有名なイスラム系テロ組織「アルカイダ」ですが、その歴史は古く結成されてから30年以上が経ちます。
この記事では、「アルカイダ」の起源や目的の他、最高指導者や日本人殺害事件、そして現在の様子についてまとめてみました。
この記事の目次
アルカイダをわかりやすく説明① 目的はジハード論を実現させるため
アルカイダ、1988年に設立されていた
「アルカイダ」とは、ソ連・アフガン戦争の最中である1988年に、ウサーマ・ビン・ラーディンにより結成されたイスラム教スンナ派の国際テロ組織となります。
イスラム系テロ組織の中でも高い知名度を誇る「アルカイダ」は、世界各地でテロ事件を起こしており、1994年に起こった「フィリピン航空434便爆破事件」では日本人乗客が巻き込まれて死亡したこともありました。
例えばな、“フィリピン航空434便爆破事件”…。お前等、コレを覚えとるか…?と…。座席の真下に爆弾仕掛けられてな、日本人亡くなっとるんやで?と…。然も相手はイスラム過激派でな、然もコレ、“大規模テロ計画の予行演習”とか言うふざけた理由なんやで?と…。
— 照ZO(厨2助詞) (@terzoterzo) October 19, 2015
・世界貿易センター爆破事件(1993年)
・フィリピン航空434便爆破事件(1994年)
・在サウジアラビア米軍基地爆破事件(1996年)
・アメリカ大使館爆破事件(1998年)
・米艦コール襲撃事件(2000年)
・アメリカ同時多発テロ事件(2001年)
・バリ島爆弾テロ事件(2002年)
・マドリード列車爆破事件(2004年)
・ロンドン同時爆破事件(2005年)
「アルカイダ」が起こしたテロ事件で最も有名な「アメリカ同時多発テロ事件」に関しては、「アフガニスタン紛争」の引き金になるなど世界情勢にも大きな影響を与えています。
アルカイダ、目的はジハード論を実現させるためだった
「アルカイダ」は中央集権的な組織ではなく、各地のイスラム原理主義勢力を取り込み、フランチャイズ化した勢力であることが特徴的です。
つまり、アルカイダの傘下に入りたい集団は、金や武器などをアルカイダ本部に上納することを条件に、アルカイダ本部へと申し込みを行ない、その後、厳しい審査を受け合格した集団のみが、アルカイダへの加入を認められているのだそうです。認可された集団の中には大規模なものもあれば、数人しかいない小集団もあります。
そのため、反米や反イスラエル思想という共通項こそあれど、統一の理念や目的のために動いている組織ではありません。
しかしながら、設立者であるウサーマ・ビン・ラーディンは、ジハード論を信望していたと言われており、欧米勢力をイスラム世界から駆逐することの他、非イスラム原理主義派のイスラム政権の打倒を目指していたようですね。
アルカイダをわかりやすく説明② 最高指導者はウサーマ・ビン・ラーディン
アルカイダ、設立者のウサーマ・ビン・ラーディンとは?
ウサーマ・ビン・ラーディン
生年月日:1957年3月10日
出身地:サウジアラビア
「アルカイダ」の設立者であるウサーマ・ビン・ラーディンについては、サウジアラビア屈指の財閥を率いるムハンマド・ビン・ラーディンさんの10番目の妻の長男でした。
ムハンマド・ビン・ラーディンさんは、元々はイエメンの貧しい一家の出だったようですが、1930年代にサウジアラビアに移民をしており、人夫から建設業を起こし成り上がった伝説的な人物だったとか。
当時のサウジアラビアの富豪の間では、人脈作りのために有力部族の娘と結婚して子供を作った後に離婚をする行為が流行っており、ムハンマド・ビン・ラーディンさんも生涯で22度の結婚をし56人の子供を作ることになりました。
当然ながら、ウサーマ・ビン・ラーディンの母親もムハンマド・ビン・ラーディンさんとは出産後にすぐに離婚していたようですね。
そのため、ウサーマ・ビン・ラーディンは、幼少期は母親の再婚先であるアッタス家で育てられていたと言われております。
ウサーマ・ビン・ラーディン、大学時代よりイスラム原理主義に傾倒していった
世俗教育を受けながら育ったウサーマ・ビン・ラーディンですが、ジッダにあるキング・アブドゥルアズィーズ大学に入学して以降は、イスラム原理主義に被れてしまい、コーランやジハードの研究に没頭する状況に陥ってしまったとか。
ウサーマ・ビン・ラーディンがイスラム原理主義に被れた原因については、当時のキング・アブドゥルアズィーズ大学にて教鞭をとっていたアブドゥッラー・アッザームの影響が大きかったのではないかと言われております。
アブドゥッラー・アッザームは、エジプトからサウジアラビアに亡命をしたイスラム原理主義の著名な論客であり、世俗的なイスラム政権の打倒を目指す活動家でもありました。
アッザームらイスラム原理主義者らは、母国エジプトが、当時、ナセル大統領(大統領任期:1956~1970年)の支配下にあったために、厳しい弾圧にさらされていました。そのため、サウジ・アラビアは無神論者である共産主義者(ナセルを指す)に対峙するイスラムの守護者として、多くのイスラム主義者の亡命者を受け入れていたのです。
そのアブドゥッラー・アッザームを師と仰ぐようになったウサーマ・ビン・ラーディンは、大学時には既にムスリム同胞団に入団していたようですね。
とはいえ、サラフィー主義に感化されて音楽や映画といった文化系のエンタメ嫌いだったウサーマ・ビン・ラーディンでしたが、競馬やサッカー好きの一面もあり、特に英国のアーセナルFCのファンでした。
アルカイダをわかりやすく説明③ 結成までの経緯とは?元々は義勇軍的存在だった
ウサーマ・ビン・ラーディン、ソ連・アフガン戦争で国際舞台デビュー
ウサーマ・ビン・ラーディンは、キング・アブドゥルアズィーズ大学を卒業した直後の1979年に国際舞台デビューしています。
同年は、ソビエト(現在のロシア)がアフガニスタンに侵攻した運命的な1年となりましたが、サウジ王家はアフガニスタンの抵抗組織を支援することを決定。
本来は、王家の王子の1人がアフガニスタンに派遣される予定だったものの、当時アメリカと並ぶ大国だったソビエトを相手の戦争に名乗りを挙げる者はいなかったと言われております。
そのため、王室御用達だった財閥のラーディン家に白羽の矢が立つこととなり、ウサーマ・ビン・ラーディンは、恩師であるアブドゥッラー・アッザームと共にアフガニスタンに向かうことになりました。
駐アフガニスタン・サウジ王国公式代表の肩書を得たウサーマ・ビン・ラーディンは、エジプトやスーダンからソビエトと戦うための兵士をリクルート。パキスタンで軍事訓練を積ませていっぱしの戦士に育成しては、アフガニスタンに送り込んでいたようですね。
ちなみに、ソ連・アフガン戦争中にウサーマ・ビン・ラーディンたちを支援していた勢力の1つにアメリカのCIAがあり、多額の資金援助を受けていたと言われております。
ウサーマ・ビン・ラーディン、1988年にアルカイダを設立
ウサーマ・ビン・ラーディンは、前述の通りソ連・アフガン戦争末期の1988年に「アルカイダ」を結成しています。
とはいえ、「アルカイダ」結成に至るまでには、恩師であるアブドゥッラー・アッザームとの理念的な対立もあったようですね。
具体的には、アフガニスタンに理想のイスラム原理主義国家設立を望むアブドゥッラー・アッザームに対して、ウサーマ・ビン・ラーディンはイスラム原理主義を世界に輸出したい方針でした。
本来なら「アルカイダ」を二分していたかもしれない2人の対立でしたが、1989年11月にアブドゥッラー・アッザームが暗殺されることで終結しています。
そして、その年の11月に、金曜礼拝のために2人の息子とペシャーワルのモスクに向っていたアッザームの車は地雷で噴き飛ばされ、3人とも死亡した。犯行に及んだものはCIA、ISI、イスラエル諜報特務庁、イランのイスラム革命防衛隊などが疑われたが、アフガニスタン内戦に固執するアッザームと対立するMAK(既にアルカーイダに事実上改組していた)内部の犯行との線も疑われた。
アルカイダをわかりやすく説明④ 黎明期から衰退まで…9.11を契機に衰退した
ウサーマ・ビン・ラーディン、湾岸戦争を契機にサウジ王家と決別
「アルカイダ」結成後のウサーマ・ビン・ラーディンについては、直後にユーゴスラビアで紛争が始まったこともあり、兵士たちをそちらに送り込んでもいたようですね。
また、ソ連・アフガン戦争の英雄としてサウジアラビアに凱旋帰国することとなったウサーマ・ビン・ラーディンですが、1990年に「湾岸戦争」が起こると、国防のためにアメリカ軍を駐屯させたサウジ王家と対立。
最終的には、サウジ王家と決別して、1991年にサウジラビアを出国する結末を迎えています。
ウサーマ・ビン・ラーディンがサウジ王家に激怒し決別した背景には、ワッハーブ運動(イスラム原理主義運動)により建国されたはずのサウジアラビアが、欧米勢力を自国に引き入れることは、重大な裏切り行為という想いが強かったようですね。
ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブはコーランを文字通り尊守し、イスラム法を厳格に守るべきであると主張します。そして、シーア派が慣習的に行なっていた聖人崇拝や聖者廟詣を偶像崇拝と強く非難し、イスラムをより預言者の時代に近いかたちにすべしとし、反対する者に対しては「ジハード」を行なうべきと唱えていました。
このイスラムの改革運動の実現を政治的・軍事的に支えたのがサウジ王家でした。
ウサーマ・ビン・ラーディン、アルカイダを国際テロ組織に育て上げる
サウジアラビア出国後のウサーマ・ビン・ラーディンは、アフガニスタンに一時逃れた後にスーダンへと亡命しています。
スーダン時代のウサーマ・ビン・ラーディンは、同国を支配する「民族イスラーム戦線」と手を組み世界各地でテロを起こし、「アルカイダ」が国際的な知名度を得るきっかけを作りました。
そんな「アルカイダ」の動きはサウジアラビアの逆鱗に触れることとなり、1994年になると、ウサーマ・ビン・ラーディンの国籍が剥奪されたうえ、父親から相続した3億ドルの資産も凍結される憂き目となりました。
さらには、後難を恐れたラーディン一族が、ウサーマ・ビン・ラーディンへの年1億ドルと言われている資金援助まで打ち切るという逆風が吹き荒れます。
その後のウサーマ・ビン・ラーディンは、スーダンで建築業を起こし自前で資金を賄うことに成功しますが、アメリカやサウジアラビアからの圧力に負けたスーダン政府から国外追放される結末が待っていました。
ウサーマ・ビン・ラーディン、9.11を起こす
スーダンから追放されたウサーマ・ビン・ラーディンは、再びアフガニスタンの地へ舞い戻ってくることになりました。
当時のアフガニスタンは、ソ連・アフガン戦争後に勃興したイスラム原理主義組織「ターリバーン」が支配する国となっており、かつての英雄だったウサーマ・ビン・ラーディンは全面的な庇護を得ることに成功します。
以降の「アルカイダ」は、反米主義を先鋭化させていき、1998年になると「アメリカ大使館爆破事件」を起こすなど、アメリカに牙をむき続けます。
1998年8月7日、アルカーイダのテロリストがタンザニアのダルエスサラームとケニアのナイロビのアメリカ大使館をほぼ同時刻に爆破し、12人のアメリカ人を含む224人を殺害した。テロ事件が発生した1998年8月7日は、アメリカ軍のサウジアラビア派遣からちょうど8年後であった。
アメリカ側もテロに黙っていたわけではなく、報復としてアフガニスタンの「アルカイダ」関連施設をミサイルで爆撃したり、ウサーマ・ビン・ラーディンらの身柄引き渡しを要求したものの、「ターリバーン」側が応じることはありませんでした。
その後も2000年に「米艦コール襲撃事件」を起こすなど、反米テロを続けた「アルカイダ」は、2001年になると「アメリカ同時多発テロ事件」を起こし、「アフガニスタン紛争」の引き金を引いてしまうことになります。
ウサーマ・ビン・ラーディン、アフガニスタン紛争の末に殺害された
「アメリカ同時多発テロ事件」後のアメリカは、有志連合を結成しアフガニスタンに対して報復の軍事侵攻を開始しており、俗に言う「アフガニスタン紛争」が始まることになりました。
2001年10月7日に始まった「アフガニスタン紛争」は、圧倒的な戦力差もあり呆気なく「ターリバーン」政権も崩壊。ウサーマ・ビン・ラーディンら「アルカイダ」幹部たちも潜伏生活を余儀なくされます。
その後も「マドリード列車爆破事件」や「ロンドン同時爆破事件」を起こし健在ぶりをアピールしていた「アルカイダ」でしたが、実際のところは組織の資産凍結に加えて幹部の暗殺や逮捕が相次ぎ、追い詰められていきます。
「アルカイダ」の落日の象徴となったのが、2011年5月に起こった「ウサーマ・ビン・ラーディン暗殺事件」となっており、パキスタン北西部に潜伏していたウサーマ・ビン・ラーディンが、米海軍特殊部隊の強襲を受けて殺害されてしまいました。
オバマの最大の失敗はやはりウサマ・ビン=ラーディンの暗殺で、何が何でもウサマは裁判にかけるべきだった。ウサマ暗殺とその後のターゲテッドキリングの重視は対テロ戦争に関する国際法の発展を大きく阻害して、結果として国際平和への道を何十年か遅れさせたと思う。
— Kousyou (@kousyou) May 27, 2016
アルカイダをわかしやすく説明⑤ 日本人も殺害していた…イラク日本人青年殺害事件とは
基本的に中東情勢に縁が薄いため「アルカイダ」による被害も少ない日本ですが、中には明確に日本人を狙ったテロ事件も存在します。
「イラク戦争」の最中である2004年10月に起こった「イラク日本人青年殺害事件」では、香田証生さんが「アルカイダ」系組織「イラクの聖戦アルカイダ」に拉致され、人道復興支援のためにサワーマに駐屯していた自衛隊の撤退を求める犯行声明が出されることになりました。
2004年10月27日午前2時、「イラクの聖戦アルカイダ組織」を名乗るグループが、インターネットで日本人香田証生を人質にしたと犯行声明を出し、日本政府が48時間以内に、イラクからの自衛隊撤退に応じなければ殺害すると脅迫してきた。
引用:イラク日本人青年殺害事件
しかしながら、当時の総理大臣だった小泉純一郎さんは、「イラクの聖戦アルカイダ」からの要求を拒否して、イスラム系国家や聖職者たちのネットワークを使い香田さんの救出を試みています。
とはいえ、「イラク日本人青年殺害事件」に関しては、犯行声明から数日後に香田さんが殺害されてしまったため、日本政府の必死の救出活動も実らずに終わるという残酷な結末が待っていました。
こんな時期に欧州旅行とかゼミ卒業祝賀会とか
— しょう🌸🌸🐕ヤブイヌ小隊🇯🇵 (@yokosyo1) March 29, 2020
イラクでアルカイダに首を切られて死んだ香田証生を思い出した
・イラクは戦争中
・数ヶ月前に日本人拉致事件発生
・『イラクはさほど危険ではない』と人から聞いて渡航を決意
・短パンで、ひと目で他国人とわかる姿でウロウロ
そりゃ死ぬわ❗️ https://t.co/j97JyFzUCt
アルカイダの現在…アラブの春をきっかけに復活傾向だった
アルカイダ、復活の契機はアラブの春だった
「アメリカ同時多発テロ事件」をきっかけに、アメリカに徹底的に叩き潰されてしまった感のある「アルカイダ」でしたが、「アラブの春」を契機にまた勢力が盛り返しているようですね。
アラブの春とは、2010年から2012年にかけてアラブ世界において発生した、前例にない大規模反政府デモを主とした騒乱の総称である。2010年12月18日に始まったチュニジアのジャスミン革命から、アラブ世界に波及した。
引用:アラブの春
「アルカイダ」が「アラブの春」を契機に復活した要因には、民主化運動で政権を打倒をしたものの、その後に安定政権が築けずに政情不安に陥った国が続出。
特に、リビアやシリア、イエメンなどでは内戦が勃発する事態にまで至り、イスラム諸国でイスラム原理主義に傾倒する若者たちが増えてしまう形に終わってしまいました。
その結果、壊滅的になっていた組織を盛り返すための人材を容易に手に入れられるようになった「アルカイダ」は、再び大きなテロ事件を起こすまでに勢力を取り戻しています。
アルカイダ、近年起こしたテロ事件は?
2010年代は、同じイスラム原理主義組織の「ISIL」の影に隠れてしまった感もある「アルカイダ」ですが、相変わらず世界各地でテロ事件を起こしています。
日本人にとって最も身近となる「アルカイダ」系組織のテロについては、2013年にアルジェリア・イナメナスで起こった「アルジェリア人質事件」となります。
「アルカイダ」系組織「イスラム聖戦士血盟団」により、現地の天然ガス精製プラントが襲撃された「アルジェリア人質事件」では、「日揮」社員などの日本人10名を含む48名もの犠牲者が出ております。
その後も「アルカイダ」による衝撃的なテロは続いており、2015年にはフランス・パリにて「シャルリー・エブド襲撃事件」が起こり、2019年にはケニアのナイロビにて「ケニアホテル襲撃事件」が起こっています。
アルカイダについてまとめてみると…
「アルカイダ」については、ウサーマ・ビン・ラーディンが創設した組織なれど、そのフランチャイズ的性質がゆえに、創設者の死後も世界各地で活動が活発なテロ組織ということになります。
テロのない平和な世の中に戻ることを祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。