宮崎勤

宮崎勤の事件と現在!父親・母親・妹など一族の末路も総まとめ 

昭和最後の1988年から平成元年にかけて、東京・埼玉で宮崎勤死刑囚が起こした「連続幼女誘拐殺人事件」。

 

宮崎勤死刑囚が起こした4つの凶悪連続殺人事件について現在の末路まで総まとめしましたのでご紹介していきます。

宮崎勤の「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の真相

 

日本を震撼させた犯罪史上希に見る凶悪事件

宮崎勤死刑囚は暴行し殺害した少女の遺骨を遺族の自宅へ送りつけたり、新聞社に対して犯行声明を送りつけるなど4人の少女を無残に殺害するという凶悪な手口に日本中に戦慄が走りました。当時26歳だった宮崎勤死刑囚は最後まで遺族への謝罪や反省の色が無いどころか、死刑直前に気にかけていたのは鑑賞途中のDVDでした。

 

 

宮崎勤死刑囚とはどういう人物なのか簡単にウィキペディアの記述を抜粋します。

 

宮﨑 勤 (みやざき つとむ、1962年8月21日 – 2008年6月17日)は日本の元死刑囚。東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件 – 警察庁広域重要指定第117号事件 の容疑者として逮捕・起訴され、死刑判決が確定し、刑死した人物である。

 

引用:Wikipedia – 宮崎勤

 

宮崎勤死刑囚が起こした4つの事件についてひとつずつ完結にまとめましたのでご紹介していきましょう。

 

宮崎勤の第1の犯行 

宮崎勤の幼女に対する狂気的な欲望

宮崎勤死刑囚が起こした「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」により小児愛性の性癖を持った”ロリコン”は犯罪者予備軍という認識が社会で高まりました。初犯からその異常性を発揮していたようです。

 

宮崎勤死刑囚が初めての犯行に及んだのは1988年8月22日の午後3時過ぎでした。

 

埼玉県入間市の歩道橋にいた当時4歳だったAちゃんに「涼しいところへ行こう」と声をかけて車に乗せて誘拐した宮崎勤死刑囚は、午後6時頃に五日市町(現・あきる野市)の山林にAちゃんを連れて行き首を締めて殺害しました。

 

同時刻頃にAちゃんの行方がわからなくなったことで母親が警察へ通報し、身代金目的の誘拐事件である可能性を考えて狭山署の警察官が私服で被害者宅で待機。

 

犯人からの脅迫電話を待っていましたが、宮崎勤死刑囚の目的はただの快楽殺人であり当然電話をかけることはありませんでした。

 

翌日に埼玉県警により一斉捜査が開始されたものの手がかりが全く無いことから捜査班を設置して公開捜査に乗り出し、情報提供を呼びかけました。

宮崎勤死刑囚はAちゃんを殺害後にしばらく経ってから死後硬直をしている遺体に乱暴しており、その様子を動画に撮影していまいた。

 

 

宮崎勤の第2の犯行

宮崎勤、Aちゃんと同様の手口でBちゃんを殺害

Aちゃんの殺害で一連の手口の感触を得たのか、宮崎勤死刑囚は同じ手口でBちゃんを誘拐して殺害、乱暴をしました。

 

宮崎勤死刑囚は1988年10月3日の午後3時頃に第二の犯行に及びました。

 

Aちゃんとほぼ同じ時間帯に、同様の手口で当時7歳だったBちゃんを埼玉県飯能市の路上で誘拐し、午後5時頃に再び五日市町の山林で宮崎勤死刑囚はBちゃんの首を締めて殺害しました。

 

宮崎勤死刑囚はBちゃんを殺害後すぐに暴行しており、まだ足が痙攣して息があったことを法廷で供述していたようです。

 

Bちゃんが戻らないことから父親が午後10時40分に警察に通報。

 

Aちゃんの事件が起きたばかりであり、関連性がある可能性を視野に入れていたものの、身代金目的の誘拐の可能性も考えて被害者宅に張り込み、録音機を設置して犯人からの電話に備えていました。

 

当然宮崎勤死刑囚から電話があるはずがなく、Bちゃんの事件もAちゃんと同様に捜査班が設置されて公開捜査に乗り出しました。

 

 

宮崎勤の第3の犯行

埼玉県警はCちゃんの行方不明により異常事態が起きていると認識した

Aちゃんの失踪事件から半年以内にB、Cちゃんの3人の少女が同様の状況で行方不明になったことで関連性が高いと踏んで「幼女連続行方不明事案総合対策本部」を設置しました。

 

宮崎勤死刑囚が第3の犯行に及んだのはBちゃんの犯行から約2ヶ月後の1988年12月9日でした。

 

午後4時半頃に宮崎勤死刑囚はA、Bちゃんと同様の手口で川越市にいた当時4歳のCちゃんに声をかけ、車に乗せて誘拐しました。

 

宮崎勤死刑囚は名栗村(現・飯能市)にある県立少年自然の家までCちゃんを連れて行くと、服を脱がして全裸にして写真撮影をしたようですが、泣き止まなかったため午後7時に山林で殺害し、Cちゃんが失禁したことに焦ったのか山林にそのまま投げ捨てました。

 

宮崎勤死刑囚がCちゃんを殺害する数時間前に母親が警察に通報しており、埼玉県警は3人目の幼女行方不明事件として同様の体制を取りながらも「幼女連続行方不明事案総合対策本部」を設置しました。

 

そして12月13日には県立少年自然の家の職員が近くの川原でCちゃんの衣類を見つけ、その2日後に通報、警察が近辺を捜索したところ裸の状態のCちゃんの遺体を発見し、埼玉県警は川越署、飯能署に「Cちゃん誘拐殺人事件合同捜査本部」を設置しています。

 

1989年2月6日 、宮崎勤死刑囚はここまでの犯行を終えてAちゃんの遺族宅前にAちゃんの遺骨と思われる骨の入ったダンボールが置かれていました。

 

さらに10日には新聞や雑誌の文字を切り抜いて「今田勇子」の名を語り朝日新聞東京本社に犯行声明を送り、11日にはAちゃんの遺族宅にも同様の犯行声明が送られています。

 

その宮崎勤死刑囚の犯行声明の内容は常軌を逸したものでした。

 

今野まりちゃん宅へ、遺骨入り段ボールを置いたのは、この私です。
この、真理ちゃん一件に関しては、最初から最後まで私一人でしたことです。
私がこうして真実を述べるのには、理由があるからです。
まず、あの段ボールに入った骨は、明らかに真理ちゃんの骨です。
その証かしを立てます。
<中略>
あの骨は、本当に真理ちゃんなのですよ。

 

引用:連続幼女誘拐殺人事件 宮崎勤が新聞社に送った犯行声明全文

 

この犯行声明は非常に長いため中略していますが、宮崎勤死刑囚は捜査をかく乱するためなのか「今田勇子」という不妊で子供を産めない体の女性を演じて子供欲しさに犯行に及んでしまったことを綴っています。


さらに、3月11日に遺族がAちゃんの葬儀を挙げたことが報じられると、再び宮崎勤死刑囚は「今田勇子」の名前で声明文を送りつけてきました。

 

御葬式をあげて下さるとのことで、本当に有難うございました。
御陰様で、私の子、共々、やっと「お墓」に葬ってやれることができました。
子宮等の事情で、子宝に恵まれない方々に対して偏見をもたらせてしまいまし
たことを深くお詫び致します。
<中略>
私はできることなら、神にさからってでも、あと15年は捕まりたくないと思っ
ています。これは私の願いごとなのです。
私は、神に斗いを挑まなくてはなりません。

 

引用:宮崎勤【犯行告白文全文】

 

およそ常人には作成できないような手の込んだ犯行声明文を作り上げた宮崎勤死刑囚ですが、犯行声明の最後に綴っている「15年は捕まりたくない」というのは当時の殺人罪の時効が成立する期間であり、宮崎勤死刑囚は15年間逃げ切ってみせるという意思表示だったのでしょう。

 

それでも、宮崎勤死刑囚は第4の犯行に及ぶことになります。

 

宮崎勤の第4の犯行

半年の間を開けて再び世間を恐怖に貶めた宮崎勤

宮崎勤死刑囚はCちゃんの殺害から半年が経った1989年6月6日に今度は東京都の江東区東雲に住む当時5歳のDちゃんを狙って犯行に及びました。

 

宮崎勤死刑囚は6日の午後6時頃にこれまでの犯行手口と同様にDちゃんに声をかけて車に乗せ、午後6時20分頃に近くの駐車場に車を停めてDちゃんの首を締めて殺害しました。

 

自宅に遺体を運んだ宮崎勤死刑囚はDちゃんの遺体に乱暴する様をビデオ撮影し、8日に自宅で遺体をノコギリでバラバラに切断、10日に埼玉県飯能市の宮沢湖霊園や五日市町の山林に遺棄しています。

 

宮崎勤死刑囚がDちゃんを殺害した日の夜に母親は警察に通報し、埼玉県警は過去の事件との関連を踏まえつつも事故の線も捨てずに捜査に乗り出しました。

 

11日には宮崎勤死刑囚が遺体を遺棄した宮沢湖霊園の簡易トイレ裏からDちゃんの首と両手足が切断された全裸の遺体が発見されています。

 

両腕が見つかっていないようですが、宮崎勤死刑囚は法廷の場で「Dちゃんの両手を焼いて食べた」と供述しているものの、異常性をアピールするための虚偽の証言だとされています。

 

A、B、Cちゃんに続きDちゃんまでもが同一犯による犯行の線が濃いことが分かり相次ぐ幼女誘拐殺人事件に世間は恐怖し、警察は過去のわいせつ事件被疑者を片っ端から洗っていくという地道な捜査を続けていました。

 

しかし、1989年7月23日に宮崎勤死刑囚が東京都八王子市で幼い姉妹を狙って犯行に及び、妹を全裸にして写真撮影をしていたところに逃げた姉が父親に通報したことで、宮崎勤死刑囚は現場で父親に取り押さえられて逮捕されます。

 

この父親は「Dちゃんの事件の犯人も捕まっていないのに」と宮崎勤死刑囚を責めたようですが、後日取り押さえた男が 「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の犯人だと分かり愕然としたそうです。

 

 

宮崎勤とは一体どういう男だったのか

 

小児愛性殺人者の中でも特に異常な性格をした宮崎勤

小児愛的嗜好と猟奇殺人という組み合わせは少なくないものの、宮崎勤死刑囚は4件の幼女を殺害したことに対して微塵も悪びれることなく、死刑執行の死の間際でも「いいことができて良かった」と語るなどその異常性は例を見ないものでした。

 

宮崎勤死刑囚は自宅に5000本を超えるビデオテープや部屋中を埋め尽くす漫画、雑誌の数々、裁判中の冷ややかな態度とノートに何かを書き続けるという行動など、犯行に及んだ動機のほとんどが分からず終いのまま死刑判決が言い渡され、2008年6月17日に東京拘置所で死刑が執行されました。

 

異常に手の込んだ犯行声明文や法廷での「犯行は覚めない夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」「犯行は死んだ祖父を復活させるための儀式」など意味不明な言動があったことから宮崎勤死刑囚の精神鑑定が行われていましたが、「統合失調症の可能性はあるが、人格障害の範囲に留まる」と言われています。

 

つまり、責任能力が十分にあった上で数々の異常な言動があったわけですが、宮崎勤死刑囚の人物像についてその生い立ちから探ってみましょう。

 

宮崎勤の生い立ち&経歴や家族構成

宮崎勤の実家は裕福だった

犯罪者は貧困層から生まれやすいというイメージが一般的にあるものの、実は凶悪殺人犯の多くは裕福層の出身であることが少なくないようです。

 

宮崎勤死刑囚の父親は東京都西多摩郡五日市町で新聞会社を経営しており、母親も共働きだったことから裕福な家庭だったようです。

 

両親ともに多忙だったことから宮崎勤死刑囚は生まれてすぐに、知的障害を持つ当時30歳くらいの男性を子守として住み込みで雇っており、宮崎勤死刑囚はその男性と祖父が面倒を見ていたようです。

 

そのため宮崎勤死刑囚は祖父が大好きだったことから法廷で「犯行は死んだ祖父を復活させるための儀式」と語ったのでしょう。

 

宮崎勤死刑囚の家族構成は祖父、祖母、父、母、2人の姉妹、2人の兄弟の9人家族で、幼少期から内気だった宮崎勤死刑囚は祖父に可愛がられて育てられたようです。

 

 

宮崎勤死刑囚の異常性は両親の愛情の欠如だった?

宮崎勤死刑囚は祖父に愛されたのならまともに育ちそうなものですが、両親も不在がちだったとはいえ子供に興味が無かったという記述はないようなので愛していなかったということはないでしょう。それでも宮崎勤死刑囚が異常性に目覚めた理由は先天性の病気のためだったのでしょうか?

 

宮崎勤死刑囚は幼少期から手首を回して手のひらを上に向けることができない「両側先天性橈尺骨癒合症」という病気を抱えていました。

 

この身体障害により宮崎勤死刑囚は相当な苦労をしたようですが、両親の証言では「4歳の時に手術も考えたものの、手術により身障者のレッテルを貼られるのは息子の将来のためにならないと判断した」と答えており、宮崎勤死刑囚は成長するにつれて世間体を気にしていた両親を恨んでいた可能性もあるかもしれません。

 

宮崎勤死刑囚の異常性の原点はこの先天的持病のせいである可能性があるでしょう。

 

 

宮崎勤の小学校時代

順調だった宮崎勤の小学校時代

宮崎勤死刑囚は小学校時代には成績優秀で「怪獣博士」と呼ばれるほどアニメなどに出てくる怪獣に夢中になっていたそうです。

 

宮崎勤死刑囚はクラスの人気者というわけではないものの、小学校時代からオタク趣味に没頭して一目置かれるほどの知識を持っていたようですね。

 

そして、英語、算数が得意だったことから母親はそのことをよく周囲に自慢していたそうです。

 

やはり両親にも愛されていた様子が伺えるエピソードですが、小学校時代にはうまくいっている様子の宮崎勤死刑囚は思春期からその異常性が徐々に現れ始めたようです。

 

 

宮崎勤の中学校時代

人に負けることを異常に嫌った宮崎勤

負けず嫌いというのは人の成長にとって非常に大切な要素ですが、宮崎勤死刑囚の場合は”異常”に負けず嫌いだったようです。

 

宮崎勤死刑囚は中学校1~2年生の頃は陸上部に所属しており、3年生になると将棋部に所属していたようです。

 

将棋で負けると異常に悔しがった宮崎勤死刑囚はその相手をなんとしても打ち負かすために攻略本を読みあさり、勝利することにこだわっていたそうです。

 

また、通信教育で空手を習い始めた宮崎勤死刑囚は、同級生に空手の型を見せることもあったと言われ、自分を誇示したい性格が芽生え始めたのかもしれませんね。

 

 

宮崎勤の高校時代

手の障害を気にして男子校を選んだ宮崎勤

宮崎勤死刑囚は手の障害から女子生徒に馬鹿にされることを嫌ったのか明治大学付属中野高等学校の男子校に進学しています。

 

高校までは片道2時間も要する距離だったものの、母親は英語教師になるためにわざわざ同校を選んだと勘違いしていたようです。

 

しかし、宮崎勤死刑囚は事件後の精神鑑定で「成人女性への性的興味を諦めざるを得なかったため代役として小児愛に走った」と言われたように、手の障害があることから女子生徒から馬鹿にされると思い男子校を選んだのかもしれません。

 

宮崎勤死刑囚は高校時代は性格が暗く目立たない存在だったようで、成績も低迷し明治大学への進学を希望していたものの下から数えた方が早い成績だったため諦めざるを得なかったようです。

 

この挫折により宮崎勤死刑囚は「やっぱり手の障害のある自分は何をやっても駄目だ」と絶望していったのかもしれませんね。

 

 

宮崎勤の短期大学時代

短大に進んだ宮崎勤はクラスでも全く存在感が無かった

宮崎勤死刑囚は手の障害により自分に対する自信が全く無かったのか、短大に進んでもクラスの誰からも覚えられていないような存在感の薄い生徒だったようです。

 

宮崎勤死刑囚は明治大学を諦めて東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学しましたが、同級生には俳優の川崎麻世さんがいました。

 

川崎麻世さんによればクラスの人数は80人程度のため忘れるはずが無いが、宮崎勤死刑囚については自分はおろか他の同級生に聞いても覚えていなかったと答えています。

 

それほど宮崎勤死刑囚は手の障害を気にして目立たないようにひっそりと大学生活を送っていたのでしょう。

 

それでも宮崎勤死刑囚は短大時代にパズルを自作することにハマり、専門誌に投稿して名前が載るなど趣味については変わらず楽しんでいたようです。

 

また、NHKの番組『YOU』のスタジオ収録に友達と出演しに行くなどいわゆる”ぼっち学生”ではなかったようですが、アナウンサーがインタビューしようと近づくと宮崎勤死刑囚は他の出演者の後ろに隠れて目立たないようにしていたようです。

 

ここまでの生い立ちを見る限りでは、宮崎勤死刑囚は非常にシャイな青年という範囲を出ていないようですが、この間にも「手の障害があるから何をやっても駄目」だという思いがあり、心の中で異常性が大きくなっていっていたのでしょう。

 

 

宮崎勤の社会人時代

社会人になってから社会性の無さを露呈した宮崎勤

学生時代までは両親の保護下にあったためその異常性が露骨に表に出ることは無かったようですが、社会に出て一人で生きていく段になってからはその社会性が欠如した性格が現れ始めたようです。

 

宮崎勤死刑囚は犯行を起こす約5年前の1983年4月に短大を卒業し、叔父の紹介のおかげで小平市にある印刷会社に就職して印刷オペレーターとして働き始めました。

 

しかし、宮崎勤死刑囚の勤務態度が非常に悪く同僚からの評判もすこぶる悪かったそうです。

 

そのため1986年に宮崎勤死刑囚は神奈川への転勤を命じられますが、断った上で自己都合による退職をしています。

 

その後、両親が家業を手伝うように呼びかけしましたが、宮崎勤死刑囚は手伝うことなく自室での引きこもり生活が始まったようです。

 

宮崎勤死刑囚の頭の中では「社会で生きていくことは絶望的」だと思っていたのかもしれません。

 

この頃にもしネットが普及しており、2ちゃんねるなど他人と繋がることができる掲示板があれば宮崎勤死刑囚は入り浸っていたことでしょう。

 

半年経った頃から宮崎勤死刑囚は家業の手伝いを始めたそうですが、お得意先に原稿を受け取りに行くといった簡単なものだったようです。

 

 

趣味の世界でも嫌われいよいよ孤独になった宮崎勤

依然として引きこもり生活を送りながら、宮崎勤死刑囚は漫画、アニメが大好きであることから同人誌を始めたようですが、社会性の無い言動から仲間から嫌われて1回だけの発刊で終わったようです。

 

同人誌を諦めた宮崎勤死刑囚はビデオサークルに所属して、全国のユーザーが録画したアニメや特撮ドラマなどのビデオテープを交換、入手したものの、大部分は所有欲だけで満たされてしまい鑑賞していないようです。

 

宮崎勤死刑囚はビデオサークルでも他のユーザーに対して無理な注文をすることが多かったため嫌われていました。

 

1988年5月16日に大好きだった祖父が死去したことで宮崎勤死刑囚は同年8月22日に第1の犯行を起こしました。

 

宮崎勤死刑囚は仕事でも社会でも人から嫌われ疎外されていたことで孤独感を募らせ、「自分は社会で生きていく能力がない」と完全に絶望して自暴自棄になり犯行に及んだのかもしれません。

 

最後まで保身を考えていた宮崎勤の精神性

 

子供の精神性のまま大人になった宮崎勤

精神鑑定の結果では宮崎勤死刑囚は精神性が非常に子供じみており、幼少期の孤独感から精神の発達が止まり子供のまま大人になってしまったと推察されていたようです。

 

 

 

宮崎勤は被害者少女らを強姦はしていない

小児愛性殺人の多くは強姦目的であることが多いようですが、宮崎勤死刑囚の場合殺害した後で裸の遺体を撮影したりいたずらする程度で強姦はしていないと言われています。

 

これは宮崎勤死刑囚の精神性が子供のままであることから成人男性の持つ”性的欲求”とは異なるようです。

 

精神性が子供と診断された宮崎勤死刑囚ですが、知性が劣るというわけではなく、「今井勇子」になりきった犯行声明文や、法廷で証言した言葉の端々からは進学高校に通っていた知性の高さが伺えます。

 

 

宮崎勤、日本の死刑制度を批判

なんとしても死刑を逃れようとした宮崎勤

宮崎勤死刑囚は社会に絶望していたのかもしれませんが、犯行後15年間逃げ続ける覚悟をしていたこと、死刑が執行されて死ぬことにに反対し続けたことから生きることに絶望していたわけではないようです。

 

宮崎勤死刑囚は東京拘置所に入所してからは雑誌『創』の編集長に宛てて300通ほど手紙を出しており、その中のほとんどは拘置所内で鑑賞した漫画やDVDなどのタイトルだったようですが、死刑の方法に対する批判もあったようです。

 

知人にも死刑執行までの間に2000通余り手紙を出していたというので、宮崎勤死刑囚は社会性に乏しいものの自分の考えを表現すること、書くということが好きだったようですね。

 

死刑執行される2年前の2006年には「踏み板が外れて落下する間は恐怖のどん底に陥れられるのである」として、宮崎勤死刑囚は現行の絞首刑を批判し、薬物注射による死刑を望んでいたそうです。

 

死刑を批判する理由として、「死刑執行時は死の恐怖のあまり反省や謝罪について考えられなくなる」というものでしたが、死刑が執行される直前に語った言葉として「あのビデオまだ途中なのに…」という有名なものがあります。

 

独房内ではビデオを見ることが許されており、宮崎勤死刑囚はスタジオジブリ作品などを好んで観ていたということです。

 

 

 

宮崎勤の死刑執行と家族、一族の末路

最も悲惨なのが宮崎勤の家族、一族

遺族はもちろん世間は「犯罪者の家族もまた犯罪者」とみなすため、宮崎勤死刑囚の家族、親族も悲惨な末路を辿っています。

 

2008年6月17日の午前に東京拘置所で宮崎勤死刑囚の死刑は執行されました。
 
2006年2月1日に最高裁判所が弁護側の上告を棄却しましたが、裁判が閉じられた2年後に死刑が執行されるというのは、死刑囚の死刑執行までの期間の平均が7年5ヶ月ということを考えると異例の速さだということになるでしょう。
 
それほど宮崎勤死刑囚の犯罪は日本犯罪史上でも特に許されないものであり、社会現象を巻き起こす大きな火種となったことからも見せしめの死刑だったのかもしれません。
 
死の間際まで宮崎勤死刑囚から遺族への謝罪の言葉が出ることはありませんでしたが、遺族、社会からの宮崎勤死刑囚に対する憎悪はその家族、一族に向かいました。

 

 

宮崎勤の家族、父、母、妹など一族への社会的抹殺

宮崎勤の父親は自殺した

社会的に注目度が高い凶悪殺人事件を起こした犯罪者の家族はその後自殺をする人は珍しくありませんが、宮崎勤死刑囚の父親は自殺をしています。

 

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の後、宮崎勤死刑囚の両親や2人の姉妹、2人の兄弟の元には「お前らも死ね」「殺してやる」など脅迫の手紙が多数届いたそうです。

 

社会的な圧力が宮崎勤死刑囚の家族、一族を襲い、住めなくなったことから家族は1年後に自宅を空けて引越しをしています。

 

その頃父親は息子である宮崎勤死刑囚から私選弁護士を付けるように要請したもののこれを拒否して、4年後に自宅を売却してそのお金を遺族に送金するように手配した後、京都青梅市の多摩川にかかる30メートルの高さのある神代橋から身投げして自殺しました。

 

作家の佐木隆三さんはこの父親の自殺を「現実逃避であって遺族を顧みない行為」だと批判し、さらに宮崎勤死刑囚に私選弁護士を付けなかったことから国費を使って国選弁護士が付いたことにも批判しています。

 
生前、父親は記者のインタビューに対して「家族である私たちが責められるのはわかるが、直接関係の無い一族までが非難され仕事を失うことになったことに悩んでいる」という旨を語っているようです。

 

婚約破棄、辞職が相次いだ家族、一族

父親の自殺以外にも宮崎勤死刑囚の家族、一族はそれぞれ社会的な抹殺を受けて悲惨な末路を辿っています。

 

宮崎勤死刑囚の姉で長女は会社を辞めて、次女は結婚予定だったものの自ら婚約破棄をしています。

 

2人の兄弟らも会社を辞職し、父親の弟は5つの会社の役員を務めていたもののすべて辞職しています。

 

さらに”宮崎”という禍々しい苗字を捨てるために妻と離婚しているそうです。

 

また、母親方の兄の息子2人も辞職しています。

 

 

 

宮崎勤、死後の社会現象

 

報道の影響でロリコン、ホラーマニアに対して強い偏見が生まれる

宮崎勤死刑囚がロリコンでホラーマニアとマスコミが報じたことで、以降これらの嗜好を持つ人々は強い偏見を受けることになりました。

 

宮崎勤死刑囚の場合は世間で言われる小児愛性(ペドフィリア)とは少し種類が違うと言われていますが、マスコミがロリコン、ホラーマニアと報じたことでこれらの嗜好を持つ人への強い偏見と攻撃が生まれた他、これらに該当する本やアニメなどを有害図書指定にするなど社会現象を起こすきっかけとなりました。 
 

 

 

 

 

 

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」についてまとめると・・・

1988年から1989年に宮崎勤死刑囚が起こした「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」について総まとめしてきました。

 

宮崎勤死刑囚の異常な精神性は死ぬまでに理解されることはありませんでしたが、社会に対して相当な憎悪を抱いていたことは間違いないでしょう。

 

近年、ネットの普及も影響して大量殺人が起こりやすい土壌が出来上がっていますが、今後このような悲惨な事件が起こらないように祈るばかりです。

 

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