2015年1月に、シリアにてイスラム国(ISIL)に処刑された湯川遥菜さんですが、事件そのものより複雑な経歴が注目された人物でした。
この記事では、湯川遥菜の性別が女の噂や経歴、イスラム国に切断処刑されるまでを総まとめしました。
湯川遥菜のプロフィール
名前:湯川遥菜(ゆかわ はるな)
出生名:湯川正行(ゆかわ まさゆき)
生年月日:1972年4月27日
出身地:千葉県千葉市
湯川遥菜、ミリタリーショップを開業し常連客と結婚
湯川遥菜さんは、湯川正一さんの次男として、1972年4月27日に千葉県千葉市に誕生しており、元々は「正行」という名前だったそうです。
千葉県の私立高校を卒業後の湯川さんは、友人らと一緒に会社を立ち上げ、1997年になると、習志野市内に「日高屋」というミリタリーショップをオープンしました。
「日高屋」は、後に千葉市内に2号店を開店するほどの成功を収めており、この時期は湯川さんにとって若くしてやって来た絶頂期だったと言えます。
プライベートでも、「日高屋」の常連客だった女性・Aさんと2000年に結婚をした湯川さんでしたが、幸せの絶頂期は長くは続きませんでした。
湯川遥菜の経歴と性別~事業失敗が原因で改名し女性化
湯川遥菜、経営していたミリタリーショップ倒産で夜逃げ
湯川遥菜さんの人生が暗転したきっかけに関しては、事業拡大路線が失敗したことが原因でした。
「日高屋」の経営が好調だったことに気を良くした湯川さんたちは、2002年頃にミリタリーショップ経営以外の分野にも進出したものの見事に失敗してしまい、2004年頃から資金繰りに苦しむようになったとか。
そして、2005年に会社自体が潰れる憂き目となり、「日高屋」の営業権も他社へ譲渡する羽目になってしまったそうですね。
会社倒産後の湯川さんですが、倒産時に背負った借金を返済することが出来ずに、Aさんを連れて夜逃げをしてしまいました。
借金の方は、父親の湯川正一さんが保有するアパートなどを売り払って返済したと言われております。
ちなみに、親に借金を押し付けて失踪した罪悪感からか、湯川さんはこの時から10年近い間、正一さんの前から姿を消すこととなりました。
湯川遥菜、夜逃げ後に性器を切り取り自殺未遂
夜逃げ後の湯川遥菜さんですが、公園で1ヶ月ほど野宿生活をしていた時期もあるほど、経済的に困窮していたそうですね。
精神的に追い詰められた結果なのか、2008年には性器を切り取って自殺未遂まで図った湯川さんでしたが、この時は妻・Aさんによりただちに病院に運ばれた結果、一命を取り留めることが出来ました。
湯川さんは、後に自殺を図った際の心境を下記記事のように振り返っているため、この頃には既に精神のバランスを保てない状況になっていたのでしょうね。
「失敗した時は女性として生きようとも思っていたので、後は運命に任せた」と、湯川さんは自身のブログで語っている。
湯川遥菜、正之から遥菜に改名し川島芳子の生まれ変わりを自称
湯川遥菜さんには、2010年になると、苦境でも見捨てずに連れ添ってくれた妻のAさんが肺がんで病死をするというさらなる不幸の追い打ちがかかりました。
ちなみに、息子の窮状を心配して消息を探していた父・湯川正一さんは、知人よりAさんが入院したとの一報を聞きつけて、病院に何回もお見舞いに訪れていたとか。
一方で父親に借金を押し付けて失踪した立ち場の湯川さんは、父親に合わせる顔がないと思っていたのか、正一さんがAさんの病室まで見舞いに訪れても姿を表すことはありませんでした。
湯川さんが「正行」から遥菜に改名して、男装の麗人スパイとしてお馴染みな川島芳子さんの生まれ変わりを自称し始めたのは、生前の湯川さんが運営していた個人ブログの記述を参考にすると、2012年10月以降の話だったようですね。
そんな疑問を持ちながら時が過ぎ、2012年10月。部屋に居ると忘れもしない出来事が、津波の様に記憶に起き、フラッシュバックの様に記憶の映像が見得てきた。この感覚は衝撃的な事だった。
そして戦時中、女性で士官はただ一人。男装の麗人川島芳子だ!
自分が誰だか解ると、どんどん記憶が蘇えり不思議な感覚がで頭がいっぱいになる。どうりで100年生きている様な感覚や、一度の人生で二人分生きている感覚が有ったのだ。引用:海外での不思議な感覚
川島芳子[1907~1948]とは、満蒙の独立運動家。清朝王族の粛親王の第14王女。大正2年(1913)、川島浪速(なにわ)の養女となり来日。昭和の初め、清朝の再興を画策し上海に渡り、日本軍の工作員として諜報活動に協力。日本の敗戦後、中国で逮捕され国賊として銃殺された。本名は愛新覚羅顕㺭(あいしんかくらけんし)、中国名は金璧輝。東洋のマタ=ハリ、男装の麗人とも呼ばれた。
引用:川島芳子
湯川さんが「正行」から遥菜に改名した理由に関しては、占い師によるアドバイスだったという説も存在します。
「いつ改名したかは分かりません。亡くなった嫁の名前ではない。『正行』は合計11画で、占いをやる人から『この字は短命』と言われたとかで改名したとチラっと言っていた」
何にせよ、妻の死がトリガーとなり、湯川さんがスピリチュアルな世界へとのめり込んでいってしまったことは間違いないと言えそうですね。
湯川遥菜、夜逃げから9年ぶりに女性化した姿で実家に戻る
妻・Aさんの死後の湯川遥菜さんですが、2013年12月頃に、突然実家近くにふらりと現れたそうです。
家の外で「お父さん」と声をかけられた父・湯川正一さんが振り返ると、そこには女性と身間違ってしまうような姿をした湯川さんがいたという話なため、湯川さんは実家に帰るタイミングを伺って、近所をウロウロしていた時期もあったのかもしれませんね。
湯川さんと9年ぶりに再会することとなった正一さんは、色々と聞きたいことは取り敢えず置いておいて、実家近くのアパートを手配するなど、湯川さんの生活の世話を全面的に見るようになりました。
湯川遥菜、2014年1月に軍事会社「PMC」を立ち上げる
湯川遥菜さんは、2014年1月になると民間軍事会社「PMC」を立ち上げています。
アパート代も父親の世話になるほど困窮していた湯川さんが会社を起業するという話題は、かなり奇異な印象も受けますが、後に「ロイター」記者が取材したところ、下記記事のようなペーパーカンパニーもどきの会社だったようです。
湯川さんが設立した民間軍事会社「PMC」を訪ねてみた。登記されていた東京の住所にあったのは、小さなオフィスが集まるビルの一室。しかし、企業活動の実態はうかがえず、実際にはネット上にしか存在しない会社だったようだ。
しかしながら、元ミリタリーショップ経営者でしかない湯川さんが、民間軍事会社を設立しようと考えるのはかなり突拍子もない発想だと言えます。
その辺の事情は、妻の病死以降の湯川さんが、自身を川島芳子さんの生まれ変わりだと思い込むようになった影響が大きかったのかもしれませんね。
湯川遥菜、右翼思想にかぶれ保守系イベントの常連に
川島芳子さんの生まれ変わりと自称するようになって以降の湯川遥菜さんは、かなり右翼思想が強い人物にもなっていたようで、「頑張れ日本 全国行動委員会」などの保守系イベントの常連化していたとも言われております。
「頑張れ日本 全国行動委員会」のイベントを通じて、元茨城県議の木本信男さんや元外交官の國安正昭さんと知り合いとなっていた湯川さんは、2人に「PMC」の顧問に就任して貰うことにも成功しています。
とはいえこの辺の話題は、青年の突拍子もない夢物語に、木本さんらが付き合ってくれたと言うべき話なのでしょうね。
湯川遥菜は ISILに処刑されて死亡!~ネット上では自業自得との声も
湯川遥菜、2014年4月にシリアで武装組織に拘束されていた
2014年1月に軍事会社「PMC」を立ち上げた湯川遥菜さんですが、同年の4月にはシリアへ最初の渡航をしております。
湯川さんがシリアへ渡航した理由に関しては、「PMC」が仕事の依頼を受けるための実績作りだったと言われています。
そして今年4月、シリアで知り合った日本人ジャーナリストに「設立した民間軍事会社はできたばかりで実績がない。経験を積むためには現場を見なくてはダメだ」と語ったという(朝日新聞8月18日付)。
とはいえ、最初のシリア渡航時に湯川さんがしていたことは、現地取材的な行動がメインだったようですね。
「Haruna Yukawa」で登録されている彼のフェイスブックやブログには、紛争地で自動小銃「AK47」を試し撃ちしたり、殺害された兵士を撮影した動画が多数貼りつけられている。
この時もシリアの反政府系武装組織に拘束されたという湯川さんでしたが、現地で活動していたジャーナリストの後藤健二さんが交渉役を買って出てくれたおかげで無事解放されおり、同年の5月に一旦日本へ帰国しています。
湯川遥菜、2014年8月にシリアでISILに拘束される
シリアで武装組織に拘束されるという恐怖体験をした湯川遥菜さんでしたが、これに懲りることはなかったようで、2014年6月になると、日本から再出国することになりました。
2014年7月にトルコ経由でシリア入りを果たした湯川さんは、シリアの反体制派部隊に同行をして再度の現地取材を試みたものの、同年の8月に同部隊がISIL(イスラム国)と戦闘になり、拘束されてしまったと言われております。
取材に応じた友人によると、湯川さんは7月にイスラム国の攻勢が続くイラク北部キルクークを訪ねた後、同月末ごろにトルコ経由でシリアに入った。今回は「現場写真を撮りたい」と反体制派部隊への同行を志願。カメラと護身用の銃を所持していたという。
男性の友人のシリア反体制派メンバーは18日、産経新聞の電話取材に、男性はアレッポ北郊でイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」と戦う反体制派部隊に同行し戦闘中にイスラム国に拘束されたと証言、「(反体制派部隊が)解放交渉を行っている」と明かした。
湯川さんがISILに拘束されたという一報は新たなる悲劇も生み、知人である湯川さんの安否を確認するために、シリア・ラッカに潜入したジャーナリストの後藤健二さんまでもが、2014年10月にISILに拘束されるという予期せぬ展開もありました。
そんな慎重な後藤さんだったが、昨年(2014年)10月24日に現地ガイドのアラディンとシリアのマレアに入り、翌25日にアラディンにパスポートと携帯電話を預けて別のガイドとラッカに向かったという。アラディンはラッカに向かった理由について、「イスラム国の市民の生活を撮影することともう一つは知人の湯川さんの情報を知るためだった」と話している。
湯川さんは昨年4月、別の組織に拘束されたのを後藤さんは助けています。その時、後藤さんは口を酸っぱくして言ったが、その後またイスラム国のメンバーに捕まった。後藤さんは責任を感じていたのではないでしょうか」
湯川遥菜、2015年1月にISILに処刑され死亡
ISILに拘束されて以降の湯川遥菜さんですが、シリアの反体制組織であるイスラム戦線や中東諸国が人質解放のための交渉に当たっていたものの、交渉が上手く進むことはありませんでした。
湯川さんがISILに処刑をされたのは、2015年1月下旬頃だったと言われております。
イスラム過激派組織、「イスラム国」がインターネットなどで発信しているラジオは、24日インターネット上に投稿された画像に言及し、「警告したとおり日本人の人質を殺した」として、イスラム国が湯川遥菜さんを殺害したと伝えました。
日本時間の24日夜、インターネット上に、「イスラム国」とみられる組織に拘束された湯川遥菜さんとみられる写真を持った後藤健二さんの画像が投稿されました。
画像には「湯川さんが殺された」とする後藤さんを名乗る男性の音声が付けられ、日本政府などが確認を進めています。
後藤健二さんもその後ISILに処刑されてしまい、ISILによる日本人拘束事件は最悪の形で終了することになりました。
湯川遥菜、ネット上では死を悼む声はほとんどなかった
2015年1月に、ISILにより処刑された湯川遥菜さんに対しては、シリアへ渡航した動機があまりにも不純な理由だったため、ネット上でもその死に対して悼む声が少なかったのも特徴的でした。
人質となった湯川遥菜さんのシリア再渡航理由がしょうもなさすぎる・・・・ http://t.co/dDJd2aVZhJ 自業自得を通り越して馬鹿だ 完全に後藤さん被害者やん
— 白銀龍 (@WhiteSilver2301) 2015年1月26日
つーか
— 勝廣 (@xxxxmasahiroxxx) 2015年2月4日
後藤健二さんについてはめっちゃ賞賛されてるのに湯川遥菜さんの方はめっちゃdisられててなんだか無性に可哀想になった
彼の生い立ちやらでdisってる人の言い分は分かるけどさ
中東地域に赴いた理由として
本人には本人なりの意味があるんだからそれを馬鹿にするのは見てて胸が痛む
湯川遥菜について総まとめすると…
・湯川遥菜は会社倒産後に夜逃げをし、2008年には性器を切り取って自殺未遂をおこしている。
・湯川遥菜は2000年に結婚するも2010年に妻が肺がんで死亡。その後、名前を正行から遥菜に改名し、川島芳子の生まれ変わりを自称し女性化していった。
・湯川遥菜は2014年1月に軍事会社を立ち上げ、シリアに渡航。武装組織に拘束されるもジャーナリストに後藤健二のおかげで無事解放され帰国した。
・湯川遥菜は2014年6月、シリアでISIL(イスラム国)に拘束され、2015年1月下旬に処刑され死亡した。
騒動当時はバッシング的な意見ばかりが目立った湯川遥菜さんですが、その半生を振り返ると、暴走に至るまでの間にかなりの苦労を重ねていたことが分かります。
日本社会にもっとセーフティネットが整備されていれば、湯川さんがスピリチュアルな方面に迷い込むこともなく、防げていたかも知れない騒動だったことは確かです。
湯川さんのご冥福を祈りつつ、この記事を終了させて頂きます。