「巨人の星」や「あしたのジョー」を手がけた漫画原作者の梶原一騎は、破天荒な伝説や娘の誘拐事件も話題です。
今回は梶原一騎の作品一覧、身長や弟、伝説、結婚した嫁や子供(娘・息子)、娘の白暁燕の殺され方・死因をまとめました。
この記事の目次
梶原一騎は有名漫画の原作者
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梶原一騎
本名:高森朝樹
生年月日:1936年9月4日
没年月日:1987年1月21日
出身:東京都台東区
活動:漫画原作者、小説家、映画プロデューサー
梶原一騎は漫画原作者です。1960年代~1970年代にかけて、「スポ根」もののジャンルを確立し、第一人者として立て続けにヒットを飛ばしました。
梶原一騎原作の漫画・アニメは、令和の時代になった今でも「名作」として語り継がれ、根強いファンから高い支持を得ています。
梶原一騎の経歴
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梶原一騎は1937年、東京都台東区で三兄弟の長男として生まれました。
・母:高森や江(旧姓・佐藤)
父親は知的でインテリタイプ、母親は気性が激しく情念深いタイプだったようで、梶原一騎の弟である真樹日佐夫は、梶原一騎は父方の遺伝子と母方の遺伝子の合作だったと語っています。
つまり、梶原一騎は知的だが気性が激しい人物だったということですね。
子供の頃はかなりやんちゃな子供だったようです。いわゆる「悪ガキ」ですね。
小学校は現在の青山学院初等部(当時は私立緑岡小学校)に入学しますが、やんちゃな梶原一騎には校風が合わず、クラスメートや上級生と喧嘩ばかりしていたため、わずか1年で退学。
一時的に疎開していたものの、戦後は川崎に移住します。そして、教護院の「新日本学園」で1年過ごしました。
その後は大田区蒲田の公立学校に通学しますが、万引きなどを繰り返すため、中学は青梅市にある教護院「東京都立誠明学園」で過ごすことになりました。
教護院とは、犯罪などの不良行為をする児童・生徒が入所・通所するところで、「手の付けられない不良を更生させる学校」のような場所です。
梶原一騎は東京都立誠明学園の寮で生活していましたが、2度ほど脱走したことがあったそうです。
高校は都立芝商業高校に入学しましたが、半年で中退します。
人気漫画原作者に
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高校中退後、梶原一騎は17歳の時、雑誌「少年画報」に『勝利のかげに』というボクシング小説を応募し入選を果たします。このあたりで、父親譲りのインテリ具合が見えてきますね。
そこから、漫画の原作者としてメキメキと頭角を現していきます。本人は小説家志望だったようですが、編集者に口説かれて、漫画原作をメインに活動していくことになりました。
東京中日スポーツには『力道山光浩』というカリスマプロレスラー・力道山の小説を書いたことで、力道山本人から直接電話を貰い、そこから交流が始まったというエピソードもあります。
1960年代から1970年代にかけて、次々にヒット作を生み出していき、梶原一騎の作品は漫画家だけでなく、ドラマ化・映画化もされていくようになります。
それを機に、梶原一騎は芸能界にも顔が利くようになりましたし、『タイガーマスク』のヒットでプロレス界にも力を及ぼすようになりました。
晩年は絶版に…
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ところが1980年代に入ると、梶原一騎は一気に凋落することになります。
1983年に編集者への傷害事件を起こすなどのスキャンダルを次々に起こしたことで、連載中の作品は打ち切りになり、それまで出版されていた人気作品は絶版になってしまいます。
その上、アルコール依存症や暴飲暴食の影響で体調を崩し、壊死性劇症膵臓炎と診断されて、生死の淵をさまよい、体調面でも不安が出てきます。
さらに、有罪判決を受けることになりました。
晩年は、「梶原一騎引退記念作品」として自伝漫画の『男の星座』を書いていましたが、1987年に体調不良を訴え、1987年1月21日に東京女子医科大学病院で死亡。享年50歳でした。
詳しい死因は明らかにされていませんが、壊死性劇症膵臓炎の影響と言われています。
梶原一騎の作品一覧
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梶原一騎は数多くの人気作品を残しています。梶原一騎の代表作を一覧にして紹介します。
・巨人の星(1966年)
・吹けよ!カミカゼ(1966年)
・夕やけ番長(1967年)
・キングコング(1967年)
・柔道一直線(1967年)
・泣き笑い番長(1967年)
・キャプテン・スカーレット(1967年)
・あしたのジョー(1968年)
・タイガーマスク(1968年)
・キックの鬼(1969年)
・赤き血のイレブン(1970年)
・熱血モーレツ記者(1971年)
・空手バカ一代(1971年)
・侍ジャイアンツ(1971年)
・柔道讃歌(1972年)
・愛と誠(1973年)
・長嶋茂雄物語 炎の讃歌(1974年)
・新巨人の星(1976年)
・昭和一代女(1977年)
・四角いジャングル(1978年)
・プロレススーパースター列伝(1980年)
・タイガーマスク二世(1981年)
これらは梶原一騎の作品のごく一部です。漫画原作や小説はまだまだたくさんあります。
梶原一騎の作品の特徴は「スポ根」漫画が多いことです。スポーツの分野で限界までトレーニングをし、最後にはハッピーエンドではなく、燃え尽きて灰になるようなケースが多いですね。
また、次のような特徴もあります。
・母親がいないケースが多い
・師匠が親代わり
・主人公が成長すると、師匠が敵側に回る
梶原一騎の作品のこれらの特徴は、梶原一騎の「男を成長させるのは、味方との融和でなく、強敵との死闘だ」という人生哲学から来ているようです。
梶原一騎の身長・体重
梶原一騎は子供の頃から体が大きかったようです。
身長は公表されていませんが、身長が分かっている人と並んで撮った写真などから推測すると、梶原一騎の身長・体重はこちらです。
・体重:87kg
現代の若者の感覚なら、身長180cm・体重87kgは「大柄だけど、驚くほどではない」という印象でしょうが、梶原一騎は戦前の1936年生まれです。今存命ならば80代になっています。
その年代の男性が180cm・87kgの体型というのは、かなり大柄ですよね。
梶原一騎は柔道と空手が得意で、どちらも有段者とされています。
格闘技ができて、さらにこれだけの身長・体重があった。しかも、風貌がかなりヤクザ的ですし、実際にヤクザとも親しかったと言われています。
それを考えると、梶原一騎は見た目だけでかなり怖かったことが分かりますね。
ただ、身長180cm・体重87kgという自慢の体格も、晩年は病気で一気に痩せてしまいました。
1983年にはステーキとウナギを食べた後に倒れ、壊死性劇症膵臓炎と診断されます。致死率が高い病気ですが、奇跡的に一命を取りとめています。
しかし、体重は87kgから60kgを割り込み、ガリガリになりました。180cmで60kg以下というのは、確かに相当痩せていますよね。
梶原一騎の弟は真樹日佐夫
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梶原一騎の弟は真樹日佐夫です。真樹日佐夫も、梶原一騎と同様に漫画原作者として活動していました。
真樹日佐夫は梶原一騎の3歳年下の弟で、子供の頃は兄以上にやんちゃで不良行為をしていました。
高校時代は空き巣狙いや傷害・器物損壊・恐喝・窃盗・暴力行為等で逮捕され、鑑別所・少年院にも入っています。
真樹日佐夫は『ワル』・『とべない翼』・『タイガーマスク☆ザ・スター』などの漫画原作も書いていますが、梶原一騎よりも小説を多く書いていることが特徴です。
また、梶原一騎のヒット作のリバイバルも多数手がけました。
さらに、梶原一騎の紹介で極真会館に入門し、大山倍達と義兄弟の契りを交わしています。
そして、ここから真樹日佐夫は空手にのめり込んで、修行を続け、1977年には総本部第3代師範代にまで上り詰めました。そして、1980年には独自の門派・真樹道場を設立します。
2012年に急性肺炎で死亡しますが、後に開かれた「真樹日佐夫を偲ぶ会」では敵対関係にあった極真会館やその他の空手の流派からも多くの関係者が参列していました。
真樹日佐夫は「梶原一騎の弟」として、梶原一騎のヒット作のリバイバルを手がけ、作品を世に広めただけでなく、漫画原作・小説家、さらに空手家としての功績もある人物なのです。
すごい人物であることは間違いないですが、梶原一騎同様に見た目はかなり怖いです。梶原一騎と弟の真樹日佐夫が並んで歩いてきたら、逃げ出したくなりますね。
梶原一騎の破天荒伝説① アントニオ猪木監禁事件
梶原一騎は漫画の原作者として有名ですが、その私生活はかなり破天荒であり、豪快で型破りなものでした。
ここからは、梶原一騎の破天荒伝説を見ていきましょう。
梶原一騎の破天荒伝説、1つ目はアントニオ猪木監禁事件です。
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梶原一騎はタイガーマスクの原作者であり、そこからプロレスラーのタイガーマスクが生まれました。
タイガーマスクは子供たちのヒーローであり、プロレス人気・興行に大きな役割を果たしていたんです。
タイガーマスクの権利を持つのは梶原一騎ですので、新日本プロレスはタイガーマスクの使用料・権利料を梶原一騎側に支払わなくてはいけません。
しかし、新日本プロレス(アントニオ猪木)はタイガーマスクのキャラクター使用料・権利料の支払いが滞っていたようで、梶原一騎との関係が悪化します。
そこで、梶原一騎はヤクザと一緒になって、アントニオ猪木と新日本プロレスの関係者を呼び出し、監禁して、拳銃をちらつかせながら、支払いを迫ったということです。
この監禁・脅迫事件について、梶原一騎は否定しているものの、トラブルがあったことは認めていますので、似たようなことはあったようです。
梶原一騎の破天荒伝説② ぼったくりバーで大暴れ
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破天荒伝説の2つ目は、ぼったくりバーで大暴れしたことです。
ぼったくりバーで30万円の支払いを要求された梶原一騎は、「支払えなければ指を詰めろ」と脅されますが、まったく動じず、むしろホステスを人質にとって大暴れします。
ホステスをジャイアントスイングして、店から脱出したとのこと。
しかも、その豪快さにジャイアントスイングされたホステスは梶原一騎に惚れ込んでしまい、この後2人は同棲することになったそうです。
梶原一騎の破天荒伝説③ ストリップ嬢をストーカー
梶原一騎の破天荒伝説の3つ目は、ストーカー事件です。あるストリップ嬢に惚れ込んだ梶原一騎は、なんとストーカー行為をして近づこうとします。
・レストランで隣の席に座って会話を盗み聞きする
・ファンレターを書くも返事を貰えないことに怒り、楽屋に侵入する
完全にストーカーです。現代だったら、間違いなく警察を呼ばれるレベルのストーカー行為をしています。
しかし、ここでも不思議なことが起こります。
ストリップ嬢は梶原一騎の強引さ・押しの強さに負けて、2人は同棲をするんです。梶原一騎はモテ男だったんですね。
梶原一騎の破天荒伝説④ 名女優と浮名を流す
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梶原一騎は名女優との浮名も流しています。
梶原一騎原作の漫画が映画化・ドラマ化されることで、梶原プロダクションを設立しました。
これにより、芸能界にも顔が利くようになり、キャスティングにも口を出せるようになったため、女優との接点も増えたため、たくさんの女優との熱愛が噂されるようになったんです。
こちらは梶原一騎との関係が噂されたことがある女優です。
・池上季実子
・島田陽子
・志穂美悦子
・早乙女愛
これらの女優との関係は自伝漫画の『男の星座』で書く予定でしたが、書く前に亡くなってしまったので、実際のところはどのような関係だったのかは明らかになっていません。
いくらキャスティングを握っていたとしても、これだけの有名女優と関係があったとしたら、やっぱり梶原一騎は破天荒ですし、モテ男とだったんですね。
梶原一騎の破天荒伝説⑤ 極真会館を分裂させた
梶原一騎は極真会館を分裂させた張本人とも言われています。
梶原一騎は大山倍達と義兄弟であり、大山倍達は梶原一騎の「空手バカ一代」のモデルにもなった人物です。
しかし、梶原一騎が大山倍達以外の弟子(芦原英幸)を登場させ、空手家でもない梶原一騎が極真会館で力を持つことを大山倍達が認めていたことに、極真会館の中で不満が出てきました。
・大山派
・マイペース派
この3つに極真空手は分裂していったのです。
梶原一騎の破天荒伝説⑥ 暴行・傷害事件も多数
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梶原一騎の伝説、最後は暴行・傷害事件を多数起こしていることです。
・クラブホステス暴行未遂事件
・ゴーストライター10万円恐喝事件
・つのだじろう詫び状事件
梶原一騎は全方位に敵を作るタイプであり、どこかで必ずもめ事を起こしていたのかもしれません。
ただ、逮捕されたのは「月刊少年マガジン副編集長暴行事件」の1回だけですね。
梶原一騎の結婚① 嫁は高森篤子 【子供は息子3人と娘2人】
梶原一騎の嫁は2人いました。まずは、最初の結婚を見ていきましょう。
高森篤子とは2度結婚
梶原一騎が最初に結婚したのは高森篤子さんです。高森篤子さんとは亡くなるまで婚姻関係を結んでいましたが、実は一度離婚したことがあるんです。
1973年から1985年までは離婚しており、梶原一騎は高森篤子さんと結婚→離婚→結婚をしたことになります。
高森篤子さんは1945年生まれで、18歳の時に梶原一騎と結婚していますので、結婚したのは1963年ごろと思われます。
1963年というと、梶原一騎はデビューしているものの、まだ大きなヒット作はなかったころでした。
高森篤子さんはかなり肝が据わった人物だったようで、「自分が男だったら、極真会館を1つにまとめられたのに」と言っていたそうです。そのお人柄は吉田豪さんも絶賛されていました。
そして、高森篤子さんは梶原一騎について、次のように語っています。
外見とは全然違いますよ。やさしいし、女好きでもあったし、凶暴性もありましたけど(笑)。普通の人の何十人分の多面性がありましたね。
嫁だからこそ見せていた梶原一騎の一面があったのだと思います。
子供は息子が3人・娘が2人
梶原一騎と高森篤子さんの間には、5人の子供がいます。息子が3人・娘が2人ですね。梶原一騎と高森篤子さんは、長男の高森城さんが3歳のころに離婚しています。
「3歳の時に両親が離婚して、母に引き取られているので、小中学校時代に父と会うのは年に4回くらい。リビングで一緒に過ごしていると、子供たちに『そこに並んで、1人ずつ順番に歌え』と命じられました。弟が近藤真彦の曲などを歌い、父も気分が乗ったら、アカペラで流行歌を口ずさんでいましたね」
破天荒なイメージが強い梶原一騎ですが、離婚後も定期的に自分の子供に会っていて、子供には父親の顔を見せていたんですね。
梶原一騎の結婚② 嫁は白冰冰
梶原一騎は高森篤子さんと離婚している時に、別の女性と結婚しています。
白冰冰は台湾のタレント
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梶原一騎の2人目の嫁は台湾人タレントの白冰冰さんです。
梶原一騎と白冰冰さんは、梶原一騎が高森篤子さんと離婚していた間の一時期、1979年~1981年に結婚していました。
白冰冰さんは歌と演技を学ぶために1975年から来日していて、そこで知り合った梶原一騎と結婚しました。
しかし、結婚生活は長くは続かず、梶原一騎のDVなどに苦しみ、逃げるように台湾に帰国しています。
娘は白暁燕
梶原一騎の2番目の嫁である白冰冰さんとの間には、子供は1人います。白暁燕さんという娘でした。
1980年に白暁燕さんは生まれていますが、生まれる前に既に両親は別居していました。そのまま白冰冰さんに引き取られ、台湾で育っています。
梶原一騎の娘の殺され方・死因が残忍すぎると話題に【白曉燕誘拐殺害事件】
梶原一騎と白冰冰さんの娘である白曉燕さんは、16歳の時に殺害されました。
白曉燕さんは台湾史上最大の誘拐事件に巻き込まれて殺害されていて、その殺され方や死因はかなり残忍なものになっているんです。
この事件は梶原一騎が死亡してから約10年後に発生しています。
白曉燕誘拐殺害事件とは?
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台湾史上最大の誘拐事件である白曉燕誘拐殺害事件は、1997年4月14日に発生しました。当時高校2年生だった通学途中に誘拐されました。
誘拐した主犯格は、次の3人です。
・林春生
・高天民
陳と林が通学途中の白曉燕さんを誘拐し、高が運転する車に乗り込みました。
白曉燕さんを拘束し、左胸を露出させた状態で写真を撮り、さらに小指を切断しました。この切断時に白曉燕が痛みで騒いだため、犯人3人は白曉燕さんに殴る蹴るの暴行を加えています。
翌日、犯人から母親の白冰冰さんに娘を誘拐したと連絡が入ります。
誘拐した証拠として、犯人たちは白曉燕さんの写真3枚と切断した小指、さらに身代金500万ドルを要求した紙を指定した場所に置いておき、それを白冰冰さんに発見させました。
白冰冰さんはすぐに警察に通報し、さらに身代金を用意します。4月18日と19日には犯人側と身代金の交渉をして受け渡し場所を決めますが、犯人は現れませんでした。
4月23日にも身代金受け渡しの計画がありましたが、この時も犯人は現れず、身代金の受け渡しは行われなかったのです。
白曉燕の殺され方・死因
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身代金の受け渡しが行われないまま、時間だけが過ぎていきました。
そして、4月28日に白曉燕さんの遺体が台北県泰山郷で発見されました。遺体はドブ川のようなところに遺棄されていたと言います。
そして、遺体はひどい暴行を受けた跡が残っていました。白曉燕さんの殺され方はこちらです。
・内臓(肝臓)が破裂していた
・肝臓破裂により、腹腔内に500mlの出血があった
・左小指が切断されていて、指の根元には止血のためと思われる針金が巻いてあった
・首にナイロンコードが巻かれていた
・強姦された形跡があった
直接の死因はナイロンコードによる絞殺、つまり窒息死です。
ただ、暴行による内臓破裂で腹腔内の出血が多かったために、絞殺されていなくても、出血多量と内臓破裂で死亡していただろうと言われています。
左小指を切断され、頭や胸・腹に肝臓が破裂するほど殴る蹴るの暴行を受け、強姦され、首を絞めるという殺され方をされるなんて、あまりにもむごいですね。
さらに、インターネット上にはもっとひどい殺され方をしたという記述があります。
一時期はWikipediaにもその記述はありましたが、デマの可能性が高く、実際は上記に記載した殺され方・死因だという見方が大半を占めています。
4月28日に遺体が発見された時点で、死後8~10日経過していたようです。
つまり、白曉燕さんは4月18日~20日に殺されており、最初の身代金の受け渡し日にすでに死亡していた可能性もあります。
判決までの事件の経過
何度も身代金受け渡しの場所が指定されたのに、犯人が受け渡しの場所に現れなかったのは、マスコミの過剰な報道・行動に問題があったためとも言われています。
警察は4月25日に犯人グループのアジトを発見し急襲しますが、主犯3人を取り逃がしました。
主犯3人は逃亡し、6月6日には台北県議員の蔡明堂を誘拐・500万ドルを奪い、8月8日にも会社経営者を誘拐して身代金を強奪しています。
8月19日に高と林が台北市内で発見され、銃撃戦となりました。林は6ヶ所の銃撃を受け自殺していますが、高は逃亡しています。
高と陳は10月23日に台北市内の整形外科に押し入り、無理やり整形手術を行わせた後、医師夫妻と看護師1名を殺害しています。しかも、陳は看護師を殺害前に強姦までしています。
11月17日には再び銃撃戦となり、高は逃げきれないと思い自殺。陳は翌日に南アフリカ大使館の駐在武官官邸に人質5人を取って立てこもりましたが、最終的には逮捕されました。
梶原一騎の娘の白曉燕誘拐殺害事件は、最終的に5人の死者・10人のけが人を出しました。
さらに事件に駐在武官が巻き込まれたため、南アフリカは台湾と国交を断行し、翌年は中国と国交を樹立するという外交問題にまで発展しています。
主犯で唯一逮捕された陳進興は、5件の誘拐・殺人・強盗に対し死刑5回、別の暴行事件などで懲役刑合計59年9か月という判決を言い渡されています。
そして、1999年10月6日に死刑が執行されました。
梶原一騎のまとめ
梶原一騎さんの経歴や作品一覧、身長や体重、弟の真樹日佐夫、破天荒伝説、結婚した嫁と子供(息子・娘)の情報、誘拐殺人事件での娘の白曉燕さんの残酷な殺され方・死因をまとめました。
・あしたのジョーや巨人の星、タイガーマスクなどの代表作がある
・身長は約180cmとかなり大柄で柔道経験者
・弟の真樹日佐夫も漫画原作者
・かなりの破天荒な人生で暴行・傷害事件も起こしていた
・結婚した嫁は高森篤子さん
・台湾タレントの白冰冰さんとも結婚していた
・高森篤子さんとの間に子供は5人、白冰冰さんとの間には娘が1人
・白冰冰の娘の白曉燕さんは誘拐され、残忍な殺され方をした
梶原一騎は本当に破天荒な人生を歩んでいました。破天荒で暴力的ながらも、数々の名作を残してきたことは間違いありません。
弟の真樹日佐夫さんが言っていたように、父親の知的さと母親の気性の荒さを掛け合わせたような人物でした。
最後に、娘の白曉燕さんのご冥福をお祈り申し上げます。