1960年代から2008年までに大阪あいりん地区などで24回発生した「西成暴動」が話題です。
この記事では西成暴動の概要と原因、死者の有無、便乗した暴走族や機動隊との衝突、警察署長の土下座、西成暴動の動画、西成暴動に遭遇したお笑い芸人などについてまとめました。
この記事の目次
西成暴動は大阪西成区あいりん地区の日雇い労働者の起こした暴動の総称
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「西成暴動」とは、大阪府大阪市西成区のドヤ街「あいりん地区」で、1960年代から2008年までに第24次まで発生した、労働者を中心とした群衆の起こした大規模暴動の総称で、「釜ヶ崎暴動」の名前でも知られています。
かねてより同地区の日雇い労働者達は劣悪な労働条件に不満を鬱積させており、1960年代にはそれが暴発する形で自然発生的に大規模なもので8度の暴動が発生しました。
1970年代に入ると、日本の新左翼が革命思想を掲げて労働者を扇動するようになり、扇動者による計画的な暴動が繰り返し起こされました。
その後、1973年を最後に暴動は発生していませんでしたが、1990年に第22次西成暴動が発生し、これは当時のメディアが大々的に取り上げ、大きな社会問題として扱われました。1992年には第23次西成暴動も発生。
さらにそれから16年後の2008年には第24次西成暴動が発生し、機動隊と群衆との激しい衝突は社会に衝撃を与えました。
今回はこの西成暴動についてまとめていきます。
西成暴動の概要と原因:1960年代(第1次~第8次)
西成暴動の概要とその原因を時系列順にまとめていきます。
まず最初に1960年代に発生した8度の大規模暴動を見ていきます。
第1次西成暴動
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1981年8月1日21時5分頃、西成区路上で日雇いの労働者がタクシーに轢かれ死亡する事件が発生しました。警察は被害者が既に死亡しているとして、遺体を収容しないまま現場検証を行い、終了後にようやく遺体を収容しました。
この様子を見ていた他の日雇い労働者らが、即座に遺体を収容しなかった警察に対して抗議したのが暴動発生の直接的な原因となりました。
日雇い労働者が集まって暴徒化し、2日未明までに東田町派出所を打ち壊し、同日中に西成警察署に移動して窓ガラス割る、パトカーを炎上させるなどの破壊行為を行いました。
同日夜には、暴徒は4000人にまで膨れ上がり、電車やタクシーに対しても石を投げるなどして被害を与えました。
翌3日になって、大阪府警は京都府警と兵庫県警にも応援を要請し、約6300人の警官隊を投入し、5日にようやく暴動は鎮圧されました。
第2次西成暴動
この年は長雨の影響で日雇いの仕事が不足しており、仕事にありつけない労働者の不満が爆発したのが原因となりました。
5月17日の17時過ぎ頃、夜間の仕事を求めて100人が寄せ場に集まっていましたが、ほとんどが仕事にありつけずに、迎えに来た手配師のトラックを取り囲んで騒ぎ始めました。
この状況を見て他の労働者も集まり始め、翌18日にかけて100名ほどの労働者が走行中の車に投石を繰り返す暴動に発展。警察による鎮圧が行われ多数の日雇い労働者が検挙されています。
翌19日にも暴動は続いていましたが、次第に人数が減り自体は沈静化しています。
第3次西成暴動
1963年12月31日、仕事がなくこのままでは年を越せないとして不満を募らせた労働者ら約2000人が朝から集まり、走行中の車への投石やタイヤの空気を抜くなどの暴動を起こしました。
大阪府警察は即座に対応し、3人の労働者を検挙し、現場にいた他の労働者も排除しました。年が明けた後も不穏な状態が続きましたが、1964年1月5日までに次第に沈静化しています。
第4次西成暴動
1966年3月15日午後6時30分頃に、あいりん地区内の酒屋で日雇い労働者の酒代の支払いをめぐるトラブルが発生。店員が労働者を下駄で殴り怪我を負わせたのが原因となって暴動が発生しました。
警察が店員と負傷した労働者を任意同行すると、西成警察署前に日雇い労働者が集まって騒ぎ始め、原因となった酒屋前にも500人もの労働者が押しかけました。
警察は機動隊を出動させて警備を敷き、西成署前の道路も封鎖する緊急事態となりました。一部投石が起こるなど騒ぎは続きましたが、翌午前1時30分頃に労働者らは引き揚げ、騒動は沈静化しました。
第5次西成暴動
1966年5月28日21時35分頃、あいりん地区内の碁会所で火災が発生しますが、消防車が駆け付けるのが遅れ、その場にいた人々が「馬鹿にするな」と騒ぎ始めました。暴行を受けた消防隊員が彼らを排除し、これが騒動の直接的な原因となりました。
同日22時頃、駆けつけた警察が火事現場に集まった群衆を立ち退かせようとしますが、群衆は現場から500メートルほど離れたパチンコ店へと移動し、店に投石して窓ガラスやネオン看板が破壊し始めました。さらに、この騒ぎの中で警官が暴行を受けて拳銃を奪われています。
翌29日にも暴動は続き、膨れ上がった群衆が市バスへの投石なども行われました。翌30日まで騒ぎは続きましたが、この日を境に徐々に騒動は沈静化しました。
第6次西成暴動
1966年6月21日19時50分頃、あいりん地区内のパチンコ店で遊んでいた日雇い労働者が玉を落とし、女性店員に「拾え」と命令。女性店員が断ったところ労働者が怒り始め騒動に発展。通報受けて駆けつけた警察官が関係者を任意同行しようとしたところ、周りにいた他の労働者らが騒ぎ始めたのが暴動の原因でした。
その後、西成警察署や騒動のあったパチンコ店に日雇い労働者らが集まったため、大阪府警は機動隊を出動させて警備体制を敷きました。
群衆が南海電鉄の線路内に侵入しての投石行為など暴動が続きましたが、6月23日を境に沈静化しています。
第7次西成暴動
1966年8月26日22時30分頃、あいりん地区内の果物店に、ある日雇い労働者が買ったスイカが腐っていたので交換してくれと求めたのをきっかけにトラブルが発生しこれが原因となりました。
騒ぎを聞きつけた周囲の労働者が詰めかけて果物店に投石を開始。警官隊が駆けつけて果物店周辺を封鎖し警備にあたりました。その後、群衆は1200人規模にまで膨れ上がりましたが、翌27日の0時頃を境に次第に平穏を取り戻しました。
第8次西成暴動
1967年6月2日21時頃、あいりん地区内の食堂で無銭飲食をした日雇い労働者と店員のトラブルが発生。この騒動を見ていた周囲の労働者らも騒ぎ始めたのが暴動の原因となりました。
警官隊が駆けつけますが、労働者らは食堂を破壊し始め、さらに3000人規模に膨れ上がった群衆が、周囲の商店や民家に投石して破壊行為を始めました。
その後、騒動は数日にわたって続き、6月5日になってようやく沈静化しました。
西成暴動の概要と原因:1970年代(第9次~第21次)
続けて、1970年代に発生した13度にわたる大規模暴動についても見てきます。
なお、第10次西成暴動以降の暴動は全て何らかの形で日本の新左翼の工作が原因となっていると言われています。
第9次西成暴動
1970年12月に入り、大阪万博後の需要減少と年末という条件が重なって求人が減少し、あいりん地区労働者らは不満を募らせていました。
12月30日、早朝、労働者を現場へ運ぶ土建会社マイクロバスに乗り切れなかった労働者がバスを取り囲んで騒ぎ始めて暴徒化。一団は日雇い労働者の仕事斡旋と福祉向上のための福祉施設愛隣総合センターを襲撃して職員を監禁状態にし、求人数を増やすよう迫りました。
駆けつけた警官隊によって職員が救出された後、暴徒は施設内の石油ストーブを倒して火災を引き起こして建物を全焼させました。
また、別の一団は新今宮駅方面へ向かい、略奪や破壊行為を行いました。
第10次西成暴動
1971年5月25日17時30分頃、港湾運送会社のマイクロバスが寄せ場に到着した際、日雇い労働者が殺到したため、運転手は危険を感じ会社へと引き返しました。
日雇い労働者らは憤慨してマイクロバスを追い、港湾会社まで押しかけ「電車賃」などの名目で金銭を求め支払わせる騒動を起こしました。
この時、あいりん地区に潜入していた新左翼の活動家がこの騒動を利用し「警察は先ほどの団体交渉で不当介入していた」と労働者らを扇動したのが原因となって騒動が拡大。
同日23時30分頃に西成警察署前に、1000人規模の群衆が押しかけ、投石などの破壊行為を行いました。その後30日までの6日にわたって暴動は続きました。
第11次西成暴動
1971年6月13日の20時頃、あいりん地区内簡易宿所で日雇い労働者と管理人との間で揉め事が起こり、管理人が労働者を殴る暴力事件が発生。
管理人は逮捕されましたが、この騒動が原因となって、他の日雇い労働者らが簡易宿泊所を取り囲み、1000人規模にまで膨れ上がった群衆が簡易宿所内に乱入し破壊行為を行いました。
翌14日の夜、夜間の求人が無かった事に不満を持った日雇い労働者が、あいりん地区各地で投石や略奪などの暴動を起こし、騒動は17日まで続きました。
第12次西成暴動
1971年9月11日の20時40分頃、あいりん地区内の果物店で店員が日雇い労働者を殴って頭蓋骨を骨折させる事件が発生。店員は逮捕されましたが、この事件が原因になって日雇い労働者らが果物店を取り囲み、果物店に放火して全焼させました。
その後も暴動は13日まで続きました。
第13次西成暴動
1972年5月1日の朝、あいりん地区で行われた「釜ヶ崎メーデー」の集会後、日雇い労働者2人が公務執行妨害で逮捕されました。
日雇い労働者らはこれに不満を持ち、1000人規模の群衆が西成署を取り囲み投石などをはじめました。
19時30分頃には、群衆は西成署前の道路いっぱいに広がるまで増え、西成署内で隊列を組んだ機動隊と睨み合い状態になりました。また、暴徒化した別の群衆が、パチンコ店や質屋を襲撃し略奪する騒動も発生しました。
翌2日には沈静化しています。
第14次西成暴動
1972年5月28日の午前6時15分頃、愛隣総合センターで暴力団関係のS建設の手配師が求人を行なっていたところ、新左翼系勢力の息のかかった日雇い労働者らが「おまえのところは悪質なピンハネ業者や」と罵倒したのをきっかけに取っ組み合いの喧嘩が発生し、双方に怪我人を出しました。
これが原因となり、同センター周辺に2000人規模の日雇い労働者がが集まり、S建設の車を焼き討ちしたのを皮切りに、他の業者に対しても暴行や車を叩き壊すなどの破壊行為を行いました。
その日の夜には、約1000人もの暴徒が西成警察署を取り囲み、付近に停車していた車を焼き討ちにしたり、周辺店舗のシャッターを蹴ったりする暴動が発生。
翌29日も、19時30分頃から群衆が集まり、阪堺線南霞町駅周辺で学生風の新左翼系の一団が群衆に対し「解放区を作ろう」、「暴力手配師を締め出せ」などと過激化を煽り、群衆はあいりん地区から出て天王寺駅方面にまで進出し暴動を拡大させ、騒動は31日まで続きました。
第15次西成暴動
大阪府警は、第14次西成暴動を扇動したとして、新左翼系団体「釜ヶ崎共闘会議(愛隣地区野鳥の会から改組)」を捜査し、1972年6月28日朝に同会事務所や赤軍派アジトを家宅捜索し代表を逮捕しました。
同日18時頃、代表逮捕は不当だと抗議する1000人規模の集団が西成警察署前に集まって「仲間を返せ」などと叫び、停車していたオートバイに放火するなどし、逮捕者も出しました。
その後、7月3日まで断続的に暴動が続いています。
第16次西成暴動
第14時西成暴動の後、「愛隣地区野鳥の会」と右翼系団体の対立が激化しました。
釜ヶ崎共闘会議主催の夏祭りが行われた1972年8月13日の夜、祭りが終了した直後に右翼団体「大日本正義団」が現れて、釜ヶ崎共闘会議のメンバーに殴りかかり乱闘騒ぎが発生しました。
現場に駆けつけた警察官により、右翼団体7人と日雇い労働者3人が逮捕されその場は治りましたが、8月15日の祭りの場で、活動家の1人が「仲間が不当に逮捕された抗議すべきだ」とアジテーションを行い、祭り会場は一転、抗議集会の場へと変わりました。
そのまま約1000人の群衆が西成警察署に押しかけて警官隊と衝突し、10人以上が逮捕されています。その翌日まで暴動は続き、その後収束しました。
第17次西成暴動
浪速区の新世界で1972年9月11日に新装オープンしたパチンコ店で故障トラブルが発生。店側は一旦店を閉めようとしましたが、既に400人を超える客が店内におり、金の払い戻しをめぐってトラブルが発生しました。
一部の客は暴徒化してパチンコ台を壊すなどし、見物客まで便乗してパチンコ店のガラス戸を破壊するなどし、やがて新世界一帯にまで暴動が拡大。翌12日の夜には暴動はあいりん地区にまで飛び火し、15日まで騒動は続きました。
第18次西成暴動
1972年10月3日の朝、あいりん地区の大阪社会医療センターで、ある日雇い労働者が暴れ、病院職員に追い出される騒動が発生。これを釜ヶ崎共闘会議は、病院職員が暴力を振るったと糾弾。
同日17時半頃、釜ヶ崎共闘会議に扇動された日雇い労働者約200名が大阪社会医療センターを取り囲み騒ぎを起こし、19時頃になると、群衆が西成警察署前に集まって、爆竹を鳴らすなどの騒動も発生。
翌4日の朝には、群衆が再び大阪社会医療センターに押しかけています。さらに、同日18時頃には、第17次西成暴動の原因となったパチンコ店の営業再開に反発する暴動も発生。一連の暴動によって南海電鉄の阪堺線が一時ストップする被害が出ました。
第19次西成暴動
1972年10月9日にある日雇い労働者が現場監督に暴行を受ける事件が発生。翌10日に釜ヶ崎共闘会議がこの件に対する抗議のビラを撒いていたところへ1人の手配師が通りかかり一触即発の状態になります。
手配師側は同日午後、西成労働福祉センターを襲撃して日雇い労働者1人を暴行しました。
釜ヶ崎共闘会議に率いられた労働者約100人が、手配師側への報復を試みますが、手配師は捕まらず、その腹いせに無関係の喫茶店を襲撃し窓ガラスを割るなどの被害を与えました。
翌11日にも暴動が発生し、飲食店が破壊され、車が燃やされるなどの被害が出ました。
第20次西成暴動
1973年5月1日、釜ヶ崎共闘会議は、あいりん地区で「釜ヶ崎メーデー」を開催。
集まった群衆はシュプレヒコールをしながらデモ行進を行い、国鉄新今宮駅から国電に乗り込み、鶴橋駅へと移動。鶴橋駅のプラットホームに降りた集団は、隣接する近鉄の駅にまで侵入し窓ガラスを割るなどの破壊行為をし、たまたま居合わせた女性3人や駅員、鉄道公安職員に重軽傷を負わせました。
群衆は再び国鉄に乗り込むと、玉造駅で爆竹を投げ、森ノ宮駅では駅に降りてデモ行進しながら駅施設を破壊しました。また、この日はあいりん地区各地で暴動が散発的に発生していました。
第21次西成暴動
1973年6月14日の夜、あいりん地区で酔っ払いの喧嘩が原因となって暴動が発生。
翌15日の午後、釜ヶ崎共闘会議は天王寺公園で、安保闘争で死亡した東大女子学生樺美智子を追悼する集会を開きました。集会後のデモ行進で、デモ隊の一部が予定のコースを外れ、あいりん地区方面へ向かおうとしたため、警戒に当たっていた機動隊がこれを制止しようとして衝突が発生します。
同日21時15分頃、約400人があいりん地区路上に集結し、通行人を襲って怪我を負わせるなどしました。翌16日の夜にもあいりん地区で暴動が散発的に発生し、その後収束しています。
西成暴動の概要と原因:1990年(第22次)当時の西成警察署長が土下座する動画・暴走族も暴れる
第22次西成暴動の原因は警察の不祥事
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1973年6月に発生した第21次西成暴動以来17年ぶり、1990年10月に発生した第22次西成暴動は当時の社会を震撼させました。
第22次西成暴動の原因は、1990年10月2日に西成警察署刑事課の署員が、暴力団員に賄賂を受け取っていたことが発覚した警察不祥事でした。
不祥事を起こした署員に賄賂を渡していた暴力団員は、かねてから様々な方法であいりん地区の日雇い労働者から賃金をピンハネしていた人物であった事から、労働者らの警察に対する不満が爆発した結果でした。
10月2日午後、あいりん地区内で11月に予定されていた大嘗祭に反対する旨の演説が行われていました。この演説者の飼い犬が、西成署員に噛み付いたのを理由に、その演説者は西成署に任意同行されました。
これに抗議する群衆が18時頃から西成署前に集まっている最中に、西成署員が暴力団から賄賂を受け取っていた事件が判明した事で労働者らの怒りが爆発し暴徒化。同日20時頃には、投石や自転車への放火が発生しました。
翌3日には、あいりん地区外にまで暴動が拡大し、西成区内の花園北交差点付近で略奪や放火が発生しています。翌4日の夜には、阪堺電鉄の南霞町停留場が放火により全焼。
この暴動は10月7日まで6日間にわたって続き、その間テレビニュースなどで連日、日本国内とは信じられないような衝撃的な暴動の映像が流されました。
第22次西成暴動で当時の西成警察署長が土下座する動画も
第22次西成暴動の原因は警察官の不祥事でしたが、これを追求された当時の西成警察署長が、警察署前で土下座をしている映像が当時のテレビニュースなどで映し出されました。
この土下座の映像は現在もYouTube動画などで確認できます。(下の動画の2:11頃)
第22次西成暴動では近隣の暴走族など不良少年も便乗して暴れた
第22次西成暴動では、近隣の暴走族などの不良少年も騒ぎに便乗して暴れ、略奪行為などに加わっています。これは、1970年代までの暴動には見られない新たな現象でした。
暴走族の少年らは投石だけでなく自作の火炎瓶を投擲するなどして騒動を過激化させ、略奪も行いました。暴動の後半はこうした騒ぎがメインとなり、メディアも連日それを報じました。
地元の日雇い労働者らはインタビューを受けて「知らない奴らがきて騒いでいる」と困惑した表情を見せており、暴走族らはお祭りのような感覚でわざわざ西成区以外の遠方から集結し、騒動を拡大させていたのでした。
西成暴動の概要と原因:1992年(第23次)
1992年10月には、1990年代に入って2度目の西成暴動が発生しています。
この暴動の原因はバブル崩壊によって日雇い労働者の仕事も減少した事で不満が鬱積した事でした。
労働者らは同年7月頃から西成区内の大阪市立更生相談所に対し「生活困窮者貸付金制度」の条件緩和を求めていましたが、10月1日の朝に、40人の労働者が押しかけたため更生相談所は受付窓口を閉鎖。
労働者らはこれに憤慨し、自転車に放火するなどして暴徒化しました。騒動は10月2日まで続きました。
西成暴動の概要と原因:2008年(第24次)機動隊と労働者が激しく衝突
1990年代に2度の暴動が発生して以降、西成区で暴動は発生していませんでしたが、2008年6月に16年ぶりの第24次西成暴動が発生しました。
2008年6月12日、西成区鶴見橋商店街の食堂で、日雇い労働者がトラブルを起こしました。労働者は西成警察署に連行され始末書を書かされましたが、労働者はその後、警察官に暴行を受けて「始末書を書かねば生活保護を打ち切る」と脅されたと訴えました。
対する西成警察署は「暴力は振るっておらず対応は適切だった」と発表。
その翌13日、警察の対応を批判した釜ヶ崎地域合同労働組合が17時30分頃から西成署前で抗議活動を開始。同日20時30分頃には群衆が暴徒化しはじめ、大阪府警は機動隊を出動させ警備体制を敷き、8人を逮捕しています。
暴動は17日まで続き、機動隊と西成署を襲撃した労働者との激しい衝突も発生。双方に多数の怪我人も出ました。
翌18日、釜ヶ崎地域合同労働組合委員長の稲垣浩が、街宣車を停めて労働者を集結させ通行を妨害した道路交通法違反で逮捕され、これをきっかけに暴動は沈静化しました。
第24次西成暴動では機動隊と労働者が激しく衝突し隊員に意識不明者も
第24次西成暴動では労働者や、便乗して集まった暴走族ら不良少年らと機動隊との激しい衝突が度々発生しました。
極めて激しい衝突が起こっており、30名の機動隊員が労働者らの反撃を受けて負傷者を出し警察署内に逃げ込んだという情報や、3名の機動隊員が労働者に捕まって激しい暴行を受け、うち1人は意識不明の重体に陥ったといった情報も流れました。
西成暴動の動画
1990年と2008年の西成暴動の動画は、今もYouTubeなどで視聴することができます。いくつかの動画を紹介します。
1990年の第22次西成暴動時のニュース映像動画
2008年の第24次西成暴動の動画
西成暴動の死者は第1次での1人のみ
24度にわたって発生した西成暴動ですが、死者は1961年の第1次西成暴動での1人のみが記録に残っています。その後の暴動では死者が出たという記録は残されていません。
西成暴動に遭遇したお笑い芸人① 千原ジュニア(千原兄弟)
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西成暴動に遭遇したお笑い芸人も複数おり、時にトークのネタとして紹介され話題になっています。
「千原兄弟」の千原ジュニアさんは、1990年の第22次西成暴動に遭遇した時のエピソードを自身のYouTube動画で明かされています。
お笑いコンビ「千原兄弟」の千原ジュニア(46)が29日、自身のユーチューブ「千原ジュニアYouTube」を更新。1990年の第22次西成暴動に遭遇した時のエピソードを披露した。
千原ジュニアさんはわざわざ自転車に乗って見物をしに行ったそうで、当時の子供や若者らにとって、第22次西成暴動はお祭り騒ぎだったようです。
西成暴動に遭遇したお笑い芸人② 宮迫博之(元雨上がり決死隊)
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お笑い芸人からYouTuberに転身した宮迫博之さんも、1990年の第22次西成暴動に巻き込まれた過去があったそうです。
宮迫博之さんは当時、「雨上がり決死隊」としてプロのお笑い芸人になったばかりの頃で、たまたま暴動のあった日に、あいりん地区の向こう側に住む知人の家に行こうと歩いていたところ暴動に巻き込まれたそうです。
宮迫博之さんは警察官に「行ったあかん」と制止されたものの、知人宅に行くためにこっそりと抜け出したところ、突然近くの車が爆発して暴動が起こったそうです。
身の危険を感じた宮迫博之さんは機動隊の方向へと逃げようとしますが、機動隊側は暴徒の1人と勘違いし、5、6人の機動隊員に囲まれてボコボコにされたのだそうです。
現在も大概ですが、当時から宮迫博之さんは間が悪い人だったようです。
雨上がり決死隊の宮迫博之が29日、カンテレ(関西テレビ)で放送された「雨上がりのナニモン!?」で、デビュー当時、西成暴動に巻き込まれ、警察官に「ボコボコにされた」過去を明かした。
まとめ
今回は、1960年代から2008年にかけて24度発生した「西成暴動」についてまとめてみました。
西成暴動は、大阪西成区あいりん地区の日雇い労働者が暴動を起こした事件の総称ですが、1960年代は不満が爆発したのが原因となった自然発生的な暴動だったのに対して、1970年代からの暴動は、不満を持つ労働者らが左翼の過激派に煽られての計画的なものへと変化しました。
その後、1990年に発生した第22次西成暴動は、西成署の警察官が暴力団から賄賂を受け取る不祥事が発覚したのが原因となった大規模暴動で、当時の西成署長が警察署前で群衆に土下座して見せる動画も流され話題になりました。また、この時の暴動では西成区外から暴走族が集結して暴動に加わり、騒動をエスカレートさせました。
この第22次西成暴動は現在も語り草になっており、お笑い芸人の千原ジュニアさんや宮迫博之さんは実際にこの暴動に遭遇した際のエピソードを語られています。
また、2008年に起きた第24次西成暴動では、群衆と機動隊との激しい衝突が発生し、機動隊員の中に意識不明の重体になる方が出るなど、双方に多数の負傷者を出しました。