2015年1月にシリアにて、ISILにより処刑されたジャーナリストの後藤健二さんですが、その経歴や家族関係のユニークさに注目が集まりました。
この記事では、後藤さんの経歴や家族情報についてまとめてみました。
この記事の目次
後藤健二のプロフィール&経歴
名前:後藤健二(ごとう けんじ)
本名:城後健二(じょうご けんじ)
生年月日:1967年9月22日
出身地:宮城県仙台市
最終学歴:法政大学社会学部卒
後藤健二、法政大学を卒業後は職を転々としていた
学生時代の後藤健二さんですが、法政大学に進学後にアメリカのコロンビア大学に語学留学をした他、在学中に湾岸戦争が起こった際には、イスラエルまで渡航して現地の反応を確認してみたりと、国際情勢に興味がある青年だったようです。
大学を卒業後は、一旦は日立物流に就職した後藤さんでしたが、サラリーマン生活が性に合わなかったのか、わずか3ヶ月で退職しています。
日立物流を退職後の後藤さんは、恵比寿のボディビルジムでコーチをしていたものの、ジムの帳簿が合わないトラブルの責任をなすりつけられそうになったため、再度の退職をする憂き目となりました。
この時期の後藤さんは、「週刊文春」より風俗店を経営していたとの報道もありましたが、こちらに関しては同姓同名の他人の経歴と後藤さんの経歴が混同されてしまった誤報だったようです。
ジムを退職後の後藤さんは、TBS系列の番組制作会社に再就職をしたと言われております。
後藤健二、20代で映像通信会社を起業
法政大学を卒業後は、自分探しの旅が続いていた時期もあった後藤健二さんでしたが、1996年になると映像通信会社「インデペンデント・プレス」を起業しました。
以降は戦場のジャーナリストとして、水を得た魚のような活躍が続くこととなった後藤さんは、2006年になると「ダイヤモンドより平和がほしい」というノンフィクション・ルポルタージュ本にて、第53回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞しています。
戦場のジャーナリストとしての後藤さんは、海外メディアにより下記のように評されております。
英エコノミストのHenryTricks氏は後藤さんについて、「彼は戦争の勝ち負けに注目していたのではなく、普通の人、とりわけ子どもたちを伝え続けた。彼に『なぜ危険な地域に行けるのか?』と質問することができたなら、きっと彼は『一般人と共に歩み、彼らの生活を追いかけるうちに自然とそこ(危険な地域)にたどりついた』と答えるだろう」と彼が常に一般人に寄り添っていたと語った。
後藤健二はバツ2で3度の結婚歴があった~子供は母親違いの娘が3人
後藤健二、1人目の嫁にイラク戦争取材を反対され離婚
後藤健二さんの最初の結婚相手・Aさんは「ロイター」などの外資系メディアで翻訳の仕事をしていた人物だったと言われており、2人の間には、2018年時点で(進学していれば)大学1年生となる娘も誕生しました。
2人がいつ頃結婚したかは定かではありませんが、2000年代前半頃にイラク戦争の取材に出かけようとした後藤さんとAさんの間で軋轢が生じ、離婚に至ってしまったそうです。
その辺の事情は、小さな娘を残して危険な紛争地帯に出向こうとする後藤さんに対して、Aさんが愛想をつかしてしまったということなのでしょうね。
戦場のジャーナリストと結婚しておきながら、夫が紛争地帯に出向くことに対して反対をするAさんの行動は、一見すると奇異な話にも思えます。
しかしながら、「インデペンデント・プレス」設立当初の後藤さんは、塾講師のアルバイトをしながら、日本国内でのジャーナリスト活動をする下積み時代が続いていました。
そのため、後藤さんが紛争地帯で取材を繰り広げることは、Aさんにとってあまり現実的な話ではなかったようですね。
そのような事情から、いざ後藤さんが紛争地帯に出向こうとした際に、Aさんは、妻として家庭を優先して欲しいという心境になってしまったということなのでしょうね。
離婚後のAさんは、女手1つで娘を育て上げるために、特技の語学を活かして大学の非常勤講師などをしていたと言われております。
後藤健二、2人目の嫁の詳細は一切不明
後藤健二さんの2番目の妻に関しては、後藤さんの経歴を特集した週刊誌などでも特に触れられておらずに、一切の情報が不明な存在となっています。
当時の後藤さんが、戦場のジャーナリストとして紛争地帯を駆け回っていたことを踏まえると、もしかすると海外で知り合うこととなった外国人女性だったのかもしれませんね。
ちなみに2人の間には、子供が生まれることもなかったようです。
後藤健二、3人目の嫁は東大大学院卒のJICA職員・城後倫子さん
後藤健二さんにとって、3人目の妻となったのは東京大学の大学院で都市工学を専攻していたというエリート女性の城後倫子さんとなります。
大学院卒業後の倫子さんは、JICA(ジャイカ)に就職しております。
JICAとは、独立行政法人国際協力機構方(平成14年法律第136号)に基づいて、2003年(平成15年)10月1日に設立された外務省所管の独立行政法人。
事業内容は多岐にわたっており、その基本は「人を通じた国際協力」である。JICAは政府開発援助の実施機関として、対象地域や対象国、開発援助の課題などについての調査や研究、JICAが行うODA事業の計画策定、国際協力の現場での活動を行う人材の確保や派遣、事業管理、事業評価などの役割を担っている。
引用:国際協力機構
JICAに就職後の倫子さんは、一時期OECDに出向してフランス・パリ在住だった時期もあったそうで、後藤さんとはその時代に知り合い、2012年頃に結婚したそうです。
OCDEは、ヨーロッパ、北米等の国々によって、国際経済全般について協議することを目的とした国際機関。
本部事務局はパリ16区の旧ラ・ミュエット宮殿に置かれている。引用:経済協力開発機構
ちなみに、後藤さんは城後家に婿入りしており、結婚後の本名は「城後健二」となりました。
後藤健二、3人目の嫁・城後倫子さんとの間に2人の子供が誕生
城後倫子さんとの結婚後は、赤坂サカス近くの高級マンションに住居を構えた後藤健二さんですが、マンションを購入したのは妻である倫子さんだったとか。
さらには、「インデペンデント・プレス」の経営も左団扇とは行かずに、JICA職員としての倫子さんの収入が一家の家計の要でもあったそうですね。
2人の間には、2012年と2014年10月に2人の娘も誕生しております。
後藤健二の家族情報~父親と母親は3歳の時に離婚していた
後藤健二、父は日立製作所の元エリート社員だった
後藤健二さんの父親であるBさんに関しては、日立製作所に勤務するエリート社員だったようですね。
転勤族だったBさんの仕事の都合で、幼少期に仙台市、名古屋市、東京と居住地を転々とした後藤さんですが、それ以上に大変だったのは、3歳の時に母親が家から出ていってしまったことでした。
離婚後の親権はBさんが取ったため父子家庭で育つこととなった後藤さんでしたが、仕事の忙しい父親に代わり面倒を見てくれたのは、年の離れた兄と姉だったと言われております。
後藤健二、母・石堂順子さんは「ピースビーンズジャパン」の会長
後藤健二さんが3歳の時にBさんと離婚をし、家から出ていった母・石堂順子さんですが、その後はかなり変わった人生を歩んでいたようです。
Bさんと離婚後にラーメン屋を営む男性と再婚をした石堂さんでしたが、その男性と再度離婚をした後にラーメン屋の土地を競売で買い取り、現在は跡地で「ForYouInc」という雑貨屋を経営しています。
石堂さんは、雑貨屋の経営の他にも「一般社団法人ピースビーンズジャパン」の会長にもなっており、かなり行動的な女性であることが分かります。
「一般社団法人ピースビーンズジャパン」の気になる活動内容に関しては、ヨガや中国気功の指導やインストラクター育成を目的としているようで、かなりスピリチュアルな団体だと言えますね。
後藤健二、母の再々婚相手・石堂行夫さんが逮捕されていた
後藤健二さんの母・石堂順子さんは、時期は不明となりますが、東京都・小金井市にある通信情報処理サービス会社の役員を務める石堂行夫さんと再々婚を果たしております。
後藤さんにとっては義父に当たる行夫さんですが、2016年2月に出入国管理法違反(資格外活動)幇助の容疑で逮捕されています。
石堂容疑者は、同市の通信情報処理サービス会社の役員とされる。「就学」の在留資格で入国した30代のネパール人男女を、この会社で通訳などとして雇ったように装い、平成23年から「技術・人文知識・国際業務」の資格を取得させていたとみられる。
男女は実際は都内の飲食店で働いており、これまでに男は90万円、女は190万円を石堂さんに払ったと話している。
当時既に後藤さんは故人となっておりましたが、生前の後藤さんにとっては、石堂さん夫妻は困った身内だったのかもしれませんね。
後藤健二はISILに処刑され死亡~母親の記者会見にネットでは批判の声
後藤健二、2014年10月にシリアでISILに拘束される
戦場のジャーナリストとして活躍中だった後藤健二さんですが、2014年10月頃に、シリアのラッカにてISIL(イスラム国)に拘束されてしまいました。
後藤さんが命の危険を犯してまでシリアのラッカに足を運んだ理由に関しては、2014年7月にISILに拘束されていた実業家の湯川遥菜さんを救出するために、ISILと交渉しようとしていたのではないかと言われております。
そんな慎重な後藤さんだったが、昨年(2014年)10月24日に現地ガイドのアラディンとシリアのマレアに入り、翌25日にアラディンにパスポートと携帯電話を預けて別のガイドとラッカに向かったという。アラディンはラッカに向かった理由について、「イスラム国の市民の生活を撮影することともう一つは知人の湯川さんの情報を知るためだった」と話している。
しかし、内藤は「イスラム国に入っていくのは彼のイメージに合わない」と次のように話す。「現地にはガイドが複数介在することがよくあるんです。彼にはもう一人、『第三の男』がいたんです。後藤さんは非常に危険だということが分かっていながら、『私の責任で入る』と宣言しています。自発的に入っていったのではなくて、(第三の男の)ガイドに『オレの責任じゃないことを証明してくれ』と頼まれたところがあります。そうまでしてラッカに向かったのは、湯川さんを助けることに重点を置いたとしか合点が行かない。
後藤さんと湯川さんはシリア取材を通じて旧知の仲にあったようで、2014年4月には、現地で反政府組織に拘束された湯川さんを助けるために、後藤さんが仲介役を買って出たこともあったようですね。
その時は、後藤さんの奔走の甲斐もあり湯川さんが無事解放されたため、今回も何とかして湯川さんを助けたいという後藤さんの強い想いがあった可能性は高いと言えるでしょうね。
後藤健二、ISILより要求された身代金は20億円だった
後藤健二さんを拘束後のISILですが、2014年11月上旬頃から、妻である城後倫子さんの元へ後藤さんを拘束したとのメールを送り始めたようですね。
ISILからのメールに気がついた倫子さんは、同年の12月上旬頃に外務省に相談出向いたものの、外務省からはマスコミなどへの口止めを要請されたと言われております。
ISILから倫子さんの元に届いたメールは最終的には10通前後となり、中には後藤さんの解放と引き換えに20億円の身代金を要求する内容のものもあったとか。
後藤健二、ISILからの最後通告に母・石堂順子さんが記者会見
ISILに拘束された後の後藤健二さんですが、2015年1月20日になると、ISIL側から日本政府宛に最後通告が発せられております。
2015年1月20日になり、ISILが日本国民と日本政府に向けたビデオに、人質となっていた後藤健二と湯川遥菜が登場し、ジハーディ・ジョンとして知られるISILメンバーの男性が「72時間以内に2億ドルの身代金の支払いがないと両人質を殺害する」と述べた
引用:後藤健二
ISILからの最後通告に対する日本側の主な反応に関しては、同年の1月23日になると、後藤さんの母・石堂順子さんが息子の解放を訴える緊急記者会見を開きました。
しかしながら、記者会見中の石堂さんは突然反原発発言をしたりと、会見の主旨とは離れた言動が目立ったため、ネット上でも違和感が広がることにもなりました。
そうしましたら、先に拘束されている知人を助けるために、救出するために、何が何でもという形で飛んでいってしまった、と申しておりました。私はその時感じたんですが、この地球は大切にしなければいけない、たった一つの、私たちのために神がつくってくださいました、自然がつくってくださいましたものを、その貴重なプレゼントをなぜ壊すのか、私はわからないのです。原子力を使い、地球を汚し、大気圏を汚して、そして何を求めようとするのか、私には全然わかりません。
引用:【全文】「私はこの3日間、何が起こっているのかわからず悲しく、迷っておりました」ジャーナリスト・後藤健二さんの母・石堂順子さんが会見
私がいまこみ上げてくる涙を隠しておりますが、そのまま語っておりますが、それは、先ほど申しました原子力の問題です。地球を駄目にする、お水も駄目にする、すべてを駄目にする。それを一時の感情でどんぱちやるということ、それをぜひ阻止しなければいけない、そのように思います。
もし、原子力がいい方の活用じゃなくなるのであれば、私は、私の命をうしなうということも、全く厭いません。それはこの席ではっきりお申し上げます。引用:【全文】「私はこの3日間、何が起こっているのかわからず悲しく、迷っておりました」ジャーナリスト・後藤健二さんの母・石堂順子さんが会見
石堂さんの記者会見に対しては、「息子の命よりも反原発の主張が大切なのか?」と、ネットユーザーたちも困惑しきりでした。
石堂順子頭がおかしい
— TK298 (@IseOosio) 2015年1月23日
イスラム国に「日本は被爆国だから~」「地球を大切に~」とか「原子力が~」とかおかしなやつだ
息子のことより反原子力が大事か
石堂順子さんの会見見てたけど
— じ (@rock_masa_) 2015年1月23日
この人 息子が捕らえられて混乱してるのか
発言がおかしい
イスラム国に人質にされてることの会見なのに原子力の話のが多い
周りが会見止めたって これ見たら当然じだと思う
後藤健二、母・石堂順子さんとは2012年頃から疎遠になっていた
石堂順子さんの緊急記者会見は、会見中の下記の発言から後藤健二さんとの母子関係が上手く行っていなかったのではないかという疑惑も呼びました。
昨日、健二の妻である嫁と、初めて電話で交信致しました。嫁に聞きますと、2週間前に赤ちゃんが産まれたそうです。私はびっくりしました。産まれたばっかりの、2週間した経っていない子どもを置いて、なぜ遠いところへ旅立ったのですかと質問しました。
両親の離婚後は父親に引き取られて育った後藤さんだけに、石堂さんとは疎遠でもおかしくはない生い立ちと言えますが、実際のところは、後藤さんのアメリカ留学の費用を石堂さんが援助するなど、親密な母子関係だった時期もあったようですね。
石堂順子さんが息子の故後藤健二さんとは疎遠だったという話が流されているが、それは違う。順子さんから直接伺った話を紹介。健二さんの米コロンビア大留学費用のほとんどは彼女が負担し、健二さんの誕生祝いには高価なビデオカメラをプレゼントしている。母親として息子に愛情を注いでいた。
— はしづめ雅博 (@MasaHashidume) 2015年3月2日
この手紙は後藤健二さんがコロンビア大学留学中の1988年、当時21歳の時に母親・順子さんの誕生日を祝って書いたもの。最後の「皆さん元気で」の言葉がいつまでも心に残る。本日は健二さんの四十九日。彼の死を決して忘れない。合掌。 pic.twitter.com/VYURLdnTCX
— ジャーナリスト 田中稔 (@minorucchu) 2015年3月20日
しかしながら、最終的に2人が疎遠な間柄になっていたことは確かなようで、生前の後藤さんと石堂さんが最後に顔を合わせたのは2012年頃であり、その時でさえも何年ぶりに会ったのか分からないほど関係が断絶していたと言われております。
ちなみに、後藤さんの妻である城後倫子さんは、夫の死後に姑一家と関係を持つことは拒絶したとか。
「いや、会ってません。(殺害後に)私らのほうで訪ねて行ったんですよ。それでもドアも開けてもらえず、居留守を使われて全然出てきませんしね。孫にも会ってません。だいたい、1月23日に家内が外国人記者クラブで会見したでしょ。あの日の朝早くに、『健二の妻です。会見なんかやめてください』と電話がかかってきたんですよ。それ以来、連絡すら一回もないですね。だから、もう私らは会う気もないです。本来なら、あちらからウチに来てもおかしくないんですけどね」
後藤健二、2015年1月にISILに処刑され死亡
ISILと日本政府の交渉が不調に終わった結果、後藤健二さんは2015年1月30日にISILに処刑され、命を落としております。
後藤さんに先駆けて、同年の1月25日に湯川遥菜さんも処刑されていたため、ISILによる日本人拘束事件は、最悪の結末を迎えることになってしまったと言えます。
後藤さん処刑の一報に対しては、ネット上でも哀悼の意を示すネットユーザーたちが多数派となりました。
後藤健二さん、無念過ぎる…。こんな死に方なんて望んでいなかっただろうに、ただただ悲しい。日本人達にとって興味が薄く遠かった中東問題、イスラム国の問題について目を向けさせ、考えさせられた事はジャーナリストとして意味のある一石を投じて下さったと思いたい…。心からお悔やみ申し上げます。
— Tempei Nakamura 中村天平 (@tempeizm) 2015年1月31日
後藤健二さんのニュース見るの結構辛いな。こんな勇敢で人のために真っ直ぐ働ける日本人がいるって素敵やな。命かけてでもやりたいこと早く見つけなあかんわ…。
— ハナ♀️ (@hanariel87) 2015年2月1日
後藤健二について総まとめすると…
・後藤健二の両親は3歳の時に離婚。父は元サラリーマン、母・石堂順子さんは息子の解放を求める記者会見で突然反原発宣言をしたことでネット上の話題となった。
・後藤健司には2度の離婚・3度の結婚歴があり、3人目の嫁はJICAの職員のエリート女性である。
・後藤健司には子供は娘が3人おり、1人目の嫁との間に1人、3人目の嫁との間に2人いる。
無念の死を遂げてしまった後藤健二さんですが、湯川遥菜さん救出のために危険を顧みずにシリアに向かったその勇気には、現在でも称賛の声が途絶えないです。
後藤さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。