日本のブライダルファッションを牽引してきた桂由美さんが亡くなりました。桂由美さんのプロフィールや生い立ち、家族、若い頃からの経歴、旦那との結婚生活や子供の有無、自宅や死因などをまとめました。
この記事の目次
桂由美のプロフィール
出典:sankei.com
桂由美
本名:結城由美
生年月日:1930年4月24日
没年月日:2024年4月26日
出身:東京都
職業:ウェディングドレスデザイナー、実業家
桂由美さんはブライダルファッションデザイナーです。日本の婚礼衣装は和装がメインだった時代に、ウェディングドレスを発売し、1964年には日本初のウェディングドレス専門店をオープンさせ、日本にウェディングドレスを定着させました。
2009年の時点で桂由美さんがデザインしたウェディングドレスを着た人は63万人もいて、安めぐみさんや北川景子さん、中越典子さんなどの芸能人も、結婚式・披露宴で桂由美さんがデザインしたウェディングドレスを着用していました。
桂由美の生い立ち
1930年に東京都江戸川区で生まれた桂由美さんは、田んぼに囲まれた中で男の子たちと遊びながら成長していきますが、小学校の時は裁縫と体操が苦手だったとのこと。
母親が洋裁学校をやっていて、ご自身も将来はウェディングデザイナーになるというのに、裁縫が苦手というのは意外ですよね。
先生からは「お母さんは洋裁学校までやっているのに、あなたはどうして裁縫が苦手なの」と言われ、それが嫌でした。
戦争が激しくなってきた1943年には、母親の希望で共立高等女学校に入学します。入学当初はセーラー服でしたが、戦争激化の影響で制服はもんぺかズボンになってしまいました。
そして、1945年3月10日。桂由美さんが中学生だった頃、東京大空襲が襲います。朝になってもまだあちこちで火の手が上がっている状況の中で、桂由美さんは1人で学校に向かいます。
「そりゃあ、行かなくちゃ。私はクラス委員長だし、みなさんがどうなっているかを見極める責任もあるから」
責任感が強く、行動力がある子供だったことがわかりますね。この時、動いている電車は一部だけだったため、3時間くらい歩いて学校(軍需工場)に向かたそうです。
桂由美さんは中学生の頃愛国心が非常に強く、海軍大臣に特攻隊に志願する手紙も送っています。
終戦を迎えると、街も人も荒廃し、辛い現実や空虚感に襲われることになりますが、それを忘れさせてくれたのが演劇でした。桂由美さんは演劇部を立ち上げ、演劇にのめり込んでいくようになりました。
桂由美の家族
出典:mainichi.jp
桂由美さんは4人家族です。
・父親:満生時雄(公務員)
・母親:みつ子(洋裁学校経営)
・桂由美
・妹
父親の満生時雄さんは福岡県出身で、早稲田大学卒業後に逓信省に入省し、鉄道郵便の東北担当になって仙台に赴任します。
母親のみつ子さんは仙台在住だったので、その時に縁があり、結婚することになりました。
みつ子さんは大学進学を希望していましたが、実家の経済的な理由で進学を断念することになり、時雄さんと結婚して東京に行けば、チャンスがあるかもしれないと思い結婚したとのことです。
東京に来たみつ子さんはすぐに文化服装学院に通うようになり、近所の主婦たちに編み物や洋裁を教えるようになります。その後、不況もあり時雄さんの両親と同居するようになり、経済的に苦しくなりますが、みつ子さんの仕事は順調に増えていき、洋裁学校を経営するようになりました。
桂由美の若い頃からの経歴
「桂由美ブライダルサロン」オープンまで
洋裁学校を経営していた桂由美さんの母親は、桂由美さんを自分の後継者にしたかったようですが、桂由美さんはそれを重荷に感じていて、それを避ける意味もあり、どんどん演劇にのめり込んでいきました。
文学座の演劇研究所に応募して合格した時は母親は真っ青になりましたが、1年だけという約束で、大学と文学座をかけもちしていました。その後、自分の俳優としての能力に限界を感じ、さらに文学座の看板俳優だった芥川比呂志さんから諭されて、演劇の道を断念しました。
演劇を諦めた桂由美さんは大学3年生の時から文化服装学院の夜間部に通い始めます。大学と文学座、大学と文化服装学院と2つの学校を掛け持ちしていたので、「ミス・ハーフ」というニックネームで呼ばれていたそうです。
30歳の頃にファッションの勉強をするために、パリに1年留学していました。帰国後に母親が経営する学校で教師として働き始めます。
そのような中、卒業制作の課題に「ウェディングドレス」を出し、生徒たちと一緒に生地の買い出しに行ったところ、日本では全然ウェディングドレスを作れるような環境ではないことを実感し、桂由美さんは自分でウェディングドレスを作ろうと決心するのです。
そしたら生徒が、「先生、お店を開いてああいう人を助けてあげられないですかね」って言うもんですから、私、人がやってないことにやりがいを見い出す性格なもので……、やろうと思いました。
そして、1964年に日本初のウエディングドレス専門店「桂由美ブライダルハウス」をオープンさせました。
ブライダルの伝道師として
桂由美ブライダルハウスをオープンさせた桂由美さんは、その後日本にブライダルを根付かせるために、様々な活動を行っていきます。
・1969年:NPO法人全日本ブライダル協会設立
・1976年:日本フォーマルウエア協会設立
・1987年:パリでグランドコレクションを挙行
・1993年:ローマ教皇に祭服を献上
・1999年:東洋人初のイタリアファッション協会正会員になる
・2003年:春夏パリ・オートクチュールコレクションに参加
・2011年:千葉商科大学サービス創造学部の特命教授就任
パリやニューヨークなど世界30都市以上でショーを開催していますし、パリでは2003年以降毎年コレクションを挙行していますし、パリのシャネル本店前に自身のブランド店「YUMI KATSURA」をオープンさせました。
1993年には外務大臣表彰を受賞、2019年には文化長官表彰を受けています。
2022年には契約縫製工場がある福井若狭町に日本初のブライダルファッションミュージアムの「BRIDAL LAND WAKASA」・「YUMI KATSURA MUSEUM」をオープンさせました。
桂由美さんは、ただウェディングドレスをデザインしたというだけでなく、日本にブライダルを文化として根付かせた偉人と言えるでしょう。
桂由美の結婚…旦那は大蔵官僚
桂由美さんは大学卒業後にずっと仕事に邁進していました。卒業後は母親の後継者として洋裁学校で働き、30歳でパリに留学し、帰国後は洋裁学校の教師になり、そこからすぐにウェディングドレスの世界に足を踏み入れ、日本初のウェディングドレス専門店をオープンさせましたから。
オープンさせた後も、母親の洋裁学校で働き続けていましたので、お客さんの結婚を祝うのに精いっぱいで、自分の結婚は後回しになっていたようです。
結婚式の日に、ドレスを着て輝く笑顔の花嫁さんになってもらいたい、それだけを願って母親の経営する洋裁学校の先生を務めながら、二足のわらじで走り続けた。
若い頃から走り続けて、気づいたら40代。40代になって、人生の伴侶を得ました。その伴侶とは、結城義人さんです。
結城義人さんは東京大学卒業で大蔵省に勤めていた官僚で、桂由美さんが42歳、結城さんが53歳の時に結婚しました。かなりの晩婚ですよね。現代の感覚でも晩婚ですが、1972年の感覚だと本当に晩婚だったと言えるでしょう。
桂由美さんと結城義人さんは紹介で知り合ったのですが、結城さんは桂由美さんの「ファッションデザイナー」という仕事に興味を持ち、桂由美さんは自分の結婚相手への条件にピッタリだったことで、意気投合したようです。
桂由美さんの条件とはこちらです。
「まず、尊敬できる人であること。そして、きちんと自分の仕事を持っていて、私の仕事を手伝おうとしない人がよかったんです」
それぞれしっかりとした仕事があり、それぞれ自立した夫婦だったと言えるでしょう。
桂由美の結婚生活
桂由美さんが42歳、旦那の結城義人さんは53歳で結婚しましたが、プロポーズの言葉は「二十年早く会いたかった」でした。とてもロマンティックですよね。
大蔵官僚だった旦那の結城義人さんは、結婚後に民間の金融機関に籍を移していました。そこで、弁護士試験を受けるという知人に会い、それに影響されて司法試験を受けることを決意しました。そして、桂由美さんに3年間生活費を渡せなくなると宣言したのです。
「3年間、渡せなくなるけど大丈夫か」と突然言われたが、桂さんは動じない。「私も働いているから、そのくらい大丈夫。だけど、どうして?」と聞くと、「司法試験を受けてみようと思うんだけど、どうだろう」と返ってきた。「やったらいいんじゃないの」とすぐに答えたという桂さん。
この時、すでに結城義人さんはは50代後半。それでも司法試験を受ける夢を応援できるというのは、桂由美さんが経済的に自立していて、しかも理解があったからですよね。普通の妻なら、「定年退職後にやってくれ」と言ってしまうはずです。
結城義人さんは1回目の司法試験は不合格。東大に入りなおして勉強し、1979年に2度目の挑戦で見事司法試験に合格したのです。
旦那の結城義人さんはその後に弁護士として活動するのですが、お互いに仕事をしていたこともあり、ゆっくり余暇を楽しむことはほとんどありませんでした。ただ、桂由美さんの海外出張に合わせてイスタンブールで待ち合わせたり、パリでお互いの仕事がを終わった後にオペラ座でバレエを楽しんだりなど、まるで映画のような夫婦デートをしていたそうです。
旦那の結城義人さんは1990年12月に71歳で亡くなっています。
桂由美に子供はいない
桂由美さんが結婚したのは42歳の時です。旦那の結城義人さんは53歳でした。晩婚の夫婦でしたので、桂由美さんには子供はいません。
子供がいない夫婦2人きりの生活でしたので、たくさんのことを語り合ったそうです。
そして常に、行く先々でも、たくさんのことを語り合った。
引用:18年間の結婚生活。結城義人氏、平成二年に永眠。享年71。 ~集まった、たくさんのエピソード 8/9 | 独立メディア塾
旦那の結城義人さんは71歳で亡くなりましたが、桂由美さんは追悼誌を編集しています。
桂さんは、ご自身が大切な人を見送る立場になったとき、
「遺族にとって最もうれしいのは、故人についての生前のエピソードを聞くことだと悟った」と、自らが編まれた追悼誌『正義の味方 弁護士 結城義人』の中で綴っている。
引用:18年間の結婚生活。結城義人氏、平成二年に永眠。享年71。 ~集まった、たくさんのエピソード 8/9 | 独立メディア塾
子供がいなくても桂由美さんは旦那さんのことを心から愛していたし、良い関係性の夫婦だったことがわかりますね。
桂由美の自宅
桂由美さんの自宅は、東京都港区南青山にある桂由美ブライダルハウスでした。
乃木坂駅から徒歩1分の場所にあるこの桂由美ブライダルハウスは、「ユミカツラ」の直営店で、7階建ての白い西洋風の建物になっています。桂由美さんはこの桂由美ブライダルハウスの6~7階に住んでいました。
1975年に東京・乃木坂に、自身の会社が入る7階建ての西洋風ビルを新築。『職住一緒』と言い、6、7階に住んだ。現在でも土地・建物で10億円ほどの価値があるとされる。
「職住一緒」と言っていたということは、いかに桂由美さんが仕事人間であり、仕事が大好きだったのかがわかりますね。いつまで桂由美さんがブライダルハウスに住んでいたのかはわかりませんが、現在の桂由美ブライダルハウスの6階は桂由美さん自身が直接デザインをするサロンになっています。
EXECUTIVE SALON
エグゼクティブサロン
桂由美本人が直接オートクチュールオーダーのデザインを致します。 そのほか、ご家族、ご両家様の衣裳のトータルアドバイスも致します。
引用:東京本店 | YUMI KATSURA OFFICIAL WEBSITE | ユミカツラ公式サイト|ブライダル ウエディングドレス
7階は営業用のフロアではありませんので、桂由美さんは最後までこの桂由美ブライダルハウスに住んでいたのかもしれません。
桂由美ブライダルハウスの6階の内装はヨーロッパのクラシカルでお姫様風のデザインになっています。これは、シンデレラが好きという桂由美さんの趣向が反映されていたのでしょう。
ちなみに旦那の結城義人さんの事務所も桂由美ブライダルハウスの3階にあったそうですので、夫婦ともにここに住んでいたのだと思います。
弁護士になったばかりの頃、事務所を探していた結城さんは、乃木坂の桂由美ブライダルハウスを建てたばかりの桂さんに、スペースが余っているなら3階の奥の半分を貸してほしいと言ってきた。
引用:18年間の結婚生活。結城義人氏、平成二年に永眠。享年71。 ~集まった、たくさんのエピソード 8/9 | 独立メディア塾
夫婦で自宅と同じ場所に職場があったんですね。
桂由美が死去…死因は病気?
桂由美さんは2024年4月26日に94歳で死去しました。死因は本人の意向で明かされていません。
ただ、長年にわたり病気と闘っていたというわけではありません。
亡くなる1ヶ月前には読売テレビの取材で食欲が減退していると話していましたが、2024年3月には新作70点を発表するショーを開催していました。
また、亡くなる4日前にはテレビ朝日の「徹子の部屋」の収録をしていました(5月3日に放送)し、亡くなる前日には大阪で仕事をしていたそうです。つまり、亡くなる前の日までお仕事ができるくらいの健康状態だったということになります。
94歳で亡くなった桂由美さんですが、亡くなる前日まで仕事をしていたというのは、本当に羨ましい人生だと思います。
桂由美のまとめ
ウェディングデザイナーの桂由美さんのプロフィールや生い立ち、家族、若い頃からの経歴、結婚した旦那との生活、子供の有無、自宅や病気・死因などをまとめました。
桂由美さんがいなければ、日本の結婚式事情は今とは違うものになっていたと思いますし、こんなにウェディングドレスを着ることはなかったでしょう。桂由美さんのご冥福をお祈りします。