プロ野球選手を引退後に高校教諭+指導者として歩んでいた三浦貴さんですが、死去が話題です。
今回は三浦貴さんの中学や高校・大学時代、巨人や西武での経歴、結婚した嫁や子供、浦和学院でのコーチ時代、死因のがんや現在を紹介します。
この記事の目次
三浦貴は元プロ野球選手
三浦貴
生年月日:1978年5月21日
没年月日:2023年7月24日
出身:埼玉県与野市
身長:181cm
体重:80kg
所属:浦和学院高校
活動:元プロ野球選手・野球指導者・高校教員
三浦貴さんは、元プロ野球選手です。巨人や西武で活躍しました。
2009年のシーズン後に引退し、その後教員免許を取得して、母校の浦和学院高校野球部でコーチを務めていました。
しかし、2023年7月に45歳の若さで大腸がんで亡くなっています。
三浦貴のプロ入り前(中学・高校・大学)
出典:toyo.ac.jp
三浦貴さんは、1978年5月21日に埼玉県与野市(現在のさいたま市中央区)で生まれました。
三浦貴さんの学歴はこちらになります。
・高校:浦和学院高校
・大学:東洋大学
与野南中学校から浦和学院高校に進学します。浦和学院高校では、森士(もり おさむ)監督の下で3年生の時にエースとして春夏連続で甲子園出場を果たしました。
浦和学院高校卒業後は東洋大学に進学します。
東洋大学では、1年生の春から戦力として活躍。4年生の時には主将としてチームを引っ張り、2000年の秋季リーグではチームを優勝に導いています。
さらに、次の成績・賞を残しました。
・最高殊勲選手
・最優秀投手
・ベストナイン
そして、2000年のドラフト会議では読売ジャイアンツから3位指名を受け、プロ入りが決まります。
三浦貴のプロ入り後(巨人・西武)
三浦貴さんは巨人から2000年のドラフトで3位指名を受けて、NPB入りが決定します。
巨人に入団するもイップスに・・・
2001年シーズンはルーキーながら開幕を一軍で迎え、ドラフト1位で入団した同期の阿部慎之助とバッテリーを組みます。
ルーキーイヤーは中継ぎ投手として49試合に登板し、3勝2敗防御率3.41という成績を残しました。イニングを問わずに起用され、酷使されていました。
そして、2002年シーズンも中継ぎ投手として登板しましたが、広島カープの緒方孝市選手に対し頭部死球を与えてしまいます。
この2002年シーズンからは、「顔面・頭部へのデッドボールで審判が危険球と判断した時、即刻退場を宣告できる」という規定が設けられました。
この規定の初めての適用者が、三浦貴さんとなりました。三浦貴さんは、これをきっかけにイップスに陥り、インコースへの投球ができなくなってしまいます。
イップスとは、精神的な極度の緊張から思い通りのパフォーマンスができない症状を指します。
イップス(イップス症状)は心の葛藤(意識、無意識)により、筋肉や神経細胞、脳細胞にまで影響を及ぼす心理的症状です。スポーツ(野球、ゴルフ、卓球、テニス、サッカー、ダーツ、楽器等)の集中すべき場面で、プレッシャーにより極度に緊張を生じ、無意識に筋肉の硬化を起こし、思い通りのパフォーマンスを発揮できない症状をいいます。
それから出場機会は大きく減少し、2002年シーズンは3試合のみの出場にとどまります。
イップスに陥った三浦貴さんは、原辰徳監督のアドバイスで2003年シーズンからは野手に転向しました。
原辰徳監督は三浦貴さんの野球センスを買っていて、「投手なら5000万円どまりだが野手なら2億円稼げる素質がある」と評価していました。
実は、イップスになる前から、原監督は野手転向を推めていたそうです。
実際、三浦貴さんは東洋大学時代からバッティングセンスが光っていて、投手として登板しない時には指名打者で出場したこともありました。
今で言う、大谷翔平選手のような二刀流選手だったということですね。
2003年シーズンからは内野手の中でも連携が少ないサードのポジションを守り、シーズン終盤には一軍に昇格して、9月には初ヒットが初ホームランという記録も残しています。
しかし、それ以降は二軍でそれなりの成績を残し、二軍の主力にはなるものの、一軍に呼ばれることはなく、2007年シーズン終了後に戦力外通告を受けました。
西武で戦力外宣告
巨人から戦力外通告を受けた三浦貴さんは、12球団合同トライアウトに参加しましたが、どこからもオファーはなく、引退を考えていました。
しかし、年末に同じようなタイプの福地寿樹選手が石井一久選手の人的補償として移籍することになったため、2008年1月に西武ライオンズへの入団が決定しました。
2008年・2009年共に、主に二軍での戦力で、一軍での出場機会には恵まれませんでした。
2009年の最終戦は一軍でスタメン出場をしてヒットも放ちましたが、翌日には戦力外通告を受けました。
再度トライアウトに参加しましたが、オファーはなく、現役引退を決断しています。
三浦貴は中学で走高跳の選手だった・身体能力の高さは抜群
出典:youtube.com
三浦貴さんは、全身ばねのような驚異の身体能力を誇っていた選手でした。
中学時代には野球をやっていましたが、それ以外に陸上競技の走高跳で大会に出場し、県2位の成績を残したこともあります。
また、大学時代には投手なのに指名打者で出場したこともあり、バッティングセンスもあったことから、身体能力が高いことがよくわかりますよね。
普通、ピッチャーとして投げられなくなったからすぐに野手に転向・・・なんて、なかなか簡単にできることではありません。
そして、三浦貴さんがその身体能力を見せつけたのが、TBSで放送されていた「最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦」です。
三浦貴さんは2002年・2004年・2005年の合計3回出場しています。
・2002年:総合8位
・2004年:総合1位
・2005年:総合3位
持久力を要する「TAIL IMPOSSIBLE」では3回すべて1位になり、跳び箱の「MONSTER BOX」では当時のプロスポーツマンタイ記録となる20段をクリアしました。
2004年には、並みいる有名選手・強豪選手を押さえて優勝したんです。
当時、アメリカンフットボールの現役選手だった里見恒平(現競輪)、川口正史、ケイン・コスギや池谷直樹を抑えての堂々の優勝だった。
引用:驚異の身体能力誇った三浦貴さん スポーツマン№1決定戦で並みいる強豪押しのけ優勝― スポニチ Sponichi Annex 野球
総合優勝ということは、持久力・瞬発力だけでなく、パワー系の種目でもコンスタントに成績を残す必要がありますので、三浦貴さんは本当に身体能力オバケだったんです。
もし、三浦貴さんがイップスにならなかったら・・・どのくらいの選手になっていたのでしょうか。
高い身体能力を全部発揮できてさえいれば、すごい投手になっていたはずです。
三浦貴が結婚した嫁や子供の情報
三浦貴さんは結婚して子供がいますが、嫁や子供の詳しい情報は出ていません。
mixiの応援コミュニティには、次のように書かれていました。
■家 族 :妻と2女
また、幼稚園からの幼馴染と結婚していたようです。
@Jukai_chan 幼稚園からの幼馴染と結婚した三浦貴、有能
— 忍 (@heppoco_axman) July 16, 2014
しかも、奥様の名前は貴子さんというお名前という情報があります。
Yahoo!知恵袋には次のような質問と回答が投稿されていました。
A:嘘みたいですけど、本当の話です。
幼稚園からの幼馴染と結婚するプロ野球選手なんて、めちゃくちゃ素敵ですよね。
しかも、夫婦の名前は一字違い。三浦貴さんと三浦貴子さん。夫婦になるべくして生まれてきたようなご夫婦です。
mixiの情報によると、子供は女の子が2人います。戦力外になった2009年の時点で、子供は小学生だったようです。
小学生の子供もいて生活が最優先。
ということは、2023年現在はもうすでにお子さん2人とも成人していると思われます。
引退時点で子供が小学生だったということは、結婚は早かったんですね。プロ入りして早い時点で結婚したのでしょう。
三浦貴は引退後に浦和学院のコーチに
三浦貴さんは、2009年のシーズンオフに西武ライオンズから戦力外通告を受けて現役を引退しました。
その後、母校の浦和学院高校の野球部コーチに就任します。
引退後の挨拶で勧誘される
出典:sanspo.com
三浦貴さんは巨人から戦力外宣告を受けたころから「第二の人生」のイメージを少しずつ持つようになっていましたが、そこまではっきりとした目標は持っていませんでした。
そのような中、現役引退の挨拶のために母校を訪問した時、恩師・森士監督から「教員免許を取得して、指導者としてスタートを切ってみないか」、「俺の後を継ぐか?」と誘いを受けます。
この誘いで、三浦貴さんは第二の人生が決まりました。
プロ野球選手になることは、難関大に入るより難しい。自分は幸運にもそんな貴重な経験をさせてもらった。だったら、その経験から学んだことを後輩たちに伝えることが自分の使命なんじゃないか、って」
教員免許を取って、高校野球の指導者になることを決意したのです。
東洋大学で教員免許を取得
出典:toyo.ac.jp
高校野球の指導者になるためには、まずは教員免許を取る必要がありました。
教員免許を取るためには大学で単位を取得する必要があります。しかし、三浦貴さんには家族がいて、生活費を稼がないといけませんでした。
大学の夜間部に通うためには、仕事が早めに終わる必要があり、残業もできません。だから、内定をもらえても、なかなか条件面で折り合いがつかなかったんです。
そんな時に手を差し伸べてくれたのが、野球部の先輩でした。運送会社を経営していた先輩が、トラック運転手として採用してくれたんです。
そして、働きながら、東洋大学で科目履修生として学ぶ生活が始まりました。かなりハードな毎日だったようです。
「朝は6時前に出社。午後4時ごろに帰宅して、5時には大学に向かう。6時10分から9時20分まで講義を受けて、家に着くのは10時ごろ。12時にはベッドに入ります」
そのような生活を続け、母校の浦和学院高校で教育実習も終えて、見事教員免許を取得しました。
浦和学院で教員として働く
2012年3月に教員免許を取得した三浦貴さんは、2012年4月から浦和学院高校で社会科の教員として働くことになりました。
ただ、すぐに野球部のコーチになれたわけではありません。
当時は元プロ野球選手が高校野球の指導者になるには2年以上の教員経験が必要でした。そのため、最初は野球部の指導者ではなく、社会科の教員として働いていたんです。
浦和学院の野球部コーチに
浦和学院高校で社会科の教員として働いていた三浦貴さんでしたが、2013年7月に研修を受けるなどの条件で「2年以上の教員経験」の規則が撤廃されました。
そのため、三浦貴さんは2013年7月29日に学生野球資格回復が承認され、7月30日から浦和学院高校の野球部のコーチに就任しました。
三浦貴さんの高校野球部コーチ就任は、規制緩和の新制度適用第1号(石川賢さんと同時)となっています。
その後は、担任や公民の授業など教員として勤務しながら、野球部の野手担当コーチとして指導してきました。
授業でもグラウンドでも、そして寮でも選手と共に行動し、小さな変化・体調に目を配り、言葉でもわかりやすく理論的に、野球の指導を行っていたとのことです。
三浦貴は2023年7月に死去していた…
浦和学院高校の教員・野球部コーチとして活動していた三浦貴さんでしたが、2023年7月24日にさいたま市内の実家で亡くなりました。45歳の若さでした。
葬儀には1300人もの人が参列しています。
巨人、西武でプレーし、強豪・浦和学院でコーチを務め、24日未明に直腸がんのため死去した三浦貴(たか)さん(享年45)の通夜が29日、さいたま市のオーロラ・ホール中央でしめやかに営まれ、約1300人が参列した。
引用:巨人、西武でプレー 浦和学院コーチ・三浦貴さん通夜に1300人参列 「ロッキー」のサントラ流れる : スポーツ報知
恩師の森士さんのほか、浦和学院高校関係者、浦和学院同期の元プロ野球選手の石井義人さんや巨人の先輩の清水隆行さんなども駆けつけました。
また、原辰徳監督、高橋由伸前監督、森野将彦コーチなどからも花が届けられています。
三浦貴の死因は大腸がん(直腸がん)
三浦貴さんの死因は大腸がんです。
一部報道では直腸がんと報じられていますが、直腸も大腸の一部なので、直腸にがんが発生していたということでしょう。
大腸がんで治療に専念
三浦貴さんは2022年3月にステージ4の直腸がんが見つかりました。
治療に専念するため、浦和学院高校を一時休職して、放射線治療や2度の手術をして、がん細胞の除去に成功していました。
2023年1月にはお酒を口にできるところまで回復し、2023年春からは週2日程度、コーチとして野球部のグラウンドに顔を出し、指導を再開していました。
前日には高校時代の恩師と面会
しかし、2023年6月には再び体調が悪化し、治療に専念していました。
自宅で療養していたとのことですが、亡くなる前日の7月23日には高校時代の恩師である森士さんが自宅を訪れて面会していました。
「もうろうとしてましたが、意識はしっかりしていて、会話はできました。前の日から、私が行くことを小川から聞いて知っていて、『ざわつく』と言っていたようで。私が行くと起き上がってきてね。『寝とけよ』と言って、話をしましたね」。
引用:元巨人・三浦貴さん死去前日に面会の浦和学院・森士前監督「おまえがいてくれたから幸せな監督人生だった」:中日スポーツ・東京中日スポーツ
かなり状態は悪かったようですが、なんとか起き上がることはできる状態だったんですね。
話もできたようですが、翌日に容体が急変して亡くなったようです。
三浦貴の死去後の現在:浦和学院は甲子園出場
三浦貴さんが亡くなったのは2023年7月24日。浦和学院高校野球部は、夏甲子園予選の真っ最中でした。
死去した時点で埼玉大会でベスト8入りしていて、死去翌日の25日には準々決勝、26日に準決勝、28日に決勝が行われました。
そして、三浦貴さんの教え子たちは見事勝ち進み、甲子園出場を決めています。
「悲しいこともあったんですけど、悲しく思わず、天国で見てくれている三浦先生のために絶対に勝とうと思っていた。勝てて良かったです」と亡き三浦さんに思いを馳せた。
引用:浦和学院 亡き三浦貴さんに捧ぐ夏甲子園 指揮官大粒の涙「天国で見てくれている三浦先生のために…」― スポニチ Sponichi Annex 野球
甲子園では1回戦で仙台育英に敗れてしまいましたが、選手たちは三浦貴さんの指導を胸に甲子園出場というを成し遂げたことは間違いありません。
三浦貴のまとめ
三浦貴さんのプロフィールや中学・高校・大学時代、巨人や西武での経歴、結婚した嫁や子供、引退後の浦和学院高校コーチ就任、死去や死因の直腸がん、現在についてまとめました。
三浦貴さんのご冥福をお祈りします。