世界的な舞踏家の田中泯さんは、近年は俳優としても活躍しています。
今回は田中泯さんのプロフィールや本名、生い立ちなど経歴・家族、若い頃のすごい画像、結婚した嫁や子供、息子役や孫役の俳優・女優と自宅などをまとめました。
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田中泯は世界的なダンサー
田中泯
生年月日:1945年3月10日
出身:東京都
身長:171cm
活動:舞踏家・俳優
田中泯さんは舞踏家・俳優です。
従来のダンス・ダンス芸術界に反発して、あらゆる場所で自分の信じるダンス「ハイパーダンス」を披露し、注目を集めました。
また、1978年からは海外にも進出し、高い評価を得ています。
舞踏・ダンスを追及するストイックな生活を次のように語っていました。
私は古代からのダンサーの正当な嫡子であろうと思うのです。
ダンサーとは本来、無名の力であり、場所のメディアであった。私もそうありたい、 と欲するのです。
『私の存在の粒子的部分のすべてがダンスです』と言いたい気分なのです。
私自身を例題としてあらゆる瞬間、場所にミクロマクロのダンスを見届けようとする試みが私、「田中 泯」というヒトの「職業」なのかも知れません。
引用:田中泯『私の存在の粒子的部分のすべてがダンスです』 | Min Tanaka ★ Rin Ishihara ★ Madada Official Web Site ★
「私の存在の粒子的部分のすべてがダンスです」という言葉から、田中泯さんが舞踏・ダンスをとことん追求し、すべてを賭けていることがよくわかります。
また、2002年からは映画やドラマなどの映像作品にも進出し、俳優としても高い評価を得ています。
田中泯の経歴
田中泯さんの経歴を見ていきましょう。まずはダンサーとしての経歴からです。
ダンサーとしての経歴
高校卒業後からクラシックバレエやアメリカンモダンダンスを学び、21歳だった1966年からモダンダンサーとしての活動を始めました。
初舞台はバレエの「蝶々夫人」でした。オリンピックに関連した芸術祭の中で、「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」の端役で初舞台を踏んでいます。
1974年からは伝統的なダンスと前衛的な表現の融合を求めて、独自のダンスを模索し始め、従来のダンス・ダンス芸術界に反発をするようになったようです。
田中泯さんは全身の体毛・髪の毛・眉毛などをそり落とし、性器には包帯を巻いて、体を土色に着色し、ほとんど裸に近い状態で、ダンスを披露するようになります。
しかも、ダンスを披露する場所を選ばず、劇場やライブハウス、美術展覧会場などはもちろんのこと、日常的な場所・野外など、ありとあらゆる場所でダンスを展開しました。
髪の毛も体毛も全部剃って、個性が無くなりますよね。一番個性的な急所も包帯で巻きまして、踊るとゴロンゴロンと動くわけですけど。そうしたらね、日本で捕まりましたね。」と飄々と告白。
この田中泯さんのダンスは編集工学研究所の松岡正剛氏によって、「ハイパーダンス」と名付けられました。
海外への進出
1978年には海外進出を果たします。パリの芸術祭である「日本の間(MA-Space/Time in Japan)」展に招待参加したことが、田中泯さんの海外デビューです。
それ以降、オランダのアムステルダムやフランスのアヴィニョン、イタリアのローマ・カラカラ浴場などで独舞公演を成功させるなど、海外では好意的に受け入れられました。
すると田中は「フランスの人たちは沢山僕を取り囲んで、質問してくれましたね。嬉しかった。どんどんお客さんが増えた。日本は先の見えないものは無視されますよね。僕は裸体で踊って色んな批判をされた。」と言葉を丁寧に選びながら答えた。
田中泯さんは裸体の前衛ダンサーとして、パリなどのヨーロッパやニューヨークだけでなく、東ヨーロッパ諸国から東南アジアに至るまで世界中で受け入れられ、注目を集めてきました。
土方巽との関係性
田中泯さんは、俳優・土方巽(ひじかたたつみ)から強い影響を受けています。1968年に土方巽の「肉体の叛乱」を見たことが、大きな転機になったと語っています。
田中 ならなかったですね。なんか違うと思っていました。むしろ転機となったのは、1968年に観た土方巽の『肉体の叛乱』ですね。
そして、1982年に土方巽に会いに行き、1984年には土方巽 演出・振付の田中泯ソロ公演「恋愛舞踏派定礎」を開催しました。
田中泯さんは土方巽について、次のように語っています。
あの人は僕にとって特別な存在です。最初に土方の踊りを見た時、本当にびっくりしました。踊り方の問題ではなくて、こういうふうに人の一時間を平気で奪っておいて、あっという間にその一時間が過ぎる。それは踊り方じゃなくて、あの人自身が凄いからなんですよね。
田中泯さんは土方巽の臨終にも立ち会っています。
1982年には身体気象研究所を立ち上げ、ダンサー・美術家・映像作家・詩人・哲学者などあらゆる表現者が集う集団を作りました。また、plan-Bも実行委員の1人として立ち上げます。
また、1986年からは「カラダの可能性を一緒に考える場」として、世界各国でダンスワークショップを開催し、世界各地にたくさんのワークショップ受講生がいます。
現在のヨーロッパの中心としてダンスの方法論として、「身体気象(ボディウェザー)」という言葉が流行していますが、これは田中泯さんと松岡正剛さんが一緒に考え出したものです。
田中泯さんは舞踏・踊りを追求し続けていて、「私の踊りはもはや、世間一般に言われている舞踏ではない」とも語っています。
ダンスも人生も私には、わかっているわけではないのだが、私は踊ることで言葉を奪い返した。
踊ることで、世の中が、制度が、見えてきた。
踊ることで、人にあこがれた。
踊ることで、もっと生きたいと思った・・・・・・。
私は古代からのダンサーの正当な嫡子であろうと思うのです。
引用:田中泯『私の存在の粒子的部分のすべてがダンスです』 | Min Tanaka ★ Rin Ishihara ★ Madada Official Web Site ★
田中泯さんの言葉を見ると、常人では理解できないレベルにまで達していると思われます。1つのことを、ただただ追求し続けた人の素晴らしさを感じずにはいられません。
映像作品への進出
2002年からは、田中泯さんは俳優としての活動も開始します。俳優活動を始めたきっかけは土方巽でした。
師匠の土方が五十七歳で死んでるんです。同じ歳に自分がなろうとしていると思ったら絶望的になりました。『俺、まだこんな奴なのか』と。それでいろんなことに嫌気が差している時に映画の話が来たんです。
最初は驚きましたが、『そういえば先生、映画が好きだったな』と思ったら、ひょっとして先生が『やってみないか』と言ってるんじゃないかという気になったんですよね。
そして、2002年の「たそがれ清兵衛」をきっかけに次々に映像作品に出演しました。
・隠し剣 鬼の爪
・メゾン・ド・ヒミコ
・八日目の蝉
・外事警察 その男に騙されるな
・永遠の0
・るろうに剣心 京都大火編 / 伝説の最期編
・アルキメデスの大戦
・HOKUSAI
・名付けようのない踊り
・峠 最後のサムライ
<ドラマ>
・ハゲタカ
・龍馬伝
・鎌倉殿の13人
・グーグーだって猫である
・まれ
・リスクの神様
・いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう
・A LIFE〜愛しき人〜
・モンテ・クリスト伯 -華麗なる復讐-
・僕らは奇跡でできている
・サギデカ
・バイプレイヤーズ
・17才の帝国
俳優活動をして以降、存在感のある演技で、俳優としても高い評価を得ています。
受賞歴
田中泯さんの受賞歴はこちらです。
・1979年 舞踊批評家協会賞受賞
・1982年 西ドイツ・ミュンヘン演劇祭最優秀パフォーマンス賞受賞。
・1990年 フランス政府より芸術文化勲章騎士章(シュヴァリエ章)受勲。
・1995年 舞踊批評家協会賞、サントリー地域文化賞受賞。
・1996年 日本税理士会地域文化賞受賞。
・1998年 舞踊批評家協会賞受賞。
・2001年 日本現代藝術振興賞受賞。
・2006年 朝日舞台芸術賞受賞、同時にキリンダンスサポート ダブル受賞
・2011年 第一回吉阪隆正賞 受賞
・2012年 第6回円空賞 円空賞受賞
・2013年 豊田市美術館フランシス・ベーコン展 献上
裸に近いような衣装(?)で前衛的な舞踏を行いながらも、小澤征爾さんが指揮するサロメ、リッカルド・ムーティが指揮する魔笛などのオペラの振り付けもしています。
本当に幅広い舞踏をしていることがわかります。
田中泯は本名ではない
田中泯という名前は、本名ではありません。本名は明かしていませんが、「泯」という名前は自分でつけたと公言しています。
- ありがとうございます。
すごくカッコいいですよね、お名前。
- 泯
- 自分でつけたんです。
- 俺、若いころにね、
絶対に外国へ行くって思ってたんです。
外国に行くと思っていたから、「泯」という呼びやすくて覚えやすい名前を付けていたのかもしれません。
田中泯の生い立ちや家族
田中泯さんは1945年3月10日に、東京都で生まれました。
父親は警視庁の警察官で、近所で遺体が発見されるたびに、田中泯さんは現場に連れていかれて、遺体を見せられたそうです。
小学校時代はいじめを受けていました。理由は背が低くてどもりがあったからとのことです。
僕も小学校時代、散々いじめられた。背が低く、どもりもあったから。土に埋められ、砂も食わされた。誰も助けちゃくれない。でも逃げ場はあった。川や森に逃げ、独りで過ごした。そこで孤独の素晴らしさを知った。
田中泯さんは子供の頃から独特な感性を持っていたようですので、いじめはそのせいもあったのかもしれません。
中学校に進学すると、母親に勧められてバスケットボールを本格的に始めます。
中学校・高校・大学とバスケットボールを続け、国体レベルの選手だったそうです。身体能力が非常に高いんですね。
・1963年:東京都立武蔵高等学校卒業
・1965年:東京教育大学を中退
現在の筑波大学である東京教育大学に進学してからもバスケットボールをやりましたが、アスリートの世界の競い合いに嫌気が差してしまい、1964年には辞めてしまったそうです。
それから、子供の頃に盆踊りに出会ってから、ダンスを正式に習いたいと思っていたそうで、バレエのスタジオに見学に行き、ダンスにのめり込んでいきました。
東京教育大学の舞踊学研究室に顔を出して、歌舞伎研究者の郡司正勝さんや舞踊評論家の市川雅さんの話を聞きにいったこともあるそうです。
そして、「踊りの技術は何か、技術があればそれは踊りになるか」などを考え、突き止めるために、ダンスを続けていきました。
そして、1965年に東京教育大学を中退し、本格的にダンスを始めるようになります。
田中泯の若い頃の画像がすごい
田中泯さんは若い頃、ほぼ裸の状態で舞踊をしていました。その時の画像がすごいんです。
出典:youtube.com
なんだか前衛的すぎて、凡人には理解できないレベルに達してしまっています。こんな感じで野外で舞踊をしていたら、日本だったら警察に連行されるのも仕方ないのかもしれません。
でも、筋肉の付き方が非常に美しいです。山梨に移住して、農業をしながら体を作り、その体で踊ることを決めたとのことですので、ストイックに体づくりをしていたのでしょう。
現在74歳でまだまだ現役の田中は、朝起きたらまず自分の体に異変がないかどうか総点検するのだと話します。
これだけ自分の体にストイックにしているからこそ、裸で踊っていても「絵」になるし、美しく見えるのでしょう。
田中泯の結婚や嫁と娘
田中泯さんは結婚しているようです。著書の「僕はずっと裸だった」の中で、結婚していて嫁と娘がいることを告白しました。
クラシックバレエやモダンダンスを学んだ田中さんは1974年、突如「裸体を衣装として選んだ」。その始まりの風景を写した1枚の写真が残る。同じく裸になった妻と生まれたばかりの娘の前で、膝を抱え跳び上がる姿。「ものすごく恥ずかしくて、ずっと小刻みに震えていた。ひたすらぶざまな姿を見せ続けることで、自由になれるかもしれないと思った」
1974年に裸で踊り始めた時に、「妻と生まれたばかりの娘の前で」とありますので、1974年にはすでに結婚していて、娘さんが生まれたばかりでした。
ただ、田中泯さんは自分で結婚した嫁や娘さんのことを話すことがないので、現在も結婚生活を続けているのか、子供は娘さんのほかにもいるのかなどは不明です。
田中泯の息子はキムタク?
田中泯さんは「A LIFE~愛しき人~」の中で、木村拓哉さんの父親役を演じています。
「今回のドラマで『僕の父親役に田中さんを』と強く推したのは、木村さん本人だったと聞いています」と前出のテレビ局関係者は語る。
田中泯さんと木村拓哉さんは映画「無限の住人」で初共演し、それから木村拓哉さんは田中泯さんを尊敬するようになり、「A LIFE~愛しき人~」でも田中泯さんを父親役に推したそう。
でも田中さんは『孤独こそが大事だ。誰にも見られていないときにこそ、本当の自分がいる。俳優は人前でカッコよくふるまうものだ。しかし周囲に人がいない孤独なときにこそ、カッコよく生きろ』と木村さんに説いたそうです
木村拓哉さんからも尊敬される田中泯さん、カッコいいですね。
田中泯の孫は浜辺美波?
NHKの朝ドラの「まれ」では、田中泯さんの孫役を浜辺美波が演じています。
田中泯さんと浜辺美波さんの祖父・孫の関係性がしっくりきたためか、インターネット上では「田中泯の孫は浜辺美波」と思い込んでいる人もいるようです。
しかし、ただ単にドラマの中で、祖父・孫の役を演じただけでした。
田中泯さんに本当の孫がいるかどうかは不明です。
田中泯の自宅は山梨県
田中泯さんの自宅は、山梨県甲斐市にあります。
1985年に山梨県に移住して、農業ベースの生活を送るようになりました。
過疎で住み手がいなくなった村を自分で開墾して、古民家を修復し、「桃花村」という名前の村を作っています。
農業をして自給自足しながら、踊りに専念する。そんな生き方を求めて移住しようと思い、みんなに相談したら、半分以上の若者は「それだったら自分は去る」と。自国に帰ってしまった外国の若者もいます。でも3分の1くらいの人が一緒に山梨に来て、農業をやるようになりました。
引用:(4ページ目)田中泯、76歳の世界的ダンサー「原点はお祭りの盆踊り。40歳から山梨で自給自足生活を。農業で鍛えた身体で生まれる踊りがある」 ダンサーときどき俳優、そして農業家|芸能|婦人公論.jp
農事組合法人桃花村は2013年に解散していますが、それでも田中泯さんは現在も山梨で農業に本気で取り組んでいます。
泯さんは、日々、農業に本気だ。夜、東京で話していても、朝の農作業があれば車を飛ばして富士山の見える山梨の畑に向かう。踊りを褒められるよりできた作物を「美味(うま)い!」と言われた方がうれしそうだったりもする。踊りの後、それを販売する。
引用:富士山の見える畑で農業 ダンサー田中泯さんと猫の「冨士男」 | 犬・猫との幸せな暮らしのためのペット情報サイト「sippo」
「農業の現場から踊りが生まれる」と語っていたこともあるので、農業も含めてすべてが舞踏・ダンスにつながっているんですね。
田中泯のまとめ
田中泯さんのプロフィールや経歴、本名や生い立ち・家族、若い頃の画像、結婚した嫁や子供、息子や孫の噂、自宅などをまとめました。
田中泯さんの舞踏を追求する姿は本当にかっこいいです。舞踏家・俳優というよりも「表現者」といったほうがしっくりくるかもしれませんね。