1980年代に一世を風靡したアイドル歌手の本田美奈子さんですが、若くして白血病で亡くなっています。
この記事では、本田美奈子さんの経歴、彼氏の諸星和己さんとの交際、そして白血病の闘病や死因と死相をまとめました。
この記事の目次
本田美奈子のプロフィール
名前:本田美奈子(ほんだ みなこ)
本名:工藤美奈子(くどう みなこ)
生年月日:1967年7月31日
出身地:埼玉県朝霞市
身長:162cm
最終学歴:堀越高校卒業
デビュー年:1985年
本田美奈子、80年代後半に人気アイドル歌手として一世風靡
本田美奈子さんといえば、1980年代中盤から後半にかけて「1986年のマリリン」や「Oneway Generation」などのヒット曲を飛ばしたことで知られている人気アイドル歌手です。
事務所関係者から、見た目によらず勝気な性格だったと評されている本田美奈子さんですが、大物作詞家の秋元康さんに歌詞の注文をつけたことまであったようですね。
当時の本田さんは、シングル「Temptation」のヒットこそあれ、デビュー1年にも満たない駆け出しのアイドルでしかなく、一方の秋元さんは、既に「ドラマティック・レイン」や「なんてたってアイドル」といったヒット曲を手掛けていた売れっ子作詞家でした。
そんな秋元さんに対して、「もっと色っぽい歌詞が歌いたい」と大胆な注文をつけた本田さんでしたが、秋元さんは特に怒ることもなく、米女優のマリリン・モンローをモチーフにした「1986年のマリリン」の歌詞を作り上げています。
「アイドルじゃなくてアーティストと呼ばれたい」と公言するほど歌手業に拘りのあった本田さんは、デビュー2年目となる1986年には、ロンドンでのアルバムレコーディングを実行しており、欧米のアーティストたちからの楽曲提供も受けました。
本田さんは、1987年にもQUEENのブライアン・メイさんプロデュースのシングル「CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS」をリリースするなど、意欲的な歌手活動が続くことになりました。
しかしながら、1988年に結成したロックバンド「Minako With Wild Cats」での活動が裏目に出てしまいセールスが激減してしまうなど、本田さんの尖った歌手活動は、最終的にはマイナスの結果に終わっています。
本田美奈子、元々は演歌歌手志望だった
イメージ的には、洋楽好きのロック愛好家に思われがちな本田美奈子さんですが、実際は母親の影響により歌謡曲や演歌好きの渋い趣味をした少女時代を過ごしていたようですね。
ファッションなどにうるさくなる中学時代にも、カラオケに行くと都はるみさんや石川さゆりの楽曲を歌っていた本田さんは、歌手デビューする際も当初は演歌歌手志望でした。
しかしながら、本田さんをスカウトした「ボンド企画」は、角松敏生さんや杏里さんといったニューミュージック系の歌手を擁する事務所であり、演歌歌手を売り出すノウハウがなかったため、本田さんはアイドルとしてデビューすることになりました。
本田さんの演歌好きはアイドルデビュー後も変化はなく、業界関係者や仲間内でカラオケに行く時も演歌を歌う機会が多かったそうです。
本田美奈子、生意気なアイドルとして有名だった
勝気な性格を「可愛げ」と受け止めてくれる関係者が多かった若き日の本田美奈子さんですが、中には「生意気なアイドル」としてカチンと来てしまった人間もいたようですね。
1980年代後半当時、「アルバムの女王」としてJ-POP界に君臨していた松任谷由実さんも本田さんを生意気に感じていた芸能関係者の1人でした。
松任谷さんが本田さんにカチンと来てしまった原因は、前述のアーティスト宣言だったらしく、自身のラジオ番組にて、「本田美奈子がアーティストなら、ワタシは神だよ」とばっさりと切り捨てています。
本田美奈子、晩年は細木数子の助言で「本田美奈子.」に改名
本田美奈子さんは、晩年に「本田美奈子.」に改名しています。
本田さんが改名した理由については、占星術師の細木数子さんより「本田美奈子のままだと30画で画数が悪い」と指摘されたことがきっかけだったらしく、画数の良い31画にするために名前の最後に「.(ドット)」を付け加えたそうですね。
とはいえ、本田さんは改名直後の2005年1月に白血病が発覚しているため、開運とは真逆の結果で終わってしまうことになりました。
本田美奈子、アイドル歌手からミュージカルスターへ転身
本田美奈子、人気低迷で所属事務所社長がミュージカル関係者に営業
「Minako with Wild Cats」結成以降の本田美奈子さんに関しては、オリコン週間ランキングでも50~60位台がやっとなほど人気が低迷してしまいました。
所属事務所「ボンド企画」の社長だった高杉敬二さんは、そんな本田さんの次なる活動の舞台として、ミュージカル女優への転身を模索しました。
そのため高木さんは、1990年3月になると、自身のコネを使い当時東宝演劇部のプロデューサーだった酒井喜一郎さんと本田さんとの会食までセッティングしております。
高木さんの目論見は見事成功し、本田さんにミュージカル女優としての素質を見出した酒井さんは、本田さんを「ミス・サイゴン」のオーディションへ誘います。
「ひと目で『彼女こそキムだ』と思いました。ロンドンで見たばかりです。容姿からしてキムそのものでした。すぐに『ミス・サイゴン』のオーディションの話をしました。『全編歌で構成されているので歌えればよい、オーディションを受けないか』、と」(酒井さん)
とはいえ、アイドルとして一世を風靡した本田さんにとって、オーディションを受けてまで仕事を取ることはプライドが許さないことだったらしく、酒井さんの提案に対して当初は難色を示していたようですね。
一瞬で見抜くベテラン・プロデューサーの直観は恐ろしく鋭い。
しかし、本田さんは、「いやです。ミュージカルはぜんぜん知らないし、オーディションも絶対いや」(本田さん)「スターのプライドもあったでしょうね。高杉君には耳元で、『本人にはないしょでデモテープと応募用紙を送ってくれ』とも言いました。なにしろ締め切りまで3日しかなかったのです」(酒井さん)
本田美奈子、『ミス・サイゴン』主役オーディションに見事合格
結局は高杉敬二さんに説得されて、「ミス・サイゴン」のオーディションに参加することになった本田美奈子さんでしたが、女性応募者1万1503人中ヒロインのキム役に選ばれるのはわずか2人という難関を乗り越えないとならない状況でした。
3ケ月に渡り7度の実技試験が実施された「ミス・サイゴン」のオーディションですが、本田さんにとっては、今までの殻を打ち破る良い転機となったようですね。
「私にはちっぽけながら“本田美奈子”のプライドがあったと思うんです。でも、オーディションは一般公募で、プロだろうがなんだろうが関係ない。スタッフは演出家を含めてほとんどがブロードウェイからやってきた外国人で、別に私のことなんて知らないわけです。
そんな人たちを前に、ピアノだけの伴奏でマイクなしで歌う。私、初めてだったんですよ、人前で生の声で歌うなんて。まるで裸を見られているような感じっていうのかな。今思えば、その時に“本田美奈子”を一度捨てたのかもしれません」引用:本田美奈子さんが審査員をノックアウトした 「ミス・サイゴン」オーディションの舞台裏
オーディションに合格後の本田さんは、歌手活動を一時休止して1年間の専門レッスンを積んだ後、1992年に「ミス・サイゴン」の初舞台を踏んでいます。
その後本田さんは、「屋根の上のバイオリン弾き」や「レ・ミゼラブル」といった人気作品に出演し、押しも押されぬミュージカルスターの仲間入りを果たしました。
本田美奈子の彼氏情報…元光GENJIの諸星和己と15年交際していた
本田美奈子、1990年10月に諸星和己との交際が発覚
本田美奈子さんは1990年10月、人気アイドルグループ・光GENJIの諸星和己さんとの交際が発覚しています。
諸星さんは、デビュー前から本田さんのファンクラブに入るほどのファンだったと言われており、2人の交際のきっかけについても、諸星さんから本田さんを口説いたそうですね。
2人の交際は1987年から始まっていたようで、1988~1989年頃になると、諸星さんがジャニーズ事務所に本田さんとの結婚を直訴したとの逸話まであります。
1988~1989年頃の光GENJIといえば、オリコンの年間TOP10ヒット曲を連発している絶頂期でもあったため、諸星さんの直訴は当然ながら実ることもありませんでした。
本田美奈子、諸星和己と結婚しなかった理由とは?
本田美奈子さんと諸星和己さんは、破局と復縁を繰り返しながら足掛け15年ほど交際期間が続くことになりました。
いわゆる腐れ縁状態にもなっていた2人ですが、アイドルを卒業した後も結婚しなかった理由については、一般的には、同世代の女性アイドルの大部分を毒牙にかけていたと噂されている諸星さんの女癖の悪さが原因だと思われていました。
しかしながら、諸星さんが自伝「くそ長〜いプロフィール」にてカミングアウトした内容によると、本田さん側が「わたしは歌と結婚したから現実の結婚はしない」と、諸星さんに告げていたことが2人が結婚をしなかった真相のようですね。
本田さんは、17歳の頃に両親が離婚して母方に引き取られていたため、幸せな結婚生活というものに夢を見る気持ちが薄かったのかもしれませんね。
本田美奈子に白血病が発覚…臍帯血移植後退院1ヶ月で再発していた
本田美奈子、2005年1月に体調不良から白血病が発覚
2004年の年末頃から微熱やめまいといった体調不良が続いていたため、2005年1月12日に、レコーディングの合間をぬって病院に向かった本田美奈子さんでしたが、診断の結果、急性骨髄性白血病であることが発覚することになりました。
ただですら不治の病という印象の強い白血病ですが、本田さんの場合は、M7型(急性巨核芽球性白血病)という、急性骨髄性白血病の中でも発症率が3~5%程度のかなり珍しいタイプの病気だったと言われております。
急性巨核芽球性白血病とは、急性骨髄性白血病(AML)をFAB分類により8つに分けられる内、M7に相当する白血病です。AMLの中でも発症率が3~5%と低くまれな疾患と言え、難治性病気となります。
当然ながら診断が下った即日に入院することとなった本田さんは、以降は無菌室で厳しい闘病生活を続けることになりました。
本田美奈子、闘病中に起こったサプライズとは?
入院後は抗がん剤治療を受けることとなった本田美奈子さんは、髪の毛が抜け落ちてしまったことから、バンダナを頭に巻いていることが多くなりました。
本田さんは、口内炎が出来ただけでも症状が悪化して水が飲めない状態に陥ってしまうほど体が弱っていた中でも、お見舞いに来てくれる母親のことを常に気遣っていたそうですね。
母・美枝子さんは「口の中に口内炎ができて、それが青カビみたいになってて、お水も飲めない。それでも美奈子は私に気を遣ってくれて。雨が降ると『階段が滑るから危ない』や4時ごろになると『ラッシュになるからもう帰って』とか」と、気遣いが絶えなかったという。
懸命な闘病生活を続ける本田さんには、2005年4月になると、かねてより大ファンであった歌手の福山雅治さんからビデオメッセージが届くというサプライズも起こりました。
入院して3か月の2005年4月は、美奈子さんのデビュー20周年だった。
そんな中で美奈子さんの元に1本のビデオテープが届いた。
そのビデオテープには、福山雅治さんが歌詞のない楽曲を歌う姿が映されていた。早く回復して、美奈子さん自身がこの曲に歌詞を付けて歌ってほしいというアーティストたちのメッセージだという。
こちらのサプライズに関しては、本田さんと旧知の仲であった音楽プロデューサーの井上鑑さんが、福山さんに事情を説明して頼み込んでいたという心温まる背景もありました。
本田美奈子、臍帯血移植の効果で一時退院するも白血病が再発
懸命に闘病生活を続けていた本田美奈子さんですが、M7型と呼ばれる急性巨核芽球性白血病は治療抵抗性が強い性質を持っており、抗がん剤治療の効果が上がらない状況が続きました。
そのため、骨髄移植を検討することとなった本田さんでしたが、適合するドナー自体は見つかったものの、順番待ちの列に2人の先客がいたため、最終的には臍帯(さいたい)血移植という治療方法を選択することになりました。
そこで次に美奈子さんが選んだ治療法が、当時骨髄移植の次に効果があるとされていた、臍帯血移植。骨髄と同様に、血液を作り出す細胞が多く含まれる臍帯血を移植するという治療法。
2005年5月に臍帯血移植手術を受けた本田さんは、症状が急回復した結果、同年の7月末に一時退院をしています。
退院後の本田さんに関しては、桃を食べる時ですら一度お湯で煮沸してから食べ投げればならないほど、制限の多い生活だったようですね。
慎重に慎重を重ねた自宅療養生活を送っていた本田さんでしたが、退院から1ケ月後の定期健診の際に白血病の再発が確認されるという非情な運命が待っていました。
本田美奈子、闘病から1年足らずで死去…死因は免疫力低下による合併症
本田美奈子、2005年11月6日に38歳の若さで死去
2ケ月に及んだ再度の闘病生活中、2005年10月に一時退院をしていた時期もあった本田さんでしたが、同年の11月6日に急性骨髄性白血病による肺への合併症で亡くなりました。まだ38歳の若さでした。
ここに本田さんは、家族や親類、所属事務所関係者らが見守る中、息をひきとった。関係者は「文字通り、静かに眠るようでした。最後に天使みたいにほほえんで、全員から『わぁーっ』と感動の声が上がったほどでした」と振り返った。
本田さんのあまりに若すぎる死に対しては、ネット上でも哀悼の声が溢れていました。
6 :名前をあたえないでください:2005/11/09(水) 18:48:12 ID:wzQI8KEM
生きたかっただろうなあ。
7 :名前をあたえないでください:2005/11/09(水) 19:00:03 ID:8xSewELJ
ガンを宣告されて号泣したのは、死ぬのが怖いからじゃなくて
歌を歌えなくなることがつらかったんだろうね。
11 :名前をあたえないでください:2005/11/10(木) 05:40:56 ID:ASz1zF6S
そう、長さじゃない。
美奈子ちゃんは、人の何倍も生きた人です。
御冥福をお祈りします。
本田美奈子、『直撃!シンソウ坂上』が闘病日記を独占初公開
2019年1月、フジテレビ系『直撃!シンソウ坂上』で闘病日記が独占初公開されました。
本田美奈子さんは再入院をする際に、自宅カレンダーに母親向けに手書きのメッセージを残していたそうです。
「お母さん ごめんネ…又悲しい涙を出させちゃったネ… 幸せにするって言ったのに… でも早く治すからネ
私は泣かないよ!負けちゃいられない!頑張るヨ!美奈子」(原文ママ)
「また自宅に戻って来る」という強い意志を持ち、2度目の闘病生活に挑んだ本田さんでしたが、刻一刻と弱って来る自分の体に対して、日記には弱音を書き綴っていた日もありました。
そして今回、独占初公開を許されたのが、母・美枝子さんでさえ読んだことがなかったという本田さんの闘病日記。「苦しいのはもう嫌!」「私は歌を通して希望を与えることができたらと思っているのに、神様は歌わせてくれないのですか?」。
本田美奈子と小林麻央の死相画像が酷似していると話題に
本田美奈子さんの闘病中に撮影された写真が、2017年に亡くなったフリーアナ・小林麻央さんの死相とが出ている写真と酷似しているとネット上で話題になっています。
闘病中の本田美奈子さん
闘病中の小林麻央さん
小林さんの病気自体は本田さんとは違い乳がんだったものの、抗がん剤治療や放射線治療により全身の毛が抜け落ちてしまい、体が衰弱して行った経緯は同じでした。
若くして非業の死を遂げた才女としての共通点もある2人だけに、見ている我々の中で、2人に同じ面影を見出してしまっている部分もあるのかもしれません。
本田美奈子についてまとめると…
・本田美奈子は2005年1月に急性骨髄性白血病を発症、臍帯血移植手術を受けるも再発し同年11月に38歳で死去
・本田美奈子はM7型といわれる非常に治りにくいタイプの白血病だった
・本田美奈子の闘病中の写真が、小林麻央の死相が出ている写真に酷似していると話題となった
ミュージカル女優としてのキャリアの半ばで非業の死を遂げてしまった本田美奈子さんですが、2018年9月より、故郷である埼玉県朝霞市に記念館がオープンするなど、人々の記憶の中に残り続ける存在となっています。
本田さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。