「iPS細胞」でお馴染みの山中伸弥さんですが、実家は裕福な工場経営者だった他、家族そろって医師の家庭の超エリートだったりします。
この記事では、山中伸弥さんの生い立ちや実家の家族、学歴と経歴や年収、結婚した嫁と娘、コロナウイルスの話題をまとめました。
この記事の目次
山中伸弥のプロフィール
山中伸弥(やまなか しんや)
生年月日:1962年9月4日
出身地:大阪府東大阪市
山中伸弥、実家は裕福な工場経営者だった
山中伸弥さんに関しては、大阪府東大阪市でミシンの部品工場を営む裕福な家庭に生まれて来ており、後に教師となった8歳年上の姉もいたようですね。
小学時代の山中さんは、目がクリクリして明るい性格をしていたため、クラスメイトの女子たちからは人気が高かったようですが、勉強の方では目立ってはいませんでした。
そんな山中さんが神童化したのは、小学6年の時に中学受験用の塾に通って以降の話だったようで、クラスでも1位2位を争う成績を誇るようになった他、大阪教育大学附属天王寺中学校に進学することになりました。
「難関校の灘、東大寺学園、大阪教育大学附属天王寺中学校などを目指す小6生専用の個人塾で、教室では竹刀を持った先生が机をバンッとたたくような、厳しいスパルタ式の塾でした。授業は週に4日、夜遅くまであり、終電に間に合うように走って帰ったこともあります」
山中伸弥、学生時代は世耕弘成と友人だった
中高時代の山中伸弥さんは、元近畿大学理事長で政治家の世耕弘成さんとクラスメイトであり、親友の間柄でした。
また、文武両道で鳴らしていた山中さんは、中学時代より柔道に打ち込むようになり、最終的には二段の段位を取った他、名門進学校でもトップクラスの成績を維持していたようですね。
母・美奈子さんは語る。
「部活が終わって夜遅くに家に帰ってくる。そして、今度は勉強。私の口癖は『はよう、寝え~』でしたわ。それでも、電気つけたまま夜食も食べずに、よう勉強してましたよ」
中学3年時には生徒会副会長を務めた経験もあった山中さんは、勉強やスポーツの合間に、フォークバンド「かぐや姫」のコピーバンドを結成し、ボーカルとギターを担当するなど、全力で青春を謳歌していたとか。
そんな山中さんが医師を志したのは高校時代だったようで、医療法人「徳洲会」の創設者であり元政治家の徳田虎雄さんの著書「生命だけは平等だ」を読み、感動を覚えたことがきっかけだったようですね。
山中伸弥の学歴・経歴…iPS細胞と出会ったのはアメリカ留学時代だった
山中伸弥、臨床研修医中に研究者を志す
山中伸弥さんの学歴は以下となります。
1978年3月 – 大阪教育大学附属天王寺中学校卒業(第29期)
1981年3月 – 大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎卒業(第23期)
1987年3月 – 神戸大学医学部医学科卒業
4月 – 大阪市立大学医学部整形外科学教室入局
7月 – 国立大阪病院臨床研修医(1989年6月まで)
1989年4月 – 大阪市立大学大学院医学研究科薬理学専攻博士課程入学
1993年3月 – 大阪市立大学大学院医学研究科薬理学専攻博士課程修了、博士(医学)
4月 – カリフォルニア大学サンフランシスコ校 (UCSF) グラッドストーン研究所 (Gladstone Institute) 博士研究員
大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎を卒業後の山中伸弥さんは、全国の医大・医学部の中でも11位の高偏差値を誇る神戸大学医学部に進学しています。
神戸大学時代の山中さんは、大学3年時からラグビー部に所属するなど、相変わらず文武両道な学生だったとか。
柔道やラグビーとタフな競技を好んでプレイするスポーツマンだった山中さんは、学生時代に10回以上骨折をするほど怪我に悩まされる人生を送っていたこともあり、整形外科医を志すようになりました。
神戸大学卒業後の山中さんは、国立大阪病院整形外科に臨床研修医として勤務することになりますが、手先が不器用すぎて周囲から「ジャマナカ」と揶揄されるなど、落ち込む日々が続いたようですね。
そんな折、重症となったリウマチ患者を担当することとなった山中さんは、全身の関節が変形している痛々しい姿に心を痛め、このような患者を救えるようにと研究者を目指す決意を固めました。
山中伸弥、アメリカ留学も経験していた
国立大阪病院を退職後の山中伸弥さんは、1989年になると、大阪市立大学大学院に入学しています。
大学院生時代の山中さんは、効率的な研究ぶりで指導教官からも一目を置かれていたようですね。
指導教官の三浦は「非常に優秀ながら時間を効率的に使い、適当な時間になると研究を切り上げ帰宅していた。誰にでも好かれるさわやかな性格だった。」と述懐する。
引用:山中伸弥
大阪市立大学大学院を卒業後の山中さんは、1993年に渡米してカリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所の博士研究員となっており、iPS細胞の研究に携わるようになりました。
山中伸弥、帰国後は研究環境の悪さに苦悩していた
アメリカから帰国後の山中伸弥さんに関しては、日本学術振興会特別研究員を経て、1996年に母校・大阪市立大学の薬理学教室助手に就任し、iPS細胞の研究を継続しています。
とはいえ、大阪市立大学の研究環境はかなり劣悪だったらしく、アメリカ時代には当たり前に存在した実験用マウスの管理担当者すらいない状況でした。
その他にも、当時の日本の医学界ではiPS細胞の将来性が認識されていなかったこともあり、山中さんは「無駄な研究を繰り返している」と周囲から批判され続ける毎日を過ごしていたとか。
あまりの逆風ぶりに半分うつ病になりかけていたという山中さんは、研究者を辞めて整形外科医に戻ろうかと考えていた時期もあったようですね。
しかしながら、科学雑誌でたまたま見かけた奈良先端科学技術大学院大学の公募に応募したところ、遺伝子教育研究センターの助教授に採用されるというサプライズが起こり運気が逆転。
以降はアメリカ時代と遜色のない環境でiPS細胞の研究に打ち込めることが出来た山中さんは、2003年には奈良先端科学技術大学院大学の教授に昇進した他、科学技術振興機構より経済的な支援を受けてiPS細胞の開発に成功。
その後は、2004年に京都大学の再生医科学研究所教授に就任した他、2007年には、カリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所の上級研究員に就任し、アメリカで自分の研究室を持つまでに成り上がることが出来ました。
山中伸弥はノーベル賞を受賞した…それ以外の受賞歴も豪華だった
山中伸弥さんの母・美奈子さん(写真左)
山中伸弥さんは、2012年になると、iPS細胞の開発が評価されてノーベル生物学・医学賞を受賞しています。
当時、父親は既に死去していた山中さんでしたが、母・美奈子さんは81歳と高齢ながらも健在だったたため、スウェーデンでの授賞式に一緒に参加することが出来ました。
その後、2018年に亡くなってしまった美奈子さんでしたが、山中さんにとっては、親孝行が間に合ったと感慨深いものがあったそうですね。
ちなみに、ノーベル賞で一躍有名となった山中さんですが、それ以前から国際的な賞を数々受賞していました。
・ロベルト・コッホ賞(2008年)
・ショウ賞(2008年)
・ガードナー国際賞(2009年)
・アルバート・ラスカー基礎医学研究賞(2009年)
・恩賜賞・日本学士院賞(2010年)
・京都賞先端技術部門(2010年)
・バルザン賞(2010年)
・ウルフ賞医学部門(2010年)
・キング・ファイサル国際賞(2011年)
・ミレニアム技術賞(2012年)
・生命科学ブレイクスルー賞(2013年)
山中伸弥の年収は?…研究者の年俸は医師以下だった
現在は京都大学iPS細胞研究所の所長にまで出世している山中伸弥さんですが、「研究者の給料が安い!」と言われ続けている日本の事情もあり、世間で思われているほどの高給は貰っていないとの説が根強い状況です。
京都大学iPS細胞研究所の所長の年俸については公表されていませんが、同じ国立の研究所である理化学研究所の理事長の年収が2100万円程度なことを踏まえると、山中さんもせいぜい同程度の待遇なのではないかと目されています。
医師になっていれば、勤務医でも病院長になれば平均年収2800万円、開業医に至っては平均2800~4000万円程度の年収を得られると言われている世界だけに、まさにお金よりも名誉を取ったと言える状況なのかもしれませんね。
とはいえ、山中さんはアメリカでカリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所の上級研究員を務めている他、日本でのメディア露出や著作物の出版などもあるため、トータルの年収で言えば、開業医を超える程度にはリッチなのではないかと思われます。
山中伸弥の家族情報…嫁・知佳さんは皮膚科医だった
山中伸弥、嫁・知佳さんは中学時代からの付き合いだった
小学時代からとにかく女性にモテたという山中伸弥さんは、当然ながら既婚者となっており、皮膚科医の知佳さんという伴侶がいます。
2人の馴れ初めについては、中学2年時に同じクラスになった際に知り合って以来の付き合いだったとか。
中高の同級生という立場だった2人は、高校時代にはすでに恋人関係にあったようで、修学旅行中にこっそりサイクリングデートを楽しむなど大胆な一面もあったようですね。
中学時代は英語クラブの部長を務めていた優等生だった知佳さんは、大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎を卒業後は、実家が開業医だったことも手伝い、関西医科大学に進学しました。
インテリすぎるカップルだった2人ですが、結婚時期はかなり早く、お互いが研修医だった1987年に夫婦となっています。
山中伸弥、単身赴任の寂しさに耐え切れずに日本へ帰国していた
知佳さんとの結婚後の山中伸弥さんに関しては、前述の通り研究者の道を志し、1989年4月より大阪市立大学の大学院に通い始めているため、山中家の家計は知佳さんが支える日々が続きました。
その後、子供も生まれていた山中家でしたが、山中さんが1993年4月よりカリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所の博士研究員に就任したため、知佳さんは皮膚科医の仕事を休業し、一家そろって渡米をしています。
研究者となるために渡米した山中を支えたのは、知佳さんと家族だった。会見でも「家内も自分の仕事を中断して来てくれた。アメリカでは研究以外の時間ができて、子どもの成長をすぐ横で見られました。研究でいろいろあっても、 子どもの笑顔が支えだった」と、このときは目を細めた。
しかしながら、長女が小学校に入学する年齢になると、日本で教育を受けさせたがっていた知佳さんに押し切られて、妻子が日本に帰国。
単身赴任状態になってしまった山中さんは、その後も半年ほどアメリカで研究を続けていたものの、結局は家族と離れ離れになった寂しさに耐え切れずに日本へ帰国することになりました。
帰国後の知佳さんに関しては、大阪回生病院に勤務した後、現在は大阪市内にあるウヤマ・イマムラ医院で働いているとの噂が存在します。
ちなみに、知佳さんの旧姓は今村なため、ウヤマ・イマムラ医院は知佳さんの実家なのではないかと思われます。
山中伸弥の子供情報…娘も女医になっていた
山中伸弥さんには、現在までに2人の娘が誕生しています。
帰国子女である娘たちですが、母・知佳さんの希望で教育の方は日本で受けることとなり、両親と同じ大阪教育大学附属天王寺中学校・高校に通っていたことが確認されております。
その後の娘たちの進路に関しては、医師を目指して母親の母校である関西医科大学に進学したのではないかとの噂が存在します。
こちらの噂については、関西医科大学の弓道部のHPに山中姓の姉妹がいたことが発生源になっているようですね。
山中伸弥の現在…新型コロナウイルス騒動で情報を発信していた
山中伸弥さんの現在については、2020年に起こった新型コロナウイルス騒動の際に、「山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信」というHPを作り、積極的な情報発信と政府に対する提言を続けています。
自身もマラソン愛好家の山中教授は、16日にYouTubeに動画を投稿。「新型コロナウイルスに感染しても多くの人に症状は出ません。感染していてもジョギングをするぐらいの方がたくさんいます。走って大きな息をすると、もしかしたら周りにウイルスをまき散らしているかもしれません」と指摘し、エチケットとして走る時もマスクを着用することを推奨。「バフ」と呼ばれる布で口元を覆うこともエチケットの一つに挙げた。
山中さんの提言については、市民目線に沿ったものも多く、ネット上での評判も良いようですね。
山中教授が推奨してた、バフが届いた!思ったよりずっと薄手。ウイルスの侵入を防ぐというよりは、飛沫の拡散を防ぐ、ってことなんだろうな。今までは使い捨てマスクだったけど、次はこれつけて走ろう。 pic.twitter.com/mBPhfQpJE5
— 浅野真澄@あさのますみ (@masumi_asano) April 24, 2020
山中伸弥についてまとめてみると
山中伸弥さんに関しては、紆余曲折のあった研究者人生の末に、ノーベル賞の栄冠に輝いた苦労人だったようですね。
山中さんの今後より一層の活躍を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。