世界に誇る日本のカルチャーの1つがアニメです。アニメ界にはたくさんの「巨匠」と呼ばれる人たちがいますが、その中の1人が押井守さんです。
押井守さんのプロフィールや実家の家族・姉、生い立ちや経歴、結婚・離婚歴と嫁の情報、子供(娘)や孫、自宅の情報をまとめました。
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押井守は映画監督
押井守
生年月日:1951年8月8日
出身:東京都大田区
所属:有限会社八八粍
血液型:O型
活動:映画監督、アニメ演出家
押井守さんは日本を代表する映画監督やアニメ演出家です。アニメ映画だけでなく、実写映画も制作しています。
「うる星やつら」や「機動警察パトレイバー」などの代表作を持ち、カンヌ国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭、ベルリン国際映画祭にも正式出品した実績があります。
ジェームス・キャメロンやクエンティン・タランティーノなど世界的なクリエイターにも影響を与えたとされていて、2016年度のアメリカのアニー賞ではウィンザー・マッケイ賞(生涯功労賞)を受賞しました。
世界的に評価が高い日本のアニメ界の巨匠の1人と言える存在です。
押井守の実家や家族:姉は舞踏家
押井守さんの実家は東京都大田区大森にあり、6人家族で育ちました。
・母親
・腹違いの兄
・兄
・姉
・押井守
父親は飲んだくれの興信所
押井守さんの父親は山形県出身で、興信所を開いて探偵業を行い、浮気調査などを仕事にしていました。ただ、あまり収入は多いわけではなく、しかも飲んだくれだったそうです。
父親は映画好きで、幼い押井守さんを毎日のように映画館に連れて行きます。この父親の行動が押井守さんの映画監督としての才能を伸ばし、ベースとなるものを作ったのかもしれません。
母親は洋装店経営
押井守さんの母親は、父親の後妻として結婚し、洋装店を経営していました。
父親の収入は多くなかったため、家計は母親の収入で成り立っていたそうです。
姉は舞踏家の最上和子
押井守さんの母親は後妻だったため、押井守さんの一番上の兄とは年齢が離れていて「腹違い」の兄になります。押井守さんは4人兄弟の末っ子として育ちました。
その4人兄弟の中で、押井守さんに次ぐ知名度があるのが姉の最上和子さんです。
最上和子さんは「原初舞踏」を提唱する舞踏家です。
元々はOLや看護師として働いていましたが、舞踏を志すようになり、身体の内部から踊る原初の舞踏を模索し、舞踏公演を行うようになりました。
身体という聖杯を求めて。身体の内部から踊る原初の舞踏を模索。霊性・アニミズム・生成・ファンタジー。
2001年から本格的に舞踏公演を行うようになり、バルハラ稽古場を主宰しています。また、2017年には『身体のリアル』という本を弟の押井守さんと共著で出版しました。
この最上和子さんと弟の押井守さんは顔がそっくりですよね。
見ただけで2人は姉弟であることがはっきりとわかります。押井家のDNAは非常に強いのかもしれません。ご両親やほかのご兄弟が揃って写っている写真も見てみたいです。
押井守の生い立ち
中学卒業まで
押井守さんは1951年に東京都大田区で生まれました。前述のように、子供の頃から父親と一緒に毎日のように映画館に通う生活を送っていました。
小学校高学年になると、父親が教育熱心だったために、中学受験に向けて英才教育を受け、成績は体育以外は5という優等生になりましたが、中学受験は失敗してしまいました。
すると、父親は押井守さんの成績に興味をなくし、押井守さんは中学時代はSF小説にハマっていき、SF小説家を夢見るようになります。
高校時代
高校は都立小山台高校に入学しました。
高校入学後は学生運動が盛んだったこともあり、押井守さんは高校には行かずに不登校になり、学生運動に積極的に参加するようになりました。
最終的には警察が実家に来て捜査するほどの熱の入れようだったため、父親は押井守さんの将来を心配して、高校3年生の夏に山梨県の大菩薩峠の山小屋に押井守さんを軟禁して学生運動から遠ざけます。
この父親による軟禁のおかげで、押井守さんは学生運動の熱も冷め、学生運動自体も下火になっていきました。この学生運動に参加したことは押井守さんにとっては非常に大きな出来事でしたが、特段に主義主張があったわけではないようです。
本人曰く「今から思えば僕が学生運動に参加したのも、そこに大層な問題意識や主義主張があったというわけではなく、目の前の現実から逃避できる場所であればどこでもよかったのかもしれない。
そこから受験勉強をして、1970年には東京学芸大学に入学しました。
大学時代
1970年に東京学芸大学に進学した押井守さんは映画に熱中するようになり、年間1000本くらいの映画を見るようになりました。大学時代には「映像芸術研究会」を設立し、実写映画も撮影するようになりました。
大学ではほとんど授業に出ておらず、2年間で2単位しかとっておらず、留年することになりましたが、留年しても大学にはほとんど通わなかったと語っています。
それでも、教育実習に行き、大学はきちんと卒業しました。
押井守の経歴
アニメ業界に入る
学生時代に映画に熱中していた押井守さんは就職活動で映像関係の会社の採用試験を受けますが、ことごとく不合格になり、知人の紹介でラジオ制作会社に入社しました。
しかし、給料未払いなどの理由で10ヶ月で退社し、CMモニター会社に転職します。この頃に「竜の子プロダクション」が制作した「科学忍者隊ガッチャマン」を観て感銘を受けたそうです。
1977年に「竜の子プロダクション」の採用試験を受けて入社し、初めてアニメ業界に足を踏み入れることになりました。
機動警察パトレイバーで確固たる地位
竜の子プロダクションに入社した押井守さんは最初は雑用をしていましたが、すぐに演出を任されるようになり、「タツノコ四天王」の1人として、知名度を上げていきます。その後、師匠である鳥海永行の後を追って、スタジオぴえろに移籍します。
1988年には「機動警察パトレイバー」の企画に参加し、1989年には『機動警察パトレイバー the Movie』ホームビデオ部門で売上1位を記録、1993年には『機動警察パトレイバー 2 the Movie』、1995年には映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』が公開され、押井守さんはアニメ映画監督として確固たる地位を築きました。
特に、1995年の映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』はアメリカのビルボードのホームビデオ部門で売上1位を記録し、スティーヴン・スピルバーグやジェームズ・キャメロンなどから絶賛され、海外の評価が急上昇しました。
アニメ界の巨匠に
押井守さんはその後もアニメ映画や実写映画を製作し続け、2004年の「イノセンス」はアニメ映画作品史上初の日本SF大賞を受賞、さらにカンヌ国際映画祭のコンペティションに出品しています。
また、「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」はヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に正式出品されました。
さらに、実写映画でも実績を残していて、世界三大映画祭であるカンヌ・ヴェネチア・ベルリン国際映画祭に正式出品しています。
・カンヌ国際映画祭:『Avalon』
・ヴェネチア国際映画祭:『立喰師列伝』
・ベルリン国際映画祭:『真・女立喰師列伝』
2016年にはアニメ界のアカデミー賞と言われるアメリカのアニー賞でアニメ界に貢献した人物に贈られるウィンザー・マッケイ賞(生涯功労賞)が授与されました。
押井守の代表作
押井守さんが手がけた作品はたくさんありますので、ここでは代表作の一部をご紹介していきます。
・『タイムボカンシリーズ』
・『うる星やつら』
・『うる星やつら オンリー・ユー』
・『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
・『天使のたまご』
・『機動警察パトレイバー the Movie』
・『機動警察パトレイバー 2 the Movie』
・『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』
・『人狼 JIN-ROH』
・『イノセンス』
・『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』
押井守さんの作品を一度は見たことがあるという人は多いのではないでしょうか。
押井守の結婚・離婚や嫁
押井守さんには結婚・離婚歴があります。芸能人ではありませんので、詳しい結婚・離婚・再婚の時期や嫁がどんな女性なのかは不明です。
■1回目の結婚(1976年:25歳ごろ)
大学卒業後すぐに結婚。嫁は大学在学中に市民合唱団で知りあった女性。
■離婚(1983年頃:32歳ごろ)
劇場版第1作『うる星やつら オンリー・ユー』でアニメ映画監督デビューをしたころに離婚している。
■2回目の結婚(1984年頃:33歳ごろ)
1984年にスタジオぴえろを退社してフリーランスになった頃に再婚している。
離婚の原因はわかっていませんが、離婚と再婚のタイミングを見ると、再婚した相手を好きになったから、前妻と離婚することになったのかもしれません。
押井守さんは『押井守の人生のツボ 2.0』 で結婚に向かない男の特徴を挙げ、宮崎駿さんは結婚に向いていないと断言しています。
押井 まあね。だから、宮さんや金子のような男は細かいくせに、自分のことには気づかないんです。この相談者ふたりも、奥さんの立場から見れば、おそらく何かあるはず。だからわたしの答えは、まずは話してみる。それでもダメなら家庭内難民。それでもダメなら離婚しましょう、です!
引用:(3ページ目)「奥さんの立てる音が気になるのなら、離婚しかないですよ」映画監督・押井守が語った「結婚にまるで向かない男性の特徴」 | 文春オンライン
自分のことについては何も語っていませんが、ここまで断言しているということは、押井守さんは結婚生活に向いているタイプなのかもしれません。1984年に再婚した後は離婚することなく、結婚生活を続けているので、確かにそうなのかもしれませんね。
押井守の子供は1人…娘は押井友絵
押井友絵は映画ライター
押井守さんには子供が1人います。娘の押井友絵さんです。娘の押井友絵さんは前妻との間の子供です。
押井は自身の体験を振り返り、娘を初めて抱いて「責任感」と「緊張感」しかなかったとする。
押井守さんと娘の友絵さんは離婚後は音信不通だったようですが、友絵さんが映画ライターになってから十数年ぶりに再会したそうです。
十数年ぶりに会ったということは、押井守さんと前妻の離婚後の関係性は悪かったのかもしれませんが、娘の友絵さんは父親の押井守さんのことを尊敬していたのかもしれません。
そうでないと、離婚後に「押井」姓を名乗らないし、父親とつながりがある「映画ライター」を仕事にはしないはずですから。
娘の押井友絵さんは、夫の乙一さんの映画「東京小説 乙桜学園祭 立体東京 3D-TOKYO」に主演していますが、その映像を見ると、押井友絵さんは父親の押井守さんには似ておらず、美人であることがわかります。
乙一と結婚
押井守さんの娘の押井友絵さんは、2006年に小説家の乙一さんと結婚しました。
2人の出会いは、父親の押井守さんと深い関係があります。押井守さんが監督を務めた2004年公開の「イノセンス」。その整音現場の見学に乙一さんが見学に行くことになり、そこで押井守さんの娘の友絵さんと出会いました。
そして、2006年に結婚しています。
押井友絵さんと乙一さんは、2006年公開の押井守監督作品『立喰師列伝』に出演していますし、2人の結婚式には「サマーウォーズ」の監督として知られる細田守さんに記念映像の制作を依頼しているので、押井守さんと押井友絵さんの仲は良好のようです。
押井守は孫がいる
押井守さんには孫がいます。娘の押井友絵さんは2010年に出産しています。
「初めて孫を抱いた瞬間、強烈に身体性を感じたんです、ビクビクっと。
現在の嫁との間に子供がいるのか、また孫がいるのかは不明ですが、1984年に再婚していますので、子供・孫が押井友絵さんとその子供以外にいてもおかしくはないでしょう。
押井守の自宅は熱海
押井守さんの自宅は現在、静岡県熱海市にあります。
パトレイバーシリーズを作った後に、東京が嫌になり、1993年頃に「犬と山で暮らしたい」と思って、熱海市に引っ越しました。
押井守さん(以下、押井) 引越したそもそもの目的は、「犬とゆっくり暮らしたい、散歩がしたい」でした。
引用:熱海に住んで30年。郷土愛はないけど、撮りたい作品はあるーー映画監督・押井守さん【ここから生み出す私たち】 – SUUMOタウン
熱海を選んだのは、新幹線が停まって東京からのアクセスが良く、自然が豊かだからです。仕事は東京でしなければならないので、東京と熱海を行ったり来たりする2拠点生活のようになっていると語っていました。
押井守の現在
押井守さんは現在でも、高い創作意欲を持っているようです。押井守さんの代表作と言えば、1995年に公開され、海外でも高い評価を得た「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」。その続編にあたるのが「イノセンス」です。
そして、2025年の「第3回新潟国際アニメーション映画祭」で、「イノセンス」のプロデューサーの石川氏が攻殻機動隊3の可能性について話しました。
「リップサービスじゃなかったですね。『イノセンス』を見たら、そこにヒントがある。この続きを作れば全部それは回収できるだけの作りになるという話にはなったので、本当に次の”3”は僕も見てみたいなと思いました。
引用:押井守 監督の『攻殻機動隊3』が実現!? プロダクションI.G代表取締役会長の石川光久氏と井上伸一郎氏による『イノセンス』トークセッション – otocoto | こだわりの映画エンタメサイト
今後、イノセンスの続編となる攻殻機動隊3が制作・公開されるかもしれません。
押井守のまとめ
押井守さんのプロフィールや実家・姉で舞踏家の最上和子さんなどの家族、生い立ちや経歴と結婚・離婚歴や嫁・子供(娘)・孫や自宅と現在をまとめました。
攻殻機動隊の続編を待ち望んでいるファンは多いと思います。続編を期待したいですね。