死刑判決を受けて上告中に新たな事件への関与を告白した後藤良次ですが、生い立ちや経歴も話題です。
今回は後藤良次の生い立ちや家族、稲川会との関係など経歴、上申書殺人事件の経緯、犯人を告発した理由や死刑判決、現在を紹介します。
この記事の目次
- 後藤良次は上申書殺人事件の告発者&死刑囚
- 後藤良次の生い立ちや家族
- 後藤良次の経歴① 16歳で稲川会系組員に
- 後藤良次の経歴② 暴力団組長になる
- 後藤良次の経歴③ 三上静男と知り合い、上申書殺人事件&水戸市男性殺害事件・宇都宮男女4人死傷事件を起こす
- 後藤良次が告発した上申書殺人事件とは
- 後藤良次が告白した上申書殺人事件① 石岡市焼却事件
- 後藤良次が告白した上申書殺人事件② 北茨城市生き埋め事件
- 後藤良次が告白した上申書殺人事件③ 日立市ウォッカ事件
- 後藤良次が犯人の水戸市男性殺害事件とは
- 後藤良次が犯人の宇都宮男女4人死傷事件とは
- 後藤良次が上申書殺人事件を黙っていた理由
- 後藤良次が上申書殺人事件の犯人を告発した理由
- 後藤良次の判決は死刑
- 後藤良次の現在
- 後藤良次のまとめ
後藤良次は上申書殺人事件の告発者&死刑囚
後藤良次は、自分の上告審中に上申書殺人事件を告発した人物です。
後藤良次は水戸市男性殺害事件・宇都宮男女4人死傷事件で逮捕され、一審・二審で死刑判決を受けている最中に、さらに2件の殺人事件と1件の死体遺棄事件に関与していることを告白。
そして、その3件の主犯は三上静男であると告発したのです。
死刑判決の上告中に新たな事件を告白するという異例の事態となり、世間の注目を集めました。
後藤良次の生い立ちや家族
生い立ちや実家の家族
後藤良次は1958年7月24日に、栃木県宇都宮市で生まれます。実家は宇都宮市内で老舗のペットショップを営んでいて、後藤良次は3人兄弟の次男として生まれます。
後藤良次は中学卒業後は高校に進学せずに、実家のペットショップを手伝ったりしていました。
ただ、この後の経歴で詳しく説明しますが、中学在学中から少年院に入っていますので、少年院から出てきて暇な時に、少し実家を手伝うような「家事手伝い」状態だったと思われます。
後藤良次の実家であるペットショップは、現在も営業を続けています。
結婚後の家族
後藤良次は福島刑務所から出所した後の時点で、内縁の妻がいました。素行が悪かった後藤良次でしたが、この内縁の妻のことは大切に思っていたようです。
後藤良次は水戸市男性殺害事件・宇都宮男女4人死傷事件で逮捕された後、内縁の妻とその母親に取材が行くことを心配したようです。
そのため、面会に来た内縁の妻に「他の女から差し入れが有るからいい」と嘘を言って、面会に来ないようにして、さらに身元引受人の指定も解除しています。
後藤良次の経歴① 16歳で稲川会系組員に
後藤良次は、中学時代からずっと裏社会・アウトローな生活を送ってきました。ここからは、後藤良次の経歴を少年時代から見ていきましょう。
少年時代は少年院に何度も入る
後藤良次の犯罪歴は中学生の時、14歳から始まります。
・1974年(16歳):稲川会系幹部と知り合い、暴力団の組員になる
・1976年(18歳):窃盗・器物損壊で山形県警に逮捕され、山形の中等少年院に入る
・1977年(19歳):器物損壊で逮捕され、小田原少年院と久里浜特別少年院に入る
・1979年(20歳):久里浜特別少年院で職員とトラブルになり暴行をしたため、公務執行妨害と傷害で逮捕。懲役1年4ヶ月で水戸少年刑務所に入る
10代半ばからの多くの時期を少年院で過ごしていることが分かります。しかも、16歳で稲川会系の暴力団組員になっています。これだけで、相当ヤバイ人物であることが分かりますね。
20歳の時点で、後藤良次は前歴3件(少年院は前科にならない)、前科1犯となっています。
稲川会の組員になる
20歳で前科1犯になった後藤良次は、それからもどんどん罪を重ねていきます。
・1981年(22歳):所属していた組が解散
・1982年(23歳):恐喝で逮捕。起訴猶予処分となる
・1982年(23歳):前橋の稲川会上州田中一家小田組の組員になる
・1987年(28歳):小田組の支部を水戸に作って組支部長になる
・1990年(31歳):住吉会系諏訪組組長射殺:出頭し逮捕されるも不起訴となる
・1992年(33歳):前橋に戻って総長の直参になる
ここまでで逮捕歴はトータル7回、前科2犯となっています。ただし、恐喝で逮捕された時は起訴猶予処分となっていますので、立件されていません。
また、1990年(31歳ごろ)の時は自分が所属する稲川会系の組と対立していた住吉会系諏訪組組長を射殺します。
自ら出頭し逮捕されますが、証拠不十分で不起訴処分となりました。この時は、いわゆる「鉄砲玉」だったと思われます。
そして、対立する組長を射殺したことを評価されて、前橋に戻って出世したのでしょう。
後藤良次の経歴② 暴力団組長になる
前橋に戻った33歳までに後藤良次は前科2犯であり、さらに不起訴になったものの殺人も犯しています。そして、1995年に「後良組」を構え、暴力団の組長になりました。
しかし、同年に暴力行為や銃刀法違反、火薬類取締法違反、覚せい剤取締法違反の容疑で、懲役4年の判決となり、福島刑務所に収監されます。
1998年に仮出所し、「後藤組」と改名して自分の組を再興しようとしますが、失敗します。
そんな時に駐車違反で違反キップを切られますが、女性警察官を脅して違反切符を奪い取って破り捨て、その場から逃亡しました。そのため、公務執行妨害の疑いで逮捕状が出ます。
後藤良次は警察の追手から逃げるために、内縁の妻の実家があり、以前に組の支部長を務めていた水戸に行くことにしました。
後藤良次の経歴③ 三上静男と知り合い、上申書殺人事件&水戸市男性殺害事件・宇都宮男女4人死傷事件を起こす
水戸に逃げた後藤良次は、内縁の妻とラブホテルを転々とします。
そして、ヤクザからは足を洗い、堅気になってきちんとした仕事に就こうと考え、知人の不動産ブローカーから三上静男を紹介され、後藤良次は三上を「先生」と呼ぶようになるのです。
そして、後藤良次は三上静男と知り合ってから、三上の用心棒のようなことをするようになり、急激に羽振りが良くなります。
内縁の妻には生活費+貯金用として月に80~100万円も仕送りをして、さらに高級外車を乗り回していたと言います。
しかし、ここから取り返しのつかない犯行を繰り返すようになっていきます。
・1998年:「先生」の三上静男と知り合う
・1999年11月中旬:石岡市焼却事件を手伝う
・1999年11月下旬:北茨城市生き埋め事件を手伝う
・2000年7月30日:水戸市男性殺害事件
・2000年8月中旬:日立市ウォッカ事件を手伝う
・2000年8月20日:宇都宮男女4人死傷事件
そして、潜伏先の埼玉県松伏町のホテルで逮捕されたのです。
後藤良次が告発した上申書殺人事件とは
上申書殺人事件とは、後藤良次が告発したことで発覚した3つの殺人事件です。
上申書殺人事件は、「先生」である三上静男が主犯であり、後藤良次が協力した事件でした。
後藤良次が真犯人を告白
上申書殺人事件が判明したのは、2005年のことです。
2005年当時、後藤良次は2004年の第二審で死刑判決を受けていて、上告していた時でした。
後藤良次は、次の3件の犯罪の上申書を提出しました。
・1999年11月下旬:北茨城市生き埋め事件
・2000年8月中旬:日立市ウォッカ事件
『新潮45』のスタッフは後藤良次への取材を続けていて、2005年に『新潮45』が報じたことで注目を集めるようになります。
この3つの事件は後藤良次自身も関与していたものの、あくまでも従犯・共犯であり、主犯は三上静男が主犯でしたので、後藤良次が三上静男を告発する形になったのです。
この上申書殺人事件は当時は3つとも事件が発覚しておらず、警察には全くバレていない事件でした。
そのため、後藤良次の上申書によって、初めて殺人事件であることが発覚したのです。
後藤良次が告白した上申書殺人事件① 石岡市焼却事件
上申書殺人事件の1つ目は、石岡焼却事件です。
1999年11月中旬、「先生」こと三上静男から後藤良次に「人を殺してしまった」と電話が入ります。
三上はある男性に金を貸していましたが、借金の返済でトラブルになり、カッとなってその男性をネクタイで絞殺してしまったと後藤に話します。
後藤良次はこの時、三上から480万円の借金があり、協力してくれたらその借金をチャラにして、さらに200万円の報酬を提示されたため、後藤は三上に協力することにします。
三上と後藤は茨城県石岡市の工務店経営者Aの男性に相談し、男性の会社にある焼却場で遺体を燃やすことにしました。
三上と後藤は被害者の遺体を後藤の車に乗せて男性Aの会社まで運び、男性Aが被害者の遺体に灯油をかけた後、三上が火をつけ、廃材と一緒に遺体を燃やしてしまいました。
遺体は燃えてしまったために残っておらず、被害者の身元確認もできない状態だったため、後藤良次の上申で事件が判明しても、立件することはできませんでした。
この石岡市焼却事件で、三上静男は億単位のお金を入手していることが分かっています。
後藤良次が告白した上申書殺人事件② 北茨城市生き埋め事件
石岡市焼却事件が起こった後すぐの11月下旬、三上静男は後藤良次に連絡をして、次の犯罪計画を持ち掛けます。
・この爺さんは家族も親しい友人もいない。
・この爺さんを殺して土地を売れば、大金が手に入る。
後藤良次と三上は水戸市内の偕楽園近くの駐車場で、被害者男性と落ち合います。そして被害者男性に暴行を加えてロープで縛り、後藤の車のトランクに押し込んで拉致します。
そして、三上が所有する北茨城市の山間部にある土地に行き、穴を掘って被害者男性を生き埋めにして殺害します。
殺害後、被害者のダミー男性Bに住民票復活や実印登録をさせ、土地を7000万円で売ることに成功。
そして、男性Bには2000万円、後藤には1200万円、三上が3000万円、その他協力者に700万円と、土地の売却代を山分けしています。
後藤良次の上申通り、被害者男性の身元や土地売買の証拠などの裏付けはできましたが、肝心の遺体は後藤の上申通りの場所からは発見されず、事件として立件はできませんでした。
遺体は三上の土地に埋めていたため、事件発覚を恐れた三上が遺体を移動させたという情報もあります。
後藤良次が告白した上申書殺人事件③ 日立市ウォッカ事件
北茨城市生き埋め事件から半年後、新たな事件が起こります。
石岡市焼却事件の協力者である工務店経営の男性Aは、部下Cから借金をお願いされます。これが事件の始まりでした。
部下Cの舅(男性D=嫁の父)は茨城県阿見町でカーテン屋を経営していましたが、経営状況はかなり悪く、借金は6000万円にも膨れ上がっていました。
その6000万円のうち4000万円はAが貸していました。
部下のCや嫁、舅の妻は借金取りが来る生活にストレスを感じていたため、部下Cは男性Aに対して、さらなる借金を申し込んでいます。
男性D(Cの舅)はもともと糖尿病を患っていて、さらに酒好きで入退院を繰り返していたようで、「自分が死ねば、保険金でなんとかなる」と言っているような人物でした。
そこで、経営者Aは部下のCに次の提案をします。
この提案にCやその家族は同意し、2000年7月中旬から男性Dは日立市内にある三上の事務所に軟禁され、無理やりお酒を大量に飲まされました。
やがて男性Dは、体調が悪化して腹水が溜まり、吐血もして、トイレにすら行けない状況になっていきました。
8月に入ると、三上と後藤良次は男性Dを消費者金融に行かせて、120万円を借りさせます。
そして8月中旬、体調が悪くなったところを見計らって、三上の自宅で男性Dに覚せい剤入りの焼酎を飲ませ、スタンガンなどでリンチを始めます。
さらに、アルコール度数96%のスピリタスを飲ませて、意識不明の状態にしました。
途中で男性Dが「家に帰りたい」と言ったことから、妻に電話をしますが、妻は「もっと飲ませてください」と三上達に言ったそうです。
そして、車で三上の事務所に運ぶ途中で、男性は死亡しました。
三上や後藤良次は死亡推定時刻をごまかすために、遺体を冷水につけ、それから七会村の林道に遺体を運んで、行き倒れに見えるようにうつぶせに置いて、遺体を遺棄しました。
遺体は8月15日に発見されていますが、警察は事件性なしとして片付けています。そして、生命保険で約1億円が支払われました。
家族は借金をチャラにされただけで、残りはほぼ三上や後藤良次たちで山分けされています。
ちなみに、この時の配分は三上静男が2000万円、工務店経営者の男性Aが4000万円、後藤良次が2500万円でした。しかし、後藤良次はこの2500万円を受け取ってはいません。
なぜ、2500万円を受け取れなかったのか?それは、後藤良次は次の2つの殺人事件で逮捕されたからです。
この事件は遺体が見つかっているため、上申書殺人事件の中で唯一起訴されて、裁判が行われています。
男性Aは交通事故死
石岡市焼却事件と日立市ウォッカ事件にかかわった工務店経営者の男性Aは、後藤良次が上申書殺人事件を上申した後の2006年12月31日、交通事故で亡くなりました。
男性Aは常磐自動車道で運転中にガードレールに激突した後、車の外に出たところを後続車にはねられて死亡しました。
これは事故死として処理されましたが、捜査の手が自分に迫ってきたことによる自殺とも言われています。
後藤良次が犯人の水戸市男性殺害事件とは
後藤良次は、2000年7月30日に水戸市男性殺害事件を起こしました。
後藤良次は、刑務所時代の仲間である人材あっせん業の男性の態度に腹を立て、「自分が利用されている」、「あいつは嘘ばかりついている」と拳銃でその男性を脅して、車に監禁します。
しかし、男性は自分の非を認めなかったために後藤は激昂し、男性の殺害を決意したのです。
後藤は男性の手足を拘束した状態で橋の上から15m下の那珂川に男性を投げ込み、男性を溺死させました。
1週間後、男性の遺体は魚に遺体の一部を食べられた状態で、太平洋沖で発見されています。
男性の携帯の通話履歴から、後藤良次が捜査線上に浮かびあがりました。
後藤良次が犯人の宇都宮男女4人死傷事件とは
水戸市男性殺害事件の後すぐに、使い走りとして使っていた男性Eが後藤に不義理を働いたため、後藤は怒り、ついでに金品を強奪しようと考えます。
そして、8月20日にその計画を実行に移しました。ちなみに、水戸市男性殺害事件とこの事件の間には日立市ウォッカ事件も起こしています。
8月20日に後藤良次やその仲間は男性Eのマンションに侵入し、一緒にいた男性F、女性G、女性Hの合計4人を監禁します。
そして、拳銃を突き付けて脅した後、4人に高濃度の覚醒剤を注射し、女性1人を強姦します。その後、女性は急性薬物中毒で死亡しました。
後藤らは残り3人の手足を縛り、ハサミで何度も刺した後、灯油を部屋にまいて火をつけて逃走しました。
3人は後藤らが逃走した後、自分で拘束を解き、なんとか逃げだしたため、重軽傷は負ったものの命は助かっています。
後藤良次が上申書殺人事件を黙っていた理由
後藤良次は大洗の民宿に潜伏していて、そこに三上がやってきます。そして、逃走資金の100万円と覚醒剤20gを渡し、3件の殺人事件を黙っている代わりに、次の交換条件を提案します。
・良い弁護士をつける
・舎弟の面倒を見てあげる
この条件を後藤良次は飲み、逮捕された後も後藤良次は三上がかかわった3件の殺人事件のことは黙っていたんです。
後藤良次が上申書殺人事件の犯人を告発した理由
後藤良次は三上静男との約束を守り、逮捕された後も上申書殺人事件の3件は黙ったままでした。
しかし、2005年に茨城県警に3件の殺人事件(1件は後藤にとっては死体遺棄)に関する上申書を提出しました。
なぜ、後藤良次は逮捕から5年経って、上申書殺人事件を告発したのでしょうか?
三上静男への憎しみ
出典:ameblo.jp
後藤良次が上申書殺人事件を告発したのは、三上静男に対する怒りがあったと見られています。
実は三上静男は、後藤良次との約束を一切守らなかったのです。
・私選弁護人を付けてくれる→私選弁護人をなんてつけてくれない
・舎弟の面倒を見てくれる→面倒を見るどころか自殺に追い込んだ
これを見ると分かるように、三上静男の約束は全部嘘だったんです。
後藤良次の舎弟は一切生活能力がなかったため、心配した後藤良次は三上静男に生活の世話・面倒を見るようにお願いしていました。
しかし、三上は舎弟の面倒を見るどころか自殺に追い込みました。それどころか、その舎弟の財産を三上は処分したのです。
これらに後藤良次は怒ったために、上申書を書いて、三上静男の犯行を表沙汰にしたのです。
生への執着?
後藤良次が上申書殺人事件を告発した理由には、生への強い執着があったと言われています。
https://twitter.com/75888811cm/status/1038330574115500032
後藤良次は、どうしても死刑になりたくないという気持ちがかなり強いようです。
「死刑制度」にいついて、廃止すべき、執行されたくない。
このようにメモに書いてあります。
どうしても死刑になりたくなかった後藤良次は、上申書殺人事件を告発することで、なんとか死刑確定を免れたかったのかもしれません。
裁判中は死刑が執行されることはありません。関連する全部の事件の裁判が終わってから、死刑が執行されます。
後藤良次が上申書殺人事件を告発したのは2005年のことです。一審・二審で死刑判決となり、上告している時でした。
最高裁で死刑判決となったら、死刑が確定してしまいます。だから、最高裁で死刑が確定する前に新しい罪を告白して、裁判を引き延ばそうとしたと考えられます。
死刑になりたくないという気持ちは分かります。でも、「心情の安定」を求めたり、死刑制度を廃止すべきという意見はこれまで死に追いやった被害者のことを全く考えていないですよね。
たくさんの命を奪っておいて、自分は死刑になりたくない、心の安定が欲しいというのはズルい考えだと言えます。
後藤良次の判決は死刑
水戸市男性殺害事件・宇都宮男女4人死傷事件は死刑判決
後藤良次は死刑判決を受けています。
水戸市男性殺害事件・宇都宮男女4人死傷事件の2つの事件で、「殺人ではなく、傷害致死だ」と主張しましたが、2003年には第一審で死刑判決が言い渡されました。
そして、2004年の第二審で控訴が棄却され死刑判決が支持されます。
さらに2007年に最高裁でも、上告棄却で死刑判決支持となり、死刑が確定しています。
裁判長は「5人の被害者のうち2人の生命を奪い、3人に重傷を負わせたという結果は重大」「犯行は冷酷、非情。遺族の処罰感情は厳しく、社会に与えた影響も大きい」と述べました。
上申書殺人事件では懲役20年
2007年には水戸市男性殺害事件・宇都宮男女4人死傷事件で死刑が確定した後藤良次でしたが、その後も上申書殺人事件での裁判は続きました。
・三上静男:無期懲役(2010年3月3日)
後藤良次は上申書を提出したことが自首と認められたため、減刑されて懲役20年となりました。
ただ、後藤良次は既に死刑が確定していましたので、今更懲役20年の実刑判決となっても、何の意味があるのか?という議論が沸き起こりました。
後藤良次の現在
後藤良次は現在、東京拘置所に収監されています。
2009年には後藤良次の証言(上申書)をまとめた犯罪ドキュメントの『凶悪―ある死刑囚の告発―』が出版され、2013年には「凶悪―ある死刑囚の告発―」が映画化されました。
映画の「凶悪」はやや改変はあるものの、基本的にはこの上申書殺人事件のドキュメントとなっています。後藤良次役はピエール瀧さんが演じました。
後藤良次は東京拘置所の中で絵を描いているようです。
この写真の絵は後藤良次が描いたものです。
この絵は拘置所の中からの風景で、「獄窓に月の灯が一直線、われに輝き、二度と見られぬ」と描かれています。
死刑判決から執行までの平均は5年4ヶ月とのことです。
死刑の執行を受けた者の判決確定の日から執行までの期間を法務省において把握している平成十五年九月十二日から平成二十七年七月二十七日までの間に執行が行われた事例について、当該期間の平均は、約五年四か月である。
後藤良次は死刑判決が確定してから、15年以上経っています。
さらに、上申書殺人事件の判決が出てからも10年以上が経過していますので、いつ死刑が執行されてもおかしくはありません。
後藤良次のまとめ
後藤良次の家族や生い立ち、経歴、稲川会との関係、上申書殺人事件や水戸市男性殺害事件・宇都宮男女4人死傷事件、死刑判決と現在をまとめました。
後藤良次が上申書殺人事件を告発したのは、三上静男を許せなかったからなのか?どうせ死刑なら巻き込んでやろうと思ったのか?死刑を引き延ばしたかったらからなのか?
真意はわかりません。でも、せめて被害者への贖罪の意識は持っていてほしいですね。