福知山線脱線事故と聞けば誰もが思い出す2005年の悲惨な事故です。結果的に多くの方が亡くなってしまった事故ですが、その事故は運転士・高見隆二郎にあったといいます。
今回は福知山線脱線事故の概要と原因について、また四肢切断の生存者証言や事故現場の現在など総まとめしました。
この記事の目次
「福知山線脱線事故」とは
107名の尊い命を奪った「福知山線脱線事故」とは
福知山線脱線事故は2005年4月25日午前9時18分ごろに起きた列車事故で、死者107名も出した最悪の列車脱線事故でした。
列車事故の詳細は、宝塚発JR東西線・片町線経由同志社前行き上り快速の前5両が脱線、うち前4両は線路から完全に逸脱、先頭の2両は線路脇の分譲マンション「エフュージョン尼崎」に激突。
その後、先頭車は1階ピロティ部の駐車場へ突入し、2両目はマンション外壁へ横から激突しさらに脱線逸脱してきた3-4両目と挟まれて圧壊、外壁にへばりつく様な状態で、1-2両目は原形をとどめない程に大破してしまいました。
出典:https://headlines.yahoo.co.jp
事故列車は、直前の停車駅である伊丹駅で所定の停車位置を超過、事故が起きる前に運転士が車掌に対して、オーバーランの距離を短く報告するように願い出たそうです。
車掌はその通りに新大阪総合指令所に対して約70mのオーバーランを8mと報告し、JR西日本も当初車掌の証言通り8mのオーバーランと発表していました。
このことから、事故後に他の路線や鉄道会社において発生した列車のオーバーランについても大きくクローズアップされるようになりました。
さらにJR西日本が事故当日に行った発表の中で、線路上への置石による脱線の可能性を示唆したことから、愉快犯による線路上への置石や自転車などの障害物を置くといった犯罪も相次いでしまいました。
事故車両の1両目は、片輪走行で左に傾きながら、カーブ開始点付近の線路そば電柱に接触し、マンション脇の立体駐車場と同スペースに駐車していた乗用車を巻き込むと共に左に横転してしまいました。
そして、列車はマンション1階の駐車場部分へと突入し奥の壁に激突、続く2両目も、片輪走行しながらマンョンに車体側面から叩きつけられる状態に加えて3両目に側面から挟まれるように追突されたことによって、建物に巻きつくような形でくの字型に大破してしまいます。
3両目は、進行方向と前後が逆になり、4両目は、3両目を挟むようにして下り線(の線路と西側側道の半分を遮る状態でそれぞれ停止しました。
この事故はJR発足後の死者数としては1991年の信楽高原鐵道列車衝突事故を上回り史上最悪となる死傷者を出し、国内の鉄道事故全般で見ても戦後では桜木町事故を上回り、八高線の列車脱線転覆事故・鶴見事故・三河島事故に次いで4番目、戦前・戦中に遡っても7番目となる甚大な被害となりました。
また犠牲者の遺族・友人、負傷しなかった乗客・マンション住人、救助作業に参加した周辺住民・救急隊員など広範囲でPTSDを発症するなど大きな影響を及ぼしました。
「福知山線脱線事故」難航した救助活動
救助活動は、駐車場周辺において電車と衝突して大破した車からガソリン漏れが確認されており、引火を避け被害者の安全を確保するためにバーナーや火花が散る電動カッターを用いることができず難航しました。
犠牲者の多くは1両目か2両目の乗客で、多くは脱線衝突の衝撃で車体が圧壊し押し潰されたことによる頭部や胸腹腔内損傷、胸腹部圧迫による窒息死、頚椎損傷、骨盤骨折による失血死やクラッシュ症候群、又はクラッシュシンドロームなどです。
同じ車両から救出された生存者であってもクラッシュ症候群により四肢切断など後遺障害を伴う重傷者が複数人確認されています。
近隣住民および下り列車に対しての二次的被害は免れたものの、直接的な事故の犠牲者は死者なんと総勢107名、負傷者562名とまでなりました。
事故発生直後、いち早く現場へ駆けつけて救助にあたったのは近隣住民で、死傷者があまりにも多く救急車のみでは搬送が追いつかなかったため、歩行可能な負傷者および軽傷者は警察のパトカーや近隣住民の自家用車などで病院に搬送されました。
また、多数の負傷者を一度に搬送するため、大型トラックの荷台に乗せて病院へ搬送する手段が取られています。
また、当時列車にはJR西日本の社員2名が乗車していたことも判明しており、この社員らが職場に連絡をしたところ、上司から出勤命令が出たため、この社員は救助活動をせずに出勤したことが判明。
救助より出勤を優先させるJR西日本の人命軽視体質として大々的に報道され、この報道は世論を巻き込み、批判の的となりました。
「福知山線脱線事故」の原因は運転士のスピードの出し過ぎか?
この事故の原因としては多くの原因が挙げられており、その中には仮説としてあげられたものもあります。
そして、兵庫県警察および航空・鉄道事故調査委員会による事故原因の解明が進められ2007年6月28日に最終報告書が発表されました。
航空・鉄道事故調査委員会の認定した脱線の原因については「脱線した列車がブレーキをかける操作の遅れにより、半径304mの右カーブに時速約116kmで進入し、1両目が外へ転倒するように脱線し、続いて後続車両も脱線した」という典型的な単純転覆脱線と結論付けました。
「福知山線脱線事故」大惨事を起こした運転士・高見隆二郎とは?
死者107名もの脱線事故を起こした列車の運転士は、この事故で死亡した高見隆二郎運転士でした。
幼少期かから非常にまじめで、優しく好青年と評判だった高見隆二郎運転士。事実、友人たちも口をそろえて「超がつくほどマジメだった」と高見隆二郎運転士について語っています
しかし、そんな高見隆二郎運転士は仕事ではミスを連発し、処分を度々受けていました。
事故前に受けた主なミスや処分の一覧はこちら。
・駅員時代には遅刻で厳重注意を受けている。
- ・下狛駅で100mオーバーランを起こし、日勤教育を受ける
- ・灘駅で40mオーバーラン
その他にも数メートルのオーバーランが何回かあったようです。
事故発生当初の最大の課題が、「生真面目で評判のよかった高見隆二郎運転士が減速もせず、異常運転をしたのか?」という点でした。
ミスが多かった高見隆二郎運転士は、日々の重圧と日勤教育を恐れたために事故を起こしてしまったのではないかと言われています。
ヒューマンエラーの再発防止のために社員教育は必要不可欠な存在であり、日勤教育はその社員教育の一部である。しかし、JR福知山線脱線事故の際、西日本旅客鉄道(JR西日本)では本来行われるべき教育的意義とはかけ離れた、懲罰的・暴力的な内容の日勤教育が行われていたことが報道され、安全教育とは無関係な研修内容が非人道的な職場内暴力(パワーハラスメント)や精神的な暴力、嫌がらせ(モラルハラスメント)であるとして国会などで問題視された。
これに対し、JR西日本側は「報道された内容は実態とは異なる」と主張しているが、その実態は後述した内容となっている。同じく旧国営組織であった日本郵政公社(現:日本郵政グループ)においても訓練道場と呼ばれる問題が存在すると指摘されている。もともとは社内用語だったが、パワーハラスメントの代名詞となりつつある。
「福知山線脱線事故」発生当初は白い車が原因説も何故か立ち消えに
事故の一報が入った当初は、列車が白い車に衝突したという報道がありましたが、この報道は事故当日の昼過ぎには無かったことにされてしまいました。
何故、この白い車原因説が早々に立ち消えになってしまったかは疑問が残ります。
また、白い車の所有者は「事故の約3分前に車を駐車場に駐車した」と語っているそうですが、
高見隆二郎運転士はこのあたりで非常ブレーキをかけているのは事実です。
速度超過していたとはいえ、当初の原因とみられていた白い車も事故後19時間で十分な検証もされぬまま撤去されてしまっています。
ネット上では、この白い車原因説は未だに議論されていたりします。
「福知山線脱線事故」原因は運転士のスピードの出し過ぎ
最終報告書では、高見隆二郎運転士のブレーキのかけ遅れと異常なスピードの超過が原因と結論付けられています。
事故を起こした列車の制限速度は70キロだったにもかかわらず、事故を起こす直前のスピードは116キロを記録し、そのまま右カーブに進入。常用ブレーキをかけるも左に転倒し脱線したと報告されました。
そして、なぜこのような異常なスピードを出していたかについては、事故直前の「伊丹駅」でのオーバーランを起こした高見隆二郎運転士が、運行ダイヤの遅れを取り戻そうとスピードを上げていたことが原因です。
前述にもある通り、事故以前にもミスを何度も起こしていた高見隆二郎運転士が、「日勤教育」という名の厳しい指導を恐れたことが引き金になったことは明らかでしょう。
事実、他の運転士はマスコミの取材に対して、「上司にどう報告するか」しか頭になかったのではないかと語っています。
また、不幸にも事故を起こした福知山線には、速度超過を防ぐ機能がある「ATS-P」という最新の装置が整備されていませんでした。
元々は、2004年に導入の予定だったそうです。たらればになりますが、導入されていれば・・事故は防げていました。その後、福知山線には2005年6月に導入されています。
「福知山線脱線事故」の四股切断者は88名~生存者が語る未曾有の大惨事
この事故では、負傷者562名のうち四股切断者が88名、指切断が8名など後遺障害が残る重症者を多数出してしまいました。
事件後、九死に一生を得たものの後遺症に苦しみながら生活してる生存者がインタビューに応じています。
「福知山線脱線事故」生存者が語る未曾有の大惨事① 山下亮輔さん
山下亮輔さん
100人以上の死者を出した2005年の尼崎JR脱線事故。先頭車両に乗っていた山下亮輔(24)は両脚に障害が残ったものの、九死に一生を得た。脚を切断しなかったが故の困難、社会復帰を遂げるまでの苦悩-。18歳という若さで遭遇した未曽有の出来事を乗り越え、前に踏み出す力を与えてくれたのは、家族や医師ら周囲の支えだった。
引用:家族の絆 歩く力に 尼崎JR脱線事故の生存者 山下亮輔:Human Recipe:popress:北陸中日新聞から:中日新聞(CHUNICHI Web)
この山下亮輔さんはなんとあの事故の中でも大きな被害の出た先頭車両に乗っていたそうです。
山下亮輔さんは当時の事故のことをこう語っています。
事故に遭ったのは、大学1年生のとき。講義に向かう途中でした。1両目の車両でつり革につかまっていたら、車体が斜めに傾き、気付いた時には周囲は真っ暗闇。その中で7時間、正座した状態で助けを待ちました。脚はまひしていて痛みは感じませんでしたが、孤独がつらかった。とにかく「なんで救助されないんだろう」という思いがあった。
引用:家族の絆 歩く力に 尼崎JR脱線事故の生存者 山下亮輔:Human Recipe:popress:北陸中日新聞から:中日新聞(CHUNICHI Web)
あの事故に遭われた方々は皆さん同じ気持ちだったでしょう。真っ暗な闇の中で、救助を待つしかない状況、しかし、それでもなかなか来ない救助、痛みだけではなく、孤独、更にコメントにはありませんが、周囲の痛みに悶える声などもあったかと思います。その中にいるというのは精神的な苦しさも当然あったはずです。
「この脚がなければ」と何度も思いました。リハビリが始まって、ストレッチは痛みがなかったけど、歩行訓練で両手を離したら貧血で倒れてしまいました。「なんでこんなこともできないんだろう」と悔しくて泣きました。でも、そこで現実を知ったのだと思います。
引用:家族の絆 歩く力に 尼崎JR脱線事故の生存者 山下亮輔:Human Recipe:popress:北陸中日新聞から:中日新聞(CHUNICHI Web)
そこで支えてくれたのが家族やリハビリの先生でした。周囲の支えのおかげで、リハビリも乗り越えたそうです。
現在山下亮輔さんは伊丹市役所の障害福祉課に勤め、それと別に講演活動などを主に行っています。
「福知山線脱線事故」生存者が語る未曾有の大惨事② 林浩輝さん
林さんは当時、同志社大学の学生で、通学のために電車に乗っていました。
事故のあった朝、両親と弟はすでに外出していた。林さんは2限の授業に出るため、いつも通りに朝食を作って食べて、1人家にいた祖母に「行ってくるわ」と言い、自宅からJR伊丹駅に向かった。そこでJR同志社前駅行きの快速電車は70メートルもオーバーランして停車した。電車が行き過ぎた光景を見たのは初めてだったが、「運転手さん失敗したなあ」と、あまり不安は抱かなかったという。同志社前駅の改札がある降車ホームと反対のホームに渡るのに近い先頭車両の運転席のすぐ後ろに乗ったが、「運転士の様子は特におかしくなかった」と振り返る。
その後、気づいたときにはまわりは死体だらけだったそうです。そして、レスキュー隊に助けられた際には「生きているのは君だけやから」と励まされたそう。
そんな九死に一生を得た林さんでしたが、左足を切断する重傷を負ってしまいます。
その時の心境をこう語っています。
—足を切断して感じたことは何でしたか。
今まで車椅子に乗る人を見ても特に気にしなかったが、障害者への見方が変わった。持っている障害も人によってピンからキリまであるが、そういう人たちに何で車椅子に乗ってるのと気になるようになった。あの車椅子がかっこいいとか、ださいとか、おしゃれも考えるようになった。
林さんは事故前のように生活できない苛立ちや苦悩の日々を過ごしていたといいます。
その後、東京で就職されたそうですが、事故現場には毎年訪れているそうです。
「福知山線脱線事故」事故現場の現在
復興後の事故現場
「福知山線脱線事故」列車衝突場所にあったマンションを解体し、慰霊施設へ
脱線した列車が突っ込んだ9階建て分譲マンション「エフュージョン尼崎」は事故後、だれも住んでおらずJR西日本の所有となっていました。
そんな中、JR西日本は事故現場となったマンションの一部を残して解体し、慰霊施設として整備する計画を2015年に発表。2018年現在は屋根付きの慰霊施設となっています。
JR西日本が遺族らに示した慰霊施設の計画図
事故現場は工事進み、下記の写真のように様変わりしています。
2005年4月25日に乗客ら107人が死亡した兵庫県尼崎市のJR福知山線脱線事故で、列車が激突したマンションを覆うアーチ状の屋根や慰霊碑などの整備工事が進む。今夏の完成を前に既に真新しい屋根が姿を現し、現場周辺は大きく様変わりしたが、建物を事故当時の姿のまま残すよう望んだ遺族は、複雑な思いを抱えている。
「福知山線脱線事故」に寄せられたネット上の声
事故から13年が経ち、若い人の間には未曾有の大惨事が起こったことさえ、知らない世代も出てきています。
そんな中、ネット上では事故を風化させてはいけないという想いが多数聞かれます。
国鉄三大事故と言われる三河島脱線事故も、桜木町の火災事故も。今回の福知山線脱線事故も。
— 郡氷でも鷺沼でも@僕ラブ19 (@Ice_library) 2018年5月8日
過去の痛ましい事故や多くの方々の犠牲があって今の安全水準が生まれたと思えば大変に不謹慎とは承知しつつも無駄ではなかったのかなって。
そうか…福知山線脱線事故から13年…
— ユキト@鉄ミュで┏┛墓┗┓ (@Yukito_1Q1) 2018年5月4日
福知山線脱線事故の現場に向かって今でも車内から黙祷する車掌さん…
— ひろっち (@hirrotti) 2018年5月1日
とっても素晴らしいと思った。
ほかの方も言ってるが、福知山線脱線事故は決してJR西だけの責任ではない
— スタフタブレット (@milkore115) 2018年4月25日
遅刻、遅延を許さない乗客達がJR西に詰め寄り、結局余裕が無いダイヤを組んだ結果起きた事故であり、どこの会社でも起こり得た事故である
だからJR西や電車に限らず、公共交通機関を利用する人達にも責任がある
事故を風化させず、後世に伝えていくことが事故を知る世代の役目なのかもしれません。
「福知山線脱線事故」を総まとめすると…
・福知山線脱線事故の死者は107名、負傷者は四股切断者88名、指切断者8名を含む562名にも上った。
・福知山線脱線事故の原因は、高見隆二郎運転士のブレーキのかけ遅れと異常なスピードの超過と結論付けられた。
・福知山線脱線事故の生存者は、PTSDや四股切断者が多かったため、いまだに後遺症に悩む人が多数いる。
普段誰もが当たり前のように乗っている電車起きた未曾有の大惨事。
この痛ましい事故を教訓に決して風化させず、再度同じことがおきないようにするのが生きている人の努めとなるでしょう。