店)の著者である高見のっぽ(本名 高見嘉明)さんは、1934年生まれ。
高見のっぽ(ノッポさん)の身長は181cm
出典:https://storage.mantan-web.jp/
ノッポさんといえば、ひょろりとしたスタイルの良い高身長が印象的なキャラクターだった事から、高見のっぽさんの身長にも興味が集まっているようです。
高見のっぽさんは身長が「181cm」である事を公表されています。
私は身長が181センチもあって、ひょろひょろしているでしょう。
引用:高見のっぽさんが自ら語った波乱の人生 両親は駆け落ち、芸人の息子として育ち、24歳で初舞台。自己嫌悪に陥っていた私が「ノッポさん」になるまで
高見のっぽさんと同じ1930年代前半の日本人男性の平均身長は165cm弱なので、高見のっぽさんは若い頃から身長の高さでかなり目立っていたようです。
高見のっぽ(ノッポさん)の若い頃① 芸人の父親の助手を経て芸の道へ
高見のっぽさんは、1934年5月10日に東映の撮影場のある京都太秦で生まれています。当時、父親の嘉一さんは幕間芸人や映画俳優をしながら電気器具店を経営していました。
高見のっぽさんが4歳になる頃、母親の実家のあった東京府東京市向島区へ家族で移住し、以降はそちらで育っています。
小中学校の頃からは、芸人である父親の嘉一さんの息子としてタップダンス、バレエ、歌などを習い、高校卒業後にはカバン持ちとして父の助手を務めました。
そのまま芸の道へと入った高見のっぽさんは、キャバレーでの営業などの下積みを経て24歳の時に日劇ミュージック・ホールでコメディアンとして初舞台を踏みます。ひょろりとした181cmの高身長でどこか怪しげな雰囲気もあって話題を呼び、新聞でも紹介されるなど初舞台は成功を収めています。
ただこの勢いは長く続かず、それから4年間にわたってほとんど仕事がない時期が続いたそうです。当時は惨めな気持ちになり、思い詰めて死を考えた事も何度もあったのだとか。
高見のっぽさんは25歳の時には、心機一転し東宝ミュージカルスに研究生として入っていますが、大部屋俳優に慣れてはいけないと思い直して数年で脱退しています。
高見のっぽ(ノッポさん)の若い頃② ダンサーとして活動しNHKでも仕事
高見のっぽさんは若い頃、NHKの着ぐるみ劇「ブーフーウー」の狼役(写真左端)を担当
4年間もの不遇の時代を経た27歳の時、高見のっぽさんはNHKのシルエット劇形式のミュージカルバラエティ「不思議なパック」にバックダンサーとして出演。番組のダンサーが1人足りなくなり、ダンサー仲間が紹介してくれたのがきっかけでした。
この仕事を終えてNHKのスタジオを出る時、あるディレクターに呼び止められてダンスをとても褒められ「今、新しい番組の司会者を探しているのですが、やりませんか?」と声をかけられたのだそうです。
「次に仕事を受けられるのはいつだろう?」と不安を抱いていた高見のっぽさんは二つ返事で承諾し、1961年4月に新たにスタートした子供向け音楽番組「おんがく特急列車」の司会役に抜擢されたのでした。当時は高見映の芸名で出演し、バックダンサーを従えながらシルクハット姿でステップを踏むという洗練された演出でも話題を呼びました。
ところが、頭の固いNHKの上層部の一部が番組を観て「あれは単なるレビューショーで局の恥だ」などと言い出してプロデューサーが解雇され、番組もわずか半年弱で打ち切りになってしまいます。
ただ、番組に誘ってくれたディレクターとの繋がりはその後も続き、高見のっぽさんはNHKの子供向けバラエティ「こちらわんぱく放送局」で紹介される歌の作詞を依頼されたり、番組構成や振り付けを任されたりとNHKの仕事を受けるようになります。
さらにその後、NHKの着ぐるみ劇番組「ブーフーウー」の狼の役にも抜擢され、ダンサーとして鍛えた表現力も活かされて子供達や保護者達からの好評を得ました。
高見のっぽ(ノッポさん)の若い頃③ NHK「できるかな」で人気に
1966年4月、その年32歳になる高見のっぽさんは、NHKの子供向け造形教育番組「なにしてあそぼう」のメインキャラクター「ノッポさん」役に抜擢されます。
ノッポさんは一言も喋らずに身近にあるものを使って工作をする不思議なおじさんで、高みのっぽさんのどこか怪しげの雰囲気とマッチし、当時の幼稚園児・保育園児達の人気者になりました。
「なにしてあそぼう」は1970年3月に終了し、後継番組として「できるかな」がスタート。当初は高見のっぽさんではなく、別の人達が出演していました。
ところが、保育園や幼稚園の先生達が「『なにしてあそぼう』のノッポさんじゃないと子供達が見ない」、「ノッポさんがいなくなったのを子供達が悲しんでいる」といった投書がNHKに数多く届き、1年後に再び「ノッポさん」が戻ってくる事になったのでした。
以後、20年にわたって高見のっぽさんは「できるかな」のノッポさん役を務め、長きにわたって子供達に愛される存在となりました。
高見のっぽ(ノッポさん)の家族① 父親の嘉一は芸人や奇術師として活躍
高見のっぽの父親・高見嘉一のプロフィール
芸名 :柳妻麗三郎(やなづま・れいざぶろう)
旧芸名 :チャーリー高見、松旭斎天秀
生年月日:1898年3月9日
没年月日:1988年2月3日(没年89歳)
出身地 :熊本県熊本市二本木町(現在の熊本市西区二本木)
高見のっぽさんの父親は高見嘉一(たかみ・かいち)さんという方です。
高見のっぽさんの父親の嘉一さんは、熊本県熊本市二本木町の生まれで、10代半ばには地元にあった二本木遊郭の芝居小屋「東雲座」で照明係や設備の営繕係などを務められていました。
そんな折、東雲座に巡業に訪れた有名奇術師・松旭斎天一と出会って衝撃を受けて弟子入り、「松旭斎天秀」の名をもらって奇術師となり、一座に加わって全国を巡業して回りました。
27歳の時、マキノ・プロダクションに参加して映画俳優としても活動するようになり、この頃に「柳妻麗三郎」の芸名を名乗っています。
1926年には無声映画にて、「チャップリンに似た男」の役を演じ、「日本のチャップリン」とも称されました。
マキノ・プロダクションが経営悪化により解散となった1931年以降も映画俳優、芸人、奇術師として活動を続け、高見のっぽさんが生まれた頃は京都の太秦の俳優長屋で家族で暮らし、「チャーリー高見」を名乗って映画館の幕間芸人として活躍。
その後、家族で東京へと移って嫁の実家の経営する町工場の工場長となり、太平洋戦争中の疎開生活を経て、終戦後に芸能界に復帰。俳優として映画にも出演されていました。
高見のっぽさんの父親の嘉一さんは1988年2月3日、89歳で亡くなられています。
父親の嘉一さんは、息子である高見のっぽさんの芸の才能を見抜き、若い頃の売れない時代にも「あなたは1人でも十分にやっていけるでしょう」と言って自分の舞台に出演させることはなかったそうです。
「幸運が重なって何度か舞台に立てたものの、その後4年ほどは仕事にありつけませんでした。ところがおやじは『今は運がないだけ。絶対大丈夫』と息子の才能を信じ切っていた。大人になっても本名で『嘉明ちゃん』と呼んでくれたおやじ。そばにいるだけで安心できる存在でした」
また、高見のっぽさんによると、父親の嘉一さんは自分の子供達に対してとても丁寧に接し、高見のっぽさんの事を「あなた」、「嘉明ちゃん」と呼び、決して呼び捨てにはしなかったそうです。
ちなみにオヤジは私のことを「あなた」か「嘉明ちやん」と呼びました。呼び捨てにされたり、「あんた」と呼ばれたことは一度もありません。
引用:高見のっぽさんが自ら語った波乱の人生 両親は駆け落ち、芸人の息子として育ち、24歳で初舞台。自己嫌悪に陥っていた私が「ノッポさん」になるまで
こうした父親との関係が、高見のっぽさんが子供達のことを「小さい人達」と呼び、常に丁寧に、対等の目線で接していた事につながったようです。
高見のっぽ(ノッポさん)の家族② 母親は両国国技館の相撲茶屋の出身
高見のっぽさんの母親は、東京の出身で家族は両国国技館の相撲茶屋を営んでいたそうです。
当時、松旭斎天一の一座にいた父親の嘉一さんが国技館に巡業で訪れた際に知り合って恋仲となり、その後2人は周囲の反対を押し切って駆け落ちし結婚されています。
オフクロさんは両国・国技館の相撲茶屋の4人姉妹の3番目。国技館にオヤジの一座が出演したときに恋仲になった両親は、オフクロの両親から結婚を反対されて駆け落ちして一緒になったんです。
引用:高見のっぽさんが自ら語った波乱の人生 両親は駆け落ち、芸人の息子として育ち、24歳で初舞台。自己嫌悪に陥っていた私が「ノッポさん」になるまで
高見のっぽさんによると、父の嘉一さんに母が一目惚れしたのが恋のきっかけになったそうです。
天勝一座が東京の両国で興行した際、天秀に一目ぼれしたのが、相撲茶屋の4人姉妹の三女のおキンちゃん。私の母です。
高見のっぽさんによると、母親は父親の嘉一さんとは正反対の江戸っ子気質で、はっきりとモノを言う性格だったのだとか。
これが正反対の性格です。江戸っ子で、言わなくてもいい言葉がぽんぽん出てくる。手先が器用な兄や姉と違って僕は工作が大の苦手でした。それを見た母は『こんなぶきっちょな子、見たことないわ』。この言葉には子供ながら打ちのめされました。
高見のっぽさんの優しく温かいユニークなキャラクターはこの正反対の性格の両親によって培われた面もあったようです。
高見のっぽ(ノッポさん)の家族③ 兄弟
高見のっぽさんには兄弟がいます。
高見のっぽさんの兄弟については、6人兄弟の4番目という情報と4人きょうだいの末っ子という情報の2つがあります。
6人兄弟の4番目として生まれた高見さん。
私は京都生まれですが、育ったのは東京の向島です。ちなみに本名は「高見嘉明(たかみよしあき)」。4人きょうだいの末っ子
引用:高見のっぽさんが自ら語った波乱の人生 両親は駆け落ち、芸人の息子として育ち、24歳で初舞台。自己嫌悪に陥っていた私が「ノッポさん」になるまで
一部、高見のっぽさんには兄が3人と弟が2人との情報が出ていますが、これは誤情報で、高見のっぽさんには兄も姉もいます。
手先が器用な兄や姉と違って僕は工作が大の苦手でした。
高見のっぽさんの兄弟についてはこれ以外には情報はなく詳しい事は明かされていません。
高見のっぽ(ノッポさん)の結婚と嫁
高見のっぽさんは結婚されています。
結婚されたのは25歳の頃で、当時はまだ高見のっぽさんは仕事がほとんどなく、嫁が働いてなんとか生活できていたそうです。
25歳で結婚したカミさんが働いていたので、食べてはいけたけれど、暗い毎日でした。
引用:高見のっぽさんが自ら語った波乱の人生 両親は駆け落ち、芸人の息子として育ち、24歳で初舞台。自己嫌悪に陥っていた私が「ノッポさん」になるまで
高見のっぽさんの嫁については、実家が薬局でかつては豊島区高松小学校南で処方箋薬局を経営されていたようです。
高見のっぽさんこと高見映さんが亡くなったか。
— 伊藤光児 (@WXJsJwACzAqhWAv) May 10, 2023
昔は、豊島区高松小学校南側が自宅兼 奥様が
処方箋薬局を経営されていた。
現在はその場所は行政施設が建つ
処方箋薬局の方は、バス通り沿いに移転されていた。
高見のっぽさんのご冥福をお祈り申し上げます。 pic.twitter.com/XdeQq0uz4N
近所の子供達の間ではその薬局2階の自宅にノッポさんが住んでいる事は有名で、年賀状を出すと返事をくれる事も知られていたそうです。
のっぽさんは、母校の小学校の前の薬局の2階に住んでいて、年賀状を書くと返事をくれたりしたものの、薬局前で「ノッポー!」と叫ぶ子供たちが絶えなかったからか、自伝の冒頭に「近くの小学校の子供は好きじゃない」と書かれてた記憶。深夜に自転車に乗ってコンビニへ行く姿もよく見かけました。RIP https://t.co/xeX5sfjQUv
— *june typhoon tokyo* (@junetyphoontyo) May 10, 2023
高見のっぽさんの嫁の実家が経営していたという薬局は池袋にあった「キリン堂薬局」と言われていますが、こちらは噂で真偽は不明です。
高見のっぽ(ノッポさん)の子供がオフロスキーという噂も
高見のっぽさんは、不思議なおじさん「ノッポさん」として子供達の人気者でしたが、自身の子供がいるのかどうかは現在まで明かされていません。
高見のっぽさんの子供については存在の有無を含め不明ですが、長きにわたって子供達に愛されたキャラクターという事もあり、自分自身の子供がいたとして明かされなかった可能性は高いと考えられます。
インターネット上では、NHKの子供向け番組「みいつけた!」に登場する人気キャラクター「オフロスキー」として知られる俳優の小林顕作さんは高見のっぽさんの子供ではないかと噂されていますが、これは事実ではないようです。
小林顕作さんの顔立ちやどこかミステリアスな雰囲気が、高見のっぽさんの雰囲気と似ていた事から出てきた噂のようです。
高見のっぽ(ノッポさん)の現在…2022年に死因は心不全で88歳で死去
現在も愛され続けている高見のっぽさんですが、2022年9月10日に88歳で亡くなっています。
高見のっぽさんの死因は「心不全」と発表されています。
高見のっぽさんの死去は、2023年5月10日の、高見のっぽさんの誕生日の日に公表されました。
公表が遅れたのは、高見のっぽさん本人の「死去を知らせるのは半年以上は控えるように」との遺言があったためだったそうです。
NHK教育テレビ「できるかな」で、「ノッポさん」として親しまれた俳優の高見のっぽ(たかみ・のっぽ、本名・嘉明=よしあき)さんが昨年9月10日、心不全で亡くなっていたことが分かった。88歳だった。関係者によると、死去を知らせるのは「半年以上控えるように」との希望が本人からあったという。
高見のっぽさんは生前、「人間は寿命がくれば逝くのは当たり前の事。自分の事で周りの皆さんを悲しませたり、騒がせて大切な時間を邪魔したくない」として、半年公表を遅らせるように言っていたのだそうです。
最期まで人々への思いやりや心遣いに溢れていた、高見のっぽさんの素晴らしい人柄が伝わります。
ネット上には高見のっぽさんの死去を悼む声が溢れ、NHKではノッポさんを偲んで「できるかな」が再放送されました。これを視聴してなんとも言えない懐かしい気持ちになられた方も多かったようです。
6/17 幼いころもっとも好んだNHK『できるかな』の追悼再放送を知って、しばしの間でしたが番組を見ることができました。
— 整体 気のしらべ (@kinoshirabe) June 17, 2023
令和生まれの娘も一緒に見てくれました。#ノッポさん pic.twitter.com/53zA5KfAgZ
まとめ
今回は、NHKの伝説的子供向け番組「できるかな」のメインキャラクター「ノッポさん」を長年務め、世代を超えて子供達に愛された高見のっぽさんについてまとめてみました。
高見のっぽさんの本名は高見嘉明さんで、身長は181cm、若い頃は芸人で奇術師の父親の助手を経てダンサーとして芸能の世界に入り、1966年から1990年まで「できるかな」(当初は「なにしてあそぼう」)のノッポさんを務めました。
高見のっぽさんの家族は、俳優や奇術師、芸人として活躍した嘉一さんで、母親は両国国技館の相撲茶屋の娘でした。兄弟は4人説と6人説があり、高見のっぽさんは4番目の子供でした。
高見のっぽさんは25歳の時に結婚されていて嫁の実家は薬局を営まれていました。子供の有無は不明ですがネット上ではオフロスキーが子供ではとの噂があります。ただし、これは事実ではありません。
高見のっぽさんは2022年9月10日に88歳で亡くなっており、現在はこの世にいません。死因は「心不全」と発表されています。